『メイド・すみれ』 1
渡された地図と目の前にある荒れ果てたお屋敷を見比べて、私はため息をついた。
呼び鈴らしきものもなく、そうっと古めかしい門を手で押してみると、意外にも音もなく内側に開いた。
どうやら荒れ果てていると思ったのは、門からお屋敷までの間にある葉の茂った木々が影を落として薄暗く見えるせいで、建物も庭もそれなりに整っている。
前のお屋敷のお庭は、広さも倍ほどあったし、日当たりが良くて明るく、芝は青々していて池の水は澄んでいたのに、とがっかりした。
ほとぼりが冷めたら、迎えに行くから。
旦那さまはそうおっしゃったのだもの。
ベッドの中で、裸で絡み合う私と旦那さまを見つけた奥さまが金切り声を上げたのは、ほんの二日ほど前のことだった。
旦那さまの古い知り合いが急に亡くなり、後を継いだ若主人がメイドを探しているというので、私はここへ来ることになったのだ。
明治か大正の洋館を思わせるお屋敷の裏口に回って、呼び鈴を押してみた。
しばらくしてから、黒くて重そうな観音開きのドアが開いた。
のっそりと黒い影がいきなり目の前に立ちふさがった。
「……武田すみれさん?」
しばらく私を見下ろしてから、背の高い影がそう言った。
意外にも若い声に顔を上げると、黒い執事服に髪をきれいに撫で付けた、細い銀縁メガネの男の人が私を見下ろしている。
「はい」
「執事の津田です。どうぞ」
津田と名乗ったその若い執事は、踵を返すとさっさと前に立って歩き出し、私は慌てて後を追った。
昼間だというのに窓の少ない屋敷の中は明かりもほとんどなく、足元が見えなくて怖い。
何度も小さな段差につまずいたのに、津田さんは振り返ろうともせず、ロビーから大きならせん階段を昇っていってしまう。
廊下に敷きつめられたエンジ色のカーペットが足音を吸収して、屋敷の中はしんと静まり返っていた。
津田さんは歩きながら屋敷の中を説明し、使用人は他に、力仕事や掃除をする芝浦さんという男の人がいることも教えてくれた。
階段を昇った先は、まっすぐな廊下と左右に並んだいくつものドア。
立ち止まった津田さんは、驚くほど白くて長い指を上げて前に向ける。
「左側が、旦那さまのお部屋です。手前のドアが書斎で、奥のドアが私室。二つは中でつながっていますから、書斎ではなく私室のほうのドアを使ってください。右側の部屋は空き部屋です。好きなところを使ってください」
では、と私を残して階段を下りていこうとするので、慌てて呼び止める。
「津田さん」
私が呼んでからさらに数歩進んで、ようやく津田さんは立ち止まって振り向いた。
色白で面長な顔と、見つめあう形になる。
「……なんでしょう、すみれさん」
名前を呼ばれて、どきどきした。
薄暗いなりに逆光なのか、銀縁メガネの奥の目が少し細くなった。
「私、私の仕事はなにをしたら……」
津田さんは、言葉が通じないかのようにしばらく固まり、それから口を開く。
「……すみれさんには、メイドとして来て頂きました。メイドの仕事をお願いします」
そう言い残して、階段を降りていく。
あっけにとられてその背中を見送り、とまどいながらも私はとりあえず、ここのご主人にご挨拶をしなければならないことを思いだした。
前のお屋敷は、敷地も大きく部屋数もたくさんだったから使用人も多かったけれど、このくらいのこじんまりしたお屋敷なら、二階くらいは私一人でも掃除できるかもしれない。
忙しい方が気もまぎれるだろうし。
前の旦那さまと離れる寂しさを思い出して、鼻の奥がツンとした。
いけないいけない。
ほんの少し、しばらくの辛抱なのに。
旦那さまは、きっとすぐに迎えをよこしてくださる。
気を取り直して、私は言われたとおり奥のドアをノックした。
返事がない。いらっしゃらないのだろうか。
そっとノブを回すと、鍵がかかっていない。
「失礼いたします」
廊下に荷物を置いて、私は部屋の中に入った。
暗い部屋だった。
ドアの正面に大きな窓があるのに、薄いカーテンを引いて日差しを遮っている。
その窓を背にして、大きな黒い机。
部屋の真ん中に、ソファセット。
壁際になにか棚のようなものがあるけど、よく見えない。
ぱっと見た感じ、重役か社長のオフィスのようなイメージだ。ただし、ひどく暗い。
左手にあるドアが、恐らく書斎へ続くドアだろう。
書斎にいらっしゃるのかしら。
書斎のドアをノックしようと部屋の中に進んだとき、奥のほうからなにか物音がした。
ふりむくと、部屋の右手に衝立が立ててあり、その向こう側にベッドのようなものが見えた。
足元の方が半分ほど見えていて、シーツのような掛け布団の下で何かが動いている。
「……津田?」
声に我に返って、私は衝立に近づいた。
「失礼します、本日よりこちらにお勤めいたしますメイドの武田すみれでございます」
「……」
脚の形がわかるほど薄っぺらな布団が、また動いた。
こんなもの一枚かけて寝ていて、寒くないんだろうか。
そういえば、この部屋はずいぶん温度が高い。
「あの……?」
返事がないので、私は恐る恐る衝立から顔を出して、向こう側を覗き込んだ。
キングサイズのベッドの真ん中に、薄い布団を掛けた細い棒のようなものが横たわっている。
その棒が動いて、にょきっと腕が出た。
「……聞こえてる」
体にからみつく掛け布団を落として、棒が上半身を起こした。
裸だった。
まだ若い男性、二十代に見える。
襟足にまとわりつくほど長い黒髪を片手でうっとおしそうにかきあげて、目を閉じたままあくびをした。
「何時?」
私は急いで腕時計を見た。
「11時40分です」
ゆっくりゆっくり、ベッドから降りて、立ち上がった。
全裸だった。
細い、というのがまず印象だった。
あばらが浮かない程度にしかない脂肪、目だった筋肉らしいものはついていない。
肘の関節が一番太い、細長い腕。
華奢な肩と薄い胸。
栄養状態の悪い、背ばかり伸びてしまった少年のようだ。
明かりの少ない室内でも、血管が透けそうなほど肌が白いのがわかる。
そして、もちろんその場所も見えてしまうのだけど。
とっさに目をそらして、私は少しうつむいた。
ようやく目を開けて、気だるそうに私を見る。
「……服」
言われて、慌てて部屋の中を見回し、壁際においてある和箪笥に駆け寄った。
引き出しを次々と開け、下着とシャツを取り出す。パンツは隣の洋箪笥に吊るしてあるのを適当に一本出した。
服装に頓着なさらない方らしく、私が差し出した衣服を黙って身につけた。
衝立の向こうに出て行くのを追うべきかベッドを整えるべきか少し迷っていると、部屋のドアをノックする音がして、返事するより先にドアが開いた。
どうやらこの方は誰かがドアをノックしたからといってそれに答えたりはしないらしい。
勝手にノックして勝手に入ってきたのは、ワゴンを押した津田さんだった。
「旦那さまの昼食です」
私に向かってそう言うと、ワゴンを部屋に入れてふっとため息のようなものをついた。
長い腕が伸びてきて、津田さんの手が私のうなじに触れ、私の心臓が飛び出しそうに跳ねた。
なんですか、と聞こうとしたけれど、津田さんは私の頭に手を入れて、きつく結った髪をほどいて肩に垂らした。
驚いて見上げると、目元が笑っていた。
「この方がいいですね」
ぽかんとした私を残して津田さんが部屋を出て行く。
目の前でドアが閉じられて、私ははっとしてワゴンに手を掛けた。
振り向くと、若いご主人は窓を背にした大きな机にむかって座って肘をついてボンヤリしている。
「あの、旦那さま」
「……」
「旦那さま」
「……」
「あの」
「……私?」
ほかに、誰がいるというのだ。
「そうです」
『旦那さま』は面倒くさそうに髪をかきあげてため息をついた。
「あなたのような若い女の子にそんなふうに呼ばれると……爺さんになった気分」
「では、なんとお呼びすればいいのでしょう」
「名前」
「……もうしわけありません、旦那さまのお名前を聞いておりません」
失敗した、と私は身体を縮めた。
「……髪」
「はい?」
「そのほうがいい」
「……はい」
なんの話をしてるんだったかしら。
「秀一郎」
「はい?」
「名前」
「ああ……、はい。秀一郎さま」
「さん」
「はい?」
「さん」
しばらく考えて、私はようやく理解した。
「かしこまりました。……秀一郎…、さん」
私の顔を見てくすくすと笑う。
笑うと、表情が幼くなった。
私は机の上に、ワゴンの昼食を並べた。
目の前に置かれたお皿から、秀一郎さんがリゾットを食べ始める。
じっと見ていると、リゾットばかりを食べているので、私はそっとサラダの鉢を手元に押しやった。
すると、サラダも食べはじめた。
どうやら、手首を上下させて届く範囲のものしか口に運ばないようだ。
フルーツや卵の皿を交互に手元に並べると、それらも食べる。
目は終始ボンヤリと机の上を見ているけれど、焦点が合っていないように見える。
やはりどこかお悪いのではないか、と不安になるころ、食事を少し残してフォークを置いた。
「……コーヒー」
「はい、ただいまお持ちします」
ドアに向かった私の背中を、秀一郎さんの声が追ってくる。
「ここにある」
振り返ると、背中側にある棚を細い指で指し示していた。
近づいてみると、棚の中段にコーヒーメーカーや電気ケトル、豆や茶葉、カップや急須などひととおりのお茶の道具が置いてあった。
ワゴンを押していって台にし、ペットボトルの水を電気ケトルで沸かしてコーヒーをドリップする。
「どうぞ」
秀一郎さんの前に、湯気の立つコーヒーカップを置く。
「……」
様子を見てから、手元の近くにカップを移動すると、ようやくカップを持ち上げた。
どうもこの方は、ひどく手がかかるようだ。
「……あ」
「はい?」
お口に合わなかったのかしら。
「……おいしい」
ほっとした。
秀一郎さんは、机に肘をついて両手でカップを持っている。
長い前髪の間から、空を見つめたまま。
「よかったです」
私が言うと、秀一郎さんはゆっくり振り向いた。
ワゴンの上のケトルやドリッパーを一つずつ確認するように見ていく。
「……津田はいつも、その機械を使っていたけど」
指差したのはコーヒーメーカーだった。
「そうでしたか……」
前のお屋敷の旦那さまもコーヒー好きで、ドリップにはうるさかったから、ずいぶん練習したのだけど。
「コーヒーを……おいしいと思ったのは初めてだ」
じゃあなぜ飲んでいたのかしらと思って見ると、うっすら微笑んでいる。
やせてとがった顎、こけた頬。
さっき見た華奢な裸。
どうしてこの屋敷の人は、秀一郎さんの健康にもっと気を使わないのだろう。
保護者に見捨てられた発育不良の子どものように思えて、気の毒になった。
「他に、お好きなものはございますか?お飲み物でも、召し上がるものでも」
「……」
聞こえなかったのかと思うほど長い間の沈黙。
「パン」
答えの意外さに、少し気が抜ける。
意味がわからないようなカタカナの料理を言われても返事に困るけど、パンって。
「パンでございますか。特にどのようなものがお好みでしょう」
今度はいらいらするほどの間があった。
「……どうかな。よくわからない」
自分の好きなものもわからないって、この方おつむりのほうは本当に齢相応なのかしら。
「パンは、すぐにお腹がふくれる。空腹のままなのは、好きじゃない」
今度は、私のほうが返事をするのに時間がかかってしまった。
つまり、ただお腹がすいたときに効率よく満腹になれるもの、というのでパンがお好きなのらしい。
衣類だけでなく、食べ物にもこだわりが全くないのだろうか。
「でも、甘いパンとかしょっぱいパンとか」
カチン、と空になったコーヒーカップをソーサーに置く。
秀一郎さんは、またゆっくりと立ち上がった。
「少し、寝る」
今、起きたばかりなのに。
呆れる私をほったらかして、秀一郎さんは着たばかりの服を緩慢な様子で脱ぎ捨てると、またあの薄い布団にもぐりこんでしまった。
私は脱ぎ捨てられた服をかき集め、ワゴンの下段に押し込んで廊下に出た。
先ほど津田さんに説明されたエレベーターでワゴンごと階下に下り、台所まで押していく。
誰もいない台所で洗い物をし、洗濯室で洗剤を探していると、音もなく津田さんが入ってきた。
「……すみれさん」
「はい」
飛び上がりそうにびっくりしたのを隠して、なるべく落ち着いた声で返事をする。
「台所にあるものはなにを食べてもけっこうですから、食事は自分で用意して食べてください」
「あ、はい」
それだけ言って、また津田さんは出て行ってしまいそうになる。
「あの、秀一郎さんのお食事は、どなたが」
言ってしまってから、津田さんは『旦那さま』と呼ぶのに、新参の私が『秀一郎さん』なんて呼んでいいのかしら、と不安になる。
でも秀一郎さんがそう呼べと言ったのだし。
「旦那さまの召し上がるものは私が作ります。すみれさんは自分の食事だけ準備してください」
津田さんは私の言葉など全く気にせずに、簡単に答えた。
津田さんが、料理を?
だったらもっと秀一郎さんが太れるようなものを作ってあげればいいのに。
ふと、執事服を着た津田さんが大きな瓶を火にかけて、怪しげな薬を調合しているところを想像してしまった。
「あの」
「……。まだ、なにか」
私は、ようやく見つけた洗濯洗剤の箱を持ち上げて言った。
「津田さんの洗濯物があったら、出してください。ついでですから」
津田さんは、ゆっくり洗濯洗剤を見、カゴに入れた洗濯物を見、それから私の顔を見た。
「すみれさんは……」
「はい」
「……主人の衣服と、使用人の衣服を、一緒に洗濯するのですか」
返事につまった。
そこまで考えたわけではないし、一緒に洗うのかと聞かれれば別々に洗うだろうと思うのだけど。
「すみれさんは、旦那さまのお世話だけをしてくだされば良いです。屋敷の内外のことは、他の者がしますから」
途中でいらいらするほどゆっくり説明して、津田さんが洗濯室を出て行くと、私はぐったり疲れて椅子に座り込んでしまった。
なにか、このお屋敷は変だ。
洗濯を終えて、秀一郎さんの部屋に戻る。
衝立の奥で秀一郎さんが動く気配がした。。
「……津田?」
さっきと同じように呼んだ。
「いえ、津田さんは……」
衝立から顔を出すと、秀一郎さんが起き上がる。
「失礼します」
私が和箪笥に近づくのを、見ている。
「ああ、……あなたか」
私のことを思い出したらしい。
差し出した服を、そのまま身につける。
「コーヒー」
そう言って、秀一郎さんはまた机に向かって大きな椅子に腰掛けた。
どうやらこの机はなにかお仕事をするためではなく、食卓として使われているようす。
先ほどと同じようにコーヒーを淹れる私を、秀一郎さんは机の上に肘を曲げて投げ出した腕に頬を乗せて見ている。
「あなたは……、そっちのほうの世話もしてくれるの」
ドリップの手を止めて、私は秀一郎さんを見た。
「はい……?」
秀一郎さんが笑う。
少し熱っぽく潤んだような目。
私は顔がかっと熱くなった。
それを見て、秀一郎さんは目を閉じる。
「いいよ、……かまわない」
私は慌てて秀一郎さんの肘に手を掛けた。
「しゅ、秀一郎、さん。こんなところで寝ないでください」
お昼に会ってから、ずっと寝てばかりなのにまだ眠いのだろうか。
「触らないで」
目を閉じたままの秀一郎さんにそう言われて、私は手を引っ込める。
「……私は今、そういう気分だから。……その気のない……女の子に触られるのは困る」
肘につっぷしたまま、ゆっくりゆっくり、そう言う。
長いまつ毛が白い頬に影を落とす。
本当に、ここで眠ってしまいそうだった。
「……私がお世話しなかったらどうなさるんです」
精一杯強がって、なんでもないふりで聞くと、秀一郎さんは口元だけでまた少し笑った。
「どうしようか」
途中でドリップをやめたコーヒーは、もうおいしくないかもしれない。
私はケトルをワゴンに置いた。
「い、今まではどうしてたんですか」
心臓が、ばくばくしてきた。
「自分でしていた」
秀一郎さんが、さらっと言う。
「……」
経験のない女の子でもないのに、顔が熱くなり、心臓はひっくり返りそうに跳ねている。
「悪くないよ。……すぐに済むし」
「……」
あらそうですか、と言ってやりたいのに声が出なかった。
初対面から短い時間に2度も見た、秀一郎さんの裸を思い出してしまった。
決して魅力的とはいえない、やせすぎた身体。
ふいに、腕を捕まれた。
秀一郎さんが目を開けている。
私の腕をつかんでいる、細くて白い手。
意外にも力強くて、そして暖かかった。
思わず、振り払ってしまった。
秀一郎さんは、のろのろと頭を持ち上げて、そのまま立ち上がった。
「またお休みになるんですか?」
衝立の方へいく秀一郎さんの背中に聞くと、口元を柔らかく微笑ませたまま振り向いた。
「してくる」
「!」
服を脱ぎ落とす音に、私はたまらず部屋を飛び出した。
勢いのまま庭に飛び出すと、津田さんが落ちた枯葉を集めていて、私に気づくと頭から足元までを確かめるように眺めた。
「……ああ。だいじょうぶですよ」
私の様子でなにがわかったのか、また枯葉を集めだす。
「長くはかかりません」
「え……」
集めた枯葉を麻の袋に入れながら、津田さんはまるでお天気の話をするかのように言った。
「すみれさんは、そちらはお嫌な方ですか」
そちら、って。
「いえ、あの、それは、でも」
確かに前のお屋敷の旦那さまとはそういう関係だったし、そのせいで追い出されてここにいるわけではあるのだけれど。
だけど私は私なりに旦那さまに好意を持っていたから身体を許したのだし、主従関係ならなにしてもいいというわけではないと思う。
津田さんは枯葉の詰まった袋を立てて、とんとんと地面に叩きつけてから紐で袋をとじる。
「まあ、いいでしょう」
その横顔が、笑っているようにも見えた。
私は逃げるように屋敷の中に戻ると、届いていた私の荷物をエレベーターで二階に運び、空いているといわれた部屋のうち、小さなユニットバスが付いている部屋を使うことにしてそこに荷物を入れた。
前のお屋敷のメイドの制服を着たままの自分が、姿見に映る。
同じ服なのに違和感があるのは、髪をほどいているせいかしら。
私は荷物の中からブリムを出して、顔にかかる髪を押さえた。
バスのお湯が出るのを確かめたり、荷物をほどいたりしていたら夕方になった。
重い気分をひきずって、秀一郎さんの部屋のドアをノックする。
返事がないままドアを開けると、秀一郎さんが机の奥に立って窓から外を眺めていた。
電池の切れかけたからくり人形のようにゆっくりとふりむいて私を見ると、かすかにさしこんだ夕日に照らされた顔に笑みが浮かぶ。
「遅かったね。すぐに済むと言ったのに」
返事に困って、私は秀一郎さんと目を合わせないように、淹れかけて放り出したコーヒーを片付け、新しくドリップを始めた。
そばに立っていた秀一郎さんが、私の手元を覗きこむ。
ほどいた髪に、息がかかる。
男の人の、そういう匂いがするのではないかと思ったけれど、湯気を立てて落ちるコーヒー香りのせいか、注意してみてもわからなかった。
秀一郎さんの手が、私の腰に回された。
どきどきする。
前の旦那さまは二回りも年上で、私は若い男の人の声や匂いに免疫がなかった。
秀一郎さんはコーヒーをドリップする私の耳元に顔を押し付け、ほどいた髪をかき分けるようにして耳たぶを噛んだ。
「あっ……」
お湯がこぼれる。
「してくれる気になった?」
「な、なにがでしょう」
くす。くすくす。
耳元で、秀一郎さんが笑う。
「冗談。……そんなすぐにはできない」
かっと耳が熱くなったのは、秀一郎さんの息がかかるせいなのか、それとも。
いきなり机の上の電話が鳴り出して、私はびくっとして今度こそサーバーごとコーヒーをこぼしてしまいそうになった。
私の腰を抱いたまま、秀一郎さんが電話を指差した。
「鳴ってる」
私はケトルを置いて受話器を取り上げた。
秀一郎さんは、私の腰を撫でている。
「はい……」
旧式の電話機の向こうから、ざらざらとした雑音と津田さんの声が聞こえる。
「……旦那さまにお電話です」
「はい、かしこまりました」
腰からお尻のほうまで触り始めた秀一郎さんに、受話器を向けた。
「お電話だそうです」
秀一郎さんはお尻に手を当てたまま受け取った。
「はい。……ああ、はい。……ええ。……はい。……んー、いえ……。どうも」
誰と話しているのか、秀一郎さんはコーヒーを淹れている私の身体を撫で回し続けている。
中性的な顔立ちと貧弱な裸、遅い動き、ゆったりした話し方などで騙されそうになったけれど、この方はとんでもなく、その。
コーヒーがたっぷりと入った頃、秀一郎さんは電話を終えて受話器を置いた。
友だちや知り合いといった感じではないし、仕事の話かしら。
そういえば、平日の昼間からゴロゴロ寝てばかりいるなんて、秀一郎さんのお仕事は何なのかしら。
秀一郎さんはまだ私の身体を撫でている。
「……コーヒーを」
カップを乗せたソーサーを持って差し出す。
「きゃ……!」
秀一郎さんがコーヒーを受け取ると見せかけて、私の顎に手を掛けた。
危なくカップを取り落とすところだった。
「……ふうん。かわいい顔を……してる」
「ちょっ、秀一郎さん!危ないじゃありませんか」
受け取る気のなさそうなカップを机において、抗議する。
全くお構いなしに、秀一郎さんはぐいっと私の腰に回した手を引き寄せた。
今にも唇が触れそうな距離に、秀一郎さんの顔がある。
どうしよう。
新しいお勤めの初日に、手ごめにされるのかしら。
そんなのいや、私は前のお屋敷の旦那さまのことが……。
「……あ」
秀一郎さんの手が背中を撫でた。
びっくりした。
お尻を撫でられていたときにはなんにも思わなかったのに、軽く手を背中で滑らせただけで背筋がしびれるような感覚があった。
くす、と笑った秀一郎さんの息が頬にかかる。
「や、あの」
細い指が背骨をなぞるように、つつっと下から上に撫で上げられた。
「ひぁっ!」
思わず腰が砕けそうになったところで、秀一郎さんがすっと私から離れた。
体の奥が熱くなった瞬間に放り出されて、とまどう。
「おふざけにならないでください、危ないじゃないですか……」
二度目の抗議は力がない。
危ないも何も、カップはとっくに机の上に置いてしまって、私は正面から秀一郎さんに腰に手を回して抱き寄せられていただけなのだけど。
「……嘘かもしれないよ」
秀一郎さんは革張りの大きな椅子に座って机に向かい、コーヒーカップを取り上げると、指一本で感覚をもてあそばれて赤い顔をしている私を見た。
「……なにがでしょうか」
ワゴンの上を片付けることで視線を外して、私はちょっと不機嫌な声を出してしまう。
お尻のあたりが、ちょっとむずむずする。
「すぐは……できないって言ったこと」
「……!」
「……できるっていったら、あなたはしてくれる?」
お尻のむずむずが大きくなる。
長い前髪の間から、潤んだ目が見上げてくる。
どきどきしてきた。
どうしよう。
「な、なにおっしゃってるんですか。そ、そんな出がらし、願いさげですっ」
自分でも思ってもみなかった品のない言葉が飛び出した。
びっくりして、自分の口を両手で覆う。
私は、どこでこんな言い方を覚えたのかしら。
くす。くすくす。
秀一郎さんが笑う。
細い腕が伸びてきて、私はぱっと飛び退る。
指先がつまみあげたのは、ドリッパーの中のコーヒー豆。
「……出がらし」
言いすぎだったかしら、その、ご主人さまのものを、そんなふうに。
「……嘘かもしれないよ」
「今度はなんですか」
どきどきしているのが秀一郎さんに知られないように、私はつんけんと言った。
カチンとカップがソーサーにぶつかる音がする。
「自分でしたっていうの」
顔を上げると、目が合った。
どうしよう、何を言っているのかしら。
「出がらしじゃなければ……いい?」
「……な、ば、そっ!」
自分でも何を言ってるのかわからず、私は秀一郎さんの飲み終わったカップをカチャカチャとワゴンに片付けた。
とにかく、こんな雰囲気のままここにいてはいけない。
若い旦那さまと部屋に二人きりで、こんな目で見つめられていはいけないような気がする。
どうしよう、どうしよう。
目の前に、秀一郎さんの裸がちらつく。
背中を撫で上げられた、あのぞくぞくする感覚がよみがえる。
顔がほてる、お尻のあたりがむずむずする。
慌しくワゴンを押して部屋を出るときに、秀一郎さんがくすくすと笑うのが聞こえた。
まったくもう、どうかしてる。
台所に行くと、ものすごく厳かな様子で、執事服の上着を脱いだ津田さんがゆっくりゆっくり人参の皮を剥いていた。
カッティングボードの上には、きれいに形を整えて切りそろえられた野菜が並んでいる。
どうやら、秀一郎さんの夕食を準備しているようだけど、このペースで本当に夜のうちに出来上がるのかしら。
私がカップを洗い始めると、津田さんが手を止めて私を見た。
「……すみれさん」
「はい」
じっと見つめられると、頭の中まで見透かされるようだった。
「……なんでしょう」
沈黙に耐え切れず、聞いてしまう。
「いただきものをしました。冷蔵庫にケーキが入っていますからどうぞ」
「あ……、ああ、ありがとうございます」
津田さんはそのまま野菜を切る作業に戻る。
なんだろう、このお屋敷のこの空気は。
……私はここで勤まるのかしら。
大好きな旦那さまも仲のいいメイドもたくさんいた前のお屋敷がなつかしかった。
少しだけの辛抱だから。
そう自分に言い聞かせて、その夜私は内側から火照る自分の身体を抱いて寝た。
秀一郎さんはまだ、あの気温の高い部屋で薄っぺらな布団であの細い身体をくるんで、果てしなく眠っているのかしら……。
――――了――――