高層ビルの屋上、煌々と輝く月を背に、高い影と低い影。
その内の1つが口を開いた。
おそらく少女のものであろう、高く、澄んだ声。
背の低い影の、腰程までもある長髪が風に揺れる。
「どうしても此方に戻る気は無いのね?」
それに答えるのは男の声。
長い外套の裾をはためかせ、歌うように告げる。
「愚問だな、私はこの世界を気に入っている。向こうへ戻る気など無い」
それを聞いた少女は、苦々しく首を振る。
「わたしには分からない。どうしてあなたはこの世界を―――人間を気に入ったというの?彼らはとても弱い。私達とは違う」
「弱いからこそ、だ。そして人間は、本当に追いつめられた時にその命の輝きを増す。そう、我々とは違う。それは我々にはない強さだ」
「人間が、強い?」
男は口の端を歪め、にやりと嗤った。
「或いは、面白いと言うべきか。人間と深く関わるべからず―――などと言っておられるお偉いさんには分からんだろうがね」
「―――わたしには分からないわ。でも、わたしはあなたを連れ戻さなければならない。それが役目だから」
その目は、しっかりと男の目を見据えていた。
目に宿る光が、少女の揺るぎない決意を感じさせる。
「退いては貰えないかね?私とて手荒な真似はしたくないのだが」
「それは出来ないわね。わたしにも後がないの。これが汚名を雪ぐ最後のチャンス、逃がすわけにはいかないのよ」
「成る程、君にも避け得ぬ理由がある、と。宜しい―――来たまえ、可哀想なアリス。お茶会の時間にはまだ早いが、お相手しよう」
その一言で、空気が変わった。
吹きすさぶ風の中、殺気が張りつめた屋上にどこまでも音はなく。
空高く燦めく月が、二人の影を映し出す。
瞬間、少女が動いた。
前に踏み込むと同時、右手の中指に着けられた指輪が紅く輝き、瞬時に大鎌を形成する。
そのまま頭から滑り込むように身体を倒し、足下を薙ぐ。
まさに神速。常人の目では捉えることすら能わぬその動きに、しかし男は反応した。
まるでそこに斬撃が訪れるのを予見していたかのように、優雅に一歩を下がる。
「せっ!」
前に傾いだ身体を跳ね上げるような一撃、死角である右下からの逆袈裟。
この一撃はかわせまい、そう少女が確信した必殺の一振りは、確かな手応えを以て―――外套に阻まれた。
「あまりに直線的すぎる。不安定な姿勢で繰り出す攻撃ならば尚のこと読むのは容易い」
鎌の刃が、がっちりと黒い布に押さえ込まれる。
鎌は諦めて飛び退こうと脚に力を込め、愕然とした。
―――身体が、動かない。
「安心したまえ、殺しはしない。しばらく動けない程度には痛むかもしれないがね」
男の指が鳴る。
刹那、奇怪な紋章―――いわゆる魔法陣が、足下を中心に渦を巻くように溢れだした。
複雑な術式が高速で展開し、屋上を埋めていく。
少女の指輪同様、紅い光を帯びて縦横無尽に走る線が描いたものは―――
「保守」