「おかえりなさい、信哉さん。…おつかれさまです」
いつもの金曜日、玄関で夫を出迎える。
「ただいま。…ほら」
促されて、そっと目を閉じる。
「んっ…」
程なくして、右頬、左頬、そして唇の順に柔らかい感触が押し付けられる。
なんだか、すっかり習慣になってしまった見送りと出迎えのキス。
正直、まだ少し恥ずかしさもあるけど。
温かい唇を感じるたび、胸が温かくなって、どきどきするのも事実で…
「皐月? どうした?」
「い、いえっ! 何でもないですっ!」
…少し、意識が飛んでしまったらしい。
ちょっと笑いながらこっちを見ている。何を考えてたのか、分かっちゃったのかな?
うう、恥ずかしいな…
「あのっ!、ご飯とお風呂、どっちにしますか…?」
その場の空気を紛らすように、勢いよく尋ねる。
「そうだな…夕飯にしてもらうか」
「はい… すぐ出来ますから、待っててくださいね」
「わかったよ」
小走りで台所に向かう。その途中、信哉さんがスーツ姿のまま居間の畳に寝転がる。
「あっ、だめですよ… 汚れちゃいます」
「いいだろ…待ってる間だけだから」
「もう…」
寝たまま背伸びする姿は、まるで子供のようだ。
だけど、疲れてるんだろうな。
仕事のことはほとんど話さないけれど、私なんかには想像がつかないほど大変なのだということは分かる。
昨日などは、会社に泊まって帰ってこなかったのだ。
そんなことを考えながら、夕飯の仕上げに取りかかる。
仕上げといっても、もうすべて出来上がっているから盛り付けるだけだ。
2人分の皿に料理を盛り付けていく。
信哉さんの分は、鶏肉の炒め物には胡椒を少し多めに振って、分量も多めに。
これで完成だ。2日ぶりになるから、いつもより腕によりをかけたつもりだけど…喜んでくれるかな?
「信哉さーん、出来ましたよーっ!」
返事がない。もしかしてあのまま寝てしまったのだろうか?
居間まで行ってみると、さっきの格好のままで寝息を立てていた。
もう。これでは本当に子供だ。
「信哉さん、起きて下さい、ご飯ですよ」
そっと揺すってみても、起き上がる気配がない。
んー、どうしようかな…
ふと、ある考えが浮かぶ。
ちょうど頭の隣の位置に正座する。
「失礼しますね…、んしょ」
そして、頭を力を込めて持ち上げると、素早くその間に膝をすべり込ませた。
いわゆる、膝枕という格好。
その状態のまま、顔をのぞき込んでみる。
…やっぱり、かっこいいなあ。
良くは知らないけれど、テレビや雑誌なんかでもてはやされるのは、きっとこんな人なんだろう。
だけど、その人は今、すっかり緊張の緩みきった顔で私の膝の上にいるのだ。
そう考えると、信哉さんを独占している、という気持ちがわき上がる。
「えい」
ためらいがちに頬を突ついてみる。
反応がないので、調子に乗って強くつついたり、更に引っ張ったりもしてみる。
「ふふっ…あははっ」
それでも目を覚まさないのがおかしくなって、つい噴き出してしまった。
…幸せだなあ。
つい前までは、信哉さんとこんな事をしているなんて考えられなかった。
あんな稚拙なやり方ではあったけれど。あの時、一歩を踏み出せて本当に良かった。
夫婦であること、家庭であること。
その大事さを、今こうして実感することが出来る。
私は身をかがめると、耳元でそっと囁いた。
「大好きですよ…信哉さん」
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寝たふりをして、少し悪戯をしようとしたら、いつの間にか膝枕をされていた。
そして、頬を突かれたり、引っ張られたり。
おまけに、大好きです、などと言われてしまった。
…。
今起きたら、やはり驚くのだろう。
顔を真っ赤にしながら、ごめんなさいごめんなさいと謝る姿が目に浮かぶ。
それも見てみたいが、今の状態を解いてしまうのは惜しい。
何とも言えない柔らかで心地よさは、癖になりそうだ。
生まれた時から母を知らない自分だが、その温もりというのはきっとこんな物なのだろうか。
―今度は、自分から頼んで耳掃除でもしてもらうかな。
そんな事を思いながら。もう少しだけ、この感触を味わう事に決めた。