これは、とある世界での、昼下がりの出来事。
東南に海を臨み、西に豊かな山脈が連なる王国にて、今日はめでたくも成人の儀が執り行われた。
そのため、国のちょうど真ん中に位置する王城内は、右往左往する人々の姿で溢れていた。
なにせ、成人と認められる15の年までに何らかの優秀な成績を修めた者は、
王城主催の成人の儀に出席する権利を得られるのだ。
家柄も階級も関係なく、才能ある前途有望な若人にのみ、王城の堅い門扉は開かれる。
そしてついにこの日、王城を目指した若者たちの努力は報われたのである。
そんな、喜び溢れる王城内に浮かされたように、中庭の回廊を駆けていく姿があった。
「はぁ…はぁ…」
長い金髪を結い上げ、真っ白な肌の頬を紅潮させた少女だ。
何かのパーティーにでも行ったのだろうか。
少女の幼さの残る顔立ちに比べ、少し大人っぽい青のドレスを身にまとっている。
前方を真っ直ぐ強く見据える青の瞳は、纏ったドレスにも負けずキラキラと輝いていた。
その瞳で、少女はドレスの裾を両手でつまんで、キョロキョロと周りを見渡している。
「もう…どこに行ったんだろう」
息を乱して呟くと、少女は回廊を渡りきろうという手前で足を止めた。
「こういう日ぐらい、ちゃんと祝ってって言ったのに…」
メイフェルディ・ウォルト―メイリィは、走ったせいでもなく高ぶる気持ちを落ち着けようと、
先ほどのことを冷静に思い返すことにした。
ざわめく広間では、参加者の緊張でぴんと張っていた空気が解けた反動からか、そこかしこで馬鹿笑いや大声が上がっている。
一大行事である成人の儀は無事終了し、今は玉座のある大広間で慰労の舞踏会が行われていた。
先月で満15才となり、様々な分野で才能を開花させてきたメイリィも、もちろんこれに出席していた。
『おめでとう、メイリィ。よくもまあ、ウチの愚息の相手をしながらこれほどの成績を修められたな。
お前の努力には、いつも目を見張らせられるよ』
そう言って、いつにも増して目を細め笑いかけたのは、この国の十七代目の王。
レイド・A・ライゼリムその人だった。
その昔『東南に武王あり』と恐れられたレイド王は、今でさえ屈強な体に衰えが見えない。
そして、強面な見た目に反して、性格は至って大らかで親しげだ。
『とんでもございません、陛下。
いたらぬ私を王子のご学友として迎えて下さった陛下や王妃様に報いる為には、このぐらい当然です』
恭しく礼をしながら、けれど毅然と言い放つメイリィ。
15才とは思えぬほどの意思の強さが、彼女を大人びさせる。
『…そうか。しかし、なんだな。メイリィも晴れて大人の仲間入りになったんだ。
もう少し色っぽい返答も覚えにゃならんぞ。どうだ?そのご学友…バカ息子との最近の進展なんぞは』
苦笑するレイド王に対し、メイリィはにこりともせずにべもない。
『お言葉ですが、陛下。コール王子と私の婚約は、あくまで形だけのはずではなかったでしょうか?
恐れ多くも、特に有力でもない家柄の私を王子のご学友として立てて下さったことは感謝しております。
ですが、婚約となるとこの身には余りすぎて、とても現実として考えられません。
なにより、王子ご自身がご不満を覚えていらっしゃるはずです』
いつもの朗らかな表情から一変して、硬い、実をつけたばかりの蕾のようにかたくなな顔。
レイド王はまだ苦笑しながらも、玉座から離れ、拝礼の姿勢をとっている少女の前に立った。
そして、丸く細い肩を、なだめるようにポンポンと叩いてやる。
『そうかな?俺には、あの人一倍意地っ張りで見栄っ張りの負けず嫌いが服着て歩いてるようなやつが、
お前には唯一気を許しているように見えていたんだがな』
『え?』
メイリィは目を見開いて、ついレイド王の顔を見上げてしまった。
許しもなく王の顔を見上げてはならないという規則を忘れるほど、メイリィには衝撃の言葉だった。
『お互い、もう子供じゃない。たまには意地とか体裁ってのを取っ払って、素直になったらどうだ』
『陛下…』
『もちろん選択権はあるさ。俺も鬼じゃない、お前がどうしても嫌だってんなら辞退も考えよう。
だが、お前たちはまだ何も始まってないんだ。どうせやめるなら、一度ぐらい試してみないか?』
レイド王の言葉は、まるでメイリィの心を見透かしているかのようだった。
「陛下は、私とコールが恋仲になると思ってるのかな…」
ようやく整ってきた息を、すうっと吸い込んで吐き出し、胸を落ち着けさせる。
メイリィにとって、さっきのレイド王の言葉は、全て寝耳に水とも言うべきものだった。
「私とコールの関係なんて、ただ学友として一緒にいただけの、腐れ縁みたいなものなのに」
(けど、こうしてわざわざ探しまわってるのは、本当にそれだけの理由かしら)
自問自答している自分に、心臓がどきどきと責めている。
メイリィは、自分で自分の気持ちに折り合いをつけることができなくなっていた。
レイド王は、言葉でもってメイリィの気持ちを操る魔法でもかけたのだろうか?
こんな落ち着かない気持ちは初めてだ、とても耐えられそうにない。
メイリィがそう思ったときだった。
「……いじゃない、せっかく…の日なのに〜。ヒドイ男ね、コール様」
(コール様…?)
甘ったるい女の声が確かにそう読んだのを、メイリィの耳は聞き逃さなかった。
コール。
それは今探している男と同一人物かと、メイリィは声がした方へ無意識に足を運んだ。
それが最悪の事態になろうとは、知る由もなく。
「ふん、その晴れの日に誘ってきたのは貴様の方だろう。何がひどいだ。俺様に非はない」
「そうかしら。こんなとこで、分かりやすい誘い文句を口にする方に、非は微塵もない?」
「貴様、俺様に同じ事を二度も言わせる気か。…よほど仕置きを受けたいようだな」
「ふふ…女ですもの。手加減はなさってね」
「誘い上手も過ぎれば興ざめだな…」
メイリィが、中庭の奥まった場所で見た光景。
眼鏡を掛けた黒髪の男と、豊満な体を持った貴族の婦人の密会現場。
それは、メイリィを婚約者候補としているはずのくだんの王子コール・A・ライゼリムと、
成人の儀に列席したと見られる年上の女性が、キスをしながら抱き合っているというものだった。
メイリィはまず、驚きと羞恥とみじめさで、軽いめまいを覚えた。
ともすれば、膝が崩れそうになるほどの衝撃だった。
そして、その最初の衝撃が過ぎ、一番にメイリィの感情を突き抜けていったのは、怒りだ。
(別に、今さら驚くようなことでもないじゃない。コールは前から女好きだったし、
私には隠そうとしてたみたいだけど、何人かの人と付き合ってるって噂なら前からあった。でも…)
メイリィは、薄い手の甲に血管が浮かぶほど、ぎゅっと拳をにぎりこんだ。
(よりによって、今日、このタイミングで!私とは全然違う美人でスタイル良くて大人の色気たっぷり、
おまけに超・巨乳の人と、こんな所で、寒々しいセリフ吐きながらいちゃつかなくたって〜!!)
メイリィの小さな胸の中はもはや、いろんな種類の怒りでごった煮状態になっていた。
「コール!」
人の情事に出歯亀するような趣味などもちろん持ち合わせていないメイリィだったが、
レイド王の言葉で盛り上がっていた気持ちの行き着く先は、もはや怒りでしかないのだから仕方ない。
「め、め、メイリィ!?お前、舞踏会に出てるはずじゃ…」
メイリィの鋭い声に反応した男―コールは、さっきまでのカッコつけた雰囲気はどこへやら、
可哀想なほどうろたえていた。
「その舞踏会に最初に誘ってきたの、誰だっけ?」
「いや、ちょっと用事が出来てだな…」
「ふ〜ん、こんなとこで女の人といちゃついてるのが、そんなに大事な用事なんて、知らなかった。
明日の王城新聞の三面記事が楽しみね〜。『コール王子、真昼の逢瀬!相手はやはり巨乳だった!』」
「ばか…っ。ち、ちょっとこっち来い!」
慌てた体でコールはメイリィの細い腕を掴み、その場から引きずり出した。
「ちょっと、なにするの!?放してよ!」
「うるせぇ!」
暴れ出すメイリィを無視して、コールは力任せにずんずん中庭から離れていく。
自然、取り残された形の貴族の婦人は、腹を立てた様子もなく「ご愁傷様〜」と手を振っていた。
「痛いって!舞踏会に戻るんだから放してよ!」
「説教したらいつまでも好きなだけ踊らせてやるよ!」
「なんで私が説教されなきゃならないのよ、立場が逆でしょ!」
「だから、部屋に戻ったら聞くって言ってんだろ、この貧乳!」
「なんですって馬鹿眼鏡!」
その、王子とその婚約者候補のものとはとても思えぬ言い合いを聞く者は、幸か不幸かいなかった。
連れ出された先は、コールが執務室として使っている部屋だった。
書棚が右側の壁を埋め尽くす一方、左には様々な武器が飾られている、雑念とした部屋だ。
メイリィはいつもならなんとも思わず入るこの部屋に、言い様のない居心地の悪さを感じた。
「…放してよ。ここまで来たんだからもういいでしょ」
憤懣やるかたなし、といった表情のメイリィを見て、コールは渋々手を放した。
「ったく。なんであんなとこに居たんだよ」
溜め息混じりのコールにまた怒りが湧く。
あなたを探しにきた、なんて死んでも言いたくなかった。
「私がどこにいようと、コールには関係ないじゃない」
「かっ…わいくねぇな〜いつもいつも!ちょっとはしおらしく言えねぇのかよ」
いつものメイリィなら、こんな憎まれ口は上手に流せるはずだった。
しかし、さっき女のプライドをズタボロにされたばかりのメイリィには、無理な注文だ。 「そうよ!かわいくなくてしおらしくもないよ私は!悪かったわね、美人でも巨乳でもない上に、
性悪な女が婚約者候補で!…でも、もう終りにするから安心してよ」
メイリィの常にない剣幕に圧倒され、コールはズリ落ちそうな眼鏡を引き上げることも忘れている。
一方メイリィは、驚きもあらわなコールをよそに、感情に任せて言葉を吐き出していた。
「七才の頃から腐れ縁でここまで来たけど、さすがに成人の儀を終えたらそうはいかないでしょう?
私、婚約者候補を辞退するって陛下に進言する。政略でも恋愛でもない婚約が、成立するわけないもの」
唇を噛んで悔しげに言うメイリィは、言っているうちにこれが一番いい方法なのでは、と思えてきた。
そうなれば、ウォルト家は再びただの中流貴族に戻るだろう。
だがそれで普通なのだ。
ウォルト家は、王と王妃に一時の恩を売ったことによって顔を覚えられた。
その際、たまたまメイリィの利発さと容姿が王妃の目に止まって、コールの学友に推挙される。
その頃、一ヶ月と埋まることがいなかったコールの学友の席。
問題児の王子の学友など、誰も務めることは出来ないだろうという宮中の噂は、
しかし、メイリィが着任したことで覆されてしまった。
喜んだ王妃は、半ば強引に、当時8つだったメイリィをコールの婚約者候補にしてしまったのだ。
だが、学友になることはできても、婚約者に、ましてや伴侶になどなれるはずもないとメイリィは思う。
友達は、恋人ではないのだ。
「ちょっと落ち着けよ。大体、辞退ったって、あの親父が簡単に許すはずねぇだろう。
お前だって、せっかくありえねぇほど賞取りまくって今年の成人の儀のトップになったんじゃねぇか。
俺の婚約者候補って肩書きがありゃどんな施設も使い放題、おまけにその成績ならどこだって歓迎だ。
もう少しの間くらい、我慢しろよ」
な?と、なだめるように頭を撫でてくるコールに、理由の分からない寂しさを抱いた。
メイリィは、そんな自分に戸惑いを覚える。
「いいか?俺様の婚約者候補になりたいだなんて女、他にゴマンといるんだぞ?
お前、もうちょっとその辺有り難み感じろよな、ったく。…ま、ガキには分からんかもしれんがな」
そう言って、ひひ、と下品に笑うコールに、メイリィは笑いも怒りも、ツッコミも返せない。
(やっぱりコールは、私が婚約者候補やめてもいいんだ…
コールにとっても、ただの肩書きでしかなかったんだ…)
なんだか、心の中に空っぽの空洞が出来て、そこから全ての感情が抜け落ちてしまったような気がした。
「そう…ね。そうかもね…今やめるんじゃ、もったいないかも」
「お、おう。だろ?」
メイリィの反応がいつもと違うせいか、コールは拍子抜けしている。それでも場を取り持たせようと、「よく言った!」などと言っておどけて見せた。
せっかくセットした髪は、コールが遠慮なく撫でたせいでぐちゃぐちゃになってしまった。
でも、その撫でた掌が温かくて、怒りもすっかり収まって、メイリィはもう切なくなるしか術がない。
つきつきと痛む胸の中、「我慢しろよ」「ガキには分からん」というセリフだけ、ぐるぐる、
髪の毛のようにぐちゃぐちゃに混ぜ返されていた。
おざなりな会話もそこそこに、執務室をあとにしたメイリィは、早足で歩き出し、やがて駆け出した。
大手を振って走るので、青いドレスの裾が乱れて白い太股があらわになる。
だが、メイリィにはもはや何もかもがどうでもいい。
着ているのがメイリィなら、コールにはドレスでも部屋着でも同じなのだ。
『お前たちはまだ何も始まってないんだ。どうせやめるなら、一度ぐらい試してみないか?』
不意に思い出したレイド王の言葉が、溢れ出しそうな感情の歯止めを壊す。
スタート地点にも立てないのに、試すなんて出来るはずがなかった。
学友は学友、腐れ縁は腐れ縁でしかない。
せっかく15になって、成績も上げて、精一杯のおめかしをしても、コールにとっては無意味なのだ。
約束の舞踏会すら、巨乳美女よりは軽かった。
(あんな人と、恋仲になんかなれるはずありません、陛下。なれるもんか……)
つきつき、痛む胸。
(痛くて、泣けてくる)
溢れ出る涙を拭いもせず、メイリィは自室までひたすら走ることで頭を空っぽにしようとした。
舞踏会もようやく終わり、静まりかえった夜更け。
王城のとある一室に、音もなく忍び込もうとする影があった。
キィ…
かすかにたてられた扉の音に、しかし中にいる部屋の主は眠っているのか、反応はない。
気配を完全に絶っている影は、見知った部屋なのか、暗闇の室内を迷うことなく突っ切っていく。
そして、寝室に踏み入ると、天窓から漏れる月明かりに照らされた部屋の主の寝顔を、しばし眺めた。
穏やかな寝息をたてているのは、まだ幼げな丸みを頬の線に残している少女。
その頬には、くっきりと涙の跡が残っていた。
ついさっきまで泣いていたことが窺える。
「悪かったな…メイリィ」
低い、音にならない声。
部屋の主とともに照らし出された影の正体、コールは、常にかけている眼鏡が外されているせいか、
いつもよりも表情が柔らかく見受けられた。
コールはおもむろにズボンのポケットから何かを取り出し、ベッドサイドの台の上に無造作に置いた。
それは小さな正方形の箱だった。
「この俺にこんなもん買わせやがって……」
悪態をついているようで、その顔は優しげだ。
どうかしている、とでも言うように頭をかきむしると、コールはまた足を忍ばせ、部屋を出ていった。
誰かに贈られても贈ったことはない彼が、半年以上悩んで選んだものがその箱の中身だとは、
メイリィはおろか、誰も知る由はない。
まして、贈り物まで用意しておきながら舞踏会の約束をすっぽかした男の複雑な胸中などは、
なおのこと誰にも計り知れないことであった。
その後、二人は三年の時を経て正式な婚約を交わすことになるのだが、それはまた別の話。
終わり