「それで? じゅんた、ちゃんと断ったんだよね?」  
「ああ、それよりしっかり手元見て食えよ。鼻の頭にクリームとか漫画か」  
 夏実が向けてくる視線は結構シリアスだ。けど、つきっぱなしのクリームと両手でもった  
ジャンボシューが雰囲気をぶち壊しているのに気付かないのはなかなかだよな。  
ま、十二月にしては暖かい昼休みの教室でシリアスかまされても困るんだが。  
 なんでいつもの和やかな昼食時にプチ修羅場に突入しなきゃならねぇんだよ。  
やっと俺らを冷やかすのに飽きたクラスメイト達が聞き耳を立てているのがわかる。  
四月は俺がお菓子を作ってくることに、五月はそれを夏実が他の何を差し置いても  
優先することに、六月は俺らが付き合っていないことに。  
九月に付き合い始めた時が一番ひどかった。  
何がそんなに楽しいのか、月替わり日替わり人ごとに何かしらネタにされているんだから、  
いい加減警戒心とかそういったものを持って欲しい。  
 そんな俺の願いは虚しく、夏実はさらに言いつのってくる。  
「ほんとに、ほんとーに断ったんだよね?」  
「だからそうだって言ってんだろ」  
 念を押す夏実に答えながら机越しに俺はティッシュでクリームを拭ってやった。  
自分のことながら辛抱強い性格をしてると思う。  
 いたるところから向けられる視線に耐えていることも含めて。  
「あれあれ、どったのお二人さん。トラブルぅ?」  
 焼きそばパンの最後のひとかけを飲み込んだ佐々木が振り返ってこちらへ椅子を寄せてきた。  
俺と夏実と同じ中学出身で、軽いけどサッカー部で一年なのにレギュラーを獲っている  
割とすごいやつだ。  
「いや、大したこと――」  
「うん。聞いてよ佐々木っち! じゅんたってばまた告白されたんだよ!」  
 俺が言い終わる前に夏実が身を乗り出す。その言葉に大げさに驚いて見せた佐々木の目が  
面白いおもちゃを見つけた子供のようだったのを俺は見逃さなかった。  
しかも運が悪いことに近くにいた本田までいつの間にか背後に立っている。  
「あらまあまあ、それは一大事だわー、松原ちゃん。ここはママと佐々木っちに  
話してご覧なさいよ」  
 演劇部の本田が舞台映えする声と体でしなを作って話すのは、やけにはまっていて  
気持ちが悪い。今の姿をこの前の文化祭でファンになった他校の女子が見たら確実に泣くな。  
しかもママってどこのママ設定なんだよ。おい。  
「本田のママ。ありがとー! あのね、私がいるのに告白されたんだって。それでね、  
断ってくれたみたいだけど、かっ……彼女としてはさー、ふくざつなんだよ」  
「そうよねー、心配よねー。今まで女っ気なかったのに松原ちゃんと付き合いだしてから  
これで二人目だもの。三ヶ月半の間にしては多すぎるわ」  
 だから片手を頬に添えるな。小首を傾げるな。そして夏実は乗るな。そう言ったところで  
無駄だから何とか飲み込んで、自分の分のシュークリームにかぶりつく。  
頑張っているところに佐々木がさらに追い打ちをかけてきた。  
こいつら、俺になんか恨みでもあるのかよ!  
 
「一人目は三年の先輩だったんだっけか。スタイル超いい、テニス部の。  
もったいないことしてんだよなぁ……オレならあの胸の前で手ぇ組まれて、お願いっ!  
なんて言われたら、ハイ喜んで! って言っちゃうけどさ。くっそ羨ましい。  
憎い……じゃなくて、誘惑されなかった純太をほめてやるべきじゃないかなぁ」  
「……むね?」  
「そう! 胸は男のロマン。右には夢、左には愛が詰まっているんだ」  
 この巨乳好きめ。余計なこと言うんじゃねぇよ。その思いを込めてシュークリームに  
伸びてきた手をはたき落とす。佐々木の言葉にジャンボシューを持ったまま、夏実は自身の  
お世辞にも豊かとは言えない胸板を見つめた。素直にそこを聞き入れるなよ。  
ってかセクハラなんじゃね?  
「男ってそんなもんなのよねー。そう言えば、この頃純太ちゃんってば人気なのよ。  
知ってた? 何やら松原ちゃんと付き合いだしてから、妙に落ち着いちゃって  
幸せオーラだしてるもんだから、『なんか、優しそうでいいかもー』とか。文化祭で  
お菓子作ってみせたことで『料理できるのってよさげー』とかって」  
「でもさ、でもさー。私がいるんだよ?」  
「そんなの関係ないわよー。恋は盲目っていうじゃなーい?」  
 だから流すなよ。お前も男だろってつっ込むところだろうが。  
「もーもく……」  
 ポツリと呟いた夏実を横に、巨乳好きの馬鹿と二丁目風の馬鹿はさらに続ける。  
「そうよ。それにね、さっきも隣のクラスの女子が持ってた荷物半分持ってあげてたのよ」  
「ジェントルぅ! さすがモテ期に入ったモテ男は違うね!」  
 相手にしちゃいけない。それこそあいつらの思うつぼなんだ。そうだ。  
俺にはやることがあるじゃないか。この目の前にこんがりしっとり仕上がったシュークリームの  
出来を分析することだ。まだ半分以上残っているそれを俺は一口食べた。  
今回のシュークリームはバニラビーンズがちょっと足りなかったか……。  
「そうやってどんどん女の子を落としちゃうのねっ。やだー女の敵だわ!」  
「タラシってやつだなぁ」  
「……タラシ。じゅんたのタラシー!」  
 シュークリームを両手から片手に持ち替えて、夏実が俺を睨む。乗り良すぎだろ。  
マジで。それを見て二人はにやにやと人の悪い笑みを浮かべていた。  
限界。  
「……黙ってれば好き勝手言いやがって。人助けして何がいけねぇんだ。気がつくとか、  
そりゃお前ら、夏実といたら自然とそうもなるわこのあほうども。見てないと知らないうちに  
怪我したり、卵から未知の物体作り上げるんだぞこいつ」  
 白と黄色のものから、黒や茶色のものができるのはわかるんだ。焦げただけだからな。  
それがなぜなにどうして緑がかったものが皿の上に――しかもその皿も微妙にひび割れて  
いたりする――鎮座していた時の衝撃を想像できるやつなんていないだろう。  
 さらに料理名を聞いて後悔した。卵焼きってスタンダードな料理だと思うんだ。  
基本だからこそ、奥が深いし難しいところはあるがそれは職人レベルの話であって、  
素人が求められるものじゃないのに。  
 
 俺の心情を知ってか知らずか、夏実はきょとんとこちらを見てくる。まるで親鳥の  
餌をまつ雛のように無邪気に。  
「おかげで趣味の菓子だけじゃなく、料理全般対応できるようになった。両親働いてて、  
姉貴にだけ手伝わせるわけにいかないから、家事もできるぞ」  
 兄貴は舌も肥えているしやればできるくせにやらない。現に独り暮らしが成立しているんだから、  
そこそここなせるはずなんだ。あのパソコンオタクは無駄に器用なくせにいらんことにしか  
力をかけない。やけになってさらに重ねると、佐々木が俺の両肩をつかんだ。  
「純太。オレと結婚して下さい。パートは週三、五時間のレジ打ちぐらいでオッケーだから」  
「専業じゃないなら断る。それぐらいの甲斐性見せやがれ。三食昼寝付きなら考えてやらんこともない」  
「要求たけぇ! オレだって胸のない野郎なんてお断り――」  
「だめー! じゅんたは私と結婚するんだもん。昔、約束したんだからあっ。  
私がじゅんたがいいなって言ったらいいよって言ったんだから!」  
 俺らの軽口に夏実が手の中のジャンボシューを握りつぶさんばかりの勢いで待ったをかけた。  
焦る必要がないと思うんだけどな……。  
「まあ、もう二人は婚約済みなの? うらやましいわー」  
「お断り――なんて言うと思ったか! オレだって本気よ? 松原。そんなに言うなら  
その約束とやら、話してもらおうかっ」  
 馬鹿どもが夏実をあおる。佐々木、お前胸がない野郎はいやなんじゃないのか。  
都合よく言ったことを撤回するな。  
俺らの様子をうかがっていたクラスメイト達の輪が心なしか狭まった気がする。  
これなんていうイジメですか。  
「いや、昔のことだから。なぁ? 夏実」  
「じゅんた、大丈夫! ちゃんと私がせつめーするから」  
 そう言うことではないんだ。さすがにこないだ聞いたばかりだから俺だって思い出してるし。  
何でそんなに輝いてるんですか。夏実さん。  
 そして何でこういう日に限って次の授業が自習だったりするんだろうか。  
「――というわけで、じゅんたは一緒にクッキーを作ってくれて、そのときに約束したんだー。  
だからね、佐々木っちには悪いけどじゅんたのことは諦めてね」  
 こうして、五限目の三分の一を使って夏実クッキー事件はクラスメイト全員の知るところとなった。  
しかもこの前俺に話したときよりも細かく説明。今までうらやましいかった夏実の記憶力を  
恨んだのは初めてだ。  
「ふーむ。そうれじゃあしょうがないか。松原からプロポーズして、純太がオッケーしたんだもんな」  
 佐々木がしぶしぶ、といった感じで頷く。それに合わせて笑顔でいた夏実が急に固まった。  
「私からプロポーズ……? あ、ダメ! やっぱりなし。なしにして、じゅんた」  
 ギギギと音がしそうなくらいゆっくりとこっちを見ると、まだ飛べない小鳥が羽ばたきの  
練習をするみたいに、体の横と顔の前で腕や手を振る。  
「何でだよ?」  
「決まってるじゃない! プロポーズされるのは女の子の夢だからっ。ちなみに理想その一は、  
観覧車のてっぺんで。その二、クリスマスイルミネーションをバックに。その三は、  
オーシャンビューのレストランでシャンパングラスの中から指輪。その四は」  
「いくつあるんだよ」  
「女の子の夢は無限大だから。というわけでノーカウントねっ」  
 俺の溜息を了承と取ったのか、夏実は元通り笑顔になって理想のストーリーを本田のママと語り始めた。  
演劇畑の本田とは演出面で趣味が合うみたいだ。少女漫画育ちだからとはわかっているけど、  
挙げられた理想はどれも強烈に羞恥心を刺激してくれる。想像しただけで背中というか、  
両腕というか、全身がむず痒い。夏実と少女漫画仲間の姉貴も同じような夢を持っているんだろうか……。  
 
■□■□■□■  
 
■□■□■□■  
 
 ショートケーキやウチの人気商品チョコレートムースのケーキ。通常の商品と並んで、  
クリスマスを間近に控えた十二月はブッシュ・ド・ノエルなどの限定商品も予約者のために並べてある。  
俺は白いシャツと黒のスラックスに身を包み、親父の店『Le ciel』のレジに立っていた。  
学校のない日は、厨房で作るだけじゃなく小遣い稼ぎも兼ねてレジ打ちもしているからだ。  
 今までもやってきたけれど、夏過ぎから少し多めにレジに入っている。  
やっぱりちょっとは考えることもあるわけで。  
 ケーキ屋にとってこの時期は一番の稼ぎ時。おかげでクリスマスに家族でどこかへ  
出かけた記憶なんてないけれど、かわりに文化祭の前日みたいな大きなことが起こる高揚感がある。  
実際、前日とかは親父は一日中ケーキを作り続けるんだから、当然だけど。  
 それと同時に、俺がケーキを作り始めて我が家用の分を担当するようになってからは、  
上達具合を審査される場にもなった。だから他の人とはまた違ってクリスマスキャロルが  
流れ始めると緊張でテンションが上がる。  
 団体客をさばき終えてほっと一息ついていると、「お願いしてもいいかしら?」と声をかけられた。  
「あ、すみません。お待たせしました。どれをお取りしましょうか? っと。お客さん、久しぶりっすね」  
「あらまあ、店員さん。憶えてくれていたの。嬉しいわあ」  
 おっとりと上品に目を細めたお客さんは、月に二回ぐらいの頻度で来てくれるお得意様だ。  
この前の来店が十一月の半ばだったから、少し間隔が開いていた。  
「もちろんですよ」  
 短く答えると、お客さんは手袋をはめた指で口元を隠すようにして笑う。俺のばあちゃんと  
同じぐらいの年で、若いころはきれいだったんだろうなって感じの人。時々こうやって  
会話するから、いつの間にか憶えていた。  
 ミルフィーユ、ザッハトルテ、ティラミス、モンブラン、ショートケーキを各一個ずつ  
保冷剤と一緒に詰める。  
「六十二円のお返しになります。俺が忘れないようにすぐにまた来てくださいね。なんて」  
 ケーキの箱とお釣りをお客さんに渡しながら冗談を言う。  
「中原君ってこんな風に接客するんだ。なんか意外」  
 突然割り込んできた声に、「ありがとうございました」のセリフを飲み込んでお客さんの  
後ろを覗き込む。そこには俺の学校の制服を着た女子が胸のところで荷物を抱えて立っていた。  
お客さんの孫だろうか。見覚えはないけど俺の名前を知っているんだから、多分同学年だろう。  
「あらっ、二人ともお知り合いなの?」  
「まあねー、中原君のほうはそうでもなさそうだけど」  
 俺がわかりやすく怪訝な顔をしていたからか、意味ありげな視線を流された。  
気まずい。なんとかしようと言葉を探すが、誰だかわからないんじゃ話しようがない。  
言いよどむ俺に、彼女は呆れたように笑うと答えを教えてくれた。  
「谷川みずほ。隣のクラスの女子ぐらいは知っておこう? この前荷物運ぶの手伝ってくれたから  
てっきり憶えてくれてると思ってたんだけどなぁ」  
「……わりぃ」  
 
「ちょーっと傷ついた! だからメアド教えて? ケータイ持っているでしょ」  
 谷川はこちらの返事を聞かないうちに、ポケットからストラップがいっぱいついたケータイを取り出す。  
 なんで傷ついたからメアドの交換になるんだろうか。でも憶えていなかった俺が悪いんだし、  
ここは素直にしたがっておくべきか。疑問はあったけれどスラックスからケータイを  
取り出そうとした手を押し止めたものがあった。  
「お客さまー。こちらの店員は非売品ですので、メアドの交換はごえんりょくださーい」  
 慣れた感触の夏実の指。急激にその場の空気が緊張感に張り詰めたように思う。  
なんなんだ、どうしたんだよ。お客さんもおろおろしてるじゃねぇか。そう口を挟もうとしたら、  
夏実の突き刺すような視線が返ってきた。  
 怖い。  
 谷川に助けを求めようとそちらを見ると、夏実と同じような表情をしている。  
二人とも俺より小さいのに迫力がありすぎるだろう。  
 怖い。  
「それでは、ありがとーございましたあ」  
 明らかに作り笑顔の夏実が俺の横から、ガラスのドアに向かうと送り出すように開いた。  
それに対して気持ちを切り替えるように谷川は息を吐く。そしてこちらへにっこりと  
笑いかけて「今度はゆっくり話そうね」と『今度』を強調して言うと、俺と同じように  
状況が理解しきれていないお客さんと共に表の通りへ出て歩いて行った。  
 その姿が完全に見えなくなると、小鳥が人間を威嚇するみたいに肩をいからせていた  
夏実が「今度も何ももうくるなー」と呟く。  
「いや、お得意様だしなあ」  
 そういうわけにもいかないわけで。怒りを解こうとあえて軽い感じをだす。  
すると何度か唇を開いては閉じてを夏実は繰り返した。外から見えるように置いた  
クリスマスツリーのイルミネーションの点滅と同じタイミングでちょっとおもしろい。  
「……じゅんたのバカッ」  
 さっきとは違う感じだけど、キッと俺を睨むと短く吐き捨てて夏実は店を飛び出して行った。  
乱暴にドアが閉められて、上の方に付けられたベルがチリチリと何度も鳴る。追いかけたいけど、  
すぐに新しいお客さんがやってきたせいで店を離れるわけにいかなくて、奥にいるお袋に声をかけた。  
馬鹿ねぇとお袋までに小言を背中にもらう。  
 俺が何したって言うんだよ! いや、俺が悪かったかもしれないけれど。  
この頃、夏実を怒らせてばかりのような気がする。  
 
■□■□■□■  
 
■□■□■□■  
 
 ぴったりと閉じられた夏実の部屋のドアをノックした。最初は外に行ったかと考えたけれど、  
この季節、コートも何もなしに北風に当たるような性格をしていないことは知っている。  
「入るぞ」  
 返事はないけれど、ダメとも返ってこないので一声かけて開けた。  
 ドアを背に、テーブルの上にお菓子の袋を広げた夏実はこちらには目もくれず、  
サクサクとクッキーなどを食い散らかしている。いつの間に買ったんだろう。  
いつも俺が作るお菓子ばかり食べているし、近頃コンビニめぐりもしていなかったのに。  
林檎味の携帯用のゼリーまであるのに、ココアも葛湯も入れてあるしキャンディーの袋も転がっていた。  
「そんなにお菓子ばっか食ってると、夕飯入らねぇぞ」  
「これはお菓子じゃないもん」  
 どう見てもお菓子ですけれど。そうツッコもうとする間にも夏実は葛湯に息を吹きかけて  
それをあおる。とろみのある物がそう簡単に冷めるはずもなく。  
「あつっ!」  
 案の定、火傷をしたらしい様子に隣へ回りこんで舌を出させる。少し周囲よりも  
赤くなっているところを指でなぜた。痛かったのかビクリと体が強張ったのが直接伝わってきて、  
俺は指をどける。  
「……ったく、気をつけろよ」  
 口の中の傷は割と早く治るけれど、一応冷たいものでも取ってくるか。立ち上がろうと  
膝を立てたところで、腕を引かれてバランスを崩しそうになりながら座り直した。  
「あっぶね……」  
「なんで、いつも離れちゃうの」  
 何言ってるんだ、という問いは俺らの口の中で消える。いろんな物の甘さ。  
さっき触れた舌の熱さがそのまま唇とさらにその奥に伝わってきた。  
「ん、っふ」  
 鼻にかかった夏実の声が喉を通して直接頭にしみてくる。あまり長くない舌が歯の根元をなぞった。  
火傷は痛くないだろうか。ふとそんなことがよぎったけれど、上気した頬に  
落ちたまつ毛の影に吹っ飛びそうになったから慌てて体を引きはがす。  
「はぁっ……なんでっ? 胸がないから? だから何もしてくれないの」  
 言いながらカーディガンの下に着たレースで飾られたブラウスのボタンをはずそうとする。  
その手を握り締めて止めた。  
唇と同じように濡れた瞳。息をするたびに覗く白い歯。本当に勘弁してほしい。  
「怖いくせに」  
「そんなことっ」  
「俺だってさすがに気づくんだよ。触るたびに緊張されたら」  
 そう指摘すると、夏実はうつむいた。自分の思うタイミングで、希望のように触れられないと  
ダメなんだ。自分からならいくらでもそうできるから平気なんだろう。キスだって、  
抱きしめるのだって、なんだって。俺だってそれくらいわかるんだ。もし、それから  
外れたことをしたらどうなるかとか。俺と夏実の間にはそういう差があることを感じてた。  
これまでだって危なかったことなんて、何回もそれこそ数えきれないぐらいあったけれど。  
「……待つのには結構慣れてんだ。本音を言うとさっきとかかなりヤバかったけど」  
 もう諦めとかを重しにして隠さなくていいだけ、前よりもずっと楽だ。強く掴みすぎて  
白くなった手を離して、かわりに髪をかき混ぜるようにしてなぜる。  
「どうして急に焦ったのかはわかんねぇけどさ。こんな風なのは、夏実が後で後悔すんのは厭だ。  
知ってるだろうけど、俺だって初めてだし。いろんなこと、例えば他の誰かと話すとか、  
そういうことの意味が俺らの中で少しずつ変わってきているよな。でも、全部をいきなり  
変えなくたっていいと、思うよ。なんて言うか……あー! うまく言えないんだけど!」  
 俺の手が乗ったままの頭が振られた。  
 
「わかるよ」  
 すれ違ってばかりだけど、こんな時、俺らの積み重ねてきた時間を強く感じる。  
夏実以外の人間がそう言ったとしてもきっと嘘だと思うだろう。だけど、夏実だから  
そのまま受け入れられる。だから、だからこそ夏実がずっと夏実であり続けられるようにしていきたい。  
「でもね、不安になったんだもん。いきなりモテ始めるし。教えてくれなかったから  
知らなかったけど、そのっスタイルいー先輩から告白されたりとかしてるし……。  
さっきもメアドとか聞かれてるし。心が狭いって思うかもしれないけど、いやだったんだもん」  
「断ったし、メアド交換しても俺からは何もする気ないし。谷川さんが何か言ってきても  
同じように断わったよ。つーか、スタイルとかそういうので夏実がいいわけじゃないから」  
 夏実がいいわけで。体も心も両方夏実だから欲しい。どっちかが別の人になったら意味がない。  
夏実もそう俺のこと考えていてくれると思っていたのは間違いだったのかな。  
「私だってそうだよ? ただ何もなかったから……」  
 ほらこういう風に欲しい言葉はその時にくれる。  
「じゅんただって、おと……この人だしっ。胸とかやっぱりそういうの好きなのかなとか  
思っちゃったんだよ! ばかばかっ。鈍感星人あほー」  
 恥ずかしさの限界を超えたのか、夏実が両手で顔を隠した。見える耳が赤い。罵られて嬉しいとか、  
そうないよな。そういう趣味ないし。夏実なりに気にして意識してたんだなぁと思えば  
これくらいの悪口なんてむしろ嬉しいくらいだ。  
 俺が何も言わないからか、夏実は声のトーンを落とすと呟くように訊いてくる。  
「本当にいいの? いっぱい待たせちゃうかもしれないよ」  
「後で泣かれたりするよりはずっといいな。でも限界前には間に合うように祈っておく」  
 おどけて言うと、くすりと笑い声がした。  
「胸、ないよ?」  
「まだ気にするか。大丈夫。俺、足派だから」  
「へんたい。じゅんたのへーんたーい」  
 変なメロディをつけて何度も「変態」と繰り返される。さすがの俺も傷つくんですけど。  
気にしているみたいだから「貧乳好き」と言わなかったのに。嘘になるから言わなかっただけだけども。  
「まあ、足派ではあるが……ないよりはあった方がいいし。夏実の心が広くなるように、  
ありかを大きく育てるのもいいな」  
「へっ?」  
 目を見開いた夏実の腕の下に手をさしこんで抱えあげると、ベッドへ軽く放り投げるように  
その体を移動させた。胸ぐらいは許容範囲みたいだし、たまにはいい思いしたっていいよな。  
「よく言うだろ。揉まれるとってやつ。そこらにあるクッキーとかと合わせれば  
効果あるかもしんねぇぞ?」  
 俺の言葉に戻りかけていた夏実の頬がまたパッと赤くなる。  
 コンビニとかで見かけないパッケージだったから、気になってよく見るとどれにも  
「豊胸」とかそういう言葉があった。運動とかじゃなく、甘いものを食って  
なんとかしようとするのが、あまりにも夏実らしすぎて笑える。  
「そっ……そういうのは触れないのがやさしさだとおもうー」  
「気にしないようにあえて触れるやさしさもあるとおもうー」  
 口調を真似しながら、上のひとつだけ外れたブラウスのボタンに手をかけた。首のところでタイのように  
リボンを結ぶようになっていたそれは、どこかプレゼントの包装を連想させてわくわくする。  
 寒くなってきてから隠れていた鎖骨が見えた。さらに続けると、夏実の部屋のカーテンと  
同じような柔らかいオレンジの下着が現れる。  
「や、やっぱりはずかし」  
 起き上がろうとする肩を押してベッドに再び沈めた。肌と下着の境を指でたどる。  
中心から外側へ。肉の薄い感触から控え目だけれど次第に柔らかさが増していくのがわかった。  
シャツを広げて肩に伸びるストラップを横へずらすだけで、自分でもおかしいくらい緊張する。  
 
「可愛いのしてんじゃん」  
 小さな花のレースがあしらわれた下着は繊細なケーキの細工みたいで夏実の肌によく映えた。  
「かわいーのって他の人の見たこと……んくしゅん!」  
 言葉の途中で小さくくしゃみ。いくら部屋の中とはいえ、冬にこんな恰好をしていたら  
風邪をひいてもおかしくないか。しかも夏実は元気なくせに風邪を引きやすい。今の時期に  
体調を崩されてもいいことないな。  
「家には母親も姉貴もいるの思い出せ」  
 言いながら体の下になっていた毛布を引きずりだして俺らの上にかけた。いつも夏実が  
使っている香水の香りがする。こんな風になるなんて半年前の自分は想像もできなかった。  
 ちゃんと足の方まで隠れるようにしている間にうつぶせになられて、胸が隠されてしまう。  
くそ、心配してやったのに。しょうがないから、後ろから抱え込むようにして体をベッドに転がした。  
たくしあげた裾の方から手を入れ、なめらかな背中を楽しむ。どうして同じものからできてるのに、  
夏実の肌はこんなに触り心地がいいんだろう。ぽっこりと浮き出た首の骨に口づけて、  
そちらに夏実が気を取られているうちにホックを外した。  
「あっ……」  
 キスか、下着の締め付けがなくなったことかどちらに対してかわからなかったけど、  
吐息のような声。たぶん、わかってないだろうけど、それがどんなにこっちを煽るか。  
実はどう外そうか悩んでいたんで、後ろを向いてくれて都合がよかったと言ったら  
むくれるだろうから黙っておこう。  
 浮かせた下着と肌の間に手を滑りこませるとわかりやすく体が硬直した。  
左手に伝わる振動がとくとくとくとく、早い。  
すべらかで、温かくて、さらりとしているのに吸いついてくるような。掌にすっぽりと  
納まってしまうぐらいだけど、ちゃんと柔らかい。  
「こんなんなんだ……」  
 初めての感触に思わずつぶやくと、夏実が頭をもたれさせてきた。  
「なんでも、お互いに知ってると思ってたけど、まだまだ知らないこと、あったね」  
「だな」  
「恥ずかしいけど……じゅんたの手、あったかくて安心するなー。背中からも伝わってきて気持ちいい……」  
 鼓動はまだ早いままだけど、少しずつ入っていた力が抜けて体重を感じられるようになる。  
すっげぇ幸せ。  
「じゅんたぁ。今年のケーキはフォンダンショコラがいいな」  
「わかった」  
 夏実の声みたいにとけて消えそうなくらい、とびきりのやつをつくろう。  
胸を掌に収めたまま、優しくパン生地をこねるみたいに動かしてみる。寄せたり、  
指だけで外側を撫ぜたり。  
 
「どんな感じ?」  
 俺は柔らかい感触が気持ちよくてずっとこうしていたいけど。同時に夏実の感覚も気になって尋ねた。  
「んん、よく……わかんない、かも」  
 かもってなんだ。まあ、始めてですぐ気持ちいいなんてないだろうしな。でも、  
ただ柔らかいだけだったなかにも、押し返してくる硬さもちょっとずつ生まれてきているから、  
悪くはないと……思いたい。そのぷにっとしたグミのような先端を指で掠めるとまた夏実の体が硬くなる。  
 いきなりどうこうなんて無理だよな。動きを止めてただぎゅっと抱きしめた。  
ゆっくりとか言いながらすぐに忘れそうになってたらこの先もたない。  
はふ、と緊張をゆるめたため息が聞こえて、それに応えるように手を探し出して指を絡めた。  
 一回り細い指が、重なってきて確認するように何度も撫ぜるから、上体を起こして  
耳にキスをする。何度も、二日と開けずに入り込んでいる部屋が、ベッドの上から  
夏実越しに見るだけで初めての場所みたいだ。時計の秒針が進む音が心臓の音と重なって聞こえる。  
 あったかいな。やわらかくて、甘くて、ずっとこうしてみたかった。  
 少しでも夏実もそう思っていてくれたらいい。  
 しかし、そんな心と裏腹に体は正直で。  
「あー、夏実? ちょっと俺、その……トイレに」  
 自分のことながら情けないぐらいの歯切れの悪さで幸せな時間を終わらせようとする。  
そしてそのまま起き上がろうとして、できなかった。未だに右手が夏実の体の下にあるからだ。  
「ほんっとに悪いんだけど、どいてって夏実?」  
 無言。窓ガラスが風に揺れて音を立てる。  
「まさか……」  
 息をつめて様子をうかがった。そしてもう一度名前を呼ぶ。返事は――ない。  
かわりに、安らかな寝息なら返ってきた。  
「まじか」  
 夏実の寝起きの悪さは天下一品。そして抱きつき癖がある。そんなことされたら、  
目も当てられないことになりかねないってか絶対なる。自信もって断言できる。  
 とりあえず、まだ胸に触れたままだった片手をどかして……。  
「んっううん」  
 何でこのタイミングで寝言なんだよ。しかも妙に鼻にかかっててエロ、だめだ。  
考えちゃだめだ。生殺しか。これ何ていう罰ですか。  
「す、き」  
 ラブコメじゃねぇんだよ! でもこんなだけど、大きな一歩、前進なの……か?  
 
 
 
END  
 
 

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