何も無かった俺。家、自分の物、兄弟、両親さえも無くしてしまった俺。幸いなのは忘れられる、言ってみれば知らない程、幼い頃に起きた出来事だったと言うことだ。
どうやって生き延びていたかは覚えていない。ただ、心休まる時が無かったのを覚えている。
昼も夜も無関係だった時代。今、こうやって振り返る事が出来るのはどうやら神が俺に人生最初で、最大の幸運を、その時に掴ませてくれたかららしい。
出会いの場所は、雨に濡れた路地だった。他人の、そこそこの生活が出来てる連中の喧騒の聞こえる路地で、俺は物乞い同然の格好で、食料をどう調達するかを考えていた所だった。
雨に濡れたシャツが重く、靴の中にはイヤな湿りが満ちていた。体臭なんか気付かなかったが、きっと好き好んで近付いてくるヤツなんて居なかった程だろう。
野良の獣にすら与えられる食事が与えられない、道端の、生ゴミ同然のガキ。好き好んで俺に何か恵む人間など、居るわけが無かった。
「…孤児か」
俺の前で歩みを止めた。ああ、きっと上流階級なのだろうと察しのつく、体格の良い男。目は眼光鋭いと言った風の、何も知らない俺でさえ気圧してしまう程の目をしていた。
その時の俺は、慈しみの瞳を知らなかった。
暫くして、小さな影がやって来た。この灰色の街に似合わない赤いワンピース。
何の恐れも無くその男の足元に取り付き、会話を始めていた。
「…?」
好奇心の塊の目が、荒んだ俺の目と合った。あっちは好奇心が勝ったのか俺に近付き、動物園の動物でも見るような感じで俺を見ていた。
いや、端から見れば俺はそのものだったろう。見せ物にもならなかったろうが。
「なあ、おまえ?」
「?」
「家は?家族は?」
見た目と服装とは反した妙な口調。無いと答えるのが癪だった。俺はただ沈黙を続けていた。その部分の代弁は、そこの親父にさせた。
「楓。止めなさい」
「父様?」
「彼には彼の事情がある」
「…う〜」
本当は親子のやりとりなど、余裕のある奴から見れば微笑ましかったのだろうが、俺にすれば鬱陶しいだけだった。
「彼が気になるのか?」
「…」
楓と呼ばれた女は暫く、俺の瞳を覗き込んでいた。
澄んだ、眩しい瞳をしていた。益々俺と別世界の人間なんだと実感させられた。
が。
あっちの方は俺の瞳から別の意味を受け取っていた。
「父様?」
「?」
「私は、この者が良い」
「来い」
始めて、車と言う物に乗った気がした。始めて、大人の人間と話をした気がした。始めて、俺を人間として扱ってくれる人に出会った気がした。
いきなり与えられたのは温かい食事と、上等な服と、明るい部屋と、尽くすべき相手。
「名前は?」
「…クウ」
「コウ?」
その時はただ戸惑いで息が漏れただけなのを、相手が間違えて聞き取った。そんなもんだった。
今にしてみれば「空しい」のクウ。それを間違って聞かれたコウ。なかなからしいとも思う。
その日から俺の名前は変わっていない。
「おまえは今日から、私から離れてはならないんだぞ。コウ」
「…」
返事の仕方も解らなかった俺は、ただ頷くだけだった。