「はい、これ忘れ物」  
「ああ、うん、ありがと……」  
 届けた書類を受け取るなり周りをキョロキョロ気にしながら、  
「あ、もういいから、うん。悪かったな。気を付けて帰れよ」  
と彼は目の前の彼女に告げると、足早にエレベーターへ向かった。  
「……行ってらっしゃい」  
 その背中を見送りながら、半ば追い立てられるような気持ちで広いロビーを後にする。  
 外に出るとさっきまでの緊張感が嘘みたいに引いていき、ほうっと息を付いた。それと同時に  
少しだけ胸の奥から複雑な寂しさとも悲しさとも言い切れないような気持ちがじわじわと  
こみ上げてきて、ちょっとだけ泣きたくなった。  
 用件を告げたときの受付の女性とのやり取りや、周りの視線。それらは皆思い過ごしかも  
しれない。でも自分を見つけた時の肝心の彼の態度――。  
「私、何かまずい事言ったりしたのかな?」  
 数分前とは違い重く沈んでゆく気持ちに、どうしようもなく瞳を伏せる。  
 
 一方彼はこっそりと出て行く彼女をエレベーター前の柱の陰から見ていた。  
「俺って何でこうなのかなぁ……」  
 心配そうに、申し訳なさそうに。  
 立ち去ってゆく彼の妻の姿を。  
 
 
 彼らが結婚するにはちょっと普通でない道程があった。  
 歳は10歳違う。互いに両親や兄弟は亡く2人きり、結婚する前から一緒に暮らしたりもしていた。  
その期間は約7年間、その後彼の転職により1年間の遠距離恋愛を経て先月結婚したばかり。  
 ……とまあここまでならそれ程変わった経緯ではないと思える。が、この2人の場合夫の  
八神伊知朗(やがみいちろう)が28歳、妻の香子(かこ)は高校を卒業したばかりの18歳。  
……つまり10歳から同居していた事になる。  
 
 それには少し複雑な事情があるのだ。  
 香子の母親が事故死し、身よりの居ない彼女を伊知朗が引き取った。しばらくは彼の母親と  
3人で暮らしていたが、香子が14歳の時にその母も病死してしまい、それからは2人はまるで  
兄妹のように暮らし、彼は彼女の保護者のつもりで育ててきたのだ。邪な気持ちは無かった。  
 
 だが、いつの間にか気が付けば惹かれ合い、様々な葛藤の末2人は結ばれる道を選んだのだった。  
 
 
* * *  
 
 時計は今8時半を回った。  
『今日は会社の人と飲んで帰るから、ご飯はいらない』  
 そう聞いてはいたものの、お酒はあまり飲めない彼の事だ。食事も飲み屋ではまともに  
取れないだろうと思い、夜食を用意しようとキッチンに立った時だった。  
 
 ピンポーン。  
 
 玄関のチャイムが鳴ると同時に相手が1人ではない気配を感じ、そっと恐る恐るドアスコープ  
を覗いた。普段は気にしてないが、こういう時はせめてインターホン位ある様なもう少し新しい  
マンションに住みたかったと思う。  
 覗いてみて慌ててドアを開けた。  
「あ、あの。こちら八神さんのお宅です……よね?」  
「はい、あの?」  
「すみません。何だか無理に飲ませてしまったみたいで、危ないのでお連れしました。私方向が  
 同じだったので……」  
「そうなんですか?すみません!」  
 見ると女性に腕を支えられるようにして顔を赤くしている伊知朗がいた。慌てて腕を掴み  
玄関へと引っ張り込むと、当人はへらへら笑いながら  
「島田さん〜ありがと〜」  
などと座り込んでいる。  
「じゃあ私これで」  
「あ、せめてお茶でも……」  
「いえタクシー待たせてますから。……あの、奥様ですよね?」  
「はい。あ、えっといつもしゅ、主人がお世話になってます」  
「いえこちらこそ。それじゃ失礼します」  
 そう言うと彼女は頭を下げて背を向けた。エレベーターまで向かうのを見送りながら、香子の  
気持ちがまた沈んでゆく。  
 背を向ける際、彼女が少しだけ、ほんの少しだけたが――  
 
クスッと笑ったような気がしたのだ。  
 
 ドアを閉めると玄関先には彼の姿はなく、脱ぎ散らかした靴が左右に離れて転がっており、  
当の本人はダイニングテーブルの椅子に腰掛けてグッタリとしていた。  
「もう。弱いくせに何でそんななるまで飲むのよ!」  
「えー、だってさぁ、俺が肴なんだから仕方なくてさー、ってか飲まなきゃ居らんないって  
 いうかさー」  
「わけわかんないし」  
 足元に落ちている上着を拾いながら香子は呆れて溜め息をつく。酔うと子供みたいだと  
いつも思う。口を尖らせたりして……本当にこれが29歳になろうという大人の男か?  
 
「あんまり食べずに飲むと悪酔いするんでしょ。何か食べたの?今から軽く何かつく……きゃっ!!」  
 側に寄って話しかけるといきなり腕を掴まれ抱きつかれた。手にしていた上着が足下に落ちる。  
「なに?……ちょっと汚れちゃうよ。掛けないと」  
「んー。いいから、おいで」  
 背中に回していた手と胸元に押し付けていた顔を離すと、彼は香子を背中から抱き締める  
ようにして膝に座らせた。  
「香子ぉー、俺の事好きか?」  
「いきなり何よ。……す、好きだよ」  
「そっか、嬉しいな。俺もだ」  
「どうし……んっ!? 」  
 振り向こうとしてぐい、と顔を寄せられキスされ言葉を失った。  
「やっ、お酒臭……んんんっ」  
 驚いて離した唇を彼によってまた塞がれ、今度は強引に開かされ舌を押し込まれ抗議の声は  
かき消された。  
 じたばたともがく香子の膝を強引に自らの脚を間に入れて閉じさせないようにすると、彼は  
今度はブラウスを引き上げ裾から手を差し込み胸元を弄った。  
 ようやく解放された唇から息をつくと、  
「だめだよ、もうっ」  
と服の上からごそごそと動く彼の手を抑えて止めた。  
「なんで?」  
「酔ってる」  
「そんなのいいじゃん別に」  
「それに私もお風呂まだだし」  
「そんなの構わないってばー」  
 捩ろうとする躯を力を込めて抱き締めると、香子の腕を掴んで首筋に吸い付く。  
「あ、ちょっとダメ!」  
 すーっと舌を這わせると肩をすくめて腕の力がふと緩んだ。それを見計らってボタンを2つ、  
3つ外すと覗かせるブラのカップに指を忍ばせた。  
 左手で抱き締めながら右手で左胸の先を弄ぶと、堅くなった先端に触れる動きに伴って躰を  
ぴくりと震わせる。その漏らす声にたまらずに耳朶に口づけながら  
「お前やっぱり可愛いな……」  
とクス、と小さく笑った。  
 その瞬間、香子の脳裏にさっきの島田という女性の帰り際の姿が思い出された。  
 
「……いや」  
「え?」  
 途端に昇り始めた熱がすうっと引き始めてゆくのを感じ、香子は彼の手に自分の手を重ねた。  
「やめて。やっぱり今はヤだ」  
「何でだよ?俺今日1日香子の顔見たくて帰るのが楽しみだったんだぞ。本当は飲みになんか  
 行く気無かったのに」  
「……でも嫌なの」  
 それでも動きを止めようとしない指を抑えようとする香子の手の力に、彼の表情が固まった。  
「……俺が嫌なのか?」  
 俯き瞳を逸らしたまま黙り込む首筋にきつく吸い付くと、右手でいきなりスカートを捲り上げ  
下着に手をねじ込んだ。  
「やっ!?……いやっ!!」  
 またもや閉じようとする脚を自らの膝で抑え、やや強引に指を動かし探る。  
「香子……っ」  
「嫌!いた、痛いっ。やめてってば……イチ君!!」  
 ――本当に嫌なのか。  
 伊知朗はその反応通り潤いを示さない躰からゆっくり力無く手を引いた。  
「どうしたんだよー。飲んで帰ったりしたから怒ってんのか?……それともやっぱり俺が  
 嫌なのかよ」  
「そんなんじゃない!」  
「じゃあ何だよ。……香」  
 無言でボタンを留めスカートを直す彼女から脚を動かして体勢を整え、膝を閉じたのを見て  
再び背中から抱え込むように抱き締める。  
「俺お前の事好きなんだぞー。マジだぞー」  
 ふにゃふにゃとまだ酔いの残る口調で体を軽く揺すりながら言う伊知朗に、香子は静かに切り返す。  
「本当に?」  
「当たり前だろーが」  
「……ほんっとは、後悔してたりして。責任取るしかなかったとか、さ」  
「何だよそれ」  
 ゆらゆらと揺れていた体がぴたっと止まり、彼の声が静かに堅く強張った。  
「何言い出すんだよ。お前俺の事信じらんないの?」  
「だって」  
「だってじゃな」  
「だって!じゃあ何で今日あんなに冷たかったの?私の事見られんのそんなに恥ずかしい!?」  
 
 コソコソと周りを気にしながらの彼の態度――それと先程のあの女性の仕草が彼女を傷つけたのだ。  
 
「それともイチ君に恥かかせるような真似したの?……だったらビルの外にしたら良かったね」  
「いや、そんな事ない」  
「その割に人目凄く気にしてたじゃん」  
「あれは、同じ部署の人間に見られたらさ……」  
 言いかけてはっと言葉を飲み込んだ。香子の顔は同時にどんどん曇っていく。  
「違うんだって香……」  
「嫌!」  
 振り向かせようとした腕を払って強引に立ち上がろうとして床に尻餅を着いた。それを抱き  
起こそうとした伊知朗の手をまた振り払うと泣きながら自分で立ち上がった。  
「何よ、結局私の事恥ずかしいんでしょ?子供に手を出して責任取らされたみたいで、みっとも  
 ないって思ってるんでしょ!?……本当なら違うもんね。やっぱり後悔してるんでしょ?  
 本来ならこうはならなかった筈だもんね、私達」  
 まくし立てるとそのまま涙をぼろぼろと零しながら子供のように泣きじゃくる彼女に、伊知朗は  
また手をはねのけられ立ち尽くすしかできなかった。  
「私何のために我慢して1年間離れて暮らしたの?何のためにここまで来たの?ここでも  
 人の目を気にしなきゃいけないの?私達何も悪い事してないじゃない!」  
「いや、そうじゃないんだよ」  
「じゃあ何!?」  
「えっと、な……あーやっぱり話したくないなぁ」  
「ほら、言えないんだ?私の事やっぱり恥ずかしいんだ」  
「だから違うって」  
「もういい!」  
 香子はテーブルの上にあったバッグを引ったくるように取ると玄関に向かった。  
「どこ行くんだ、おいっ!?」  
「離してよ、お酒臭い!酔っ払いは嫌いっ!!」  
「待てって。俺香子と結婚したの恥ずかしいなんて思うわけないだろーが」  
「でもね、笑ったんだよさっきの人。私を見て、クスッて笑った」  
 涙を一杯溜めた瞳でじっと睨むと  
「……こんなじゃ結局幸せになんてなれない。イチ君と本当の家族になんかなれないよ、私」  
そう言い捨てて飛び出していってしまった。  
「香子……」  
 酔って回らない頭を抱えながら、玄関に残された彼は小さく呻きながらその場に呆然としゃがみ込んだ。  
 
 1年前の香子が高2の冬に、2人は一線を超えた。互いに家族以上の愛情を持っていたにも  
関わらず、伊知朗は彼女の未来や世間体に悩んで離れる決意をし、大学時代からの友人の早川が  
地元への転勤を機に結婚し帰郷するのに従って彼の会社へうまい具合に引き抜かれ、一緒に  
移り住んできたのだ。香子を幼なじみの家に預けて。  
 しかし彼女はそれでも伊知朗を諦めはしなかったのだ。それは彼も同じで、結局香子の卒業を  
待って呼び寄せ入籍し、正式に家庭を持ったのだ。  
 
 伊知朗はリビングの隅にある自分と香子の母親の写真の前に座り、彼女の亡き母に語り掛けた。  
「きょう子さ……いや、お義母さん。僕はやっぱり香子を傷つけてばかりいます」  
 20歳で出逢った時、大学生の自分が何故香子を育てようと思ったのか。それは元々香子の  
母親である15歳上のきょう子と結婚するつもりでいたからだった。香子もきょう子と同様に  
大事にすると約束したからなのだ。  
 自分はいつの間にか香子を愛してしまった事を後悔した事は1度だってない。だが、香子は  
どうだろうか?本当は娘になる筈だった女の子が妹のような存在になり、やがて気付けば  
掛け替えの無い相手になっていた。  
「幸せにするって約束したのに……。ごめんなさい。僕はまた香子を泣かせました」  
 
 どうして自分はこうも気が小さいんだろうか。香子の言うとおり、恥ずかしい事なんて何も  
あるわけではないというのに。  
 ――幸せになるためにこの道を選んだのに。  
 
 
* * *  
 
 香子は行く宛もなく、適当に歩いてコンビニに入るととりあえず飲み物を買って椅子に座った。  
「どうしよう……」  
 まだ地理に詳しくない上に暗いと全く周りが解らない。携帯も忘れて来てしまっていた。  
知り合いもろくに居らず、どうしたものかと途方に暮れていた。  
 下手をすればついこの前まで高校生だった自分は補導されるのではとも思ったが、会社へ行く為  
普段より大人っぽくきちんとしたつもりの服装でいたのでその心配も無さそうだ。  
 現にさっきから大学生位の男が2人、側に寄ってきていた。  
 
「ねえ、大学生?俺らもなんだけど、良かったら飲みに行かない?」  
「え……あ、あの私忙しいんで。ごめんなさい」  
「え〜、さっきからずっと1人じゃない、行こうよ。ね?」  
 1人が肩に手を掛けてくる。  
「やめてってば」  
「何だよいいじゃん」  
 逃げようにも反対側にはもう1人いるため立ち上がる事さえ躊躇われた。――怖い。  
「ぐだぐだ言わないで来いよ。暇なんだろ?」  
 手を握られて引っ張られる。  
「嫌です。私、し、主人が来ますからっ!」  
「は?何言って……」  
 その時だった。  
「こんな所で何してる?」  
 男共の後ろから聞き慣れた声が聞こえた。  
 
 
* * *  
 
「こんな事してる場合じゃないよ……」  
 何をしてるんだ俺は。一刻も早く香子を探さないと!  
 伊知朗はすっかり酔いの醒めてしまった頭で考えた。  
 彼女の行きそうな場所が思い当たらないのだ。無理もない。住み慣れた土地からここへ移り  
住んできたばかりで、まだ友達だっていない。地元人の早川のお陰で何とか知り合いのいる  
自分とは違うのだ。  
 自分達の事情を良く知らない者からしたら、兄が妹に手を付けたように思われる。そう考えて  
自分は香子を諦めようと気持ちを押し殺して来たのだ。たが、新しい場所なら誰にもあれこれ  
言われないで暮らせるかもと、彼女は決意して一緒になってくれると言ったのだ。  
 そんな彼女が頼れるのは今の所自分だけだという事に何故早く気が付いてあげられなかったのか。  
伊知朗は自分を責めた。  
 とにかく辺りを探そうと部屋を出ようとしてチャイムが鳴った。急いでドアを開けると友人の  
早川が後ろに香子を連れて立っていた。  
「……あ」  
「あ、じゃねえよ!うちの近所のコンビニに行ったらタチの悪そうなのにナンパされてたぞ。  
 ……間に合って良かったよ」  
「送ってくれたのか?すまん、早川」  
 ああ、と無愛想に背後の彼女を示す。  
「……怖かった」  
 半泣きで小さく呟く香子を見て、伊知朗は胸が痛んだ。  
 
「お前な、何のためにこんな所転職してまで来たんだ?小せえ事、考えねえでもっと堂々としろ」  
「……ああ、すまん」  
「後は、こいつから聞いとけ。俺から話したって意味ねえし。……じゃこれで帰るから」  
 早川は香子にそう告げると「もしもし、マナ……今から帰る」と妻への電話を掛け始めた。  
「ありがとな、早川」  
 伊知朗のその声に香子も一緒に頭を下げる。軽く振り向きながら手を上げて無言で彼は  
帰って行った。  
「相変わらず無愛想だなぁ……あの人」  
 でも良い人だ、と見送りながら香子は思った。  
 
 部屋に入ると暖かいコーヒーを入れて香子に飲ませ、落ち着いた所で伊知朗は彼女をそっと  
抱き締めた。  
「ごめんな、香子……」  
 離さないから、だから本当に家族になろう。そう言って一緒になって貰ったのに。絶対に  
守る、幸せになろうって決心したのに――。  
「俺、本当に香子を嫁さんにした事、後悔したり恥ずかしく思った事ないからな」  
 じっと何か言いたげな瞳をする香子を見て、思い切って息を吸い込み、ふうーと深く吐くと  
「絶対、笑うなよ。……話すからさ」  
と耳元に唇を寄せた。  
「……あのさ、俺お前の事10歳から7年間育ててきただろ?まあ、途中までは俺の母さんも  
 一緒だったけどな。で、結婚したわけじゃん。つまり俺は元々はそんなつもりは無かったとは  
 いえ嫁さんを育て上げたわけだよ」  
「うん、まあ、そうなるのかな?」  
 理屈ではそうなる。  
「それが今日のイチ君とどう結びつくわけ?」  
 香子の言葉に彼はぐっと喉を詰まらせ、見る見るうちに顔を朱くしてゆく。まるでもう一度  
酔っ払ってしまったのかのようだ。  
「絶対笑うなよ」  
「うん」  
「……だから女子社員の間では俺のあだ名が‘光源氏’なんだそうだ。マジで」  
 
 笑わないと言う約束は、あっさりと破られる事となってしまった。  
 
* * *  
 
 入浴して2人はやっと布団にくるまった。伊知郎が気合いを入れて選んで買ってきたWサイズ  
の布団にくっついて寝転がると、背の高い伊知朗に抱き締められた香子はすっぽりと体を  
覆われてしまう。  
「風邪引くから早く寝なさい。明日は休みなんだから、寝坊したっていいから」  
 頭と背中をぽんぽんと軽く叩くと、お休みと言って目を閉じる。その顔に自らの顔を近づけると、  
香子は彼のおでこに自分のおでこをゴツンとぶつけた。  
「あ痛っ!!何だよ、頭突きっておま」  
「ねえ、イチ君は私の何?」  
「え?旦那」  
「そうだよね。でも何か未だに私の事子供扱いしてない?もう保護者じゃないんだからね」  
「え、そうか?ごめん」  
 そんなつもりじゃないんだけどな、と再度香子を抱き締める。  
「苦しいよ」  
「愛情表現だ。我慢しろ」  
 そう言いつつも、柔らかい感触と甘いシャンプーの香りに少しずつ理性が侵されていく。  
 文字通り目と鼻の先にある唇に本能的に引き寄せられ、軽く触れる。が、一度味わった甘美な  
柔らかさと愛おしさは簡単に自分を解放してはくれない。いつの間にか狂った様に舌がその口内を  
探り、蹂躙し弄び味わい尽くそうとする。  
「……んはあっ」  
 散々絡み合ってようやく離れた唇から滴る糸もそのままに、首筋に舌を這わせながらパジャマ  
のボタンを外しに掛かる。  
 
 ――が、その指はいきなりピタッと動きを止めた。  
 
「……イチ君?」  
 突然の停止に戸惑って香子が閉じていた瞳をゆっくり開けると、迷いを浮かべて俯く彼がいた。  
「調子に乗りすぎたなーと思って、さっき」  
 酔った勢いとは言え普段ならあんなやり方は多分要求出来なかっただろうな。しかもその時の  
彼女の気持ちが揺らいでいたからとはいえ拒絶されてしまったのだから、ここでまたさっさと  
事を進めてしまうのにはかなりの勇気を要する。  
「(また嫌だって言われたら……)」  
 伊知朗はそういう男なのだ。   
 
 もたもたと悩んでいるうちに、ボタンを摘んだままの手を握ると香子自ら彼の手を胸元にそっと  
導いた。  
「私が欲しかったんでしょ?イチ君」  
「え……」  
「さっきのは何かお酒のせいでちょっと怖かったけど、今度は嫌がったりしないよ?」  
 押し当てられた胸の温もりにそっと力を込めてみると、恥ずかしそうに顔を赤らめ瞳を逸らす。  
 こういう時素面じゃ強引に事を運べない自分はやはりヘタレ男なのだろうか?自分から誘う  
なんて香子にはかなりの勇気がいる行動だと思う。伊知朗はやっと思い切って香子の手を解くと、  
ボタンを外す続きにかかった。  
「寝らんないぞ?」  
「明日は寝坊したっていいんでしょ?」  
 顔を見合わせて笑うと軽く長いキスをして、互いのものを全部脱がせぎゅっと抱き締め合う。  
「香子。俺の事好きか?」  
「イチ君が好きだよ。……ヘタレだけどね」  
「何を!くそっ、そんな口黙らせてやる」  
 きゃあと顔を背けて笑いながらあげる声は、いつの間にか首筋や胸元に浴びせられるキスに  
甘く漏れる吐息に変わっていく。  
 香子の胸はあまり大きい方ではない。仰向けになると余計にぺたんとなる膨らみを両方の掌で  
寄せ上げると、そこに顔を埋めてしばらくすべすべとした感触を味わってから、ゆっくりと  
左右それぞれの先端を口に含み、片方を指で弄びながら反応を楽しむ。  
「んっ……あ」  
 舌と指の動きに合わせて体を震わせながら我慢しきれず押さえた口元から零す声の艶やかさに、  
伊知朗の体にも時折電気が走るような錯覚を覚える。現に声だけでイけるんではと思える程  
自身は既に高ぶっていた。  
「ちょっと、そこやだってば」  
 香子が抗議の声を上げる。彼女のお腹を撫でながら時々むにっと摘んだりキスしたりするのが  
好きなのだ。だがお腹が出てる、とちょっと幼な目の体型を気にしている様なので伊知朗は  
よく怒られる。  
「いいじゃん。俺お前のカラダ好きなんだよー」  
「へんたいっ」  
 ひでぇ、とお腹に顔を埋めながら  
「傷つくなあ〜」  
と呟いた。  
 しばらく香子は放っておいたが一向に顔を上げないので、不安になって声を掛けた。  
 
「イチ君」  
「……」  
「イチ君てば」  
「……」  
「怒ったの?」  
 返事をしない彼に急に不安を覚えた。  
「ごめん、そんな本気で言ったんじゃないよ」  
「……」  
「ごめんってば……どうしたら許してくれるの……?」  
 反応の無さに段々泣きたくなって小声で許しを請うと、ようやく伊知朗が顔を上げて香子を  
見た。自分の胸越しに見下ろす形になって、なんだか恥ずかしいと思いながらも少し安心する。  
「じゃあさ、俺の言うこと聞いてくれる?」  
「え、うん」  
 さっきとは違う意味で不安を覚えたものの、これで空気が変わるなら、と承知する。  
「だったら……香子のここでして」  
「えっ!?」  
 指で香子の唇をなぞるともう片方の手で自らのモノへ彼女の手をあてがう。  
「無理にとは言わないけど……して欲しいな」  
「……わかった」  
 初めてするのだ、そんなこと。  
 彼が仰向けになるのを待って脚の間に体を屈めると、恐る恐る唇を近づける。  
 とりあえずそっと舌を這わせてみると、石鹸の香りと一緒に独特の匂いがする。嫌ではないけど  
男の秘密を1つ知ったようで何だかドキドキする。  
「あんまり見られると恥ずかしいんだけど」  
「だって見なきゃ出来ない……ていうかそっちこそ見ないで!」  
 はいはい、と目をつぶる。それを確認すると更に先を舐め始めてみる、と少しずつ何かが  
滲み出てきて口の中に流れ込んできた。  
「(あ、何か変な味。でもこれって……男の人も濡れるんだ)」  
 先程から小さく呻く声が聞こえてくるのは、多分感じてくれてるのかも。そう思うとちょっと  
うれしくなって、香子は思い切ってそれをくわえてみた。  
「……あっ!」  
 長い脚がぴくんと跳ねた。それに何故かたまらなく感じてきて夢中で口を動かす。  
 こそっと彼が薄目で覗き見するのにも気付かないくらいに。  
「ありがとう、もういいよ。最後はお前でイキたい……」  
 手を伸ばして髪をそっと撫でると、嬉しそうに目を細めた。  
 
 伊知朗は枕元の引き出しからゴムを取り出し、香子の躰を横たえた。親友の早川が子供がいる  
ので日頃羨ましいと思う時もあるが、まだ自分達には早いと考え今の所はお預けにしている。  
 汗で張り付いた髪の毛にもかまわず首筋に口づけると、ゆっくり胸を弄びつつ脚の付け根に  
指を這わせていく。  
「今度は、お前の番な」  
 再び始めた愛撫であの時ほど比べ物にならない位濡れそぼった指を感じて  
「(やっぱりあんな風にしたら駄目だよな……)」  
女の子というのは自分が思っているより繊細なのかもしれない、と愛おしい存在に申し訳無く思う。  
「あっ……ああ、んっ……」  
 気持ちいい?なんてつい野暮な事を聞きそうになるのを堪えながら  
「もっと声出していいよ」  
とわざと音を立てるようにくちゅくちゅと指をかき回すと、  
「あんっ……やだぁっ」  
と目一杯力を込めた腕で彼にしがみついて震えだす。  
「もうそろそろ我慢の限界。挿れていい?」  
「……ん、いいよ……来て」  
 一息ついて準備を済ませてそれをあてがうと、待ちわびたようにすんなりと彼女は受け入れた。  
「あ……だめ、だめぇ。いや、あ……イイ、イイよぉ」  
「香子、俺もだよ。お前だけだから」  
「ん、うん、私……もっ」  
 ゆっくりと出し入れするも堪えられなくなり、早くそこまで行き着きたいと勝手に動きが  
激しくなっていく。  
 突く度にのけぞり喘ぐ彼女の躰をしっかり抱えると抱き起こし、膝に乗せて向かい合った体勢で  
下からまた強く突き上げる。  
「あああっ!!イチ……君、やっ、すご……」  
「可愛いよ、香子。好きだよ、やっぱり……」  
   
 ――お前は俺の一番大事なものだよ……。  
 
 最後にぽつりと呟いて、強く抱き締めた彼女の躰を感じながら想いの総てを押し出した。  
 
「幸せだよ、俺」  
「私もだよ」  
 互いの汗ばんだ躰を撫でながら、そっと優しいキスを交わした。  
 
* * *  
 
 月曜日の夕方、また香子は会社のロビーにいた。  
「本当に変じゃないかな?」  
 昨日伊知朗と一緒に買ったオフホワイトのワンピ。珍しく普段あまりしない外食をしようと  
メールが来たのだ。会社の近くにいい店があるから、と。ここに呼んだのも彼なりに開き直ったのだろう。が、やはり  
周りの視線は意識してしまう。とそこへ  
「八神さんの奥さん?あーやっぱり。先日はどうも」  
「あ……いえ、こちらこそ」  
やってきたのはあの島田という女性だった。  
 彼女はまた香子を見るとクスッと笑ったのだ。それに気付いて沈んだ顔をしてしまったのか、  
「あ、ごめんなさい。気を悪くさせて……だってあんまり可愛いからー」  
と言い出した。  
「この前もごめんなさい。ああやって新婚の男性社員を肴にする飲み会ってよくやるんですよ。  
 八神さんの奥さんて若いって聞いてたからみんな羨ましがってついからかっちゃって、  
 そしたら――」  
 いきなり彼女は思い出し笑いを始めてしまった。  
「俺が育てて惚れたんだから理想の嫁で当たり前です!って言ってのけたんで、みんな呆気に  
 とられちゃって。会社に来た奥さんをみんなが見たがってたのも慌てて『あいつは見せ物  
 じゃないです』って、普段物静かな八神さんが豹変するんで驚きました。凄く大事にしてる  
 んだなって、お会いした時『あー箱入りの奥さんだ』と思ったらあんまり初々しくて可愛かった  
 んでつい……ごめんなさいね」  
 彼女の薬指にもよく見ると指輪があった。  
「私も新婚で、八神さんと同い年なんです」  
 どうぞよろしく、と頭を下げて去っていった。  
 
「お待たせ、悪い、帰り際に電話が……ん?どうした」  
 伊知朗が息を切らせて駆けていくと、真っ赤な顔で瞳に涙を溜めた香子が待っていた。  
「何でもないの」  
 ちょっと遠慮気味に彼の袖口を摘む。  
「行こ。……幸せだよ、私」  
「……ん」  
 照れたように2、3咳払いをすると香子の手を取ってビルを出る。  
 
 途中冷やかす同僚の姿に出会ったが、堂々と胸を張って夜の街へ歩き出していった。  
 
* *終わり* *  
 
 

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