「はぁっ……はぁっ……そ、そんな……」  
私は適当に飛び込んだ路地の奥、行き止まりになっている場所で足を止めた。  
どれくらい走り続けたんだろう。  
3方が高い塀に囲まれた、文字通りの袋小路で絶望に暮れる。  
ここがどこなのか、自分でもわからない。  
無我夢中で逃げ続けるうちに、どうやら全く知らない場所にまで来てしまったみたいだ。  
膝がガクガクと震え、一度足を止めてしまうと、もう一歩たりとも進めそうにない。  
走り出すどころか、立っていられることすら奇跡のようだった。  
それに、さらに逃げるためには一度引き返してこの路地を出ないといけない。  
今の私に、どんな短距離であっても引き返すことなんてとてもできそうにはなかった。  
「そ、それに……ここまでくれば……」  
私の淡い期待を裏切るように、背後からトン、と軽い靴音が響いてくる。  
「ひ、ぃっ……」  
本能的にその音から逃げようとする。  
けれど長時間に渡って酷使され続けた私の両足は、もう脳からの無理な命令には従ってくれなくて、上体だけが前に行こうとした結果地面に身を投げ出すように転んでしまう。  
そうなってしまえば、立ち上がることなんてもうできるはずもなかった。  
背後からは靴裏とアスファルトが擦れるかすかな音が徐々に大きくなりつつある。  
振り返って見るまでもなく、背後にはあれがいる。  
「やだ……やだよぉ……」  
他人の物のように全く反応しなくなった両足に頼るのを止め、腕だけを使って這うように前に進む。  
制服が汚れるのを気にしている余裕はない。  
逃げなければ、そもそもこの制服を着て学校に行く明日なんてこないのだから。  
だけど、ここは行き止まり。  
すぐに正面の塀にたどり着いてそれ以上は進めなくなってしまう。  
まるで私の人生を暗示しているかのような袋小路。  
唯一開かれた背後からは、あの女の子が――。  
 
「もう、諦めなさい」  
静かな声。  
その声に反射的に振り返る。  
そこにいたのは学校からの帰り道で出会った1人の少女だった。  
長い黒髪や黒いワンピースは夜の闇の中へ溶け込むようで、対照的にありえないほどに白い顔と手足だけが、そこに浮かんでいるかのような錯覚に陥ってしまう。  
私と同じ距離を走ってきているはずなのに、その様子に出会った時とわずかな違いも見つけられない。  
そのことに、どうしようもないほどの格の違いを思い知らされる。  
私と彼女の距離は数メートルほど。  
少女の年齢は、外見からするとせいぜい10歳程度だろう。  
尻餅をついた体勢の私を見下ろすその視線は、その外見年齢には到底相応しくない無機質なそれ。  
出会った瞬間に、目の前の相手が自分とは違う別の何かだと直感的に悟った私は、生物としての本能に従ってすぐさまその場を逃げ出したのだ。  
だけど結局はそれも無駄なあがきに過ぎなかった。  
逃げ切れるわけなんてなかったんだ。  
出会ってしまった、その時点でもう終わり。  
目の前の相手はそんな存在だった。  
「お、おねがい……なんでもするから、だから……」  
頭では無駄だとわかっているのに、口が勝手に動いて惨めったらしく命乞いをする。  
「し、死にたくないの……」  
その瞬間、それまで精巧にできた仮面のように全く変化がなかった少女の顔に、かすかな、本当にかすかなものであるけど変化が生まれる。  
わずかに顔を覗かせたのは、哀れみの感情のように私には感じられた。  
そこに一縷の希望を感じ取った私は、慌てて言葉を続けようとする。  
けれど――、  
「あなたはもう死んでいるの。  
 これは、もうどうしようもないこと」  
またしても仮面のような無表情に戻って、少女が言う。  
一瞬、何を言われているのかわからなかった。  
だって、私はまだこうして――。  
目の前の少女によって今にも吹き消されようとしてはいるけれど、それでもまだ今この瞬間は――。  
混乱する私の目の前で、それまで何も持っていなかった少女の手に長い何かが現れる。  
その柄も、その刃も、まるで夜がそのまま凝り固まったような禍々しい凶器。  
それは年端もいかない外見の少女が持つにはあまりにも不似合いで、それと同時に私に死をもたらすその存在にはあまりにも似合いすぎていた。  
後ろに下がろうとした私の背中はすぐに固い壁に触れ、それ以上は下がれなくなる。  
この期に及んでも、涙は不思議と流れなかった。  
奇妙なほどはっきりとした視界の中、目の前まで歩み寄ってくる少女。  
高々と振り上げられた大鎌。  
その刃が、月の光をぬらりと反射した。  
 
 
「まずは1人」  
地面に転がる女性の生首。  
恐怖に引きつった表情を貼り付けたそれから視線を逸らし、死神の少女――レアは小さくため息をついた。  
自分がやらなければいけないことと理解はしているものの、何も覚えていない相手に引導を渡すのは何度経験しても慣れるものではない。  
彼女は最期の瞬間までレアに殺されると思っていた。  
実際には数週間前に本来の生を終えているにも関わらず、彼女はそれを知らずにそれまで通りの生活を続けていたのだ。  
その死があまりにも突然だったりすると、時折このような現象が起こる場合がある。  
そんな迷える魂に引導を渡すのが死神の本来の仕事ではあるのだが、今回は多少事情が違っていた。  
一つの町で同時多発的に何人もの人間がそうなっている。  
そこには明らかに何者かの意思が感じられた。  
それ故、今回のレアの仕事には被害者たちの処理に加え、その何者かを捜し出し2度と同じ悲劇が繰り返されないようにするということも含まれているのだ。  
「次の被害者は……」  
精神を集中すると哀れな魂の居場所を大まかではあるが感じ取ることができる。  
踵を返し、反応の中で一番近い場所にいる存在に向けてレアが歩き出した、その瞬間だった。  
「――っ!?」  
背後で生まれた軽い爆発音に振り返ったレアが見たものは、地面から網のように広がる闇色の触手だった。  
驚きによって思考が一瞬空白になる。  
その一瞬が、レアにとって命取りになった。  
「くっ、ぅ……」  
ぎりぎりと全身を締め上げられる苦しさに我に返る。  
その時には、もう無遠慮な触手たちによって体の自由を奪われていた。  
両腕は体に密着するように縛り上げられ、両足も左右まとめて拘束される。  
たまらず大鎌を取り落とし、そのまま地面に倒れこんでしまった。  
芋虫のように這いつくばったレアの目の前、先ほどまであったはずの女性の生首は忽然と姿を消している。  
そこから導き出される答えは、その生首こそがこの触手たちの発生源であったということだ。  
息苦しさに顔をしかめながら視線を上げると、壁に背をもたれさせるようにして座り込んでいる女性の首なし死体の首の辺りで、赤黒い液体がブクブクと泡を立てている。  
血液に似たそれに、レアはようやくある事実に気付かされていた。  
既に心臓が停止しているせいで、首を切断しても派手に血飛沫があがることはない。  
だからといって全く出血がないはずはないのだ。  
だというのに少女の首なし死体の胴体に全く血の跡がない。  
少女に対する罪悪感もあり、その死体から無意識の内に注意を外していたのが失敗だった。  
その液体は見る見るうちに盛り上がり、やがて人の頭部の形を取る。  
表面に目が生まれ、鼻が生まれ、口が生まれ、耳が生まれ、頭髪が生える。  
最後にその色が本来の人間の肌の色を取り戻すと、レアが切り落としたはずの女性の首は、まるでその事実が嘘だったかのように元通りになっていた。  
唯一異なるのは、その表情。  
恐怖に歪んでいたその顔には、今や明らかな悪意を含んだ笑みが刻まれていた。  
 
「初めまして、死神さん」  
つい先ほどまでの、怯えきって命乞いをしていたものと同じとは思えない、耳に粘りつくような声音。  
それは強弱のバランスが完全に逆転したことによる余裕を感じさせるものだった。  
実際、一度は首を切断されながらも何事もなかったかのように立っている彼女と、闇色の触手に縛められ地に伏しているレア。  
他人から見れば、その立場の差は最早決定的なものに映るだろう。  
だが、レア自身は最初こそ驚きに自失してしまってのは確かだったが、今ではもう内心落ち着きを取り戻していた。  
「あなたが、今回の件の犯人」  
それを悟られぬよう、偽りの悔しさを滲ませながら少女を見上げる。  
「その通り。  
 もちろん、この体は借り物だけどね」  
勝者の余裕からだろう、少女はあっさりとレアの言葉を認めた。  
「いったい、何が目的なの? こんなことをすれば――」  
「死神が黙っていない。  
 事実、こうして貴女がやってきたわね」  
レアの言葉を引き継いだ少女が、十代半ばのその外見には似つかわしくない妖艶ともいえる微笑を浮かべる。  
その余裕が、レアには不可思議だった。  
確かに今優位に立っているのは彼女の方かもしれないが、その立場を考えればのんきにしていられるはずがないのだ。  
「わたし1人をどうにかできたとして、これから先、全ての死神を相手にして生き残れると思っているの?」  
レアが殺されれば次の死神、当然彼女よりも優秀な者が派遣される。  
目の前の少女の体を通して会話している相手が、普通の人間を超越した力を持っているのは確かだろう。  
だからと言って、死神全てを敵に回して立ち回れるほどだとは到底思えなかった。  
「そうね、確かに私1人には荷が重いかもね」  
その考えを、またしても目の前の相手はあっさりと肯定する。  
挑発的な言葉を投げかけても柳のように受け流される。  
独り相撲をとっているような錯覚に陥りかすかな戸惑いを覚えるレアの前で、少女は言葉を紡ぎ続けた。  
「でも、1人では無理でも、貴女が手伝ってくれれば不可能ではなくなるかもしれないわ。  
 さっき聞かれたけど、今回の目的は死神の中に協力者を作ること。  
 もちろん、本物の死神となれば研究対象としても最上級だけれど」  
その言葉に、今度こそレアは絶句した。  
その驚きの大きさは、振り向きざま触手に襲われた時をも凌ぐものだったかもしれない。  
目の前の相手が何を言っているのか言葉としては確かに聞こえているのに理解できない。  
それほどまでに、それは馬鹿げた提案だった。  
 
「でも、本当にラッキーだったわ。  
 貴女みたいなかわいい子なら、愛玩用としても十分価値があるもの」  
言葉を失うレアが見上げる中、少女がくすくすと笑う。  
「……本当にそんなことができると思っているの?」  
動揺によるわずかな震えが隠し切れないその言葉。  
形式的には問いかけの形を取ってはいるが、レアにはその答えがもう確信できていた。  
「もちろんよ。  
 さあ、まずはお近づきの印に名前を教えてもらえるかしら。  
 名前がわからなくては、これから先一緒にやっていくのに困るものね」  
予想通り自信たっぷりにうなずき、軽い調子で名前を尋ねてくる。  
それに対し、レアは口をつぐんで厳しい視線を少女に向けた。  
名前を媒介にして魂を縛る。  
それは人間が異形の者を従えるときの常套手段だ。  
「ふふ、さすがにそれくらいお見通しのようね」  
レアの視線などそよ風程度にも感じないのか、他愛のないいたずらがばれた子どものような表情を浮かべる。  
その細められた瞳の奥、そこに宿る嗜虐的な光にレアはまるで蛇に射すくめられた蛙にでもなったかのように背中に嫌な汗が浮かぶのを感じていた。  
「……そろそろ潮時みたいね」  
口の中だけで呟く。  
居場所こそ掴めていないものの、ある程度の情報を引き出すことができた。  
相手の口から出た言葉である以上、どこまでが真実なのかはまだ検討の余地があるが、レアは直感的に目の前の相手は嘘を言っていないと判断していた。  
馬鹿げた野望と一笑に付すのは容易いが、なぜかひどく嫌な予感がする。  
これ以上は危険だと警鐘を鳴らす本能に従い、レアは動きを封じる触手から逃れるために意識を集中し始めた。  
「それなら、自分から言いたくなるようにしてあげましょう」  
少女が視線の高さを合わせるように屈みこんでくる。  
ますます高まる嫌な予感にかすかな焦りを覚えながらながら、レアはその魂を――。  
 
「なっ――!?」  
今夜だけで3度目の驚愕が死神の少女を襲う。  
それは空の高みに飛翔するはずだった精神が、未だ地に縛り付けられている状況に対するものだった。  
「あら、どうしたの?」  
嬉しそうに、ひどく嬉しそうに問いかけてくる少女の声も、パニックに陥ったレアの頭には届かない。  
だが――、  
「どうして、憑依がとけないの?」  
相手の口から零れ出た、レアの心の声を代弁するかのようなその台詞に、皮肉にも彼女は我に返らされてしまう。  
目を見開いて見つめた先、少女は心底嬉しそうに微笑んでいた。  
「死神がこの世界で活動する場合、波長のあった人間に憑依しなくてはならない。  
 知らないと思った?」  
三日月形の唇から紡がれる言葉に、レアは戦慄を覚えて震え上がる。  
先ほどまで持っていた余裕は、最早どこにも存在していなかった。  
「種明かしをすると、以前それで逃げられそうになったのよね。  
 ああ、あれは本当に惜しいことをしたわ」  
千千に乱れる頭の中を必死に整理し、少女の言葉を理解しようとする。  
それはつまり、彼女は以前にも死神を捕らえようとして失敗したということだ。  
「けど、そんな話聞いたこと……」  
「それはそうよ。  
 だって、その場で殺しちゃったもの」  
生け捕ることの方が何倍も難しいのよねと、少女は付け加える。  
「まあそれでも死神が1人いなくなったことにはかわりないから、ほとぼりが冷めるまで大人しく"それ”の研究に専念してたのよ」  
"それ”というのはレアを縛める触手のことだろう。  
肉体を束縛するだけでなく、魂までも縛り付ける闇色の触手。  
いつでも抜けられると思っていたからこそあまり気にならなくなっていた締め付けが、今ではまるで魂そのものに巻きつかれているように強く強く感じられた。  
「ちなみに、それの効果はそれだけじゃないのよ」  
とっておきの手品を披露する時の口ぶりで、少女はますます笑みを深くする。  
それを合図にしたように、闇色の触手に劇的な変化が訪れた。  
レアの手首ほどの太さだったそれが指程度まで細くほぐれていく。  
そして次の瞬間、それらが一斉に皮膚の下へと潜り込み始めたのだ。  
 
痛みはなかった。  
だが、それだけに圧倒的なまでの異物感だけが強調されてレアを襲う。  
全身の皮膚の下を無数の虫に這い回られているかのような不快感に悲鳴をあげそうになる。  
アスファルトの上、ちょうど真夏に熱せられたそれの上でのたうつ蚯蚓のように全身を痙攣させてレアは懸命に堪え続けた。  
「あ、く……ぅ……」  
みっともなく叫びださなかったのは、わずかに残されていた死神としてのプライドのおかげだ。  
それでも、その状態がずっと続いていれば、最終的には耐え切れなくなっていただろう。  
けれど幸か不幸か、全身の異物感がある一瞬を境にして波のように引いていく。  
時間にすれば数秒程度の出来事。  
全ての変化が終わってしまうと、レアの体に巻きついている触手はチョーカーのように首を一周する1本だけになっていた。  
全身に感じていた締め付けからも、異物感からも解放されて安堵のあまり長い息を吐く。  
だが、次の瞬間には自らの体を襲った新たな異変にレアは気づいて息を呑むことになってしまった。  
先ほどまでの嵐のような時間。  
その反動のように、今では首から下、一切の感覚が失われていた。  
ちょうどレアが少女にしたように、首からばっさりと切り落とされたようなそんな錯覚。  
その不安から首だけを動かして自分の体を確認する。  
見た目の上では変化はない。  
体の構造上、首が繋がっているかを直接視認することはできないが、生きた人間の体を借りている以上切断されていればかなりの出血があるはずだった。  
「なにを……したの……?」  
視線を目の前の少女に戻し、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。  
その声には隠し切れない未知への恐怖が滲み出していた。  
「まずは立ちなさい。  
 そのままじゃお話するのも大変でしょう」  
「な……え!?」  
ずっと地面のすぐそばにあった目の高さが、すうっと普段の位置まで持ち上がる。  
体の感覚がないせいで、一瞬自分が立ち上がっていることにすら気付かなかった。  
 
同じように立ち上がり、少女がその身を寄せてくる。  
身長差のせいでわずかにかがんだような状態になって棒立ちのレアの矮躯を抱き締める少女。  
「心配しなくても、馴染んでくれば感覚は戻るわ。  
 でないと意味がないしね」  
その言葉通り、しばらくすると最初は感じなかった背中に回された腕や密着した相手の体の存在が感じられるようになる。  
だがその変化に安堵を覚えるより早く、レアは少女の意味深な言葉に不安を駆り立てられていた。  
感覚は戻っても、未だ自分の意思では指一本動かせない。  
そのことがその不安に拍車をかけていた。  
「や、やめて……」  
相容れぬ敵に抱き締められて抵抗もできないことに焦りながら、せめて言葉だけでも抗ってみせる。  
けれどそれすらも弱弱しく震える口調で、相手を調子付かせることしかできないのが悔しかった。  
恐怖を見透かしたようにレアの耳元で笑う少女。  
吐息にくすぐられた耳朶から全身へと鳥肌が伝染していく。  
「どう、名前を教えてくれる気になった?」  
腕はレアの背中に回したままで、少女はわずかに体を離す。  
間近で見つめ合い、相手の瞳に映る自らの怯えた表情を自覚しながら、それでもレアは唇を固く引き結んだ。  
「強情なのね」  
「んっ!?」  
少女はかすかに吐息を零すと、拒絶の意を示すレアの唇にあろうことか自らのそれを重ねてきた。  
触れ合う柔らかな感触。  
それが一つのきっかけになった。  
次々と身を襲う出来事に翻弄されていたレアの中に、小さな炎が燃え上がる。  
 
「あら、怖い」  
腕を解き、数歩を下がった少女の口元からあごに向かって、一筋の赤い線が引かれていた。  
口の中にわずかに残る鉄の味を感じながらレアは視線を鋭くする。  
体さえ自由に動くのなら今すぐ飛びかかりたいところだった。  
けれど今のレアには、それは到底叶わぬ願いだ。  
出来るのは感心半分呆れ半分といった風で肩をすくめる少女に対し、最大限の敵意を込めて視線を送ることぐらいだった。  
いかに死神であっても、視線だけで相手を殺せるわけではない。  
それでもそうしないではいられなかった。  
それは相手に呑まれ、崩れかけている心の裏返しだったのかもしれない。  
それを自覚しながら、それでも死神の少女は懸命に自分の心を奮い立たせていた。  
「本当は私自身が教えてあげようと思ったのだけど、今度近づいたら喉笛を噛み切られそうね。  
 それなら、自分でやってもらおうかしら」  
その言葉が終わるやいなや、レアの両腕が勝手に動き、その手のひらが漆黒のワンピースの上から胸部に添えられる。  
立ち上がるときは感覚が失われていたせいで何もわからなかったが、それが戻った状態で腕が勝手に動くというのはひどく奇妙な感覚だった。  
加えて、ほとんど膨らみをもたない胸の上で10本の指が踊ると、くすぐったいような不思議な感覚が込み上げてくる。  
「何を、させようっていうの?」  
その意図が全くわからず、混乱からわずかに視線を弛めてしまう。  
「ふぅん、さすがに何も知らないのね。  
 恥ずかしがってくれないのはちょっと興醒めだわ。  
 それとも、さすがにその体には早すぎてわからないだけなのかしら」  
なおもレアにはわけがわからない言葉を続ける少女の姿に、それまでとは違う不安が込み上げてくるのを死神の少女は感じていた。  
「そうだわ、あれを使ってみようかしら」  
そんな彼女にお構いなしで何かを考え込んでいる風だった少女が不意に顔を上げる。  
その表情は何かを思いついたかのように明るいもので、それが一層レアの心を追い詰めていく。  
満面の笑みを浮かべ、つい先ほど自分が言った言葉も忘れたかのように無防備に歩み寄ってくる少女。  
その警戒心のなさに、レアは改めて立場の違いを思い知らされ唇を噛み締めたのだった。  
 
「はい、これ」  
無造作に差し出されたガラス製の小瓶。  
一旦胸から離れたレアの手は、本人の意思に反してそれを受け取ると蓋を開けて顔に近づけてくる。  
中にある薄緑の液体に危険を感じたレアは必死に首をひねって逃れようとするが、所詮首だけでは動かせる範囲はたかが知れていた。  
「な、に……この匂い」  
まず感じたのはあまりにも強い甘い香りだ。  
気道を通り肺の中にわだかまるそれに反射的にむせそうにすらなる。  
けれど次の瞬間にはその不快感すら一瞬忘れそうになってしまった。  
それほどまでにそこからの変化は劇的だったのだ。  
「うあああああああああ!」  
今度こそ悲鳴を抑えることができなかった。  
それどころか自分が叫んでいるという自覚すらないままレアは声を振り絞る。  
頭の中で情報が氾濫している。  
言葉にすればそんな状態だった。  
経験したことがないその現象に、レアは為す術もなく翻弄されてしまう。  
「それは本来どうしても鈍くなってしまう死体の感覚を補う薬。  
 生きている人間の場合、何倍にも増幅された感覚に慣れるまでしばらくはかかるかもね」  
情報の奔流の前で押し流されそうになる意識の中、そんな言葉が聞こえてきた気がした。  
 
「は、ぁ……あ、くぅ……」  
ようやく増幅された感覚に頭が慣れてくる。  
それでもわずかに風がそよぐだけで全身を誰かの手で撫でさすられているかのような感覚に襲われ、わずかでも身じろぎすると服で擦られた肌はまるでヤスリがけでもされているかのように感じられていた。  
「ひっ!?」  
その中で、再び胸に添えられた自分の両手。  
そこから生まれる感覚は前回とは全く異なるものだった。  
指の動きは同じはずなのに、それだけで神経が焼きつきそうなほどの刺激がそこから生まれてくる。  
「くぁ、ふ……ん、いやぁ!」  
何倍にも増幅された触覚の奥底に、得体の知れない感覚が潜んでいる。  
それを本能的に察したレアがそれから逃げようと必死になるが、相も変わらず体は全く自由にならず彼女の体は自分自身の両手による陵辱を受け続けてしまう。  
加速度的に膨れ上がっていく未知の感覚。  
頭の芯が痺れるような、くすぐったさにも似て非なる感覚に徐々に徐々にレアの心は追い詰められていった。  
「あひぃっ!?」  
一瞬胸のあたりで何かが爆発したような錯覚にとらわれる。  
それはいつの間にか膨れ上がっていた小さな蕾が、2本の指に挟まれたことで発生した衝撃によるものだった。  
目の奥で火花が飛び散ったようで、瞬間思考が白く染め上げられる。  
そのあまりにも鮮烈過ぎる一瞬が過ぎると、今度はジンジンとした熱が胸の奥に渦巻いているのが感じられた。  
「ようやく、わかってきたみたいね」  
全身がガクガクと震え、視点が定まらない。  
その揺れ動く視界の中で少女が満足そうに微笑んでいるのが見えた。  
「いっ……な、なにが……あくっ、これなにぃ!?」  
「体を持たない死神にとっては、肉体的な快感って初めての感覚でしょう? でも、一度知ったら病み付きになるわよ?」  
「い、いやぁ、こんなの……こんなの知りたくないぃ!」  
自分が自分でなくなっていくような恐怖に襲われ、身も世もなく泣き叫ぶレア。  
頬を伝う涙の雫すら、今の彼女には火傷しそうなほど熱く感じられた。  
 
胸を中心に吹き荒れる嵐のような快感の中、ついに両足が体重を支えきれなくなり尻餅をつく。  
「きゃひぃ!?」  
その衝撃でレアは自分の体に起こった異変が胸だけではないことに気付かされた。  
下腹部に、胸のあたりに渦巻いているそれに似た、そしてそれよりも潜在的には何倍も強い快感がわだかまっている。  
体の中を熱い液体が流れ落ちていく感覚に続いて、股間を覆う布地がじわりと湿ったことを敏感になった感覚がはっきりと感じ取っていた。  
人間に憑依して仕事をすること自体は既に何度も経験したことだ。  
だが、こんな肉体的反応は初めてのことだった。  
借り物とはいえ自分の体に何が起こっているのかわからないまま、初めての性的快感に悶える死神の少女。  
その意識が一瞬とはいえ胸から股間に移ったことに反応したのか、胸に添えられていた両手の内の片方がそこを目指して移動していく。  
「や、やだ……だめ、そこいっちゃだめぇ!」  
わけがわからないまま、それでも股間を触れられれば今以上の痴態を演じてしまう、そんな予感に打ち震えた。  
けれど操られる右手は、恐れおののく彼女の気持ちを欠片も汲み取ることなく、ワンピースの裾から秘められた場所へと侵入してくる。  
「――!?」  
薄い布地の上からそこに触れられた瞬間、あまりの激感にビクンと背中を仰け反らせてしまう。  
触れただけ。  
だというのにあまりにも強すぎる快感に脳を直撃され、声を出すことすらできずに口をパクパクと開閉させる。  
それほどまでに股間からの刺激は鮮烈で、何も知らない少女にとっては強烈過ぎるものだったのだ。  
許容量をオーバーしているそれを、それでも何とか受け止めようとするレア。  
けれど悪魔の手先と化した彼女の右手が、その感覚に慣れるまで待ってくれているわけがなかった。  
下着の上からだけでは飽き足らなくなった右手は、今度は直接そこに触れるべく下着の中にまで潜り込んでくる。  
ドロドロにぬかるむ少女の秘園を、細い指が一辺の容赦なく掻き回していく。  
淫らな水音が離れた場所にいる憎むべき敵にまで聞こえているかもしれない。  
そう思った瞬間、レアは全身が燃え上がったかのように錯覚に陥っていた。  
涙に霞む視界の中、その相手はレアをあざ笑うかのように微笑んでいた。  
その視線が、敏感になった全身の肌に突き刺さってくる。  
その瞳は、直接は見えないはずの下腹部の状態すら、全て見透かしているかのようだ。  
その視線を意識すればするほど、全身の火照りが比例するように何倍にも高まっていく。  
そんな中、執拗に少女の秘所を掻き乱す指先が、ついに割れ目の奥で息づく小さな肉粒を探り出していた。  
薄皮一枚に守られた、女にとって最大の急所と呼べるそれをためらうことなく摘みあげる無慈悲な指。  
その瞬間、レアの頭の中で見えない糸が音を立てて弾け飛んでいた。  
「だめ、みちゃだめぇぇぇぇぇぇ!」  
今までで最大の絶叫をあげながら、死神の少女は初めての絶頂に全身を震わせる。  
憑依をといた瞬間にも似た飛翔感。  
大きく開けた唇の端から、とろりと涎が伝い落ちていった。  
 
「どう、満足できたかしら?」  
絶頂の波がゆっくりと引いていき、同時にようやく指の動きが止まっていたこともあって、レアはわずかに理性を取り戻していた。  
それでも首から下は自分の意思では全く動かせず、意識もまるで錆び付いてしまったかのようにぼんやりと霞んでほとんど何も考えることができなかった。  
「私と一緒にいれば、いつでもその快楽に浸っていられるのよ? いえ、自分の指だけでは到達できない、遥かな高みも教えてあげる」  
思考の空白に滑り込んでくる悪魔の囁き。  
全身を包む倦怠感。  
「さあ、貴女はただ名前を口にするだけでいいの。  
 それだけで――」  
「いや……それだけは……」  
その中で拒絶できたのは奇跡だったかもしれない。  
心の内に生まれた、悦楽の味を覚えそれをひたすら貪ろうとする別の自分を押さえつけながら、必死の思いで本来の自分を繋ぎ止める。  
「そう、まだ足りないのね」  
落胆した様子も見せず、むしろ嬉々として何かを差し出してくる少女。  
その手には、レアにとっては見慣れたものが握られていた。  
原則として単独で仕事に当たる死神にとっては、唯一の相棒にして死神という存在の象徴とも言える大きな鎌。  
確認するまでもない。  
それは間違いなくレア自身の大鎌だった。  
自らが分泌した淫水で濡れそぼる右手で勝手に動き、差し出されたその柄を握り締める。  
敵は目の前にいる。  
手の中には長年使い込んだ武器もある。  
だというのに、レアの右手は彼女の思いとは全く別の動きを見せる。  
柄の先端を地面に突き、左手も合わせ、全身ですがり付くようにして体をわずかに持ち上げる。  
絶頂直後の両足はみっともないほどガクガクと震えて今にも崩れそうだ。  
だが、それでも何とか中腰の姿勢まではもっていくことができた。  
その腰が、立てた大鎌の柄に向かってゆっくりと前に押し出されていく。  
「ぃ……ぃ…………」  
何をさせられようとしているのか悟ったレアが、懸命に唇をわななかせる。  
けれど恐怖のあまり無様に痙攣するだけの喉からはまともな言葉は生み出せず、かすかに空気を震わせることしかできなかった。  
 
下着越しに、レアの秘唇が大鎌の柄に口づけする。  
粘着質な水音が小さく聞こえ、全身が震えているせいもあって当てているだけでもじわじわと快感が染み込んでくる。  
大切な大鎌でこんなことをしてはいけない。  
その思い、その背徳感が、皮肉にもレアの体を燃え上がらせていた。  
憎むべき敵の見ている前で屈辱的な絶頂を見せたこと。  
それが引き金となってレアの中に芽生えた被虐嗜好。  
それはまたたくまに枝を伸ばし葉を広げ、大輪の華を咲かせようとしていた。  
「だ、め……だめなのにぃ……」  
全身の震えが恐怖のせいか期待のせいなのか、それすらもわからなくなる。  
そして中途半端に曲げられていた足が伸ばされ、ずるりと股間を摩擦された瞬間、意識の全てが一瞬の内に肉悦で塗り替えられていた。  
それは繊細な指の動きとは対照的な、乱暴といって差し支えない愛撫だった。  
秘所全体を荒々しく摩擦され、敏感すぎる小粒を容赦なく磨り潰される。  
意識が白熱し、獣のような吠声をあげた。  
足が伸びきり一瞬動きが止まったことで戻りかけた理性、次の瞬間と今度は重力に任せて腰が落ちていくことによる摩擦で砕かれる。  
落ちきってしまえば、またしても震える両足がなけなしの力を振り絞って小さな体を持ち上げる。  
終わらない往復運動。  
その中で最初は乾いていた大鎌の柄が媚粘液によってテラテラと輝きを放ち始めた。  
そしてぬめりによって最初の内こそわずかにあった痛みも遠のき、ただただ純粋な快楽がレアの精神を揺さぶっていく。  
その快楽の奔流は、つい先ほどまで何も知らなかった少女がどうにかできるレベルをとうの昔に飛び越えていた。  
涙と涎の雫を飛び散らせ、長い黒髪を振り乱して喘ぎ続けるしかない死神の少女。  
漆黒の刃に映る快楽に蕩けきった自分の顔。  
仕事に際に努めて被っていた冷徹さの仮面は、もうどこを探しても見つけることができなかった。  
「もう、もう――!」  
2度目の絶頂までに、それほどの時間は必要なかった。  
全身が大規模な痙攣に襲われた、それでも足の屈伸運動だけは止まらない。  
「あひぃっ、と、とめてぇっ……とめてよぉっ!」  
絶頂の中でさらなる絶頂に押しやられて、今にも気が狂いそうだった。  
頭の中がグチャグチャになり、気持ちいい、ただそれだけしか感じられなくなる。  
全身ですがりつき腰を押し付けているものは、大切な相棒ではなく、快楽を貪るための装置に過ぎない。  
そう思えてしまう。  
永遠にも続くかと思われる連続絶頂。  
その果てに投げ掛けられるだろう幾度目かの問い。  
それを拒絶することは、今のレアにはもうできそうになかった。  
 

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