三柳志郎は自宅のドアを前にして大きなため息をついた。  
きっといつも通り、風呂はいい具合に沸いていて、食事の準備も完璧だろう。  
そして、玄関を開けると言われるのだ。  
『お帰りなさい。今日もお仕事お疲れ様でした。  
 お風呂とお食事、どちらを先になさいます?』  
と。  
絵に描いたようないい奥さんじゃないか。  
少しお嬢様気質だけど性格に問題はないし、少しぽっちゃり系だけど顔だって十分にかわいい。  
志郎は自分に言い聞かせた。  
湯加減は完璧。  
嫁入り修行をしたというだけあって、料理だって完璧だ。  
母親の味と違うのは、まあ仕方がない。  
きっとお互いの妥協点を見つけるうちに、我が家の味が出来上がっていくのだ。  
「……っはああぁぁ」  
いつも通り、インターフォンを押す前にいい方向に思考を持って行こうとしたけれど、  
志郎はそれが素敵な生活だとは思えず、またため息をついてしまった。  
 
志郎が三柳家に婿に入ったのは一月前。  
盛大な式を挙げ、新婚旅行はオーストラリア。  
新居は都内の高級マンションで一部屋一部屋が異常に広い4LDK。  
二人しか人間がいないというのに、無駄に広いおかげで新婚早々、家庭内別居状態となっている。  
妻である琴音が食事を作ってくれるから、食事だけは一緒にするけれど、  
違う部屋で違うテレビ番組を見て、違う音楽を聴き、違うベッドを使う。  
見合い結婚だから、友人たちの惚気話で聞くような新婚生活になるとは思っていなかったけれど、  
ここまで極端なことになるとも思っていなかった。  
もっとも、現在の状況になる原因は志郎にあるのだが、自覚があるだけに日が経てば経つほど  
志郎は琴音の顔をまともに見られなくなってきていた。  
しかし、この寒い夜風が吹く中、いつまでも玄関のドアとにらめっこをしている訳にもいかない。  
志郎は重い右手を持ち上げて、のろのろとインターフォンを押した。  
 
ピーンポーンというありきたりな音がして、しばらく待ったが琴音が出てこない。  
いつもはインターフォン越しに志郎が帰ってきたことを確認してから玄関のチェーンを外しに来る。  
もう一度押してみたが返事がない。  
この一ヶ月こんなことはなかった。  
もしかしたら、買い物に行ったのかもしれない。  
携帯で一言断りの連絡が欲しいと思ったけれど、そんなメールをするほど仲の良い夫婦ではないなと、  
志郎はすぐに苦笑した。  
念の為、もう一度インターフォンを押してみたがやはり返事はない。  
どこに行ったのかと考える前に、琴音と顔を合わせずに家の中でくつろげると思ってしまった自分の  
薄情さに呆れながら二か所ある鍵穴に鍵を差し込んだ。  
ポケットに鍵を戻してドアノブを廻し、手前に引いた瞬間、ガッ、と扉が引っかかった。  
何事かと思ってドアを見ると、ドアの向こうにはチェーンが見えている。  
ということは琴音は家に居るということになる。  
だったらなぜ出てこないのだ。  
志郎は一旦ドアを閉めて、インターフォンを押した。  
しかし、中からは何の返答も返ってこない。  
さすがにむっとして、インターフォンを連打するとプッと中で応答した音が聞こえた。  
それでも琴音は何も言わない。  
志郎は苛立ちを極力抑えて、  
「琴音さん。志郎です。帰りました。  
 チェーンを外していただけませんか?」  
と言った。  
が、返答はない。  
さらにしばらく待ってみたが、玄関に琴音が寄ってくる足音もしない。  
 
まさか強盗でも入ったのか?  
そう思った瞬間、志郎の背中に冷たい汗が浮いた。  
ドアを開けて、出来る限り手前に引っ張る。  
「おい!誰か居るんだろ!?  
 誰だおまえ!警察呼ぶぞ!」  
ドアの隙間に口を当てて怒鳴ると、中でどこかの部屋のドアが開く音が聞こえた。  
万が一犯人が刃物でも持っていたらと警戒して、ノブを握ったままドアに身体をくっつけて顔だけで  
中を覗き込むと、見覚えのある洋服が視界に入ってきた。  
「……琴音さん?」  
ここまで来ても返事はない。  
が、確実に相手は琴音だ。  
ほっとしたと同時に身体に体温が戻ってきたのが分かる。  
強盗が入ったかもと警戒したのはほんの一、二分間だったというのに、身体中が冷や汗でベタベタだ。  
「琴音さん……開けていただけませんか?」  
「嫌です」  
ようやく聞いた妻の声はやけにはっきりした拒絶の言葉だった。  
「……は?」  
「申し訳ありませんが、貴方にうちに上がっていただく気はありません。  
 御実家にお帰り下さい。  
 荷物は後日こちらから送らせていただきます。  
 私の印鑑を押した離婚届も一緒に送付しますから、役所には志郎さんが提出して下さい。  
 もちろん、そのせいで志郎さんが仕事上不利益を被るようなことにはならないよう、  
 万全を期しますので、ご心配なさらないで下さい。  
 もちろん、お義父さまの会社にご迷惑がかかるようなこともいたしませんから」  
 
いきなりこんなことを言われても、どう返したらいいのか分からない。  
自分に落ち度だらけなことは認めるけれど、家から閉め出された挙句、  
実家に帰れだの、離婚届だの言われて、はいそうですか、と言える人間がいる方がおかしい。  
納得云々以前に琴音がなぜ急にそんなことを言い出したのかも全く理解できない。  
仮に不仲が原因で離婚するとわめいているにしても、話し合いというものは必要だろう。  
「琴音さ」  
わずかに腹立たしさを覚えながらも、まずは家に入れてもらおうと声をかけた瞬間にバタン!と思い切り  
ドアを閉められてしまった。  
かちゃりかちゃりと中から鍵をかける音が聞こえる。  
「ちょっと酷くないですかー?」  
誰に言う訳でもなくドアに向かってつぶやいてから、再びポケットから鍵を取り出す。  
かちゃりと上を外して下の鍵穴に鍵を差し込むと、かちゃりと上の鍵をかけられた。  
「……」  
眉間にしわが寄る。  
構わず下の鍵を外して上の鍵穴に鍵を差し込むと、また下を閉められた。  
「……このっ!」  
上を回すと素早く下に鍵を差し込んで回したが、三度鍵をかけられた。  
「っ、ざけんなっ!」  
構わずに開け続けるが、むこうはむこうで鍵をかける。  
鍵穴から鍵を抜いて、違う穴にさすという手間がある分、こちらの方が不利だ。  
かと言ってこんな頑丈なドアに体当たりしたところで、刑事ドラマの踏み込みシーンのように  
ドアが外れる訳もない。  
どこぞのヒーローでもないから外壁を伝ってベランダに降り立つ訳にもいかない。  
開けては閉められ、閉められては開けてを二十回以上も繰り返し、こんなことを考えているうちに、  
苛立ちを通り越して笑いが込み上げて来てしまった。  
 
鍵を開けることは諦めて、志郎はドアをこぶしでドンドンと二回叩いた。  
返答はもちろんない。  
志郎は構わずにドアに向かって口を開いた。  
「琴音さん!参りました!  
 琴音さんが俺の顔を見たくないくらい怒っていることも分かりました!  
 分かりましたけど!いい加減、中に入れて下さい!」  
返答なし。  
この我がままお嬢め。  
「ホテルに泊まってもいいけど、俺が今日とおんなじ服で仕事に行ったら絶対変な噂が立ちますよ!」  
効果なし。  
敵は予想以上に手ごわい。  
しかし、ここで諦めてホテルに泊まるなりファミレスで夜を過ごすなりしたところで、問題が解決する訳ではない。  
いい手はないかと考えてみるが、空腹で血糖値の下がった頭ではいい案は思い浮かばない。  
「琴音さん!俺、もう限界です!腹が減ってるんです!  
 とりあえず、中に入れて下さい!パンだけでもいいから食わせて下さい!  
 そしたらちゃんと話をしましょう!」  
半ばやけくそで言った言葉が意外な効果を示した。  
二つの鍵が開く音が聞こえたのだ。  
成功したかと思ってノブを引いてみたが、チェーンは相変わらずかかったままだった。  
「パンはありません」  
気のせいか鼻が詰まったような声だ。  
「いや、あるでしょう。  
 今朝の残り。あれでいいですから」  
「昼に私が食べました」  
そう言うと琴音は鼻をすすった。  
 
どうやら琴音は泣いているらしい。  
その様子に困惑しながらも、志郎は、  
「何もないんですか?」  
と聞いてみた。  
「ありますけど……」  
琴音はそう言うと、ドアの向こうで泣き出してしまった。  
勘弁してくれ、と志郎は思った。  
泣きたいのはこっちの方だ。  
そこでようやく、人間の生理に訴えてみるのが一番手っ取り早いと気づいて、  
下品は承知の上で、志郎は最後の手段に出た。  
「すみません、めちゃくちゃ申し訳ないんですけど、トイレに行かせてもらえませんか?」  
ドアは一度閉まったけれど、ようやく中でチェーンを外す音が聞こえた。  
ほっとしてドアを開けると、目の前にはぼろぼろと涙をこぼして立ちすくむ琴音がいた。  
志郎は後ろ手にドアを閉めると足元に鞄を置いて、琴音の肩に手をかけて、  
「どうしたんですか、急に」  
と尋ねた。  
「……お手、洗いっ……は……」  
琴音はそれだけ言うと、手で口元を覆って、これまで以上にぼろぼろと泣き出してしまった。  
「ああでも言わないと、入れてくれなかったでしょう?」  
琴音は何も答えなかったけれど、志郎は琴音を抱き寄せて肩を撫でた。  
肩の震えが一層大きくなった。  
彼女を見下ろすと、脚は靴下のままだ。  
「琴音さん。とりあえず、奥に行きましょう?ね?  
 それじゃ足も冷たいでしょう?」  
ようやく琴音が頷いた。  
 
肩を抱いたままキッチンに入って行くと、テーブルには茶碗と皿と箸が並べてあった。  
シチューのいい匂いもしている。  
今さら腹が空いていたことを思い出したが、ひとまず琴音をリビングのソファに座らせて、  
彼女の横にティッシュを置いた。  
「コーヒー……でいいですか?」  
「紅茶がいいです」  
このヤロウ、と思ったが、ぐっと堪える。  
スーツの上着をもう一つのソファの背に掛け、ネクタイもその上に放ってから、キッチンへ行く。  
キッチンの棚を探してみたが、ティーバックが見当たらない。  
そう言えば、このお嬢さんは毎度毎度、茶葉から紅茶を入れていた。  
そんな面倒なことする気にはなれないし、そもそもお気に召すように入れられるとも思えない。  
志郎は自分用に買ってあるドリップ式のインスタントコーヒーを出すと、  
二つのマグカップにそれをセットして、ポットから湯を注いだ。  
「申し訳ないんですけど、俺、紅茶の入れ方なんて知らないんでコーヒーで我慢して下さい」  
声を大きくしてキッチンから断ったけれど、予想通り返事はなかった。  
嫌なら自分で淹れればいいのだ。  
そう思って、二つのマグカップをリビングに運んで行くと、琴音の横にはティッシュの山が出来ていた。  
「……琴音さん、ゴミ箱ぐらい自分で取って下さい」  
マグカップをテーブルに置いてから、部屋の隅のゴミ箱を取りに行く。  
琴音は返事をしなかったけれど、ゴミ箱を足元に置くと、山積みのティッシュをその中に捨てた。  
「ブラック……平気ですか。ダメだったら自分で牛乳入れて下さいね」  
今度は小さく顔が縦に動いた。  
 
志郎は自分のスーツを置いたソファに座ると、口を開いた。  
「ええとですね、琴音さんが俺に対して何やら怒っているのはよく分かりました。  
 でも、なんで怒っているのか分からない。  
 理由も言われず、実家に帰れだの離婚するだの言われても、さすがの俺もはいそうですか、とは言えない。  
 これは分かってもらえますか?」  
無反応。  
さすがにため息をつかざるを得ない。  
コーヒーを一口飲むと、琴音もカップに手を伸ばした。  
俯いているせいで表情が良く分からないが、ティッシュを握りしめているところを見ると、  
まだ涙が止まっていないのだろう。  
「琴音さんが何も言わないなら勝手に話しますけどね、いいですか?」  
琴音が小さく頷く。  
「俺はね、確かにいい夫じゃないですよ。  
 プレゼントだってしたことないし、ここだって琴音さんのお父さんが買ってくれたうちだ。  
 光熱費も払ってもらってる。  
 でもね、女遊びしてる訳でもないし、飲み歩いて帰ってくる訳でもない。  
 ギャンブルだってパチンコに行くのがせいぜいだし、金がなくなるまでやる訳でもない。  
 借金なんてもちろんしてないし、仕事だって真面目にしてるつもりだ。  
 なのにいきなり離婚だとか言われて、納得は出来ません。  
 今朝まではいつも通りだったじゃないですか。  
 なんで急にあんなことを言い出したのかちゃんと教えて下さい。  
 俺に直すべき所があるなら直すし、誤解があるようなら訂正したい」  
志郎はそこまでほとんど一気にしゃべってから、コーヒーを飲みほした。  
空腹は際立ったけれど、頭はすっきりした。  
「さあ、どうぞ。なんでも聞きますよ」  
 
琴音はしばらく涙を拭いたり鼻をかんだり、コーヒーに口をつけたりを繰り返していたが、  
無言で待つ志郎に根負けしたのか、話す気になったのか、掠れた声を出した。  
「志郎さんは……どうして私と結婚したんですか?」  
予想外の質問に志郎は一瞬戸惑ったが、まずは無難な答えを出すことにした。  
「そりゃ、琴音さんならいい奥さんになってくれそうだと思ったからですよ」  
「本当に?三柳と結婚したんじゃないんですか?」  
「……そりゃね、そういう部分もあるとは思いますよ。  
 見合いですし、三柳との繋がりが出来るのはうちにとって悪い話じゃない。  
 けどね、それだけで結婚相手決めるほど俺も親父の会社もダメじゃないですよ」  
琴音が少しだけこちらを見た。  
目の周りがかなり腫れている。  
「だいたい、見合い話持ち込んできたのは三柳ですよ?」  
そっちこそ味方になる会社を増やしたかっただけじゃないのか、と言いたくなるのを堪えて  
志郎は空になっていることを忘れてカップを口に運んだ。  
「はい。分かっています。  
 だからこそ、断れなかったのかと」  
「確かに親父の会社は三柳から見たら小さいですけどね、別に倒産の危機にある訳でもない。  
 本気で嫌なら断ります。  
 琴音さんこそなんで俺と結婚したんです?  
 ふっ……」  
「……?」  
危うく口に出そうになった言葉を飲み込むと、琴音が怪訝そうな顔でこちらを見た。  
ふった男への腹いせですか?  
さすがにそんなことは聞けない。  
言えない。  
けれど、見合いを持ちかけられた時、琴音の父親からはそう告げられたのだった。  
 
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜  
 
『野々宮くん。君、うちの末の娘と見合いしてくれるかね?』  
課長から、そういう話があるから社長に会って来い、と言われた時から緊張はしていたけれど、  
自分の勤める会社の社長に面と向かってそう言われると、その緊張感はなかなかのものだった。  
志郎がはあ、とあやふやな返事をすると、社長は尋ねてきた。  
『うちの娘を知っているかい?』  
『はい、昨年の創立八十周年記念式典の時にお見かけしました』  
『そうかそうか。まあ、少々太ってはいるが、悪くはあるまい?』  
確かに丸顔ではあるけれど、太っているというほどではない。  
『かわいらしい方だと思いました』  
志郎は素直な感想を述べた。  
『そうか』  
社長は、娘がかわいくて仕方がない、というのがよく分かる笑顔で頷いた。  
『会ってみて性格が合いそうもないというなら、断ってくれて構わない』  
そう言われても、社長の娘と見合いをしてこちらから断るなんて、よほどのことがなければできない。  
志郎はまた、はあ、と言うしかなかった。  
『……社長、失礼ですが、なんで僕なんですか?』  
『君のお父上、会社やってるだろう』  
『小さいですが』  
『いやいや、小さくてもこのご時世を潜り抜けている堅実さはわが社も見習うべきだと思っている』  
『……ありがとうございます』  
『正直、君のお父上の会社とのつながりを作りたいというのも理由の一つではある』  
志郎は黙って頭を下げた。  
『もう一つは、まあなんというかな、娘が結婚したいと言い出してね。  
 どうもふられたらしいんだが……』  
社長はそう言ってから誤魔化すように咳払いをして、  
『とにかく形だけでもいいから会ってやってくれ』  
と言った。  
 
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜  
 
実際に会って話してみると、おっとりとはしているものの、世間知らずと言うほどの女性でもなかったし、  
何より挨拶をした瞬間に、この人なら、と感じるところがあった。  
だから結婚することにしたのに、いざ結婚してみたら新婚早々、家庭内別居になった上、  
今現在離婚の危機に直面している。  
「で、琴音さんはなんで俺と結婚しようと思ってくれたんですか?」  
気を取り直して出来るだけ穏やかな声でもう一度聞いてみると、琴音は視線を手元に落として、  
握っていたティッシュを指先でもぞもぞと弄りながら小さな声で、  
「この人だな、って思ったんです」  
と言った。  
意味がよく分からず、はあ、とだけ返すと、  
琴音はまた泣き出してしまった。  
けれど、泣きながら、  
「初めて……ひっ、ひろうさんにお会いした時っ、この人が……  
 私の、旦那様にっ…なる人だ、なって、ほとんど直感で、思ったんです」  
と言った。  
それを聞いて、志郎は急に顔が熱くなってきた。  
嬉しいやら恥ずかしいやらで顔を覆ってしまいたい。  
ほんの少し前まで琴音の不可解な行動に怒りを覚え、それでも努めて冷静さを保っていたというのに、  
今はもう冷静に話せる自信がない。  
たいそうなことを言われた訳ではない。  
一目惚れだったとか、実は以前見かけた時からとか、そんな分かりやすい言葉ではないのに、  
琴音の気持ちを初めて見つけられた気がした。  
志郎は自分の身体を包むくすぐったさに堪えきれずゆるむ口元を隠すために、  
空になったマグカップにまた口をつけた。  
だが、そんな志郎の高揚感には全く気付かなかったらしい。  
琴音はティッシュを二、三枚取ると、それに顔をうずめてしまった。  
 
「うわっ!琴音さん、泣かないで下さい!」  
身体を乗り出して肩を掴むと、琴音は首を横に振って、  
「だ、てっ……、わたし……も、分からなくて……」  
と鼻をすすった。  
「えっ?……分かんないって、何が、ですか?」  
「どうしたら、志郎さんに、奥さんて認めてもらえるか」  
「何でですか!めちゃくちゃいい奥さんじゃないですか!  
 俺にはもったいないぐらい出来すぎちゃってるじゃないですか!」  
顔を上げ、琴音はようやく正面から志郎を見た。  
「本当でふか?」  
志郎が帰る前から泣いていたのだろう。  
顔がむくんでしまっている。  
なんだか、居たたまれない気分になる反面、そんな泣き顔がかわいいと志郎は思ってしまった。  
「こんな時に嘘吐いてどうするんですか」  
本当だということを示すように、志郎が肩に置いていた手に力を入れると、琴音はキッチンの方をちらりと見て、  
「ご飯……美味しいですか?」  
と尋ねた。  
「美味いですよ」  
「お風呂……気持ちいいですか?」  
「うん、いつもすごくちょうどいい温度で、風呂場もきれいだし」  
志郎ははっとした。  
こんなこと、琴音に今まで言った記憶がない。  
美味しいご飯をありがとう、とか、お風呂を沸かしておいてくれてありがとう、とか、言った記憶がない。  
「……あの、お、おっ……お布団……ベッドはも、持ってきたベッドの方が好きですか?」  
琴音にここまで言わせるとは、夫の前に男失格だ。  
「好きじゃありません。  
 最近、寝心地が悪くてしょうがないんです」  
 
志郎はこのマンションに引っ越してきた時、以前から使っていたベッドをどうしても捨てられず、  
部屋数が多く、広いのをいいことに、ここに持ち込んでしまった。  
寝室にはシングルベッドが既に二つあったけれど、高級すぎたのか慣れないせいか寝心地が悪かったため、  
持ち込んだベッドで寝たい、と琴音に告げた。  
この時、寝室に自前のベッドを移せばよかったのだが、面倒だったので自分がベッドの部屋へ移動してしまった。  
琴音は文句も言わずにそれを承諾してくれたので、そこで寝るようになってしまったのだが、  
これがきっかけで家庭内別居になってしまった。  
始めは別々の部屋で寝ても支障はないと思っていたのだが、当然夜の営みもなく、  
会話時間も極端に短くなり、食事の時しか顔を合わせなくなってしまった。  
その挙句、家事をしてくれている琴音に例の一つも言わなければ、実家に帰れ、離婚しろ、と言われても  
何も言い返せないではないか。  
志郎は両膝に手を乗せると深く頭を下げた。  
「ごめんなさい。俺が悪かったです」  
「えっ!あ、あのっ、志郎さん、やだ、やめて下さい」  
顔を上げると、琴音はうろたえていた。  
「いや、だって、どう考えたって俺が悪いじゃないですか。  
 朝も夜も美味い飯作ってくれてて、風呂だって俺が返る時間に合わせて用意してくれてるのに、  
 礼の一つも言わないし」  
「あのっ、お、お礼を言ってほしかった訳じゃなくて」  
「でも、美味いって言ったこともなかった」  
「……はい。あっ!でも、さっき言って下さいましたし」  
「……琴音さん。今日から一緒に寝たいって言ったら、怒りますか?」  
琴音の顔が赤くなった。  
その顔を見た瞬間、このままソファに押し倒したい衝動に駆られたが、ここは我慢だ。  
志郎は自分に言い聞かせて、  
「俺のベッドで一緒に寝ませんか?ダメですか?」  
と彼女の顔を覗き込むようにして聞いた。  
 
琴音は小さく首を横に振ると、  
「私も一緒に寝たいです」  
と消えそうな声で答えた。  
じゃあ、さっそく。  
勝手に動きそうになる口を閉じ込めて、志郎は琴音の隣に座ってもう一度頭を下げた。  
「琴音さん、今まですみませんでした」  
「あの、私も言い過ぎました。  
 ごめんなさい」  
「その……俺、いい旦那になれるように頑張るんで、どうしたらいいか教えて下さい」  
琴音は相変わらずティッシュで鼻を拭きながら志郎を見上げてきた。  
それから少し目を逸らして、  
「……少しでいいので、抱きしめていただけますか?」  
と志郎の手に手を重ねてきた。  
こんなに可愛らしい人を泣かせてしまったと胸が痛むのに、彼女のしぐさが愛しくて、  
志郎はその手を握り返すと、もう片方の手を琴音の肩に廻した。  
「少しでいいんですか?」  
「……じゃあ、その、少し強めに……」  
思わずぎゅっと抱き締めると、腕の中の肩が一瞬こわばった。  
それでも構わずに抱きしめて髪に鼻を擦り付けると、甘い香りがした。  
腕の中の柔らかい感触と甘い匂いが志郎の本能を刺激する。  
新婚旅行以来、琴音に触れるのがほぼ一月ぶりになるせいか、一度首をもたげたそれはなかなか治まってくれない。  
だが、ここで押し倒してしまうのはあまりにも自分勝手な気がして、志郎はゆっくり身体を離した。  
そして、不思議そうな顔で見上げてくる琴音の額にキスをして、  
「俺、安心したら腹が減っちゃいました」  
と笑って見せた。  
琴音もようやく笑ってくれた。  
「はい。すぐに温め直しますね」  
そう言って、立ちあがった彼女の手を志郎は無意識に捕まえていた。  
「志郎さん……?」  
琴音が不思議そうにこちらを振り返った。  
「あー、えっと、飯、食い終わったら、今の続きさせてもらえますか?」  
不思議そうな顔が驚いたような顔になり、それから恥ずかしそうな顔で小さく頷いた。  
 
(了)  
 

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