人間の医学というのは、日々進歩しているようで、そうでもないらしい。  
例えば、『風邪』。古来から存在するその病気には特効薬が無い。  
完全な治療法が未だに存在しないという。  
『インフルエンザ』は毎年、新型だなんだと話題になり、結局、多くの被害が発生する。  
それでも、まだ予防法がそれなりにあるだけマシなのかも知れない。  
この世には、治療法が見付からないどころか、その存在すらも隠しに隠されている、  
不思議な病気があったりする──ということを、俺は知った。  
 
新婚ホヤホヤの夫婦がひとときを過ごす、休日の昼のダイニングキッチン。  
本来ならば、心浮かれるシチュエーションだというのに、  
テーブルに着いて、妻の後姿を見守る俺の心境は複雑だ。  
料理をしながら、「フン、フフン」と鼻歌を歌うのが癖だった彼女。  
今は、「キューン、キュンキュン」だ。  
 
快活で、いまどき珍しい純真な性格。物事に拘らず、ときどき、そそっかしい。  
子犬のような、という形容がぴったりの菜波(ななみ)は、小柄で痩せ型、  
けれど少し大きめの胸がチャームポイントの、俺の理想の彼女だった。  
学生のときに知り合って、就職すると同時に結婚した。  
どんな服でも似合ったのに──、  
今の彼女は、裸にエプロンひとつという、とんでもない姿だ。  
どうしてこんなことになってしまったのか、悩んでも答えは出ない。  
「零(れい)くん、どうかな? 味を見てみて」  
零二(れいじ)、というのが俺の名前だ。  
お昼から少し豪勢な、手こねの煮込みハンバーグのひと欠けが小皿に盛られ、  
手渡される。  
「うーん、味付けが薄いよ」  
菜波は、首をきゅっと傾げて、言った。  
「やっぱりそうかなあ……。ごめんね、味、よくわかんないの。  
 わたし、犬だから──」  
 
──ある朝、目覚めてすぐに、菜波は尾てい骨のあたりが激しく痛むと言った。  
そしてすぐに熱を出して、全身が焼けるように熱いと訴えた。  
そのまま意識を失った彼女はすぐさま病院に運ばれたが、  
何故だか、医者たちは病名を特定できなかった。  
いくつもの病院をたらい回しにされ、最後に、都内の大学病院で、  
彼女が患った病気の正体が判明したのだ。  
「イヌフルエンザ!?」  
素っ頓狂な声をあげた俺を、医師が制止した。  
「いや、インフルエンザみたいなもの、と言ったんですよ。  
 変異性のある伝染病の一種ということがはっきりしています。  
 ただ──」  
それは、感染経路もよく分かっていない、発症の条件も不明な奇病なのだという。  
心当たりはあった。  
中国に住む、顔も知らない菜波の文通相手。海外ペンパルってやつだな。  
菜波はこう見えて、けっこう頭がいい。  
その人物から親交にと送られてきた「干し肉」を、  
病気にかかる何日か前の菜波に勧められていたのだ。  
遊牧民の食糧で、交易品として売られる場合はかなり高価なものらしかった。  
でも、中国って、あれだろ。ややこしい農薬が輸入食物から検出されたり、  
環境汚染だって酷いと聞く。だから、俺は拒否した。  
菜波にも食べないように言ったのだが。  
「だって、お肉好きだから」  
この彼女の可愛いほどの無防備さが、今となっては恨めしい。  
「たんぱく質はね、わたしみたいなちょっと冷え性にはいいんだよー。  
 お肉を食べると、体がホカホカして温まるんです。  
 えっへん」  
「そういうことじゃなくて──」  
 
きっと、あの肉に何かの病原体が居たんだ。そう、俺は確信していたが、  
それを医師に伝えることはなかった。  
俺は、菜波の病状に呆気に取られていたんだ。  
熱にうなされる彼女の頬から、黒っぽい産毛のようなものが浮き上がっていた。  
鼻の先が黒く変色し、盛り上がっているように見える。  
そう、菜波は──犬になろうとしていた。  
 
「人間の遺伝子の中に猫の遺伝子と同じものがある、  
 という話を聞いたことがあるかね?  
 オカルトじゃあない。遺伝子は、進化の歴史だ。胚から成長するとき、  
 人間はその過程を辿る。その中で……、いや、話せば長くなる。  
 結論を言うと、この病気は人間の遺伝子から犬の資質を呼び覚ますものだ」  
一度発症すると、治療法はないと言われた。  
それは、人間の姿に戻すことはできない、という意味だ。  
かつては、遺伝子が組み変わる途中で、肉体の機能は狂い、精神も冒され、  
罹患した者は、姿を変える前に死ぬのが普通だったらしい。  
狐憑きや狼男といった世界中にある伝説の正体も、この病気だったのかも知れない。  
この病気の専門家という医師の説明に、  
症例が思ったほど珍しいものではないことを知って、俺は驚いた。  
幸いなことに、近年では患者を死なせない方法だけは、見付かっているという。  
それは、ある意味、残酷な選択でもあった。  
生命維持装置と新陳代謝の促進処置により、三ヶ月ほどかけて、  
全身のほとんどの細胞を入れ替える。  
つまり、完全に犬の姿になることが、菜波が助かる唯一の方法──だったのだ。  
 
二ヶ月、俺はぽっかりと胸に穴が開いたような空虚な生活を送っていた。  
だって、一緒に暮らし始めたばかりだったんだぜ?  
治療室のカプセルの中に消えた菜波の姿が目に焼き付いていた。  
全裸にされた彼女は、そのときすでに、全身を細かい毛に覆われており、  
小振りで可愛いお尻からは、尻尾のようなものが飛び出していた。  
信じがたい現実。何度も夢じゃないのかと思った。しかし、事実、菜波はここに居ない。  
やるせなくなって、思わずカップ麺の食べ残しを壁にぶつけたりもした。  
 
そんな折、病院から電話があった。医師から、ではなかった。  
電話口で、キューンキューンという鼻声がする。  
「零くん……」  
間違いない。声が変わっているが、菜波だ。  
「しゃべれるようになったのか?」  
「うん、今だけ。どれだけ人間らしいところが残ってるか、検査してもらったの。  
 この後、また、一ヶ月おやすみだって」  
一ヵ月後に、彼女がこんな風にしゃべれるかどうかは分からない。  
病気の進行具合によっては、人の声帯を維持できないかも知れないのだ。  
「……辛くないか?」  
「うん、わたし、必ず、零くんのとこに戻るから。  
 待ってて──、あっ!」  
「どうした?」  
少し涙ぐんでいた俺は、菜波の次の言葉に呆れる。  
「零くん、わたし、尻尾生えたよ。フカフカして、可愛いの」  
「ああ、知ってる……」  
菜波は、菜波のまま、変わらないなあと思った。俺は全てを前向きに考えることにした。  
ちょっと、見た目が犬になるだけなんだろ?  
若干、不安はあった。  
図鑑を調べてみたが、中国原産の犬というのはどうにも見た目が良くない。  
チャウチャウやチャイニーズシャーペイのような、  
人間の目には不細工な犬だったらどうしようかと思った。  
ただ、それは杞憂だった。  
ひと月後、病院の診察室で再会した菜波は、溜息が漏れるくらい、  
美しく、そして可愛かった。  
原因が中国産の肉ってことはこの病気とまるで関係がなかったらしい。  
すっと細く伸びた鼻面(マズル、というそうだ)。  
耳は先端がお辞儀をしているように可愛く垂れ、  
黒い光沢のある長毛が頭から背中、尻尾の先まで広がり、  
首元の襟巻きのような毛、胸とお腹、足先は白いフカフカした毛に包まれている。  
マズルの下部や頬、足の一部に、タンという褐色のポイントが入った──、  
そう、菜波は、コリーというスコットランドの牧羊犬そっくりの姿をしていた。  
日本では、名犬ラッシーで有名な犬種で、誰でも知っているだろう。  
毛の色はラッシーとは違っているけれど、図鑑にはこんな柄のコリーも載っていた。  
うん、どこからどう見ても、コリーだ。  
「零くんっ!」  
元の声とは随分変わってしまったが、甘えるような響きの加わった、高く響く声で、  
俺の姿を見た菜波が叫んで、飛びついてきた。  
立ち上がると、人間と同じくらいの背丈になるコリーの菜波が、俺の肩に前足をかけ、  
頬を摺り寄せてくる。柔らかいものが、俺の胸に押し付けられた。  
菜波の──おっぱい?  
腹部に乳頭のある本来の犬の姿と違って、菜波の胸には人間のときの乳房が残っていた。  
涙がじわっと出た。  
よく知った菜波のおっぱいの柔らかさ、大きさ、そのまんまだったからだ。  
菜波は、あの手塚治虫の漫画に出てくるような、完全な動物の姿に、  
少しエロチックな胸の膨らみを持った体になっていた。  
ただ、コリー種特有のフカフカの胸毛で乳房は隠せるため、外見上、  
犬とまったく変わりは無い。  
元の姿の面影はない。それでも、体を触れ合わせると、確かに菜波だと分かる。  
俺たちは、時間を忘れてそのまま抱き合っていた。  
 
その後、別室に呼ばれた俺と医師の間でひと悶着があった。  
菜波を研究施設に入れて、好きなときに面会させる、と医師は言ったが、  
俺は菜波と一緒に普通に生活するつもりだったからだ。  
「連れて帰るのには賛成しない。  
 追跡調査で、この病気にかかった女性の大半は、  
 配偶者に暴力を受けていることが判っている」  
「俺がそんなことするように見えますか!」  
医師は俺の迫力にたじろいだが、納得しない様子だった。  
「彼女の場合、知能はそのままなので心配はないと言えばないのだが……」  
彼は、あからさまに、だから余計に心配なのだ、という顔をしていた。  
知能も記憶もそのままであるがゆえに、夫に愛想を尽かされたときにどうなるか、  
医師の言いたいことも分からないではない。  
犬の姿になった患者がどの程度、人間のままで居られるかには、  
かなりの個人差があるらしい。それがまた問題だという。  
虐待を受けるのは、主に人間らしさが残った部分らしい。  
どうせなら完全な犬になってしまえ、という心境になるってことか。  
医師は、乳房や声帯を焼き潰された例や、  
オマンコに鈎針を貫通させ、犬用のリードを結わえて連れ回すといった、  
吐き気のするような行為が現実に行われた、といちいち語って聞かせやがった。  
俺は試されてたんだろう。それを聞いて少しでも躊躇するようであれば、  
菜波を連れて帰ることは、おそらく認められなかった。  
俺の決心は変わらなかった。  
医師は折れ、最後にひとつだけ、と言った。  
「彼女はもう子供を産むことはできない。  
 今の彼女の卵子は人間のものでも犬のものでもないからだ。  
 そのことを決して責めてはいけないよ」  
「……わかりました」  
 
虐待、なんて。  
俺が菜波に対してそんなことをするはずがない。  
ただし、診察室で待っていた菜波に、俺は一つの残酷な処置をしなくてはならなかった。  
「これ……、法律で決まってるらしいから……」  
俺は赤い革製の細い首輪と手元で長さを調節できる散歩用のリードを出して、  
菜波に見せた。  
立場上は、俺の飼い犬ということになる彼女には、  
犬と同様に首輪とリードを付けることが必要となる。  
人間だった彼女に首輪を付ける──、  
見方を変えれば、裸の女性に首輪を付けて引き回すことになるのだが。  
「いいよ、零くん。  
 可愛いの選んでくれたから、わたし、嬉しいよ」  
艶のある赤い牛革の首輪はかなり高級なものだ。少し奮発したのだけど、  
今の菜波の目にそれがどう映っているのかは疑問だ。  
「色、わかんないんだろ」  
「うん、犬だから、わかんないね。  
 でも、完全に白黒の世界じゃないんだよ」  
「物の輪郭とかも人間と違って見えるんだろ」  
「うん、零くんが、かっこよく見える」  
「それは、元からだっての」  
俺はきつく締まらないよう、緩めに、菜波の首に首輪をつけてやった。  
首元の毛にほとんど隠れるようにして、赤い革のラインがちらちらと見える。  
残酷な拘束具ではなく、チャームポイントに見えなくもない。  
これはこれで可愛いじゃないか、と思い、俺は安心した。  
 
車で連れて帰るときにも、ひとつ、関門があった。  
幸いなことに、住んでいるマンションは、いまどき流行りのペット可な物件だったが、  
駐車場からは10分ほど歩かなくてはならない。  
「散歩にも連れて行ってもらいたいし、慣れなきゃね」  
俺の心配をよそに、菜波は自ら進んで車を降りた。  
そして、しばらくしてとんでもないことを言い出した。  
「零くん、おしっこ……、したいの」  
「ええっ?  
 家に帰ってからでいいだろう」  
「零くん、きっと犬のおトイレもペットシーツも買ってないでしょ」  
「そっか、そういうのも要るんだなあ……」  
言いながら、ペットシーツって何だ、と思った。  
俺は首輪とリードしか用意してなかった。  
犬になった菜波とどう暮らすのか、俺はまるで想像できてなかったのだ。  
「零くん──」  
肩に前足をかけるようにして立ち上がり、菜波が耳元に小声で囁いた。  
「あまり犬に話しかけるとおかしく思われるよ」  
変に頑固なところもある彼女だ。  
仕方ない。菜波の言う通りにさせよう。  
菜波は、フンフンと地面の匂いを嗅ぎ、道路の端にしゃがんで、  
尻尾をくるっと上に跳ね上げ、お尻の穴も、オマンコも丸出しにする。  
いや、生殖器と呼ぶのか。人間のものとは形状の違う、あそこ──。  
肌の露出した部分は、色素が集まって黒く見える犬種もいるらしいが、  
彼女の性器は透き通った白い地肌の色にほんのり血の通ったピンク色をしていた。  
これなら、可愛いと言えなくもない。  
ピンクの肉の合わせ目から、ちょろちょろと濃い色の尿が飛び出すのを見て、  
俺は頭が少しクラクラした。  
こんなあられもない格好、人間のときは見せてくれることなどなかった。  
それは当たり前なんだが、人間相手なら興奮してもおかしくない状況を、  
冷静に見守っている自分が怖かった。菜波を犬として見てしまっている自分が、だ。  
「上手くできたかな」  
振り返り、舌を出して首を傾ける菜波は、やたらと、悲しいくらいに可愛かった。  
 
──菜波と再会してひと月が過ぎ、今はこの不思議な生活にも慣れた。  
心配することはなかった。  
菜波、人間の洋式トイレが使えるじゃないか。  
しばらくしてあの医師から、「モニターしてくれ」と送られてきたのは、  
グローブ型のマニピュレータだった。  
犬の手にすっぽり嵌まる、合成樹脂の指が付いたグローブ。  
肉球の微弱な動きに反応して、人間の指と同じように動かせるものだ。  
菜波はすぐ操作に慣れ、二人の食事を以前のように作ると言い出した。  
新婚ホヤホヤの夫婦がひとときを過ごす、休日の昼のダイニングキッチン──  
を、俺は取り戻せたのだろうか?  
 
二本足で立ち上がり、少し前かがみになりながら、器用に台所仕事をこなす菜波。  
相変わらず、キュンキュンと歌いながら、尻尾を上げてゆらゆらと振っている。  
バランスを取るためか、開き気味にした両脚の間に、犬のオマンコがちらちらと見える。  
その情景にも、もうだいぶ慣れっこになり、  
「今日はやけに目立つよなあ」なんて考えていた。  
 
「お昼から、ハンバーグ?」  
「だって、お肉が好きなのー」  
肉食獣の顔でそう言われると、笑えない。  
「お肉を食べると、体がホカホカして温まるんです。  
 わっふん」  
いつだったか聞いた台詞。えっへんが、わっふんになっているのが、  
可笑しく、また、可愛い。  
姿は変わったけど、中身は間違いなく菜波だよな、と思う。  
「タマネギ抜いた?  
 犬はダメなんだろ」  
「大丈夫、牛100%ですっ」  
「それだと硬くならないかなあ」  
「愛情いっぱい入れたから」  
どうぞ、とテーブルにハンバーグの皿が置かれる。  
食べてみると、確かにふかふかの歯ごたえで軟らかかった。  
味もまだちょっと薄いけど、そんなに悪くない。  
しかし、愛情って言うけど、つなぎのパン粉を増やしただけだよなあ。  
愛情って、具体的には何なんだ。  
どういう形で示せばいいものなのだろうか。  
俺以上に、菜波はそのことについて考えていたらしい。  
 
向かいの席に着いて──椅子の上にお座りして、じっと俺を見つめる菜波の前で、  
彼女の分のハンバーグが冷めていく。  
「食べないの?」と問うと、  
いつもなら「わたし、犬舌だから」という答えが返ってくる。  
だが、今日は違った。  
「恋人同士が焼肉を食べると──って話あるよね」  
「えっ?」  
何だっけ? 都市伝説? ホテルに行きたくなるってやつだっけ。  
聞いたことがあるな。肉を食うと、性欲が強くなるからだって。  
たんぱく質は吸収されるときに体温を上げる。  
それは、菜波がよく言ってることと同じ……?  
彼女の意図が掴めず、ただ笑い返した俺に、菜波は  
「お、お肉……。た、た、食べ終わったら……」  
と言って、顔を伏せた。  
戸惑いながら、どうしたんだと聞くと、  
菜波は、キュンキュンと犬の鼻声の混じった叫びをあげる。  
「ねえ、わたし、裸なんだよ。  
 あそこ、見てたでしょ……。  
 零くん、何も思わないの?」  
俺は驚いた。  
犬の姿になって、  
菜波はすっかり羞恥心が無くなってしまったのだと思っていた。  
わざと見せ付けるようにしていたんだ。  
思い返せば、あのとき、外でおしっこをして見せたときも、  
菜波はそういうつもりで──?  
「おうちに戻ってきてから、もう、ひと月も経つんだよ?  
 零くん、一緒に寝てもくれないし……。  
 ねえ、わたしの体、こんな風になっちゃったから、  
 零くんはもう愛してくれないの?」  
「愛してるとも」と反射的に答え、すぐに、菜波の言う「愛する」の意味が、  
セックスのことだと気付いた。  
 
「これを飲むのをやめたらね、  
 わたし、いつでも発情したままになるんだって」  
菜波は、エプロンのポケットに入れていた小瓶を取り出して、見せた。  
そんな薬が処方されてたなんて、知らなかった。  
この病気にかかった者は、ホルモンバランスが著しく崩れるらしい。  
菜波の場合、常にその薬を摂らねば発情してしまうのだ。  
「昔、犬を飼っていたことがあるからよく知ってるの。  
 メス犬が発情すると、何キロもその匂いが漂って、  
 オス犬たちが騒然とする。すごく近所迷惑だよね。  
 零くんは、きっとわたしを避妊手術しなくちゃならなくなる──」  
菜波は、薬の瓶を、テーブルの上にトンと置いた。  
どんどん声の調子が悲壮感を帯びていく。  
「昨日から飲んでないの。  
 あとは零くんが決めて。  
 零くんが飲めって言ったら、わたし、飲むから。  
 零くんが、わたしを──」  
菜波は、しゃくりあげるようにしながら、続けた。  
「犬として飼うのなら、もう言葉は話さない。  
 避妊手術だって受けるよ。  
 だけど、今までと変わらず、いっぱい甘えさせ──」  
俺は菜波に駆け寄り、その口に自分の口を重ね、  
いや、大きく裂けた犬の口が開かないように手で押さえながら、  
その先端に強くキスをした。  
(もう、それ以上言うな。俺、わかったから──)  
菜波の目が潤んでいるように見える。俺が、そういう風に見ているからだ。  
犬の涙腺は悲しみに反応するようにはできてないらしく、  
菜波の目から涙はこぼれていなかった。  
涙を流さず、菜波は、何度も俺の目の前で泣いていたに違いない。  
不安でないはずがない。悲しくないはずがなかったのに。  
俺は気付いてやれなかった。  
やっと分かった。菜波には必要だったんだ。  
菜波が犬ではなく、人間であることを認めてあげる最も確実な方法が。  
 
菜波を椅子から降ろし、フローリングの床に押し倒し、エプロンを剥ぎ取る。  
片手で彼女の頭を抱えながら、もう一方の手で胸の長い毛を掻き分け、乳房を探した。  
柔らかい塊が、指に触れる。荒い呼吸に合わせて波打つそれを、  
ゆっくりと撫で、そして、優しく絞り込むように掴んだ。  
菜波が、クーンと鳴く。  
温かい。  
人間の体温より少し高い犬の体。とても心地いい温かさだ。  
左右の乳房を交互に撫で、舌を近付ける。唇に、細かい、柔らかい毛が触れる。  
乳房を包む産毛が、人間のときの菜波とは違っていたが、  
興奮に少し硬くなり始めた乳首の大きさ、舌触り、以前と変わらないその感触を、  
舌先で転がしながら楽しむ。  
菜波も気持ちいいのか、呼吸をしばらく我慢して、  
堪えきれずにハッハッと三度ほど連続して息を継いで、またじっと我慢を繰り返す。  
「零くん……」  
声の調子で分かる。欲しくなったときの、菜波の合図の声。  
すでに股間を覆うものもない彼女。  
いつもショーツを脱がしていた手がなんとなく寂しくて、  
俺は代わりに、彼女の首輪を外す。  
裸の、生まれたままの姿の菜波が、目の前に居た。  
どうしてもっと早く、こうしてやれなかったのか。  
あの医師の言葉が、俺が菜波に性的な感情を抱くことの妨げになっていたんじゃないか、  
そう思って、責任を転嫁しようとしていたことにハッとする。  
菜波に悲しい思いをさせたのは、俺。俺なのに。  
 
再び、俺は菜波と口を重ねる。  
舌を優しく触れ合わせながら、菜波のあそこを愛撫する、いつものやり方。  
乳房に当てていた手を、お腹の曲線をなぞるように下ろし、  
股間の柔らかい肉の狭間に導く。  
菜波のそこが、今日は特別に目立っていた理由がよく分かる。  
発情した犬の性器がそこにあった。  
熱を帯びたように熱く、ふっくらと盛り上がった肉。  
オスの性器を迎え入れるために、すっかり柔らかくなっていた。  
人間のときの愛液よりずっと濃い液体が、ねっとりと指に絡みつく。  
そして、待ち切れないとでもいうように、お肉の表面がヒクヒクと脈打った。  
「押さえてて」  
俺は菜波に、手招きするポーズのように前足を曲げさせ、  
自分で胸の毛を掻き上げたままにさせた。  
菜波は、犬の「降参ポーズ」で、股を開き、おっぱいとオマンコを露わにして、  
フッフッと荒い息を吐いている。  
乳首が尖って、乳房全体がほんのりと赤くなる。  
可愛いじゃないか。  
 
俺はシャツを脱ぎ捨て、立ち上がるのももどかしく、膝までパンツを下ろす。  
「菜波、見て」  
菜波の今の姿が俺にとってどれだけ魅力的であるか、その証拠を、  
股間に勃ち上がったペニスを見せて、菜波を安心させたかった。  
「零くん……」  
菜波はそれでも、不安そうに口を半開きにして、俺を見る。  
覆い被さり、腰を前に出そうとすると、逃げるというほどでもないが、  
いやいやっと体を揺すった。  
「零くん、怖いよ……。  
 わたしの体……、人間の男のひとでも、気持ちいいかな……」  
同じ不安は、俺にもあった。  
「もしね、わたしの体が、気持ちよくなかったら……、  
 保健所に連れてってもいいから、今日だけはいっぱい愛して──」  
そこまで思い詰めていたのか。  
「何があっても、俺が菜波を手放したりするもんか」  
俺は菜波の胸に自分の胸を押し付け、頭を両手で優しく抱えてやる。  
そうだ。もう離さない。  
「零くん、好きだよ」  
「俺もだ、菜波」  
どんな結果になろうとも、想う気持ちは変わらないことを互いに告げたあと、  
俺は、菜波が待ち焦がれて、大きく開いた後ろ脚の間に腰を割り込ませ、  
ペニスの先端をその潤った部分に押し付ける。  
くちゅっと可愛い音がして、菜波のそこは、俺を受け入れた。  
柔らかい唇のような感触。そして、熱い。  
菜波の犬の性器は、入り口だけが狭く、キュッと締まっていて、抵抗感がある。  
中に入れば、高い体温が心地いいくらいに熱く、ぬるぬると潤った肉が、  
優しく包み込んでくれるような感触になる。  
人間のものに比べると滑らかで摩擦も少なく、締め付けだって弱いけれど、  
断続的に、奥へ誘うように肉壁が波打つ。  
菜波のそこは、一生懸命、愛を伝えようとしていた。  
俺は腰を優しく、次第に激しく、前後に振る。  
人間とのセックスと同じように抱き合いながら、俺と菜波は愛し合っていた。  
「零くん、零くん……」  
何度も俺の名前を呼んでいた菜波の声が、興奮に包まれ、いつしか、  
クーン、クーンという鼻声に変わる。  
目をつむって舌を垂らし、ハァハァと激しく喘ぐ、菜波。  
なんて可愛いんだろう。  
人間のときと変わらず……、いや、今の方がずっと──。  
そう思った瞬間、俺は射精していた。  
 
ゆっくりとペニスを引き抜くときの感触も素敵だった。  
受け入れた液体を少しも漏らさないようにするためか、菜波のそこは、  
俺のペニスを優しく拭うようにしながら、最後にキュッと締まって閉じた。  
「菜波、気持ちよかった……」  
こんな嬉しいことってあるかい。体は違う種族だというのに、こんなにも愛し合える。  
「わたしも、すごく気持ちよかった。  
 零くんが満足してくれて、嬉しい……」  
「何度でもできそうだよ」  
菜波の中の優しい感触を思い出すだけで、  
一度は萎えた股間が、みるみる勃ち上がってくる。  
自分から催促するのは気が引けていたのか、菜波はホッと息をついて、  
「お願い……」と言った。  
犬の交尾は長時間続くものだ、ということを思い出す。  
一回だけじゃ、菜波には少し物足りなかったかもしれない。  
 
二度目は、長く続くように、射精を我慢して菜波を悦ばせようと思った。  
正直、菜波の新しい体の中は、今まで味わったことのない感触の魅力もあるためか、  
あまりにも気持ちよく、擦り続けることが辛いほどだ。  
ときおり、動きを止め、菜波の作る薄味の料理のことなどを考え、  
射精してしまわないよう気を紛らわせながら、何度も奥深くまで突いた。  
菜波は、舌を出して、目を細め、本当に気持ちよさそうな顔をする。  
この顔のためなら、いくらでも頑張れる。  
鋭い牙と肉食の大きく裂けた口を持っているがゆえに、余計に、  
その快楽に喘ぐ姿が可愛く思えるのだ。  
「零くんっ」  
菜波は、叫んで、犬の体になって初めて、イッた。  
俺も同時に、精子をたっぷりと菜波の奥に注ぎ込む。  
いくら出しても、妊娠の心配がないのがたまらない。  
 
三回目になると、もう暴発の心配もなく、射精のタイミングはコントロールできる。  
余裕の出た俺は、繋がったまま、菜波をおっぱいでイカせてやる。  
菜波が好きだったやり方だ。  
硬く勃った乳首を、指先で摘んだり、こね回したりして、菜波を喘がせる。  
人間のものより弱いが、犬にもオーガズムがあるみたいで、  
菜波は何度も足を軽く突っ張って、イッた。  
菜波がイクと、俺の肩に回した前足の肉球がほぅっと熱くなるのが楽しい。  
そしてまた、二人で同時に達した。  
 
行為が終わり、床に尻を着いた俺の股間に、菜波が口を寄せる。  
「ちょっと苦手だったけど、犬なら普通だからね」  
菜波は、尻尾をパタパタと振りながら、熱い舌で俺のペニスを優しく舐め、  
後始末をしてくれる。  
また、感じちゃうじゃないか。  
「零くん、すごいね……」  
四度、勃ち上がる俺の剛直を見て、  
もう終わりにするつもりだったのか、菜波は目を円くする。  
俺はもう一度、菜波を床に押し倒していた。  
 
「菜波、あと一回……。ずっと溜まってたんだ」  
俺は、菜波のオマンコにそっと指を当てた。  
菜波のそこが、キュッと指を包むように動いて答える。  
「いいよ、零くん。  
 でも、四ヶ月、我慢してたの?  
 浮気とかしてなかった?」  
「浮気なんかしてたなら、その牙に噛み裂かれたっていい」  
オナニーくらいはしてたさ、と正直に告げ、二人で思いっきり笑った。  
「これからは、いつでもさせてあげられるね」  
そう言う菜波に、頷きながら、俺は欲望を今は抑えられなかった──。  
 
──翌朝、俺は尾てい骨のあたりに激痛を感じて飛び起きた。  
立ち上がろうとすると、体がグラグラと揺れた。頭も激しく痛い。  
かろうじて電話のある居間まで辿り着いた俺は、愕然とした。  
二ヶ月前にきれいに拭き取ったはずの──、  
壁にぶつけたカップ麺の匂いが鼻を刺したからだ。  
嗅覚が異様に鋭くなっていた。  
 
大学病院に電話をかけた俺は、例の医師になんとか状況を伝えた。  
医師は、言った。  
「こうなるような気はしていたんだ。  
 菜波さんは──、彼女ほどはっきりと元の記憶を残した患者は居なかった。  
 彼女は治療中、ずっと君の名前を呟いていたんだよ」  
心の持ち方が病状に影響するらしい、と医師は言う。  
「強く愛し合っていたんだね」  
「……当たり前だ」  
ポロポロと涙がこぼれる。これが、俺が人間として最後に流す涙だ。  
だが、悲しいんじゃない。嬉しいんだ。  
俺は、菜波と同じ病気になった。  
「しかし、これで感染経路が少なくともひとつ、はっきりしたわけだ」  
性行為による感染。意外なことに、姿の変わり果てた配偶者を相手に、  
セックスを試みたのは、俺が最初だったらしい。  
それは、誇らしいことだ。  
 
また三ヶ月が経ち、俺は犬の姿になっていた。  
どんな種類の犬になるかは分からないとされているこの病気だったが、  
俺は菜波と毛の色は違うものの、同じコリーの体を手に入れた。  
菜波はトライカラー、俺はダークセーブルというらしい。  
この病気の神様の粋な計らいに感謝した。  
いや、病気に神様なんてないか。  
俺の、俺の菜波への想いがこの姿を与えてくれたんだ。  
 
二人は、特別な施設に収容されることになった。  
感染の予防法が見付かるまで(それはおそらく、半永久的なもののような気がした)、  
衣食住……、いや、食と住、そして人間としての文化的な生活が保証される。  
たまに実験台になることを承諾せねばならなかったが、悪い生活ではない。  
 
俺が犬になっても、菜波との愛は何も変わらない。  
変わったのは──、  
彼女の作る薄味の料理が美味しいと思えるようになったことと、  
『交尾結合』ができるようになったことだ。  
 
 俺たち──、犬だから。  
 
 
−犬だから 完−  
 

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