『執事・津田』 
 
その日も、旦那さまが朝食を召し上がっている間に、私は昨日洗濯したナプキンやクロスを畳んだ。 
それを棚にしまうためにダイニングに入ると、お食事をしている旦那さまの横に立っていた 
すみれさんがさっと手を引っ込める。 
旦那さまは基本的に人に世話を焼かれるのが大好きな方なので、当家のひとりきりのメイドである 
すみれさんは甘やかすにいいだけ甘やかしてしまい、食事ひとつにしても皿を取ってやったり 
カップを持たせてやったりと過剰に手を貸している。 
一度あまりにひどいと咎めたら、それからは私に気づかれないようにしているつもりらしい。 
世話する方もされる方も、半ばいちゃいちゃとやっているのでまあいいかとも思ったが、 
おもしろいので見つけると睨んでやることにしていた。 
ところが、今日は少し様子が違う。 
私が旦那さまのテーブルの前を通った時、旦那さまはすみれさんのエプロンのポケットから何かを 
取り出していた。 
朝っぱらからメイドの腰に抱きついてなにをなさっているんだか。 
「……なに」 
旦那さまの声がする。 
私はかまわず棚にテーブルクロスを片付け、引き出しにナプキンを色別に並べた。 
さほど広くもないダイニングでは、いくら旦那さまがぼそぼそ話しても、聞き耳を立てずとも 
聞こえてしまうというものだ。 
「あの……」 
私を気にしているのか、すみれさんにしては珍しく歯切れが悪い。 
主人がメイドに甘言をささやくのを立ち聞きする趣味はないので、棚を閉めてさっさと台所に引き返す。 
「……津田」 
呼ばれれば、仕方がない。 
私は足を止め、旦那さまに向き直った。 
「はい」 
旦那さまはなにか体温計のようなものを手にしており、すみれさんは青白い顔でうつむいていた。 
風邪でも引いたのだろうかと思ったが、旦那さまはちょっとにやけそうになっていた。 
「役所……」 
なにをおっしゃっているのだ。 
この旦那さまが、来日間もない外国人労働者以下の日本語しかしゃべらないのには慣れている。 
文筆を生業とし、キーボードを叩けば人並み以上の文章を繰り出すくせに、自分の口ではカタコトし 
かしゃべらない。 
それも長年の付き合いともなれば、言いたいことはだいたいわかってくるというもの。 
私は旦那さまの顔と手に持っているもの、隣に立って今度はうっすらと頬を赤くしたすみれさんを 
見比べた。 
旦那さまが今度は首をかしげる。 
「……あ。病院……」 
なるほど。 
「一般的な順番としてはまず役所でしょうが、病院が先でしょう。すみれさん、当てはありますか」 
ないだろうと思いながら、確認する。 
旦那さまがすみれさんを見上げ、すみれさんは困ったように首を横に振った。 
「わかりました」 
私は頭ひとつ下げて、踵を返す。 
この場合、いやどんな場合でも旦那さまになにかを期待するのは間違っている。 
私は当家の執事として、完璧にこの事態を最良の方法で収めなければならない。 
旦那さまは今度は嬉しそうな顔を隠そうともせず、すみれさんのエプロンに顔をくっつけている。 
「……おとうさん……なる」 
やれやれ。 
旦那さまが手に持っていたのは、恐らく妊娠検査薬というものだろう。 
昨日の夕方、すみれさんが買い物を忘れたとか何とか言って芝浦の運転で出かけたが、その時 
こっそり薬局で買ってきたに違いない。 
そして、陽性だったのだ。 
それを旦那さまに見せたのか見つかったのかはわからない。 
だが、いつかこんな日が来るとは想定していた。 
そして、早く来てくれればいいとさえ思っていたのだ。 
旦那さまはああいう方なので、すみれさんを前にちゃんと『メイドに求婚』をやれるかどうか、 
いやできないだろうなと心配していた。 
結局、旦那さまがはっきりすみれさんにプロポーズする前に、コウノトリがやってきたようだった。 
私は毎日、すみれさんが自分の部屋に引き取り、旦那さまが仕事のために書斎に引きこもった夜半に 
旦那さまの部屋に入る。 
月末には書斎まで押しかけて、当家の不動産収入と旦那さまの原稿料及び印税による月間収支を 
報告したり、どうせ目を通してはいただけない細かな出費の明細書を渡し、旦那さまから分割払いの 
山の代金を受け取ったりする。 
それ以外の場合は、すみれさんが手を出さない旦那さまの公的な部分の補佐、つまり文章のデータ 
バックアップを保管したり、古くなった資料を整頓したり、サインを頼まれた自著の箱を運んだり、 
それからあくまでついでに、ベッドサイドの引き出しにそういうものを補充したりする。 
一時は呆れるほど減りの早かったそれが、最近はまばらに減るようになっていた。 
暇さえあればいちゃついている様子から、関係が冷めたというよりはただ手抜きか忘れるかして 
いるに違いない。 
下賎な言い方だが、ナマでしていればそういうことにもなる。 
私は密かにパソコンや行政の広報誌で評判のいい産科を探しておいた。 
もちろん、急いで内輪の式を挙げてくれる教会や、挨拶状の印刷もしてくれる貸衣装付きの写真館も。 
家族がいないと言っていたすみれさんの本籍地から、いつでも戸籍謄本を取り寄せられるようにもしてある。 
恐らく、私の異母兄の屋敷でのこともあり、すみれさんはひどく不安な思いをしたに違いない。 
当家のような、かつてはそこそこだったがふがいない跡取りのせいで傾きかけたような家柄でも 
、主人がメイドに手をつけては放り出す、子どもを生ませて引き取ったとしても母親は追い出されるような 
習慣の残る家は少なくない。 
旦那さまがせいぜい甘えてすみれさんを安心させてくれるように願いながら、私は探しておいた 
産科に電話し、感激にむせび泣きそうになる芝浦を急かして車を準備させて、すみれさんを診察に 
連れて行った。 
書類をもらってそのまま役所へ回り、婚姻届と母子手帳をもらう。 
それに必要な書類を揃えて提出し、写真屋で撮った写真入りハガキで関係各所に連絡し終わるのに 
二週間はかからなかった。 
つわりらしいつわりもないらしく、すみれさんの妊娠は順調に進んだ。 
旦那さまにお嫁様を迎えて、立派な跡取りを授かり、当家の将来を安泰なものにする。 
執事として、大事な仕事に失敗は許されない。 
どんな小さな手抜かりもないように、私は細心の注意を払って新生児を迎える準備をした。 
――――私は、完璧な執事なのだ。 
誰もそうは言わないが。 
 
マタニティの洋服やら妊婦生活を快適にする様々な仕度をしていると、ある日まだお腹の目立たない 
すみれさんが、パン生地を丸めながら打ち明けた。 
主人の子どもを身ごもったメイドなんて、きっと追い出されてしまうと思っていました。 
ここを出たら路頭に迷うかもしれないけど、でも絶対、絶対この子は産みたいって思いました。 
だって、私……。 
そこまで言って、涙ぐんでしまう。 
当家は経済的にも人手にも余裕がないので、不本意ながらすみれさんには今までどおり旦那さまの 
お世話をしていただいているが、立場上私は使用人ですみれさんは奥さまである。 
泣かれては困る。 
「……そんな家もあるでしょうが、うちは違います」 
言外に私の異母兄、すみれさんの前の職場への嫌味を込めてしまった。 
すみれさんが、笑った。 
だいたい、主人だメイドだと言いながら、誰がどう見てもこのふたりはお互いが好きで好きで 
たまらないのだ。 
旦那さまなど、物書きのくせにすみれさんに好きだと伝えるいい言葉が見つからないと 
悩んでいたくらいだ。 
じゃあなんて言ってるんですかとお尋ねしたら、すみれがいちばんすきと言っている、とおっしゃる。 
それでいいと思いますよと返したのに、なんだか足りない伝えきれてないと言う始末。 
もうどうにでもしてくれ、と言いたくなるふたりなのだ。 
すみれさんが遠慮しようがどうしようが、事は進めてしまうに限るのだ。 
ぐずぐずしていたら、子どもは産まれて来る。 
ハガキが届いたのか、フリー編集者の小野寺もやってきてひとしきり大騒ぎし、自分だって 
子どもはおろか結婚すらしていないのに、これでもかというくらいの子育て論をぶち上げ、 
育児書を積み上げて行った。 
それからも頻繁にやってきては、ドーナツ型のクッションやら腰を温めるカイロ入り腹巻やら、 
信じられないほど小さな産着やらを持ってくる。 
相変わらず、迷惑なほど賑やかな女だ。 
 
 
 
月満ちて、安産で産まれたのは、女の子だった。 
旦那さまが、花の名前をもつ母親にちなんで、菜乃香と名づけた。 
すみれさんは旦那さまと菜乃香の世話に明け暮れた。 
旦那さまはもう見るも無残にデレデレになった。 
いつまでも飽かずに菜乃香を眺めている旦那さまをベビーベッドの脇から引きはがし 
、書斎に放り込むのは私の仕事だった。 
ミルクの合間に少し休んでくださいとすみれさんに言って、なにかと菜乃香の様子を見に来たがる 
芝浦に雑用や買い物を言いつけ、それからやっと私は丸々と太ったお姫様を抱き上げる。 
ピンク色のプクプクしたほっぺた、指を握って離さない小さな手、一度も地面を踏んだことのない 
柔らかな足。 
夜泣きもせず、ミルクも吐かず、お医者様が驚くほど育てやすいという当家の大事な大事なお姫様。 
……私だって、かわいいに決まっているではないか。 
菜乃香が生まれると、旦那さまが渋い顔をしたけれど、私はためらわず廊下の窓を覆っていた 
カーテンを開け放って光を入れ、廊下や階段のカーペットを厚いものに変え、ありとあらゆるところに 
手すりを付け、段差をなくし、歩き出した赤ん坊が危険な場所に入らないよう防護柵を取り付けた。 
お姫様がかすり傷ひとつ、小さなアザひとつ作ることも考えられないではないか。 
それに一年中朝から晩まで薄暗い屋敷の中が、赤ん坊の健康にいいとは思えない。 
この際、旦那さまの趣味など検討するに値しない。 
ただ、すみれさんは時々、旦那さまがあまりに菜乃香をかわいがると心配になってらっしゃるようだった。 
菜乃香に夢中で、自分のことを忘れてしまわないかと思っているらしい。 
不必要な心配だと思うし、それで揉めたとしても夫婦喧嘩は犬も食わないという。 
おもしろいから放っておくことにした。 
するとある夜、書斎にこもる前の旦那さまに仕事の予定をお届けしようとお部屋に行くと、 
ちょうど菜乃香を抱いたすみれさんが出てくるところだった。 
旦那さまは昼夜逆転の生活なので、夜はすみれさんが菜乃香と一緒に廊下を挟んだ部屋で休んでいる。 
声をかけようとしたら、旦那さまの部屋のドアが開いた。 
「どうしました」 
すみれさんが旦那さまを振り返っている。 
「……きょう」 
旦那さまが、相変わらずのたどたどしさで言う。 
「伝えて…、なかった…かも」 
「はい?」 
旦那さまが、きょとんとした顔で見上げているすみれさんを見つめて、嬉しそうに微笑む。 
「すみれが…、いちばんすき……」 
菜乃香のことはだいすきだけど、すみれがいちばんすき。 
ああ、もうどうにでもしてくれ。 
私はばかばかしくなって、そのまま引き返した。 
 
 
 
朝、屋敷中の窓を開けて空気を入れ替え、庭を掃いて、はいはいできるようになった菜乃香の 
ひなたぼっこに備えている芝浦を台所の窓から見ながら、私は昨夜すみれさんが材料を入れて 
タイマー設定しておいたホームベーカリーから焼きあがったばかりのパンを取り出す。 
芝浦の鼻歌が聞こえてきそうだが、あいにく私は菜乃香にひなたぼっこを許すつもりはない。 
乳幼児の日光浴が推奨されていたのは芝浦が子育てをした時代までで、現代の有害紫外線が降り注ぐ 
屋外に、赤ん坊を連れ出すなど、もってのほかである。 
そんなことをさせて、菜乃香の真っ白いすべすべの肌に、そばかすのひとつもできたらどうするというのか。 
芝浦に、裏表がわからなくなるほど真っ黒に日焼けするまで庭の草をむしらせてやっても済まないではないか。 
私は窓の外から目を離し、サラダや白身魚のムニエルを用意し、フルーツを絞ってジュースを作る。 
菜乃香にもリンゴのすりおろしを用意していると、芝浦が戻ってきて、裏玄関脇で入念に手を洗っている。 
肘まで消毒しないと、菜乃香に触ってはいけないと私が言ってあるせいだ。 
食事が出来上がるころ、旦那さまとすみれさんがミルクを飲んでご機嫌な菜乃香を抱いて降りてくる。 
すみれさんを最初に産科に連れて行った日、私はこれからは旦那さまとご一緒に食事をするように言った。 
なにせ、すみれさんは当家の奥さまになったのだ。 
すみれさんはひどく戸惑い、旦那さまはにこにこした。 
そして、落ちつかなそうに手をうんと伸ばしながら旦那さまの手元にお皿を並べ替えているすみれさんを見て、旦那さまが私の知る限り初めての決断をした。 
 
「……みんなで」 
さすがにそれは私も渋ったし、芝浦もとんでもないと言ったが、旦那さまはどうしてもと言い張った。 
そして、当家では他の家ではありえないことながら、主人夫婦とふたりの使用人が日に三度同じテーブルで 
同じ食事をすることになったのである。 
旦那さまはともかく、奥さまはメイド時代と大差なく、育児が増えた分以前より忙しく立ち働いているし、 
私も芝浦も忙しいがあいにく人手を増やす経済的余裕もない。 
申し訳ないので、どうにかしなければならないとは思っているのだが。 
旦那さまが、菜乃香をテーブル横のベビーベッドに寝かせる。 
ベビー布団もタオルも、ふかふかになるよう十分日に当てたものである。 
両手を肘まで洗った芝浦が、遠慮がちに当家のお姫様を覗き込む。 
旦那さまがテーブルにつき、すみれさんが正面に、両脇に私と芝浦が座る。 
セッティングが終わると、旦那さまがいただきますと呟き、全員がカラトリーに手を伸ばす。 
そこへ、ダイニングのドアが小さな音を立てて開いた。 
あとで蝶番に油を差しておかねばならない。 
すみれさんがびっくりしたように、テーブルについている人数を確認する。 
芝浦がぽかんとドアを見つめ、旦那さまが菜乃香の目の前につまんだプチトマトをブラブラさせて 
喜ばせている。 
開いたドアに寄りかかっているのは、当家の人間ではない。 
広がった長い髪が顔を隠していて、白い手がだらんと垂れ下がり、黒っぽくて長いボロ布のようなものを 
ひきずっている。 
「うわっ!」 
芝浦が、代表して叫んだ。 
菜乃香が目を覚ましたのか、ふぇ、と小さな声を上げる。 
私は誰にも聞こえないように小さく舌打ちをし、音を立てずに立ち上がった。 
つかつかと、その昔旦那さまに読み聞かせて怖がらせ、先代に叱られた昔話に出てくる山姥のような 
女の前に立つ。 
「おはようございます、小野寺さん」 
旦那さまが顔を上げるのが見えた。 
いつもはつやが出るほどきれいに巻いた長い髪がざんばらになり、着崩れたダークグリーンの 
ドレスからみっともなく肩や腕が出ており、ハイヒールを履いていたはずの足は裸足だった。 
「ど、どうしたんですか小野寺さん、こんな朝早く」 
すみれさんが立ち上がった。 
「ああ、おはよう。ごめんね、すみれちゃん……」 
山姥、ではなく、小野寺は片手で顔にかかる髪の毛をかきあげて乾いた声を出した。 
多少乱暴かもしれないが、腕をつかんで隅のソファに座らせる。 
朝食が台無しである。 
「おみずぅ……」 
ソファにぐったり座った小野寺が言うと、すみれさんが台所へ行きかけた。 
とんでもない。 
私はきっとすみれさんを睨みつけた。 
「すみれさん。当家の奥さまが、こんな酒癖の悪い二日酔いの編集者に水を取りに行ったりしては 
いけません」 
「は、はい……」 
睨まれたすみれさんがあわててテーブルに戻る。 
奥さまに水を汲ませるのがいけないのか、奥さまを睨みつけるのがいけないのか、それはともかく。 
芝浦がどたどたと台所へ駆け込み、旦那さまがベビーベッドを引き寄せて菜乃香を覗き込む。 
「だいじょうぶですか、小野寺さん」 
私の顔色をうかがいながら近づいてきたすみれさんが、芝浦の持ってきた水の入ったコップを手渡す。 
「……ご報告が遅れましたが」 
昨夜、就寝前に屋敷の戸締りを確認していると、裏玄関の前になにかがあるのに気づいた。 
大型ゴミの不法投棄かと思ったが、外灯をつけてみると泥酔した小野寺だったのだ。 
見なかったことにしようかと思ったが、誰かに見つかってもやっかいなことになる。 
仕方なく担いで屋敷の中に入れ、客間のベッドに転がしておいたのだ。 
なんだってこんなところで寝ていたのか、迷惑なことこの上ない。 
私が事情を説明すると、すみれさんがお医者様を呼んだほうがいいでしょうかと聞いてきた。 
「とんでもありません。ただの酔っ払いです」 
屋根の下に入れてやっただけで十分だ。 
「……ひどい……よねぇ、すみれちゃん」 
コップを空にした小野寺が、ため息をついた。 
「目が覚めたらどんな状態だったと思う?ドレス着たまま、靴を履いたままベッドに寝てたのよ。 
毛布一枚かかってないの。首にストール巻いたままで、窒息するかと思ったわ。 
いくら酔ってるからって、もう少し介抱の仕方があると思わない?」 
思わない。 
まあ、とすみれさんが驚き、控えめな抗議の視線を私に向けた。 
なぜだ。 
「そりゃ、いくら会場から近いとはいえ、先生のお宅の玄関先で力尽きた私が悪いんだけど。 
ああ、玄関まで来たのは覚えてるのよ。チャイムを鳴らしたっけ?」 
鳴っていない。鳴ったら迷惑だ。菜乃香が目を覚ます。 
「あ、会場っていうのはね、結婚式の二次会ね。前にいた出版社の後輩が、玉の腰に乗ったのよ。 
インタビューした医者と結婚したの。そんなのって、ある?」 
「まだ酔ってるようです。すみれさんは旦那さまとお食事を続けてください」 
年下の同業者が幸せな結婚をしたことへの愚痴をこぼし続ける小野寺を引きずるようにして、 
ダイニングを出る。 
まったく、菜乃香がぐずったらどうする。 
小野寺は肩からずり落ちるドレスの肩紐を引っ張りながら、くすくす笑っている。 
「すみませんね、津田さん。ご迷惑をおかけして」 
まったくだ。 
「タクシーを呼んでもらえたら、帰りますから。ああ、あたしの靴……」 
そこでようやく、自分の格好に気づいたらしい。 
「あら、ひどい」 
遅い。 
「先ほどの客間に、バスがついていますから使ったらどうです」 
当家から山姥が出てきてタクシーに乗ったなどと噂になっては困る。 
「……あら、ご親切」 
小野寺はすっかり化粧の崩れた顔で笑うと、まだふらつく足取りで廊下を引き返していった。 
 
 
 
いつも通りの穏やかな朝食、という予定が台無しにされて私が多少不機嫌だと思ったのか、台所に戻ると 
旦那さまが菜乃香を抱いてやってきた。 
「なの……」 
差し出すようにして、ご機嫌でばたばたしているお姫様を私に見せる。 
思わず表情が緩みそうになるのを引き締めて、私は旦那さまは台所になど入るものではないと小言を言った。 
「なの……、津田、怖い」 
まだ言葉も話せない乳児に、なんてことを教えるのか。 
菜乃香が父親の口癖を真似て、私を怖がったらどうする。 
すみれさんが食器を下げてくる。 
「申し訳ありません」 
奥さまに当然のように後片付けをさせてしまっていることに謝罪して、皿を受け取る。 
きれいに片付いた旦那さまの皿は、私のいないところで芝浦が目のやり場に困るくらい、思う存分 
すみれさんに世話を焼いてもらったのがわかる。 
たまには、仕方あるまい。 
「小野寺さんは」 
すみれさんが聞く。 
客間で風呂に入っていますと私が言うと、旦那さまに菜乃香を預けたまま台所を飛び出していった。 
さっさとタクシーを呼んで、あの迷惑な女編集者を帰してしまわねばならない。 
「なの……、お天気」 
旦那さまはまだダイニングでぐずぐずしており、窓から差し込む日差しを浴びて菜乃香を喜ばせている。 
徹夜明けなのだからさっさと部屋に戻ってお休みになればいいのだが、すみれさんがいないので 
行きたくないのだろう。 
朝から夕方まで、決めたとおりの家政を行うという私のスケジュールが早くも乱れ始めていることに 
苛立ちを覚えた。 
食器洗い機に皿を詰め込み、ぐずぐずと菜乃香をあやしている旦那さまと、その横で溶けそうな顔で 
菜乃香を見ている芝浦を残して客間に向かう。 
ドアをノックし、返事を待ってドアを開ける。 
「はあい」 
すみれさんの隣で振り返ったのが、誰かわからなかった。 
気を利かせたすみれさんに化粧品を借りて鏡に向かっていた小野寺は、ゆるく波打つ髪を後ろでゆるく束ね、 
朝には不似合いなドレスの上に、すみれさんのカーディガンをはおっている。 
いつもくっきりと縁取られていた目は額縁を失って小さくなり、こってりと左官されていた肌は細かく 
毛細血管が浮いている。 
眉毛は、眉毛はどこだ。 
「……なによ」 
感情が顔に出ていたのだろうか、小野寺が言った。 
タクシーを呼びます、と言うと、すみれさんが遠慮がちに口を開く。 
「津田さん、私、小野寺さんの朝食を支度してきます」 
呆れるほど親切で世話焼きな当家の奥さまは、招かれざる酔客に手ずから食事まで用意するおつもりらしい。 
「ああ、すみれちゃん、あたしだったら」 
当然だ。 
ここで辞退しないようでは……。 
「あっさりしたものがいいんだけど」 
殴り倒してやろうか。 
ぐっと拳を握った私の気持ちなどお構いなしに、当家の奥さまはにっこりなさる。 
「昨夜のオニオンスープを温めたものでいいですか?今朝のライ麦パンと、温野菜のサラダかなにか」 
「うん、ありがとう」 
「小野寺さん」 
私はなるべく冷徹な声で、通常とは別人のようにのっぺりした顔の編集者を呼んだ。 
「すみれさんは、メイドではありません。当家の奥さまです。女主人です。そのところを」 
「この家の執事は、奥さまを名前で呼ぶわけね。当たり前のようにご主人の部屋の掃除や洗濯をさせて、 
使用人の食べるパンまで焼かせてるわけね」 
ぐ、と詰まった。 
当家には当家の事情がある。 
出版社の後ろ盾もない編集者などに、偉そうなことを言われる筋合いはない。 
「執事は使用人かもしれないけど、あたしはすみれちゃんの友だちだもんね。奥さまのご友人に対して 
、執事が出て行けよがしの言い方ってどうなのよ、ねえ」 
いつから、あなたはすみれさんの友だちになったのか。 
すみれさんは私と小野寺の間でおろおろしている。 
執事として、奥さまを困惑させるのも不本意ではある。 
「……では、朝食を済ませたらタクシーを呼びます」 
すみれさんがほっとした顔で台所に向かいかけ、ドアのところで振り向いた。 
「津田さんもお食事まだですし、ご一緒に」 
とんでもない。 
確かに朝食は食べ損ねているが、だからといってこの女と差し向かいで食べる理由にはならない。 
控えめに、しかしきっぱりと固辞すると、すみれさんはすみませんと頭を下げて出て行かれた。 
鏡に向かって眉毛を描き終えた小野寺が、肩をすくめる。 
私とふたりで部屋に残されると居心地が悪いらしい。 
「お風呂、ありがとうございました」 
「……いえ」 
女性の身支度を見ている趣味はないので出て行くために軽く頭を下げようとすると、小野寺は座ったまま 
くるっと振り向いた。 
「津田さん」 
「はい」 
「……そんな怖い顔しないでよ」 
これが通常の顔である。 
「あたしさぁ、昨夜なにか言ってた?」 
昨夜の小野寺は泥酔して意識不明状態だった。 
抱え上げて客間に放り込むのに苦労したくらいである。 
「昨日結婚した後輩のダンナっていうのがね。最初にインタビューとりつけたのはあたしだったの」 
それがどうした。 
「話題になってる新薬についてね、そりゃあ一生懸命下調べしてから話を聞きに行ったのよ。それが、 
フタを開けたら別のコが記事を書くっていうの。下調べどころか、なんの病気に効くお薬なんですかぁ、 
なんていう頭の弱いインタビューをするわけよ。呆れるじゃない」 
「……自分よりバカな後輩が、若くてかわいいだけを武器にして仕事も男も手に入れたのが不満ですか」 
細くて軽い棒が飛んできた。 
かわしてから床に落ちたのを拾うと、小野寺が眉毛を描いていたペンだった。 
「はっきり言えばいいってもんじゃないでしょ」 
「失礼しました」 
眉毛の生えた小野寺は、少しいつもの顔に近づいた。 
「あたし、女を武器にして仕事するのだけはいやだと思ってたの。会社辞めたときに、そう決めたわけ」 
出て行くタイミングを逃して、私はそこに立っていた。 
すみれさんの友だちだと言われ、すみれさんがそれを否定しなかったせいで無碍にもできない。 
不本意だ。 
「津田さん。あたし、だめ?女として、魅力ゼロなわけ?」 
返事に困ることを聞かないでもらいたい。 
昨夜、未婚の婦女子としてこの上ない醜態をさらしたことで開き直ったのか、言葉遣いも態度もぞんざいだ。 
ゼロとは言わないが、かなり点は低い。 
「その医者が好きだったわけですか」 
興味もないが、やむを得ず聞いてみる。 
笑い飛ばすかと思ったら、小野寺はうーんと唸って腕と足を組み、顔をしかめた。 
女らしさ、という意味では確かに問題がある。 
「別に好きじゃなかった」 
まったく、意味がわからない。 
それはただインタビューする医者が、付け焼刃の専門知識をひけらかす小野寺より、なにもを言っても 
ふんふんと聞いてくれる若い記者相手に話をしたかっただけで、女うんぬんは関係がない。 
小野寺はひょいっと立ち上がると、私に向かって手を伸ばした。 
「返して。それ、すみれちゃんのだから」 
投げつけておいて、勝手なことを言う。 
私は、小野寺に眉毛を与えてくれたペンを渡そうとする。 
ふわっと、暖かくて柔らかいものが、適度な重みを伴って私を包む。 
「……まだ、酔っているんですか」 
いつも小野寺がつけている人工的な香水の代わりに、せっけんの香りが鼻をくすぐる。 
「ほんと、ずっと酔っ払っていたい。酔っ払っていれば、津田さんもあたしに優しいのにね」 
「そうとは限りません」 
私の肩に顎を乗せた小野寺が、あっはっはと笑った。 
「ありがとう、津田さん」 
ぎゅうっと力任せに一度強く抱きついて、小野寺は私から離れた。 
初めてこんなに接近して見た小野寺の顔は、目の下に薄く浮いたクマを隠しきれていなかった。 
 
 
―――― ―――― ―――― 
 
 
「つらしゃん、あーん」 
はいはいを始めたかと思ったら立ち上がり、伝い歩きができるようになったかと思ったら階段を昇り始め、 
夏が来る頃にはあっという間に菜乃香はおしゃべりするようになった。 
旦那さまが少しずつ買い物や散歩に外出できるようになるより、ずっと速い。 
今日も、一日にひとつと決められたおやつを貰うと私のところまでやってくる。 
『なの』がママから貰ったカステラを、私にひとかけ下さるのだ。 
私の口に小さな手がカステラを押し込む。 
「おいちい?」 
「はい」 
私が答えると、菜乃香はすみれさんそっくりの口元でにっこりする。 
「パパのー、ママのー、しまーらしゃんのー」 
カステラはボロボロになるほど小さく分けられる。 
当家のお姫様は心優しい方なのだ。 
どんなにわずかなおやつであっても、両親と使用人にも分けてくださるほど。 
貰ったものを独り占めするような欲深なお人ではない。 
「なののー!」 
みんなにカステラを配り終えた菜乃香が台所に戻ってくる。 
最後に残った一番小さなカステラを手に持っている。 
私が差し出した皿にその自分の分のカステラを乗せ、100%オレンジジュースと一緒におやつである。 
抱えていたノートを広げ、口に入っても無害なクレヨンで描かれた謎の極彩色な絵を見せてくれる。 
「パパー、ママー、なのー」 
指さすところになにがあるかは不明だが、家族の絵のようだ。 
「しまーらしゃん」 
こげ茶色の丸は、芝浦らしい。 
離れた場所にある当家の賃貸物件の賃料を取りに出かけている芝浦が見たら、感激して涙ぐむに違いない。 
「つらしゃん」 
その横の緑の棒は私か。 
よく描けている。将来は画家かもしれない。 
「おのーらしゃん」 
菜乃香の小さな指が、赤い塊を指した。 
「おのーらしゃん、ですか?」 
幼児は時々見えないものを見てしまう、という話を思い出して眉をひそめた。 
カステラをつかんだ手をちゃんとおしぼりで拭いて、菜乃香はきょろきょろした。 
「おのーらしゃんはー」 
やっとわかった。 
菜乃香は、家族の絵に小野寺を加えたのだ。 
「小野寺は、今日は来ません」 
そう言うと、菜乃香は小さな頭をかしげた。 
「おのーらしゃん、ないない」 
なんとかわいらしいのだ。 
将来、当家のお姫様を下さいなどという男が現れたら、その男が菜乃香にふさわしくない男だったら、 
私は断固として拒否する。 
「あ、菜乃香ここでしたか。すみません、お邪魔しませんでしたか」 
相変わらず奥さまぶるところのないすみれさんが、菜乃香を探して台所にやってきた。 
菜乃香はぽんと椅子から降りてママのところに駆けて行く。 
「菜乃香、津田さんにお礼して」 
くるっと振り向いた菜乃香が私の元に戻ってくる。 
「あらっとー!」 
ジュースのお礼をおっしゃる。 
他家の、高慢ちきで礼儀知らずなお嬢さまたちに菜乃香の爪の垢でも煎じてやりたいほどである。 
「あの、津田さん」 
娘の教育も夫の世話も、使用人への過剰な気遣いも怠らない当家の奥さまは、ただいまめでたく 
ふたりめをご懐妊中である。 
「はい」 
「さきほど、秀一郎さんが小野寺さんを呼んで欲しいとおっしゃいました」 
「……かしこまりました。お時間は」 
「あちらの都合でよろしいそうですけど」 
「では、小野寺さんに電話します」 
「お願いします」 
すみれさんは、最近少し顔が丸くなった。 
菜乃香の時はそうでもなかったのに、なんだか食べても食べてもお腹がすくんですと困っていらっしゃる。 
旦那さまは、先ごろ出された菜乃香の育児日記が順調な売れ行きである。 
育児らしい育児などご自分ではなさっていないくせに、今日は菜乃香がこんなふうに笑った、 
初めてこれを食べたということを旦那さま流に綴った本が、本当に育児をしている男性に好評なのだそうだ。 
先日などはテレビのトークコーナーにゲスト出演するときに、菜乃香を連れて行くと言い出して、 
すみれさんと芝浦がついて行った。 
司会者が、娘さんがいらしてますねと話を振り、旦那さまは思惑通りご自慢の一人娘を全国放送でお披露目した。 
人のことは言えないが、見事な親ばかぶりだ。 
旦那さまが小野寺になんの御用があるのかわからないが、携帯にかけると委細承知しているかのようだった。 
このところ小野寺は、旦那さまが雑誌などに連載したものをまとめて本にするような時も、 
出版社から装丁や編集を引き受けたりする上、私が不慣れなメディアとの窓口なども勝手にやっている。 
また文筆業に関係のないバラエティ番組の出演や、雑誌の取材を引き受けてきたのではないだろうか。 
仕事がないのか予定していたのか、小野寺は小一時間ほどでやって来た。 
裏口から入ってきた小野寺は、夏の白いスーツの上着を脱いで手に持っていた。 
「津田さん、よくそんな暑っ苦しいカッコしてられるわね」 
ボタンひとつ緩めない執事の制服を見て、呆れた顔をする。 
建物は古いとはいえ、冷暖房完備の当家に対して失礼な女だ。 
さっさとヒールの高いサンダルを脱いで勧められもしないスリッパに履き替え、どんどん屋敷の中へ入ると 
ダイニングのテーブルにアイスクリームの入った紙袋を置いた。 
「あ、一番上のは、なのちゃんのバナナジェラードですからね」 
発泡スチロールの箱を開けると、カップに入ったアイスクリームが詰まっている。 
菜乃香の今日のおやつは済んだばかりだ。 
私はアイスクリームのカップを冷凍庫に入れた。 
「ひとつくらい、あたしにもどうぞって出してくれないの?」 
ダイニングテーブルの椅子に腰を下ろして、脚を組んでいる。 
夏が近づいた頃、小野寺はあのうっとおしいほどボリュームのあった髪を肩の上で切った。 
見事な左官テクニックを要していたであろう化粧も薄くなったのか、頬の血管が隠しきれていない。 
「……旦那さまがお待ちですが」 
「行ってもいいの?」 
小野寺が笑った。 
夜中に仕事をする旦那さまは、昼の間は小刻みに寝たり起きたりなさり、すみれさんはその度に着替えや 
コーヒーや、いろいろとお世話をしている。 
……うかつに邪魔をしてはいけない。 
私はダイニングにある電話を取り上げた。 
呼び出しが長くなるような状況なら、小野寺を追い返してやろうと思っていたが、すみれさんは 
約束の時間をしっかり覚えていたらしかった。 
今日の用事らしいゲラの束が入った封筒を抱えて立ち上がる。 
ノースリーブの脇から思いのほか白い肌が覗き、私はとっさに目をそらした。 
私が先に立ってダイニングを出ようとすると、小野寺が前に回りこんだ。 
こればかりはやめる気がないらしい、ごてごてした長いつま先が私に突きつけられる。 
「帰る前に、アーモンド味。いただいていきますから」 
一瞬なんのことかわからなかった。 
「……自分で食べたい分は、持ってこなければいいのではないですか」 
ドアを開けて小野寺を先に通し、それから先導するために前に出る。 
「あら、ここで食べちゃいけないのかしら。先生が召し上がるっておっしゃったら、持ってきてくださいね」 
「……小野寺さん」 
「なあに」 
「あなたは、旦那さまのお仕事でいらしてるんです」 
「そうよ」 
「いわば、ここは職場なわけです」 
「ふうん」 
「……もう少し、職場にふさわしい振る舞いがあると思うのですが」 
「あなたは、執事という仕事中にふさわしく振舞っているわけね」 
「……そのつもりですが」 
階段の最後の一段を昇って、小野寺が立ち止まる。 
仕方なく、振り返る。 
「津田さん」 
「なんでしょうか」 
「執事の仕事って、何時に終わるの」 
返事をする前に、旦那さまの部屋のドアが開く。 
「おのーらしゃー!」 
小さなお姫様が廊下に出てくる。 
「菜乃香、いけません」 
すみれさんが追いかけるようにして出てきて、私と小野寺に気づく。 
「こんにちは、いらっしゃいませ」 
菜乃香を抱き上げたすみれさんに声をかけられて、小野寺は私の横を通り抜けた。 
せっけんのような香りがした。 
「なのちゃん、こんにちは」 
小野寺がカバンと封筒を廊下に置き、すみれさんの腕の中から手を伸ばした菜乃香を抱き取る。 
「なのちゃん、おのーらね、バナナのアイスを持ってきたの。後からつらしゃんにもらってねー」 
菜乃香がバタバタと手脚をふりまわした。 
「あらっとー!」 
まあ、いつもすみませんとすみれさんが恐縮する。 
「なの、つらしゃんにアイスもらーのー!」 
「あーと−でー!」 
その様子をボンヤリ眺めてしまい、私は慌てて小野寺のカバンを拾って、ドアが閉められる前に 
旦那さまの部屋に入った。 
旦那さまは窓を背にした机でぼんやりとノートパソコンを眺めており、すみれさんが渡した 
ゲラ刷りの入った封筒を見もしない。 
「津田……」 
カバンをソファに置いて出て行こうとすると、旦那さまが私を呼ぶ。 
「はい」 
「なの……アイス」 
旦那さまは、菜乃香に甘い。 
バナナのアイスー、と騒ぐ菜乃香をすみれさんが叱った。 
「今日のおやつはもうおしまいです。いいですか?」 
菜乃香がぐすぐすと泣き出した。 
小野寺が余計なことを言うせいで、菜乃香がかわいそうではないか。 
「なのー、つらしゃんに、アイスもらーのー……」 
心が折れる。 
しかし、奥さまの教育方針に逆らうわけには行かない。 
私は後ろ髪を根こそぎ後ろに引き抜かれそうになりながら、台所に戻った。 
明日のおやつは、バナナのアイスに菜乃香の好きなチョコレートのウエハースを添えてやろう。 
納戸に荷物を運んだり、庭に水をまいたりしていると、さすがに暑い。 
上着を脱いでシャツのカフスを外す。 
袖をまくり上げてタイを緩めたところで、一番見られたくない相手に見つかった。 
「けっこう、いい身体してるのね」 
顔を上げると、いつの間に戻っていたのか開け放した裏口のドアのところに小野寺が立っていた。 
日差しに目を細めながら、勝手に人の家の冷蔵庫を開けたらしく、カップのアイスとスプーンを持っている。 
「……ご用はお済みですか」 
そこに立たれると屋敷の中に戻れない。 
直射日光の下で、私は不機嫌な声になった。 
「長袖のシャツ着てるの?暑いわよ、それじゃ」 
「……」 
「すみれちゃん、なのちゃんにアイスあげなかったわ」 
「……」 
「きちんとしつけてるわよね。ママがもともと金持ちのお嬢さんじゃないせいかしら」 
「……」 
「ま、このうちもさほどお金持ちじゃないみたいだけど」 
「……」 
「カップは紙でスプーンとフタはプラスチックなんだけど、分別ゴミ?」 
「……」 
「津田さんは、あたしが嫌いよね」 
「……」 
「今のくらい、返事してくれてもいいんじゃない?」 
私は足元に置いたデッキブラシを拾い上げた。 
「話が転がりすぎて、どこでなにを言ったらいいかもわかりませ」 
いきなり足元と顔が涼しくなり、小野寺が弾かれたように笑った。 
苛立ちのあまり、水の入ったバケツがあることを忘れて踏み出した一歩。 
バケツに突っ込んだ足が跳ね返した水を頭からかぶった私は、思わずちっと舌打ちをしてしまった。 
「へえ、津田さんでも舌打ちなんでするのね。いいじゃない、今日は行水日和よ」 
「……そこ、よけてください。濡れます」 
裏口のタタキに立ったまま壁際に寄っただけの小野寺が、水に濡れた靴と靴下を脱ぐ私の腕を支えようとする。 
「けっこうです」 
水と汗で湿ったシャツ越しに、アイスを持っていた冷たい手が触れた。 
「意外と、そそっかしい」 
ふふ、と笑われた。 
「そういうギャップって、悪くない」 
私はスリッパに素足を通して、濡れた靴下を玄関脇に置いた。 
ついでだ、さっとシャワーを浴びてしまおう。 
菜乃香がお昼寝から覚めて遊びに来た時に、「つらしゃん、くちゃい」などと言われないために。 
メガネを外して水滴をぬぐっていると、突っ立ってアイスを食べている小野寺が見下ろしている。 
「……それを食べたら」 
「帰れって?」 
「……」 
なぜ、この女は用がないのに人の家にいるのか。 
「シャワー浴びたら?」 
「……あなたに心配していただかなくてもけっこうです」 
私の私室は、裏玄関のすぐ脇にある。 
そのドアを見た視線を追ったのか、小野寺が頭を回す。 
「そうね。帰る。帰るけど」 
けど、なんだ。 
「ひとつだけ、返事してもらえないかしら」 
「……なんですか」 
「あたしが嫌い?」 
思わず、小野寺を見た。 
なぜだろう、心臓に負荷がかかる。 
もう若くもないだろう小野寺の真剣な目が、立ち上がった私を見上げていた。 
「……メガネがないと、怖くないわ」 
小野寺の手が、メガネをかけようとする私の手を押さえた。 
執事としてあるまじき振る舞いながら、私は少し身体をかがめた。 
アイスを食べた小野寺の唇は、アーモンドの甘い味がした。 
小野寺に誘われるように、私は自分の部屋のドアを開け、その中に入って後ろ手でカギを下ろす。 
「勤務時間内です」 
自分で施錠しながら、私は最後の抵抗をした。 
「……あたしもよ」 
小野寺は私のシャツのボタンを外し、湿ったそれを剥ぎ取った。 
スラックスのベルトを取りながら、自分もスカートを床に落とす。 
「……津田さん」 
冷房のきいた部屋で、小野寺が熱っぽい唇を開いた。 
「なんです」 
「あたし、こういうの久しぶりで」 
脱ぎながら、ふふっと笑う。 
「ずっと、男は押しのけたり踏み越えたりするものだと思ってた」 
「……」 
キャリアウーマンを経て独立したような女は、みんなそうなのだろうか。 
「抱きしめたり、キスしたりするものだってこと忘れてたわ」 
「……そうですか」 
私だって、小野寺の唇を吸い、思いのほか滑らかな肌を抱きながら、女というものを思い出しかけて 
いるくらいだ。 
「奇遇ですが」 
狭い部屋の奥にあるシングルベッドに転がり込んで、私は小野寺を組み伏せた。 
「……私も忘れかけていますから、不首尾があったらお詫びします」 
小野寺の腕が私の首に巻きついた。 
「おあいこね」 
短い髪が枕の上に広がる。 
首筋から鎖骨へ唇を滑らせる。 
久しぶりだ、と言った小野寺が小さく震えた。 
スーツという鎧を解かれた女編集者は、予想外に豊かな胸と細い腰を持っていた。 
その胸に顔を埋め、いらっているうちに存在を主張し始めた先端を舌先で突つく。 
「ん……。ねえ」 
小野寺が私の髪に指を入れる。 
「あたし……あんまりゆっくりはできないの。仕事中なのよ」 
その言い方に、腰の辺りがうずいた。 
「急ぎましょう」 
小野寺が笑い、私も釣られた。 
「初めて笑ったわ、津田さん」 
「そうですか……」 
白い肩先に歯を立てると、一度のけぞってから私と身体を入れ替えてきた。 
胸の上に手をついて腰の上にまたがる。 
「あたしなんか相手じゃダメだった、なんて言わないでよ」 
照れ隠しのように言って、頬を赤らめた。 
「努力します」 
そう言うと、笑いながら軽く平手で私の顔を叩いてから、小野寺の指が下がって私を捕らえた。 
「……あ」 
とまどったような声。 
私は手を伸ばして目の前にある胸に触れた。 
私がこの暖かさと柔らかさを忘れていたように、小野寺も男の熱さと硬さを忘れていたようだった。 
俗世から離れ過ぎていた聖職者のように、私たちはぎこちなく身体を重ねた。 
主人の目を盗んでいるという後ろめたさと、腕の中にある現実の女の体温が私に冷静な判断をできなく 
させたのかもしれない。 
小野寺が私を咥え、私は閉じられた女の秘密をこじ開けた。 
舌でほぐし、湿らせ、中を探る。 
押さえていた太ももが私の頭を挟み込む。 
指先で大きく開いて、吸い上げる。 
「あっ……」 
私の腰の方から、声が上がった。 
小さな豆を見つけて大きく舐め上げる。 
「いっ、あ、……ん」 
声を抑えるように、小野寺が身をよじった。 
指を入れ、中を擦りながら舌を使うと、私のものを放り出した小野寺が逃げようとして壁にぶつかる。 
ふたりでは上下を入れ替えるのにも窮屈な狭いベッドで、私は引き締まった細い足首にもキスをした。 
「……時間、大丈夫ですか」 
目を潤ませた小野寺が頷いた。 
「でも……なるべく、早くちょうだい」 
私は彼女の脚を抱え上げた。 
日当たりのよくない部屋でも、カーテンを引いていない午後のこと、そこは私の眼前に明るく映る。 
「すみません……」 
なぜ謝ったのかは、自分でもわからなかった。 
ただ、黙って侵入するのがはばかられただけかもしれない。 
一、二度失敗してから、小野寺は私を受け入れた。 
「……たっ」 
描かれた眉をしかめる。 
「だめですか」 
女性の最初はかなり辛いらしいとは知っていても、久しぶりは痛いですかとは聞きにくい。 
私の下でひとつ息をついて、小野寺はちょっと笑った。 
「ごめんね。大丈夫だから……、いいように、して」 
吸い付くように巻き込まれる感覚をそのまま少し楽しみたくもあったが、なにせ私たちは仕事をさぼっている。 
予定がなければ自由である小野寺と違い、私など完全に勤務時間中である。 
外出している芝浦が戻ってきたりしたら、目も当てられない。 
一度ゆっくり引き抜く。 
半分ほどで折り返し、根元まで納めてからまた引く。 
上のほうをかき出すように角度を変える。 
「んぁ、あん」 
私の下で腰が動いた。 
同時に、中が絞られる。 
「早く……」 
それが、勤務時間を気にしてのことなのかそうではないのか、私にはわからない。 
思うままに運動すると、小野寺が声を殺して喘いだ。 
「……だ、さん……、ほんと……に、ずっと」 
中からあふれてきた潤滑液が動きを助けてくれる。 
「本当です……。ずっと、忘れていました」 
こんな行為があるということを、忘れかけていた。 
「こんな……なの、に……もったいな、あうっ」 
もう、限界が近い。 
「用意がないので……、外に」 
さすがに言葉が途切れ途切れになる。 
「あ……、まって、あたし……っ」 
長い人工爪が私の腕に食い込んだ。 
「い……くっ……!」 
小さな悲鳴のような声を聞きながら、頭の芯が痛いほどの快楽におぼれて、私は小野寺の上に精を吐いた。 
 
 
 
汗みずくになった私たちは、冷房の風に同時に震え上がった。 
「ことの後に涼むほど若くないわね」 
枕を抱きかかえて、小野寺が目をそらしたまま言った。 
「そっちにユニットバスがあるから……先に使うといい」 
顔を見るのが気恥ずかしいのは私も同じだった。 
「ねえ」 
床に散らばった下着を拾って、小野寺がおずおずと私に言う。 
「冷めたら、やっぱり嫌いだったって思ってる?」 
急激に襲われた性欲のままに行動したことを後悔していると思ったらしい。 
私は手を伸ばせば届く位置にある引き出しからタオルを出して、小野寺に渡してやった。 
「……次があるなら、もう少し広い場所で勤務時間外に、とは思っているが」 
もっと撫でたり舐めたりしたかった、とは言わなかったが、小野寺は今まで見たことないような顔で 
はにかんだ。 
「本気?あたしみたいなのでいいわけ?」 
乱れた髪を気にするように押さえながら、後姿であっても裸身を見られないようにベッドから降りる。 
小野寺の正確な年齢は知らないが、若くないと自分でいうだけの年ではあるはずだ。 
それでも、未婚の肢体は十分瑞々しく、胸も尻も脚も張りがある。 
私はベッドの上で立てた脚に肘をつき、小野寺と同じように乱れた髪を撫で付けた。 
「あなたが、嫌でなければ」 
小野寺はちらっと壁の時計を見上げ、それからユニットバスのドアの向こうへ消えた。 
ひとりになってから、始末をした。 
まさかこんなことがあるとは思わず、なんの準備もなかったことが申し訳なかった。 
旦那さまの引き出しから少しちょろまかしておくべきだった。 
次が本当にあるとしたら、だが。 
手を開くと、腕の中で打ち震えていた小野寺の肌の感触が残っていた。 
私はベッドから降りて床に落ちていたメガネを拾い、シャワーの音を聞きながら新しいシャツや上着を 
クローゼットから出した。 
交代でシャワーを使い、身支度を整えると話題がなくなった。 
じゃあと小野寺が言い、うっかり廊下ですみれさんと鉢合わせて、今までなにをしていたのですかと 
驚かれないように、ドアの隙間から外をうかがった。 
「……どうぞ」 
促すと、するりとドアの隙間から小野寺が廊下に出た。 
そのまま、裏口でサンダルを引っ掛ける。 
「……気をつけて」 
適当な言葉が思い浮かばずにそう言うと、小野寺が目を丸くした。 
「津田さん、あたしが酔っ払ってなくても優しいのね」 
ここで気の利いたことが言えればいいのだが。 
私はそっと背中を丸めて、塗りたてのグロスにキスをした。 
小野寺の指が、私の唇をぬぐった。 
「じゃあ、再校が出たら、また」 
飛び石を踏んで門を出て行く後ろを見送りながら、菜乃香のおやつは午後3時だと伝えておけばよかった、 
と思った。 
 
夕食の準備のために台所に入ると、後を追いかけるようにすみれさんがやってきた。 
小野寺の帰るのがもう少し遅かったら、と思うと冷やりとする。 
主人に対して後ろめたく、私は旦那さまの様子を尋ねた。 
「今まで菜乃香と遊んでらしたんですけど、今はふたりでお昼寝です」 
すみれさんは大きくなり始めたお腹を抱えるようにして、椅子に腰掛ける。 
「私は冷えるのでやめておきますけど……、秀一郎さんがお目覚めになったら、アイスをいただいて 
いいですか」 
相変わらず、すみれさんは私の許可を求めるような言い方をなさる。 
奥さまなのだから、持ってきなさいと言えばいいのに、決して命令口調でものをおっしゃらない。 
それはすみれさんの生まれ持っての性質なのだろう。 
「かしこまりました」 
「菜乃香にも、一口だけあげてもいいでしょうか。秀一郎さんが召し上がっているのに我慢させるのも可哀想」 
そんなことも、一生懸命考えている。 
それから、夕食の支度のことや、明朝のパンのこと、買い物や芝浦の帰宅時間のことなど細々と 
気遣ってから、すみれさんはまじまじと私を見た。 
ふっくらした頬に手を当てて、首をかしげる。 
「まあ、津田さん、なにかおかしいですか」 
自分でも気づかないうちに、笑っていたらしい。 
私はすみれさんの視線を避けるように顔を背けて、メガネのブリッジを指先で押し上げた。 
「……なののアイスには、ウエハースをつけますか」 
そんなご馳走、菜乃香がおおはしゃぎですねとすみれさんが微笑んだ。 
お姫様がお目覚めになるまでに、夕食の下ごしらえを済ませようと、私は食料庫から野菜を運ぶために 
台所を出た。 
 
――――完―――― 

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