それから半年、アリスはつつがなく成長した。
言語の学習が進むにつれ、あのたどたどしい言葉遣いは消え、なめらかな言葉で表現できるようになった。
背も髪も伸び、顔からはあどけなさが消えていく。大人用の育成カプセルに引っ越す頃には両胸もふくらみ、女性らしいたおやかなシルエットに
なってきた。
彼女が育つにつれ、私の足はあの地下室から少しずつ遠ざかっていった。
学費を抑えるため留年だけは避けたい彼は、アカデミーには真面目に出てきたので、一応死んでいない事は確認できたし、食事も私が届けないなら
学食で済ませているようだった。
「アリスが会いたがってるぞ。」
彼に言われたら仕方なく訪ねる、そういう日々を重ねていった。
ここに来るのは嫌いではない。でもなんとなく、彼とアリスの間に入るのが気まずく感じるられるようになってきた。
彼に呼び出され、今日、会いに来たのも一週間ぶりだ。
アリスはまだ眠っていた。人間にすれば十四〜五歳くらいの外見だろうか。すらりと伸びた白い手足。花嫁人形のように整った目鼻立ち。
…この綺麗な少女と、彼は毎日何を話しているんだろうか。そんな事を考える。
アリスという名の人形は、理想通り健やかに育っている。それなのにどうして私は、こんなにいら立つのだろうか。
「…カレン、話がある。」
「なに?改まって。」
いつになく真面目なハービーの表情に、私も少し固くなる。
「頼みがあるんだ…」
「…なによ?」
彼は落ち着かない様子で咳払いをしたり貧乏ゆすりをしたりして、こちらがいらいらし始めた頃、やっと本題を切り出した。
「アリスに、男女のセックスを見せたいんだ。君のそのモデルになってもらいたい。」
「………なんですって!?」
驚きのあまり、長椅子から転げ落ちそうになる。
「正気?あなた、何を言ってるか分かってるの!?」
呆れて物も言えないとはこの事だ。私をからかう趣味の悪い冗談かと思ったが、彼の真剣なまなざしはその可能性を否定する。
「…この間から、性教育を始めたんだ。そうしたら、よく理解できない、できればどういうものか見てみたい、って…」
「なんで、そんなこと…まだ早すぎるんじゃないの?」
まだ中身は純真な子供だとばかり思っていた。いや、純粋な子供だからこそ「見てみたい」などと言えるのだろうけど。
「…僕の手を離れて社会に出たら、何があるか分からない。無用に傷つかないように、正しい知識は必要なんだ。」
ひどく苦しそうに、うめくように彼は言う。
言いたいことは分かる。アンドロイドと言っても半分は生身だ。下半身が機械化してなければ男性を受け入れることはできる。
所有者の中には、ダッチワイフか何かと勘違いしている人もいるし、街に出たアンドロイドが、人間対して抵抗できないのをいいことに
暗がりで暴行されるという事件もある。
普通の人間ならば、生活していくうえでなんとなく、そういう情報を手に入れていくものだろうが、大人になるまでファクトリーの中で過ごす
アンドロイドには、能動的に与えてやらねば必要な知識を覚える事はできないだろう。ましてや彼女の成長は早い。
…言いたいことは、分かる…けど…
「…OKすると思う?…なんで、私が…」
わなわなと声が震える。彼は渋面を作ってみせた。
「こんな事、他に頼める奴がいるか?」
…いないでしょうね。女の子と喋ってるところなんて見たこと無いもの。…アリス以外は。
「…相手…って…やっぱり…」
「僕。」
眼鏡の奥の目は大真面目だから手に負えない。
「………帰るわ。」
「待ってくれよ!本当に困ってるんだ!!君なら経験もそれなりに豊富だろ?」
「勝手に決め付けるんじゃないわよ!!」
すがりつく彼を必死に押しのけ、ヒステリックに叫ぶ。
「恋愛映画の濡れ場とか、無修正ポルノとか見せれば良いじゃないの!!」
「映画は作り物だし、無修正とかそんなもん可愛いアリスに見せられるかっ!!」
「じゃあ、ひとりわびしく自家発電するとこでも見せときなさいっ!」
「もう見せたっっ!!」
……………本当に…見せたの…?
怒鳴りあいがぴたりと止まった。
さすがに赤面してそっぽを向く彼を睥睨しながら、頭の良い馬鹿って本当にいるのね、と妙に感心してしまった。
「…僕は、アリスに愛を教えたいんだ。」
くるりと背を向けて、彼はぼそぼそと呟く。
「高尚ね。頼んでる内容は露出プレイの割には。」
「だって、愛しあう男女の究極の姿だろ。」
「愛しあう、ねぇ…。」
くだらない、と私は吐き捨てた。
「貴方も私も、所詮は演技じゃないの。嘘を教えることには変わりはないわ。」
「…僕は…っ!」
『カレン?』
澄んだ声が部屋に響いた。
鈴を転がすような、久しぶりに聞くアリスの声。
カプセルの中は生命維持のための溶液で満たされているので、本当に声は出せない。けれど脳波を言葉に変換する装置は改良されて、
彼女の声帯から推測される高さの合成音で表現できるようになっていた。こちらの声も、わざわざマイクをつけなくとも、高感度の集音マイクで
拾われて、彼女の脳に送り届けられる。
このシステムのおかげで、私たちは彼女と自由に、ごく自然に会話することができた。
『お久しぶりです、カレン。ずっとずっとお会いしたかったです。』
言葉遣いは変わったけれど、純真なところはそのままね、と思った。
「…愛、か。」
「…カレン?」
いぶかしげな彼からは顔をそむけたまま、私は小さな声で告げる。
「いいわ。協力する。」
「…本当…か…」
ぽかんと口を開けたままの彼は、とんでもなく間抜け面だった。
あなたの為じゃないわ。私はあなたの言う『愛』を覚えたアリスを見てみたいの。
汗を流すというよりは儀式のまえの禊のようだと、シャワーを浴びながら思った。
がちがちに緊張した身体にタオルを巻きつけて部屋に戻ると、先にシャワーを済ませたハービーが、ベッドの上に寝転がって待っていた。
…こんなこと…
見慣れた部屋がどこか非現実的で、まるで再現された映像を遠い場所から眺めているような気分になる。
照明はもう落としてあったので、カプセルの中のアリスの姿は見えないけれど、私たちの姿を息を潜めて見守っている気配を背中に感じた。
カプセルにはカメラがしつらえてあって、映した映像を直接、彼女の脳に送り込む仕組みになっている。
「…はじめるよ、アリス。」
彼の声はおそろしく静かだった。
『はい。』
アリスは神妙に答える。
「…気が散るかもしれないから、静かに見ていてね。」
優しい声で言い聞かせると、彼はわたしの背後に回った。
「タオル取って、裸の姿を見せてあげて。」
私は言われた通り、カメラに向かってタオルを取る。すぐ後ろで、彼の喉がごくりと鳴るのがわかった。
「男の体はこの前、見せたよね。…これが、女の人の身体。カレンは特別に綺麗なんだよ。」
普段の物言いからは信じられないような、歯の浮くような言葉遣いに驚く。
女優だった母譲りの、豊かなバストとくびれた腰。いままでそれを維持していて良かったと思った。
両腕が私の肩越しに伸ばされ、髪をかきあげ、頬を撫でる。
「…だいたい、最初はキスから。」
肩を抱かれ、唇が重なった。
思ったよりずっと上手だった。舌が歯列をすっと舐め、私の舌を絡めとる。
シャワーを浴びる前、経験はあるのか?と尋ねたら、予想外にも『ある』と返事が返ってきた。
家を出る前、兄達に無理やり連れられて色町を何度か訪ねたのだと、不承不承告白した。
あの家の男どもの行きつけならば、相当高級な娼館だろう。このキスも、その先の出来事も、そこで手ほどきを受けたのだろうか、とぼんやり思った。
長いくちづけのあと、彼と目が合う。眼鏡の奥にずっと隠されていた緑の瞳は、あの不思議な少年の頃と変わらない。
彼は背中から私を抱きしめたまま、ベッドの上に腰掛ける。自然と、私はその彼の膝の上に抱えられる形になった。
痩せてはいるが、薄く筋肉のついた締まった身体をしているのが意外だった。アリスの育成を始める前は、食費にも困って日払いの肉体労働に
勤しんでいたと言っていたのを思い出す。
私の身体の正面をアリスの方に向けたまま、彼は私の胸を両手で揉みしだく。
びく、と私の体が跳ねた。
「…こうすると、女の人は気持ち良くなれるらしいんだ。」
優しく、しつこく、彼の手は私の全身を撫でさする。動悸が速まり、身体が熱を帯びる。
「…女の人が気持ちよくなってくれると、男も、うれしい。」
彼の言葉が耳をくすぐるたびに、背筋がぞくぞくとする。…愛しあう男と女という演技に、私も溺れてしまったのだろうか。
うなじを舐められ、全身の力が抜ける。私は彼にもたれかり肩に頭を預けた。
繊細な長い指先がすうっとわき腹をなぞって、私の脚のあいだに降りてくる。
「…ここが…」
彼の指が私の秘所を撫でて、軽く開く。そこはもう、さっきまでの愛撫で熱くうずいている。
「…女性器。ここに男性器が入るんだけど、なにもしないでそのまま挿れると、痛いから…」
彼が自分の指を舐めるのが分かった。唾液でぬめった指が、私の『女性器』の入り口をなぞり、ゆっくりと侵入する。
アリスに見られている。そう思うと羞恥で頬がかあっと熱くなる。倒錯した理解しがたいこの状況に、頭がくらんだ。
指は遠慮がちにじわじわ私の中に潜り込む。訳も無く声が出そうになるのを、必死に抑える。
「…アリス…」
熱っぽい彼の呼び声に答えようとして、今のは私の名ではなかった、と思い出した。
どうして彼は、あの子にアリスと名づけたのだろう。
――君はカレン、この子はアリス――
本当に親しい人だけが呼んだ、もうひとつの私の名。私の憧れだった幼馴染の少年は、もう私のことをアリスとは呼んでくれない。
根元まで沈んだ指が軽く引かれ、抜ける寸前に止まり、また入ってくる。
「女の人が気持ち良くなると、ここが濡れてくる。そうすると、男性を受け入れやすくなる。」
くちくちと粘ついた音をたてて、前後にうごめく指の動きに、私の中に言い様のない感覚が生まれる。
「…声…聞かせたげて。」
私の耳に口をつけて、彼が囁く。
恥ずかしくて噛んでいた唇を、薄く開く。
「…ぁ…ぁ…」
そこから漏れるのはとんでもなく甘い、わたしの声。
うずくような感覚に耐え切れず腰を動かすと、さっきから背中に当たっている固いものがすれる。
「………っぅ…」
彼は、何かに耐えるように歯を食いしばっていた。彼がうめくたびに指は激しさを増し、それにつれて腰が動くと、また彼がうめく。
私の上半身が軽く捻られ、片方の乳房に彼がむしゃぶりついた。
「ああ…っ!」
先端を舌で転がされ、きつく吸われる。痺れるような快楽が私の中を駆け抜ける。指は膣内を責め、もう片方の手は敏感な突起を探して捕らえる。
すすり泣くような私の声が、次第に高くなる。
…もう…駄…目…
そして訪れた強い衝動に飲まれ、突き抜ける快感と痙攣に全身が支配される。わななきながら彼の名を呼ぶと、彼は背中からきつく私を抱きしめた。
力が抜けて、あおむけにベッドに倒れこんだ私に、彼が覆いかぶさる。その眼差しは痛いほど真剣だった。
「…繋がる…よ…アリス…」
かすれた彼の声に応えるように、私は目を閉じた。
両膝が大きく広げられ、指とは違う熱い異物があてがわれ、私は震えた。そして襲ってくる裂かれるような痛みに抑えきれず、短い悲鳴を上げる。
ハービーがはっとして私の顔を見た。
「…痛い…わよ…下手くそ……」
目尻に涙を浮かべながら、アリスに聞こえないくらい小さな声で悪態をついてみせた。
「…ご、ごめん…」
こちらがおかしくなるくらい、おろおろしている。
…想定外?そうでしょうね。ずいぶん尻の軽い女に見えてたみたいですものね。
「…演技。」
痛みに眉をしかめながら、私は促す。
「…愛してる…演技…しなさいよ…」
彼は一瞬なんともいえない顔をしてみせて、それからきつく握った私の手に、震えるてのひらを重ねて、優しくキスをした。
「…愛してる。」
そうね、陳腐だけどとても素敵よ。
苦痛で固まっていた体の力が、ふっと抜ける。私の中でじっとしていた彼のものが、どくんと脈動したように感じた。
「…好きだっ!」
不意に彼は、けだもののように私に襲い掛かった。好きだ、好きだ、好きだ…何度も何度も繰り返しながら、私の中に熱い激情をぶつける。
それは演技。そう、私たちのアリスのためのお芝居。
私が彼の名を呼ぶのも、すがりついて泣くのも、甘えるようにキスをせがむのも、全て演技。
まるで本当の恋人同士のように抱き合って、私たちは睦みあう。
痛みは耐えがたく私をさいなむ。でも、苦痛とは違う熱いなにかが、身体の奥から沸き上がってくるのを感じた。それは身を委ねるには少し怖くて、
でも逃げられず、じわじわと私を取り込む。
「抱きしめて…」
得体の知れない感覚に追い詰められてそう懇願すると、彼は苦しそうに息を吐きながら、力の限り私を抱きしめる。きつくて息ができない苦しさに
もがきながら、彼の与える熱に焼かれ、頭の中が真っ白になる。
不意に、彼がくっと唸って、繋がりを勢いよく引き抜いた。苦痛と快楽の混ざったような衝撃が、背筋を走る。
その衝撃に跳ねたお腹の上に、熱いものが浴びせれれる。それが何なのか、最初はわからなかった。
彼ははぁはぁと荒い息を吐きながら、私に倒れかかった。その頭を受け止めて腕を絡める。
『…終わりました、か?』
遠慮がちなアリスの声に、呆然としていたハービーは、はっと顔を上げた。余韻に浸っていた私の頭の中も、すっと醒める。
「…うん、射精…するととても気持ち良いんだ、男は。…本当は中で出したいんだけど…避妊の都合で…」
「…その避妊の認識、間違ってるから。あとでちゃんと正しい内容を教えておいて。」
汚れた私の下半身を拭く彼の手をやんわりと払い、髪をかき上げながら起き上がる。
生殖能力が極端に落ちた現代の人間同士では、自然妊娠はあまり起こらないし、そもそもアンドロイドの彼女に避妊知識は必要ないとは思うけど、
嘘を教えるのは良くない。
「シャワー使うわよ。そのまま帰るから。」
「…もう、帰るのか?」
ガウン代わりに彼の白衣を羽織る私に、彼はがっかりしたように言う。
「疲れたもの。こんな散らかった部屋に泊まりたくなんかないわ。」
後ろ手でひらひらと別れの挨拶をして、扉のノブに手をかける。これ以上演技を続けるのは、もう、限界。
「…ありがとう、カレン。」
ごめん、って言われるかと思った。
「どういたしまして。」
『カレン…』
後を追うようなアリスの声を締め出すように、私は扉を閉めた。
どうしてあんな依頼を受けてしまったのか、どうしてこんなに、泣きたいようなみじめな気持ちになるのか、よく分からなかった。
それから私はずっと、彼らの元には行かなかった。
今期で博士課程を修了するハービーは、もうほとんどアカデミーには来ないので、偶然顔を合わせることも無い。
アリスはどうなっただろうか、様子を見に行かねば、とは思うのだが、どうしても足があの地下室に向かってくれない。もしも彼と会ったら
何を話したら良いのか、どう接したらいいのかわからない。
そんな折、一通のメールが届いた。差出人はハービーの名。一瞬ためらった後中身を見た私は、その足であの地下室に向かっていた。
「カレン様!」
研究室につながるふたつめの扉を開けると、ひとり室内で佇んでいた少女が、飛び跳ねるように立ち上がった。
いや、少女と言うべきではないかもしれない。もう立派な大人の女性だ。
「…アリス。」
ゆるやかに波うつプラチナブロンドに装われた優しげな顔。小柄のほっそりした身体。
驚くべきはその表情で、少し恥らって、それでも嬉しそうに微笑む様は、今まで見たどんなアンドロイドでも作る事のできなかった、
綺麗で自然な笑顔だった。
身のこなしも固いところやぎくしゃくした動きは一切なく、アンドロイド特有の身体の線の出るぴったりしたスーツを着ていない今では、
ごく普通の…いや、普通というには綺麗すきるが…人間と寸分変わりは無かった。
「…ついに、歩き始めたのね。」
これまでの出来事が思い出されて、感慨が押し寄せる。
人間で言えば成人程度まで育成促進すると、その後はカプセルから出し最終調整に入る。外に出て歩けるようになれば、完成までもう一息という
ところまで来ているということだ。
「つい、一昨日のことです。」
アリスは静かに頷いた。
「少し前から、次にカレン様がいらしたら外に出てみよう、というお話でした。…でも、育成スケジュールの関係で、どうしてもこれ以上は待てない、
と…」
申し訳なさそうに頭を下げる彼女に、慌てて手を振る。
「いいのよ。ずっと来なかった私が悪いんだから。」
本音を言えば、初めて外に出す時くらいは呼んで欲しかったと思った。でも、私がここに来られなかった様に、彼も私を呼ぶことができなかったの
かもしれない。
二人は私を待っていてくれた、それだけで充分だった。
「あのメールは、あなたがくれたのね。」
『カレン様、貴女に会ってお話したいことがあります。』
ハービーの名義で届いた、短いメール。しかし彼からのものでないことは、すぐ判った。
「はい、博士のアドレスを拝借いたしました。…どうしてももう一度、カレン様とお話したいことがあったのです。」
…博士、か。
私に様をつけて呼び、彼を博士と呼ぶ。アンドロイドとして人間にどう接すべきか、彼女はよく理解していた。それを安心すると同時に、
どうしようもなく寂しくなる。
「ここに居る間はまだ、今まで通り、カレンで良いわよ。」
「…カレン。」
少し嬉しそうに私の名を呼び、私の手を取ると、アリスは柔らかな髪を揺らし、長椅子に招いた。私が腰掛けると彼女はその隣に座る。
「あの日…貴女とお父様の愛し合う姿を拝見して…」
私は顔を見られたくなくて、目をそらす。
「…わたくしは、愛というものが分からなくなりました。」
アリスは胸の前で祈るように自分の手を握る。
「あの後、貴女はここへ姿を見せなくなるし、お父様も…。あの瞬間、お二人はあんなに幸せそうだったのに。」
…幸せ?
彼女にはそう見えたのだろうか。そうだとしたら、彼と私のお芝居はよくできていたのだろう。…ただ、芝居を切り上げて本音に戻るのが、
少し早すぎたのかもしれない。もう少しちゃんと演じきれていたら、彼女は愛情に対する疑問を抱かなかっただろう。
…つまり、アリスに愛を教えるというあの計画は、失敗したのだ。
「どうしてこうなったのか、わたくしは答えを求めて、データーの海をさまよいました。様々なテキストを読みました。心理学の論文、エッセイ、
小説、恋愛に関するありとあらゆる文章…それらはわたくしに、答えらしきものをいくつか提示してくれましたが、本当の答えと思えるものを
見つけることはできませんでした。」
アリスは私の手を握り、まっすぐに見つめる。
「カレン、教えてください。貴女はお父様を…ハービー=クランを愛していますか?」
私はアリスには嘘はつけない。そのまっすぐな心を愛するが故に。
長い長い沈黙の後、私はひとことだけ、答えた。
その答えを聞いたアリスは頷くと、私に抱きついて、少しだけ涙を流した。
「…ありがとう、カレン。わたくしは、大事な事をひとつ理解しました。」
可愛いアリス。私たちの大事なお人形。もうすぐ、お別れね。
「………カレン!」
その時、研究室の扉が開き、私の姿を認めたハービーが、驚いたように私の名を呼ぶと駆け込んできた。
「わたくしが、連絡したんです。どうしてもお会いしたくなって。」
アリスが顔を上げて、彼に微笑みかける。
「…そう…か…。」
少しほっとしたように彼は、座っているアリスの両肩に手を置いた。
「…見ての通り、育成は最終段階だ。幸いアリスは安定していて、今のところどこにも問題は無い。…君のお父上に引き合わせる準備をしてくれ。」
「分かったわ。」
何を話して良いか分からなかっただけに、事務的な会話はかえって気楽だった。
「…お父様。」
アリスは甘えるように彼の肩に頬を寄せると、企むように…そんな微妙な表情もできるのかと驚いた…私にちらりと目線を送った。
「いま、カレンとお話していたんです。カレンは…」
「ちょっと待ちなさいアリス!」
私は慌てて二人の間に割って入った。自然と私はハービーと密着した体勢になる。
「カレンは、愛が理解できなかったわたくしのために、もう一度、愛しあう姿を見せてくれるそうですよ。」
…そんなこと言ってない!!
焦る私に、彼はぽかんと口を開け、まじまじと見た。
「…いいのか?」
いいのか…って…
その間抜け面を見ていると、ふつふつと怒りが湧いてくる。こっちはあんなに思い詰めたというのに、貴方はずいぶんとお気楽じゃないの?
少しだけ虐めてみたい気持ちになった。
「…3回回ってワン!と言ったら、相手をしないでもないわよ。」
それを聞いて、彼はむっつりと黙った。
「できないの?アリスのためよ?」
私が腕を組んでせせら笑う。できるはずがない。頭の良いことを幼い頃から自覚してる彼は、私同様、実はとてもプライドが高い。犬の真似なんて
死んでも御免だと思っているはずだ。
彼は勢い良く長椅子の足を蹴り飛ばして八つ当たりし……そして床に手をついて、よたよたと不恰好に3回、回った。
「…わん。」
実に不快そうな顔で、それでも言われたとおりに、鳴き声もつける。
……そこまで…する…?
言い出した私のほうがあっけにとられてしまう。そこまでしてまでアリスに尽くしたいのだろうか、この人は。
私は、這いつくばった彼の額に、ヒールのつま先を軽くあてると、アリスに振り返った。
「見た、アリス?あなたもアンドロイドである以上、主からのこういう理不尽な命令にも従わないといけないことを、良く覚えておきなさい?」
当のアリスは敬愛する父親の情けない姿に、肩を震わせていた。
「…はじめて…理解できました…」
そして頬を紅潮させて、恥らう。
「貴女は…『女王様』…だったんですね…カレン…」
「「違う!」」
私たちの声は仲良く重なった。
まったく、しばらく来ない間に何を学習したのやら。
…そして「言われたとおりにした」と主張するハービーに押し切られるかたちで、私は二度目のお芝居を演じることとなる。
「…これは。」
常に冷静な父が言葉を失う。その視線の先には、丁寧に挨拶を済ませたアリスの笑顔があった。
私はあれからつきっきりで、アリスに立ち振る舞いを教え込んだ。
立ち姿、座る姿、歩き方、笑い方、お辞儀の仕方…顎の角度から指先一つに至るまで徹底的に、最も美しく見える角度と仕草を覚えさせる。
女優だった母から教えてもらったこと、バレエで学んだこと、礼法の教育で覚えたこと。その全てを彼女に伝えた。
アリスはじつに優秀な生徒で、教えれば教えるほど、人間のような彼女の魅力がさらに鮮やかに引き立つ。
成長段階を見守っていた私たちですら、完成したアリスの自然な表情や仕草に驚いたのだ。心のあるアンドロイドを初めて見たのならば、
それはとても衝撃的だろう。
ごくあたりまえの人間らしさ。その最も基本的なことを再現するのが、技術的にどれだけ難しいか、アンドロイドを一度でも見た事があるなら
誰でも解る。
「…素晴らしい。これ程のものとは。」
父は感嘆して、そしてハービーに向き直ると満足げに笑った。
「クラン家の三男坊か、見違えたぞ。…良くやってくれた。」
「クランの名はおおっぴらには名乗れませんよ。もう、親父には勘当されたので。」
彼は照れたように、父とがっちり握手を交わした。
見違えたのは私も同じだった。床屋で髪を切り、きちんとスーツを着て眼鏡をはずすと、良家の子息に見事に様変わりしてみせた。
美形とは程遠いが、とてもアカデミー一番の変人には見えない。
「カレン嬢の協力がなければ、僕にここまでのことは出来ませんでした。…彼女には、心から感謝しています。」
今度は私が照れる番だった。父は赤くなった私を見て、昔のように優しく笑って頭を撫でた。
「…そうだな。お前が一番の功労者だな。…私のアリス。」
それを聞いたアリスが、えっ?と口を押さえる。
「そうね、あなたは知らなかったわね。私の名前は、カレン=アリス=クロフォード。あなたとお揃いね。」
そしてくるりと振り向いて、アリスの手を握った。
「お別れね、アリス。…どうかその笑顔で、たくさんの人を幸せにして。」
「…カレン…様…。」
寂しそうな表情すらも本当に綺麗で、私はこの子に関わって幸せになれた最初の一人だと思った。
ハービーも顔をくしゃくしゃにして、私たちを見守っていた。
そのとき、父がこほん、と咳払いをした。
「アリス。」
私とアリスが同時に振り返る。
「感動的なシーンを邪魔して悪いがね。少し私の話を聞いてもらえないだろうか。」
父の提案は予想外のものだった。
アリスの主人に私を指名して、今後の彼女のプロデュースを全て任せると言うのだ。できるだけ派手に。父はそれだけしか注文しなかった。
そしてハービーには、彼のファクトリーのスポンサーになることを約束した。一度、実家に挨拶に行くのを条件に。
「一番頭の良い子を手放したと、クランの奴はがっかりしてたぞ。」
父は上機嫌で語った。
そして毎日がめまぐるしく過ぎる。
『アリス』…この後、急速に普及することとなる感情表現型アンドロイドの誕生は、世界をにぎわせた。
愛を知るロボット。マスコミは彼女をこう称えた。
受付を勤めるアリスをひとめ見たいと、会社のロビーには見学希望者があふれ、業務に支障が出たため、週末には各種イベントや
系列テーマパークなどにも積極的に出向き、彼女は休む間もない程だった。そしてどこでも、とびきりの笑顔を振りまいた。
アリスと彼、そして私の元には毎日取材が殺到し、眠る間もないほどだった。何で私まで…、と思わないでもなかったが、彼は当たり前だと
言わんばかりだった。
「名門クロフォード家の令嬢でアカデミーでも成績優秀。お母さんは有名な映画俳優。…さらにその美貌だ。話題性は抜群じゃないか。」
君の前では僕なんか、逆立ちしても敵わないよ…と、じゅうぶん嫌味とも受け取れる言葉を、のちに50年に一度の天才と称される彼に言われた。
鈍感な彼は気づかなかったが、世間では私と彼の仲も取り沙汰された。
私のセカンドネームが『アリス』であることから、恋人である私を彼女のモデルにしたのだろう、とゴシップ記者は楽しそうに邪推してくる。
もともとアカデミー内でも良からぬ噂が立ったくらいだから、こうなるだろうことは薄々予測していた。
父に注意されるかと思ったが、この件に関して父は沈黙を守った。…そもそも、勘の良い父が、私と彼の関係を見抜いていないはずはない。
個人の才能をこよなく愛する父だ。おそらく、クラン家の天才少年に自分の娘をくれてやり、一族に取り込もうと画策している。だからこそ彼に、
実家との関係修復を要求して、彼自身の価値を上げさせたのだろう。
ただ、父の思惑はおそらく成就しないだろう。だって彼は一緒の時でも常にアリスを見ていて、私のことなんて目に入ってもいない。
(何度目かの)アリスの歓迎パーティーが終わって、会社側に彼女を引き渡し、私たちはようやく取材陣から解放された。
彼女はこれから社内で暮らし、メンテナンスやイベントなど外出が必要な時だけ、オーナーである私が付き添うかたちになる。
ハービーももうすぐアカデミーを去り、父の出資で郊外に新しいファクトリーを構える。私はまだ博士課程の途中だから、私たちの生活は
これからは、ばらばらになる。
地下の小さな研究室も今月中に引き払うことが決まっていた。その引越しの仕度のため、彼と私は久しぶりにあの部屋も訪れた。
狭く散らかったその部屋にはもうアリスはいない。それは思った以上に寂しいことだった。
いたるところに、三人での思い出が残っている。交わした言葉、笑顔、それに…
ハービーも同じことを思ったのだろうか。扉を開けてしばらく薄暗い部屋をぼうっと眺めていたが、何かを振り払うように首を振ると、
着替えもそこそこにベッドの上に寝転がった。
「…疲れたから、片付けは明日で良いか?」
「いいわよ。どうせ業者が来るのは週末だしね。」
そう言いながら、私も長椅子にもたれる。
二人とも、相当酔っていた。「アルコールは貴重な脳細胞を腐らせる」と普段は一滴も酒を飲まない彼だが、パーティーでは立場上飲まないわけに
いかないし、私は私で、下戸な彼の負担を減らすため、積極的に杯を受けねばならなかった。
ネクタイも眼鏡も外し、ワイシャツの前をはだけた彼は、久しぶりにだらしない変人に戻っていた。
静かなこの部屋で、私たちはそれぞれ思い出に浸る。
「…少し、独り言を言っても、いいか?」
彼がつぶやいた。酔っ払いの愚痴を聞いてやろうと私が頷くと、彼は仰向けに横たわったまま、目を閉じて腕を額の上に乗せ、表情を隠す。
――昔、僕が子供の頃、屋敷には何人かの雑用係のアンドロイドが居た。
今思えば、早めに外に出して育成コストを減らすためなんだろう…皆、子供の姿をしていて、こちらの言う事は一応理解するものの、
ろくに会話は成り立たなかった。ただ言いつけのままに動くロボットとして、人目のつかないところで黙って働いていた。
僕は当時から変わり者で家族と馴染めず、早々に離れに追いやられていた。
そこでは数少ない使用人と共に、一人のアンドロイドが働いていた。早朝から深夜まで黙々と働き続ける女の子…僕はその子を蟻のようだと思った。
離れという巣の、僕という王様に仕える働き蟻。
蟻の行列を見て、虫にも心はあるのだろうかという疑問を抱いていた僕は、ある日、実験をはじめたんだ。
朝昼晩、そのアンドロイドに声をかける。
最初はおはよう、とかこんにちは、とか簡単な挨拶。それに慣れてきたら、今日は暑いねとか、明日は雨かな、とか簡単な会話。
最初はろくに返事も出来なかった彼女が、僕を見ると立ち止まるようになった。まるで話しかけられるのを待っているかのように。
そうなったら次は褒めてみる。働き者だねとか、君が掃除してくれるから部屋がいつも綺麗だよとか。…褒めれば伸びるという、
犬のしつけか何かの本を参考にしたんだと思う。本心からそう思ってたかは覚えてない。
最初は黙って聞いていた彼女は、戸惑いながらも「ありがとうございます」と言うようになった。
僕は、自分の実験の成果が出るのが嬉しくてたまらなかった。…彼女が好きだったのかと言われれば、嫌いではなかった。でも…
一人の人間として扱っていたかと言えば、そうじゃない。…ただの実験動物…そういう言い方が、一番近かったと思う。
そしてその日、事件は起こった。
寒い夜だった。一番上の兄が珍しく離れにやって来た。兄貴は僕をよく殴ったし、その日は特に悪酔いしてる風だったから、
僕は顔を合わせるのを嫌って早々に部屋に引っ込んだ。
しばらくして静かになったから、僕はトイレに行くために廊下に出た。応接室の前を通るとき、何かの物音に気づいて、少し開いている
扉の隙間から中を見た。
……………。
あの子が、犯されていた。
小汚い豚のように呻く兄貴の下で、声も上げずにただ揺さぶられるだけの細い身体。びりびりに破かれた服と、奇妙に折れ曲がった足。
虚ろなあの子の、目。
当時子供だった僕にはそれが何だか解らず、それでも見てはならないことを見てしまったことは直感的に気づいて、息を潜めて部屋に帰った。
…ただ、その光景は目の奥に焼きついてずっと消えなかった。
そして、あの子は壊れた。
…壊れたとしか言い様がない。脚の間から血を流したまま、焦点の合わない目でふらふらと徘徊するあの子を、次の朝、中庭で見つけた。
僕が何を言っても、もう何も反応しなかった。ごめん、助けられなくてごめんって、何度謝っても。
その日のうちにあの子は廃棄された。犯人は兄貴だってすぐ知れ渡ったけど、親父はちょっと注意した程度で済ませてしまった。
不用意にメイドに手を出されるよりは、ずっとマシだということだろう。
当の兄貴は「いくつもヤッたけど、壊れたのはあれが初めてだ。あれは不良品だ」って憤慨してた。
うちの所有するアンドロイドだ。何をしても兄貴は悪くない。…悪いのは、僕だ。
あの子は心のかけらが芽生えはじめていた。だからこそ理不尽な暴力にその心が耐えられなかった。
僕の好奇心を満たすためだけの実験は、ひとりのアンドロイドに心を生み出して、そして壊したんだ――
「…ならば何故、アリスを作ったの?」
心を持ったアンドロイドの脆さを知る貴方が、何故。
「…僕は、あの子達が…全てのアンドロイドが心を持ちうると世間に証明したかった。そして…」
伸ばしていた片手をぐっと握り締める。
「僕はあの子達に、全てのアンドロイドが人権を得るきっかけを与えたい。それが、あの子に対する僕の贖罪だ。」
私は言葉を失った。あまりに非現実的な彼の夢に。
最下層の劣悪な環境で働かせるために生み出される、複雑な作業もこなせる高性能なロボット。そんなアンドロイド達に人権を与えれば、
私たちの日常生活は根本から崩れる。
「無理よ。常識では考えられない。」
「…すぐには無理だ。でも、この世界はアリスを好意的に受け入れた。この騒ぎで、すぐに他のファクトリーも感情表現のできるアンドロイドの
開発を始める。…十年や二十年では無理だろう。五十年…それとも百年か…この世に心を持ったアンドロイドが増えて、それを愛する人が現れれば、
世論は動き始めるはずだ。僕たちと同じ心を持つあの子達を守ろうと。アンドロイドと人間が思いやりを持って手を携えれる世界に変わろうと…ただ…」
彼の声がひどくゆがむ。
「…それまでに生み出される、心持つアンドロイド達は…ただの踏み台だ。その恩恵を享受することは…ない。」
脳に負荷がかかるアンドロイドの寿命は十二〜三年というのが一般的で、十年を過ぎると買い替え時期というのが常識だった。アリスと同型の
育成方法は、より強い負荷を強いるため、その寿命はもっと短い、というのが彼の見解だった。
「…アリスも…これから僕が作り出す娘達も…心など無ければ良かったと思うだろうか…僕を…。」
それは今にも消え入りそうな声だった。
「…僕を…恨むだろうか…。」
私も彼もひどく酔っていて、そのうえ私は、彼に同情しているのだと思う。
この自信家の変人が、無防備に見せた弱い姿に。
…可哀想な人。人形だけを深く愛して、そして絶望している孤独な人。
彼の首に優しく腕を絡めると、背中を向けて顔を見られまいとそらされてしまう。その耳にそっと囁く。
「全てのアンドロイドが貴方を恨んだとしても……私は…私だけは、貴方の気持ちを知っているわ。」
「………アリス。」
「…なに?」
自分でも驚くほど優しく返事をすると、彼は私の胸に顔をうずめ、震える腕できつく抱きしめてきた。
「…今だけ…甘えさせて…くれ……。」
どうしたのよ、と私は笑ってキスで答える。彼はほっとしたように息を吐いて…次の瞬間、私を押し倒した。
…私も貴方も、酔ってるのよ。だからしょうがないわよ…ね。
あの時と違う、驚くほど荒々しい、飢えているかのような彼の愛撫を受け止めながら、思う。
あの子は私に、貴方を愛しているか聞いた。
貴方も聞かれたんでしょ?「カレンをを愛していますか」って。貴方は、何て答えたの?
貴方はアンドロイドというただの人形を、たぶん死ぬまで愛し続ける。そこには他の人間の入る余地など無い。
あの子は愛を理解したと言った。でも、愛って何?偉そうな顔をしていても、本当は、私にもよく解らない。
ただ…アリスは貴方を…たぶん…愛しています。