世の中に天才という人がいるとすれば、彼の事だろうといつも思う。
貧富の差が激しい現代において、裕福な家庭に生まれついた私の、幼馴染。
政財界の大物とその家族が集まるパーティーの片隅ですら、いつも彼は異彩を放っていた。
作り笑いを知らず、丁寧な言葉遣いも、振舞うべき所作も知らず、いつも彼はひとりだった。
庭にうずくまる彼に興味を持ったのは、同じ年頃の子供が他にいなかったからか、うわべだけはにこやかでも、心の奥では『女優の子』と私を蔑む
大人達から逃れるきっかけを作りたかったのか。今はもう覚えていない。
「何を見てるの?」
彼は私に振り返ったが、特に何の感慨も抱かなかったようで、すぐに視線を地面に戻す。
その態度は著しく私のプライドを傷つけた。
女優だった母から見目の良さ、父からは良く回る頭脳を受け継いだ私は、いかに振舞えば自分の魅力を増すことができるか、それを周囲から学び、
自然と身に着けてきた。
愛らしい笑い方。いちばん綺麗に見える立ち姿。上品で優雅に見える歩き方。
そこに居るだけで人目を引く魅力を私は持っている。…それが10歳にも満たない子供である私の自信だった。
だから声をかけても公然と無視する彼のことが癪に触ったと同時に、私以外の何に興味を持っているか、とても気になった。
「何を見てるか聞いてるのよ!」
語気を荒げて聞きなおすと、彼は面倒くさそうに顔を上げ、澄んだ深緑の瞳を私に向けた。
「蟻。」
「…蟻?」
思わず聞きなおした私に、彼はうんざりした顔でそう、と答えると、また地面の上に目を戻した。
ドレスの裾を汚さないように私は彼の隣に屈みこみ、一緒に蟻を眺める。すぐ近くで私の顔を覗き込んで、彼は一瞬とても驚いた顔をして見せた。
「…蟻がどうしたのよ。」
「不思議じゃない?言葉も持たないちっぽけなこいつらが、ちゃんとコミュニュケーションを取って、一つの巣の構成員として生きてる。」
少年はわたしの問いにそう答えながら、茶菓子のビスケットを砕き、かけらを地面の上にこぼした。
一匹の蟻がそれに気づく。数匹の蟻が寄ってきたと思ったら、みるみるうちにたくさんの蟻がやってきて、我先にとかけらを巣に運び始める。
「自分だけ腹いっぱいになりたいなら、ここで食えばいいだろ。でもこいつらはそうしない。…こいつらは、自分が蟻社会の構成員だってことを
知ってるのかな。一ミリも無いちっぽけな脳みそで、何を考えてると思う?。こいつらに誰かが好きとか嫌いとかいう感情があると思う?…
心があると思う?」
彼の言葉は同世代のものにしては難しくて理屈っぽく、それでも私の興味を揺さぶった。
生き生きと蟻の心を語る彼は、私の周りにいたどんな人間とも違っていて、新鮮だった。
「おいでアリス。おばあさまがいらした。ご挨拶をなさい。」
父の低い声が私を呼ぶ。私はもう少し彼と話がしたかったが、父には逆らえない。
老いてなお社交界に影響力を持つ、気難しい祖母の興味を引くため、父は私をこの場に連れてきたのだ。可愛い孫という武器として。
「…じゃあね。」
後ろ髪を引かれる思いで、私は彼に手を振ると、彼に背を向けた。
父は私を「私のアリス」といとおしげに抱き上げ、額にキスを落とす。それすらも、仲睦まじい父娘に見せるための演出であると、私は漠然と
気づいていた。それでも私は父が好きだった。
ふと振り返ると、彼は立ち上がり、私をじっと見つめていた。
「アリス…」
遠ざかる唇のかたちがそう動いたのを覚えている。
彼との出会いは、私が人生を踏み外した一歩目だと、今は自覚している。
次の日、私ははじめて昆虫図鑑というものを見た。気味の悪い蟲がリアルに描写されている本、いままではそんな認識しかなかった。
ただの蟻という名だと思っていた昆虫に、様々な種類があることを知った。私が昨日、庭で少年と見た蟻を一生懸命探したが、特徴を覚えていなかった
ためすぐには見つけられない。生息地域や色などから、おそらくこれだろうと絞り込めたときは不思議と嬉しかった。
その図鑑は詳しくなかったので、次は蟻の生態を書いてある本を探した。父の趣味である、紙に活字を印刷したレトロな…今思えばとても高額な…
図書室は、ネット書庫と比べると物を調べて探すには手間がかかることを、私は知らなかった。とにかくどの本も重いうえ、子供の背では一番下の段より
上には手が届かないから、いちいち脚立を移動しなくてはならない。人目を盗んで忍び込んだので、誰かに探してもらう事も出来ない。
夕方、図書室の扉が開いている事に気づいた使用人が中を覗くと、やっと見つけた子供向け学習書の「アリのせいかつ」のページを枕に、私は満足げに
眠っていたという。
おしゃれとダンスとおしゃべり以外の世界を知った私は、その日から吸い込まれるように勉学に取り付かれた。
「きょうだいの中でいちばん綺麗な顔のお前が、もったいない。」
頭の切れる女は可愛げが無くなると、祖母は残念がったが、父は私の好きにさせてくれた。
ただ、自分の容姿を磨く事は怠らず、いつでも父の手持ちの駒で居る事は忘れなかった。亡くなった母の代わりを勤められるように。
あの少年はわたしの遠縁にあたるらしく、その後もたびたび出会い、その度に簡単な会話を交わした。
話すたび、彼が文句無く天才と呼ばれる部類に属する人間であり、自分がどれだけ努力しても並ぶ事すらできないと思い知らされた。
そしてある時期から彼はぷっつりと姿を見かけなくなり、私は忙しい毎日の中で、彼のことを少しずつ忘れていった。
そんな彼と再会したのはアカデミーのゼミだった。
よれよれの服に黒縁眼鏡をかけた彼がまさかあの少年だとは、最初気づかなかった。
「…アリス?」
そう呼ばれてすら分からないくらい、あの賢くて気難しい幼馴染は、ただの冴えない変人に成長していた。
「なんで私のミドルネームを知ってるの?」
きょとんとする私に、しどろもどろに彼は、
「えーっと、あのアリス…だよな?」
と聞き返す。
そうしてるうちに教授が授業を始め、私は彼から興味を失った。
ずいぶん後になってから、家族以外で私をアリスと呼ぶ同世代の男性はひとりしかいないと、ようやく思い出した。
彼…ハービーはアカデミーでも既に変人呼ばわりされていて、そういうところは子供の頃からちっとも変わってないことに苦笑いさせられた。
成績は文句無くトップクラスで、飛び級で入学し、私と同じ歳でありながらもう3年も先輩だということ。
変人が高じて家を勘当され、いまは奨学金で暮らす苦学生で、専攻は有機人体工学であること。
人付き合いが極端に悪く、おそらく友人と呼べるような人間はいないだろうということ。
取り巻きの男子学生たちは、少し私が興味を示しただけで、ほいほいと情報を提供してくれた。
私がはじめて劣等感を持った少年とこうして再会するのは、不思議な偶然であると同時に、軽い失望を味あわされた。
…このまま出会うことなく、子供の頃の憧れの姿のままいてくれればよかったのに。
ふけが落ちてきそうなぼさぼさの頭と、猫背の背中を見てため息をついた。その癖、やっぱり私より成績は優秀なのだから、たちが悪い。
それでもゼミが同じになれば何度も顔を合わせるし、幼馴染のよしみで言葉も交わす。
自然と、彼も私をアリスと呼ばなくなり、他の皆と同じように、カレン、とファーストネームで呼ぶようになった。
印象的だったのは、ある日、カフェでお茶をしていた時だった。
そのカフェは、レジ係にアンドロイドを使っていた。
こんな街中で、仕事に従事するアンドロイドを見かけるのはとても珍しい。彼女ら…アンドロイドの大半は女性型である…は人目につかない場所で
ひっそり働いている事が多かった。
一緒に食事をしたときは私のおごりだという暗黙の了解があったから、私はレシートをアンドロイドに手渡した。
無機質な喋りと表情の無い顔が気味悪かった。ましてや彼女らはその素体として死んだ人間を使う。人間の脳に勝る演算速度と記録能力を持つ
コンピューターは、未だ開発されていなかったし、生きた人間を改造する事は倫理の観点から、国際法で禁止されているからだ。
動く屍。人間のかたちをしたロボット。一般的なアンドロイドの認識とはそんなものだ。
「アンドロイドを店員に使ってるようじゃ、あのカフェはすぐ潰れるわ。」
私がそう言うと、彼はどこか憤慨しているようだった。
「性能の無駄遣いだ。」
「そうね。もっと高機能が生かせる場所で働かせればいいわ。…できれば人目のつかないような。」
釣り銭を渡される際、冷ややかな手に触れられそうになったことを思い出して、私は身震いする。
「そうじゃない。人間をベースに作ってるんだ。性能はそのままに表情も声も、もっと感情豊かに引き出せるはずだよ。」
僕なら…
彼はそう呟いた。
「僕なら、生きたアンドロイドを作れる。」
「貴方らしいわね。」
私は笑った。蟻に心があるかと悩んでいた頃から、やはりちっとも成長していない。
突然、父に呼び出されたのは、それからしばらくしてからのことだった。
最近はあまり家に顔を出していない。それを指摘され、アカデミーを退学しろと言われるかとびくびくしていたが、父の用件はそうではなかった。
そしてアカデミーに戻ると即、私はアンドロイドの居るあのカフェに、彼を呼び出した。
「…話って?」
私は、ある高名な博士の名を挙げて、この人を知っているか、と尋ねた。
「アンドロイド研究の第一人者だ。昔、雑用のアルバイトで彼のファクトリーに入ったこともある。それがなに?」
常識だと言わんばかりに、彼は鼻を鳴らす。知っているなら話は早い。
「父の持っている会社のひとつが、博士にアンドロイド製作を依頼したのよ。仕事は受付嬢。早くて正確な対応と…あとはまぁ、話題性作りね。」
私は説明しながら、レジの方をちらりと見た。相変わらず無表情にお金を受け取る店員。
この話を父から聞いたとき、計画が頓挫して良かったじゃない、と心の中で思った。アンドロイドに接客業など、はじめから失敗する事が約束されて
いるようなものだ。
「受付って…博士の得意ジャンルは軍事系アンドロイドじゃないか…それで?」
呆れたように、彼は話を促す。
「契約を済ませて、アンドロイド育成の準備ができた頃、博士が急病で倒れたらしいのよ。」
えーっ!!…と立ち上がって彼が叫ぶので、店内の視線は私たちに釘付けになった。私はそそくさと彼を座らせ直す。
「続けて良いかしら……話題性作りとしては博士じゃないと困るというので、この計画は立ち消えになったんだけど、未完成の素体アンドロイドが宙に
浮いた形で残ってしまったのよ。契約は済んでいたから、うちの会社のものになるんだけど、博士のファクトリーはそれどころの騒ぎじゃない。それで…」
「話が見えてきたぞ…」
彼はわくわくと、身を乗り出した。「そのアンドロイドを育成できる人材を探してるって訳だ!」
予想通りの反応だった。
――僕なら、生きたアンドロイドを作れる――
扱いに困った父が私に、アカデミーには知り合いの専門家がいないか?と相談して来た時、私には彼の顔しか浮かばなかった。
無名の、しかも実務経験も皆無な彼の名を挙げたとき、父はとても驚いたが、それでも私に任せると言った。可愛い末っ子の気まぐれを聞いてやろうと
いう親心かもしれないし、彼の実家に恩を売る機会だと思ったのかもしれない。
父の思惑は量れなかったが、それでも、生きたアンドロイドというものが存在するなら、私も見てみたい。
「やる!やらせてくれ!!こんなチャンス二度とない!!」
彼は私の手を、なんの遠慮もなくがっちりと握った。
「…言われた通りの機材は揃えたわ。最低限の設備にはなるけど…」
薄暗い地下室の明かりをつける。こつこつと、二人分の固い足音が響いた。
「一応、ファクトリーと同等のことは、ここでできそうよ。」
契約が反故になった時に、違約金としてかなりの金額が戻ってきたらしく、父はそれを全額私に預け、必要経費として使うことを許した。
「…ただ、人を雇う余裕はないわ。だから貴方一人で育てるの。期日は一年。できる?」
それなりにまとまった金額だったが、アカデミーの敷地に近い地下室の家賃と中古の機材の購入費で、それの大半は消える。
「充分さ。」
彼はそれぞれの設備を念入りに確認しながら、頷いた。
「一応、見習い院生兼バイトとして、あちこちのファクトリーで働いて、必要な知識は盗んだ。制御の為のおおむねのプログラムは自分で組めるさ。
…ところで」
彼はきょろきょろと辺りを見回した。
「肝心の素体は?」
「…こっちよ。」
私は奥のカーテンを開ける。
ちいさなカプセルの中に、氷漬けになって封じ込められている、2歳か3歳くらいの幼女。
あまりにもいたましくて、わたしは目をそらす。
これから、こんな小さな子供の遺体をいじりまわして、無償で働くロボットにしようというのだ。
「脳へCPUを埋め込む外科手術は終わってる。有機金属製パーツの交換も済んでいる。あとは蘇生作業をすれば、すぐに育成に入れるそうよ。」
頷くと、彼はカプセルの中の少女をじっと見つめた。私を含めた誰にも見せた事のないような、いたわるような、やわらかい眼差しで。
「…死因は、わかる?」
「カルテが一緒に届いていたから、見れば分かると思うわ。でも、そんなことが必要なの?」
アンドロイドの素体となる以上、病気や内臓の損傷…特に脳に…が無いかどうか、厳重な検査が成されているはずだ。
「そりゃそうさ。これから生き返らせてあげるんだ。どんなに怖くて、痛くて、辛くて、寂しい思いをしたか、少なくとも僕は分かってあげないと…」
そう言いながら、カルテをぱらぱらとめくる。
「施設の出身…冬の川に落ちたことによるショック死…か。身寄りが無くて遺体の引き取り手がいなかったんだな。」
かわいそうに、と彼はつぶやいた。
「…寒かっただろうに。こんな冷たいところに入れてごめんよ。すぐにあっためてあげるからな。」
見知らぬ子供の遺体に話しかける姿は優しげであり、また、頭のおかしな人間にも見えた。
蘇生作業が一段落し、私と彼は疲れ果てていた。
一人でやれると彼は言ったが、実際にこういう速度と正確さを要求される作業は、一人の手では負えないため、結局私が手伝わねばならなくなる。
貧乏くじを引いたとは思ったが、なにかを作り上げる工程というのは、思ったよりも充実感があった。
今は、少女の弱いが安定した心拍が、モニターに波打つように表示されている。
「悪いね。飲み込みが早くて助かるよ。さすがは才色兼備のカレン様。」
彼はくたびれた顔で、それでも満足そうに笑う。
長椅子にどさりと腰を下ろして、差し出されたインスタントコーヒーに口をつけた。甘くて安っぽいけれど、不思議と美味しい。
「ところでさ、名前、何がいいと思う?」
少女の眠るカプセルにもたれて顔を覗きこみ、彼は私に尋ねる。
「名前?」
わたしはきょとんとして聞き返した。
「形式番号の事?」
「そうじゃない。名前は名前さ。」
何を言っている、と彼は口を尖らせた。
アンドロイドには識別するための形式番号と固体番号が登録されるが、名前など無いか、もしくは所有者が買い取ってから、気まぐれに呼び名をつける
程度だ。
「コミュニケーションの基本は名前だ。」
腰に手を当てて胸をそらし、彼は言い切る。
「コミュニケーション?」
そう聞き返して私もカプセルを見る。…育成の最終段階近くまでこの中で眠っているこの子と、いったい何の情報交換をしようというのか。
「そう、そこが僕の理論の肝さ。」
彼は眼鏡の奥の緑の瞳ををきらきらさせながら説明する。
「通常、アンドロイドの育成期間中はバイタルチェックが基本で、知識や言語は、プログラムされた内容を睡眠学習と言う形で、脳に直接送り込む。
でもさ、せっかく高速処理できる優秀な頭脳を持ってるんだから、プログラムは倍速でも理解できるはずなんだ…だから、残ったその半分の時間を使って、
対話形式で情緒や感情を…心を、教えるんだ。」
「…心を…対話で…。」
「そう。一対一で言葉を交わす。人間の子供だって、密室で授業のVTRだけ見させ続けて育てたら、ろくに感情表現できない子になっちゃうさ。
アンドロイドの脳は人間と同じ。だったら、ちゃんと言葉を通じて教えていけば、人間と同じように、きめ細かい感情が芽生えるはずだよ。」
彼の理論は長ったらしいが、いちいち頷けるものだった。
「暗がりで計算だけしてればいいなんて可哀想じゃないか。表情や言葉で緻密なコミュニケーションが取れるアンドロイドがいれば、人と関わる仕事が
もっとたくさんできる。」
「それで、まず名前…か。なるほどね。」
女の子の名前など選び放題だと思ったが、いざ今ここで名づけろといわれると、確かに良い名が思いつかない。
彼は腕組みしたまま、うんうんとしばらく唸った。そしてふと顔を上げ、私の顔をじっと見つめる。
「………アリス。」
「え?」
久しぶりにミドルネームの方で呼ばれて、私は少し驚く。
「なに?」
「そうじゃない。…アリス。あの子の名前はアリスにしよう!」
「…ちょっと待ってよ。紛らわしいじゃない。」
私は慌てて彼を引き止めた。アンドロイドが私と同じ名前なんて、と思う気持ちもあった。
「いいじゃないか。君はカレン、この子はアリス。紛らわしいことなんて無い。」
私と少女を交互に指差しながら、早口でまくしたてる。そして、カプセルに取り付けたマイクのスイッチを入れると、彼は大きく息を吸った。
「…君の名前は、アリス。こんにちは、アリス。」
管理用のモニターの脳波を表すラインが、ぴくんと反応した。
「…反応した!…アリス、聞こえてるね?僕はハービー。僕の名前はハービーだ。これからよろしく!」
それが彼の長い模索の第一歩だった。
「差し入れよ、ハービー。」
ノックをしても返事がないので、いつものように合鍵で扉を開けて、地下へ続く暗い階段を降りた。
もともとガレージの地下に作られたこの部屋は、お世辞にも快適ではない。打ちっぱなしの壁はそっけないし、床もところどころひびが入っている。
天井が高いので圧迫感はなかったが、さほど広くない部屋に必要な機材が詰め込まれているのでとにかく狭い。
しかも最近になって、デスクと椅子、ベッドまで持ち込んだので、もう歩く隙間を確保するのが精一杯だった。
彼は住んでいたアパートを引き払って、こちらに住み込むことを決めたらしい。
「こっちにいるのがほとんどで、寝るためだけに帰るのは、時間も家賃ももったいない。」
それが彼の主張だった。父の決めた一年という育成期限を過ぎたらどうするのかと思ったけど、その時はその時なりに身の振り方を考えるのだろうと
思って、口は出さなかった。
幸い水道と電気は通っているし、シャワーとトイレもある。生活するぶんには困らないだろう。
「ハービー?」
姿が見えないのできょろきょろとあたりを見回すと、長椅子にぐてりと横たわって仮眠を取る彼を見つける。仮眠というよりは、疲れてそのまま
眠ってしまったのだろう。
一応白衣らしきものは着ていたが皺だらけで、顔には無精髭まで生えてきて、みっともなくて見ていられない。
…二十過ぎたらただの人、ってほんとね。
あーあ、と私はため息をついた。あの庭での彼との出会いは、もしかして私の初恋だったのかもしれない。夢が夢のまま終わってくれれば良かったのに、
現実の時の流れというのはなんと残酷なのだろうか。
目を覚ます気配のない彼に見切りをつけて帰ろうと、持ってきたサンドイッチをデスクの上に置いた時、モニターの横の青いランプがちかちかと点滅した。
『カレン?』
画面に文字が流れる。
…あら、起きたのね。
私は、彼がつけっぱなしにしていたヘッドセットを奪い、マイクを通して話しかけた。
「おはよう、アリス。…と、言ってももう昼ね。」
『じゃあ こんにちは カレン』
「そうそう。良い子ね。」
私の声に反応して、画面に文字が流れ飛ぶ。
脳波から表現したい言葉を読み取って文字に変換するシステムを、彼はアリスとの会話のために開発した。これだけでも特許が申請できそうなほど
画期的な発明である。ただ、彼はこのシステムでは満足しておらず、最終的には文字でなく音で、アリスの声を再生するシステムを作るつもりだと
言っている。
必要最低限の時間はアカデミーに出向き、残りの時間をアリスとの対話と新システムの開発に費やす。放っておくと食べる事も眠る事も忘れるから、
私はこうやって、何度も様子を見に来なくてはならなかった。
一月ほどしか経っていないというのに、アリスはずいぶん大きくなっていた。
1年後には成人前後まで成長させるのだから当たり前なのだけど、アンドロイドの育成というものを初めて見る私には新鮮だった。
雑談でも何でも、話せば話すだけ彼女の心も成長する。そう言われて、私も暇があるときはこうやって相手をしていた。
『ハービー 寝ちゃった さっきまで アリスとお話 してたのに』
「疲れてるのよ。寝かしてあげなさい。」
『はい』
文字上のつたない表現であるが、今の外見である5〜6歳の幼児にふさわしい物言いにくすりと笑う。
アリスはカプセルの中で、薄く目を開けて、透明な樹脂硝子の蓋越しに私を見た。
『カレン きれい。』
その文字を見て、私は思わず赤くなった。美人だと言われることも慣れているし、そのための努力も欠かしてはいない。ただ、無垢なアリスの言葉には
嘘もお世辞も下心もない。それが解っているから嬉しいし気恥ずかしい。
「ありがとう。嬉しいわ。」
喜びを言葉で伝える。アリスと話すときはできるだけ素直に。私はそれを心がけた。この対話は感情表現の学習なのだから、ひねくれた態度を取れば
彼女は戸惑ってしまう。
育成カプセルの溶液の中で、アリスはにっこり笑った。…これがアンドロイドかと思うほど、可愛らしい素直な笑顔に驚かされる。これが彼の言う、
生きたアンドロイドというものなのか。
『きょう ハービーは アリスの おとうさまだって 教えてくれたの カレンは アリスの なに?』
…お父様、ね。まぁ確かに、育ての父といえばそうなんだろうけど。
私は長椅子でいびきをかく彼を振り返って肩をすくめた。父親の威厳なんて微塵もない。
「うーん。どうなんだろう?」
迷う私に、アリスは不思議そうな顔をする。
『カレンは アリスの おかあさま? お勉強したよ おとうさんと おかあさんがいて こどもが うまれます って』
「…お母様は、ちょっと、勘弁…」
私は苦笑いした。
「お友達じゃ、駄目かな?」
『いいよ カレンと アリスは おともだち』
カプセルの中で、アリスは素直に頷いた。
私は少し複雑な思いになる。
アンドロイドに人権は無い。いくらこの場で友達ごっこをしてみせても、彼女がこのカプセルから出たときに、彼女と私は人間と物という、
越えようのない壁に隔たれる。
それはアリスを大きく失望させる事になるのではないか。この少女が純粋であればあるほど、暗い気持ちになる。
幸い、そんな細かい表情の変化までは、硝子越しには読み取る事ができないようだった。
『アリスと カレンは おともだち アリスの はじめての おともだち』
アリスは無邪気に喜ぶ。
私は彼女とどういう距離で付き合えば良いのか分からなかった。
ハービーはアリスの父親として彼女を溺愛し、育て、導いている。しかし私はあくまでスポンサーとして彼女の育成を管理する義務があるというだけで、
成長した彼女を物として使役するのも、また私のような人間である。
『カレンは ハービーの なに?』
物思いにふけっている時に投げかけられた突然の質問に、私は意表をつかれる。
「…お友達よ。」
そう答える他にない。
友達付き合いも悪くなり、足しげくこの地下室に通う私を見て、アカデミーの友人達が、私が彼と同棲していると噂しているのは知っている。
しかし現実は彼はアリスに夢中で、私のことはそもそも、女として見ているかどうかすら怪しい。
そのことは私のプライドを少し傷つけたが、アリスを見ていると仕方が無いとも思える。手をかけ心を砕けば砕くほど、この子は輝く。
この吸い込まれるような魅力には、私も敵わない。
『カレンと ハービーも おともだち?』
「そうね。オトモダチ。」
「…なんだ、来てたのか。」
呻きながら、ハービーが起き上がった。
「食事、持ってきたわよ。どうせ食べてないんでしょ。」
私は背を向けたままデスクの上の袋を指差した。
「いつも済まんね。」
彼はぼりぼりと頭を掻きながら袋をさばくと、中身のサンドイッチにかじりつく。
「…さて、私は帰るわね。さようなら、アリス。」
『さようなら カレン』
「オトモダチ、ね〜。」
サンドイッチをくわえたまま、彼は複雑な顔をして私を見送った。