『物書き・秀一郎』  
 
昼前に起き出したら、すみれがいなかった。  
若葉の予防接種で出かけたらしい。  
時間のずれた食事をしていたら、菜乃香がとことこやってきた。  
「パパ、ブロッコリー食べるの」  
こっそり皿の横に緑の物体を寄せていたのが見つかった。  
これは、津田の教育に違いない。  
食べるまでじっと見ているので、仕方なく口に入れた。苦い。  
津田がテーブルに機械で淹れたコーヒーのカップを置く。  
すみれが淹れたのではないコーヒーは、まずい。  
前に、すみれの淹れたのがいい、と言ったら、津田が睨んだ。  
奥さまは、菜乃香お嬢さまと若葉お坊ちゃまのお世話で大変お忙しいのですから、わがままを言ってはいけません。  
津田が怒ると怖いので、言われないように黙ってコーヒーを飲む。  
先週、津田のメガネが銀縁から金縁に変わったのはなぜだろう。  
もしかして怒った津田よりもっと怖い津田の嫁が怒って壊したのかもしれない。  
津田は時々、嫁に怒られている。原因は知らない。  
怒られてるのに、津田はちょっと嬉しそうにする。  
笑っているから、津田の嫁はもっと怒る。  
津田も、毎日ちゃんと「いちばんすき」って言えばいい。  
でも津田と津田の嫁は、ケンカした次の日はとても仲よしだ。  
そんなことを言ったら、やっぱり怒られるから言わない。  
最近は、なるべく昼間は起きていて、夜に寝るように変えてきている。  
すみれも菜乃香も若葉も夜に寝るから、昼間に寝ていると遊べない。  
でも、昼間は起きていてもあまり仕事がはかどらない。  
菜乃香が書斎を覗くので、ここに入ってはいけないと言わないとならない。  
「なんでー?」  
鶴が出るから、と言ったら津田が嫌な顔をした。  
仕事がはかどらないので溜まっていく。  
そうすると、津田の嫁がやってきて小言を言う。  
編集者が同じ家に住んでいるなんて厄介だが、津田の嫁なので仕方ない。  
口の回りだした菜乃香と、まだ頻繁に授乳しなければならない若葉がいるので、すみれは忙しい。  
すみれはできるだけしてくれるけど、自分のことは自分でしなさいと津田に言われている。  
もっとすみれといちゃいちゃしたい。  
菜乃香とも若葉とも遊びたい。  
すみれがいないので、今日の食事も焼きたてのパンではなくて津田のオムライスだった。  
津田は菜乃香に甘いから、なにが食べたいか聞く。  
3回に1回はオムライスになる。  
執事の嫁が、新作の宣伝もかねてテレビの情報番組にゲスト出演してくださいと言った。  
トークのネタにするのでプライベートの写真を撮っていかねばならないのだそうだ。  
菜乃香と若葉と、オレンジのパンを撮った。  
その写真を見ながら司会者にいろいろ聞かれて、最後に本を宣伝してもらった。  
昼ごろに起こされて、テレビ番組からかかってきたという電話に出るようにも言われた。  
話の最後に忘れずに「いいとも」と言わなければいけないそうだ。  
次の日に、津田の運転でスタジオまで行って、短い生放送に出た。  
本のポスターを貼ってもらって、カレーの作り方や電車の話を聞いた。  
知り合いのタレントにかけた電話に出されて、タレントも「いいとも」と言っていた。  
仕事があるのはいいことだ。  
本も売れているし、愛する妻とかわいい子どもが二人。仕事と私生活を助けてくれる執事とその嫁、古い屋敷を管理してくれる自称執事補までいて、これ以上のものを望むと贅沢だと言われる。  
でも。  
でも、甘やかされたお坊ちゃま育ちの身としては、ひとつ、もうひとつだけ贅沢がしたい。  
すみれにも津田にも津田の嫁にも芝浦にも、決して言えないけど。  
 
――――もっと、ちやほやされたい。  
 
 
すみれが帰ってきた。  
菜乃香がママと小さな弟を出迎えに行ったので、ついていった。  
「秀一郎さん」  
すみれが笑った。  
「お食事なさいましたか、間に合わなくてすみません。若葉はとってもいい子でした。泣きませんでしたよ」  
聞いていて、にこにこしたくなる声。  
すみれから若葉を受け取る。  
菜乃香もじゃれついてくる。  
これはこれで、とても幸せなことだ。  
「せんせー、しめきりー」  
足元にしがみついた菜乃香が言う。  
津田の嫁の口真似だ。  
そんなことは覚えなくていいのに。  
「パパしめきりしたら、なのとお庭で遊ぶのー」  
それはいい考えだ。  
すぐに遊ぼうとしたら、すみれに菜乃香を取り上げられた。  
「やーの、なの、パパとお庭で遊ぶのー」  
「パパはまだ、お仕事ですよ」  
仕方ないので、津田に若葉を渡してとぼとぼ階段を上がる。  
なのと、お庭で遊ぶ。  
思い出したら、顔が緩んだ。  
うん、早くしめきりして、お庭で遊ぼう。  
溜まっていた原稿が、サクサク進んだ。  
津田の嫁に渡したら、びっくりされた。  
「どうしたんですか先生、熱でもあるんですか、津田さんにお薬もらってきましょうか」  
津田の嫁は、一言も二言も多い。  
お庭で遊ぼうと思ったら、もう夜だった。  
菜乃香は、寝たらしい。  
「お疲れさまです」  
すみれが、コーヒーを淹れてくれた。  
おいしい。  
津田の嫁が管理しているホームページが更新されたのを二人で見た。  
新作の増刷が決まったと書いてある。  
すみれが、誉めてくれる。  
若葉のおっぱいまで、まだ時間がある。  
それまで、すみれのおっぱいは空いている。  
袖を引っ張ると、ちょっと赤い顔をした。  
手をつないで、ベッドまで行った。  
菜乃香と若葉に手がかかるからって、あんまりかまってくれないと文句を言ってみた。  
「秀一郎さんこそ、あんまり菜乃香と若葉をかわいがるから、もう私のことなんか」  
そんなことはない。  
すみれのことも、かわいがる。  
今日の分を、言った。  
すみれが、いちばんすき。  
昨日も、その前も言った。  
すみれが、いちばんすき。  
明日も明後日も、その次も言う。  
すみれが、いちばんすき。  
腕の中で、すみれが笑った。  
おっぱいは、ミルクの匂いがした。  
ゆっくり、した。  
ふたりも産んだのに、まだきつきつだった。  
三人でも四人でもいい。  
津田の嫁も産んだら、うちは幼稚園みたいになるかもしれない。  
それでもいいけど。  
でも、やっぱり。  
ねえ、と言ったら、上になっていたすみれが身体をずらした。  
起き上がって、耳元に囁いた。  
 
――――もっと、甘やかされたい。  
 
 
すみれは、怒らなかった。  
その夜、すみれはいっぱい甘やかしてくれた。  
うん、こういうのもいい。  
できれば、昼間ももっと甘やかしてちやほやして欲しい。  
でも、津田が怒るから、我慢しないとならない。  
家族ができると、我慢しなければいけないことも増える。  
ちやほやされたい性格なので、ちょっと辛い。  
でも、それよりずっとずっと嬉しいことが多いから、いい。  
すみれはだいすきだし、だいすきだと言ってくれるし、やわらかくて気持ちいい。  
菜乃香はかわいくって、おませで、やさしくて、絵がうまい。  
若葉は、男の子だからちいさいのに大きな声で泣くから、将来有望だと芝浦が言う。  
自分にも孫がいるくせに、芝浦は菜乃香と若葉にじいじはね、と話しかける。  
菜乃香と若葉のじいじだから、旦那さまは息子みたいなもんですと言った。  
庭の隅で青物野菜を育てて、食べろ食べろと言うようになったので困る。  
津田は昔っからうるさくて怖いし、津田の嫁は派手で口が悪くて声が大きいけど、すごく仕事ができて頭がいい。  
それに、津田を怒ってくれるのは津田の嫁だけだから、助かる。  
みんながいてくれるから。  
こんな風に、仕事をして、庭で菜乃香と遊んで、若葉にげっぷをさせて、ブロッコリーやほうれん草を食べて、津田や津田の嫁に怒られて。  
それがすごく、嬉しいと思う。  
……すごく、気持ちいい。  
すみれが、声を上げる。  
きつきつの中を動いていたら、気持ちよすぎてしびれてきた。  
ねえ、すみれ。  
三人目も、欲しいよね。  
すみれが、頭を抱いてくれる。  
甘やかされて、ちやほやされて、すごく嬉しい。  
すみれだけが甘やかしてくれるから、嬉しい。  
明日の朝は、おいしいパンを焼きますからね、とすみれが言う。  
なんのパンだろう、と思ったら笑いが止まらなくなった。  
……今日、津田のオムライスだったんです。  
「津田さんのオムライスは、おいしいですよ」  
……でも、あなたのパンが食べたいです。  
ここのところ、パン焼きをお休みすることが多くてすみません。  
できるだけ毎日パンを焼きますからね。  
……うん。楽しみです。  
「だから、菜乃香とお庭で遊んであげてくださいね」  
……うん。楽しみです。  
 
 
――――仕事が一段落して顔を上げると、一枚の古い写真が目に入る。  
その度に、笑いかけてくれるおとうさんとおかあさん。  
おとうさん、おかあさん。  
菜乃香と、若葉と、津田の嫁が増えました。  
だいじょうぶです、幸せです。  
 
――――完――――  
 

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