鳥居。このむこうに、みさとちゃん、いるかな。  
すこしあるいてひとやすみ。すこしあるいてひとやすみ。すこしあるいてひとやすみ。  
わかってるよ、かあさん。じかんがかかるけど、やれないことなんてないんだよね。  
神社のしょうめんにあるブランコ。・・・いた。みさとちゃんがいた。  
 
 
苦。苦。──苦。  
苦。吸う、苦。吐く、苦。  
くそ、苦、せんそく、発作、苦─苦。ついて、苦、ないな。・・・苦。  
身体、起こさなきゃ。苦。吸う、吐く苦。  
何時、苦、だろう。苦、苦、三時、半。苦、今日は、もう、苦寝れないな。苦苦。  
ゆっくり、吸え。苦──ゆっくり、吐け。苦、冷静に苦、繰り返すんだ。  
「は、ひゅーーぅ、・・・は、ひゅーーぅぅ、かはっ」  
痰が出る。苦。ゴミ箱に捨て、る。苦。もっと出せ。出さないと、苦、楽にはなれない。  
何度か痰を出す。はぁ、はぁ。少し、楽になった苦かな。  
水が欲しい。苦、気管を湿らせて、痰を出したい。苦、苦。  
まだだ。もっと、苦。酸素を貯めないと。とりあえずは、肺。  
吐く。吸う。苦、苦吐く、吸う。もっと動けよ肺。  
ようやく、脳が、思考がナメクジのように苦、動き始める。遅い。苦いらいらするなぁ苦。  
違う。苦。絶対にそんなのは、正確じゃない。苦。本当、どうかしてる。  
インターネットじゃ、く、苦。何だっけ、『ストローをくわえたまま息をする苦しさ』苦、  
だったか、そんな例えをしてるけど、苦違う。馬鹿にしてるのか、それは。  
そんなの、医学的な苦説明でしかない。気管の、苦、状態を例えているだけ。苦。  
誰が例えられるか、こんなの。苦・・・苦。  
腕も苦脚も、頭も、肺も苦。全部が苦酸素を失ってるなんて、どう言えばいい?  
全身全霊で苦呼吸して、ようやく意識を失くさないで済んでる感覚って苦、的確な表現はあるのか?  
まともに考える苦事も許されない苦状態で、どうしてそんな表現を苦思いつけるのか?  
だから、理解されない。苦、どれだけきついかなんて、伝えられない。苦。  
雨、降ってるな。  
何で気圧の低下が、発作の原因になるんだろう。  
水が欲しい。苦、まだだ。今、苦動いたら、手足に酸素を分けたら苦、肺を動かせなくなってしまう。  
ちょうど四時半だ。何度か呼吸。  
なんだ、もう五時半。早いぞ、時計。  
でも、少しだけ動けるか。ああ苦そ、折角酸素、貯まったのに、使い切ってしまうな。  
「ふ、っ!」  
気合を入れてベッドから降りる。着替えて、台所に向かう。  
「は、す、・・・は、すーぅ」  
目が覚めた頃からは、楽にはなってる。といっても、毛の先程度だな。  
たった数メートルを、何回も足を止め、何十回も呼吸して到着。  
腕に酸素がまわるのを待って、水を飲む。  
ごぼ、と大量の痰が出る。透明で、指で摘まんで持ち上げても切れない硬さ。  
「は、あ、ふぅ、は、」  
また一段階、楽になった。薬、飲まないと。  
苦い薬。飲み終わってからも水を何度も飲む。  
「はあ、ふう、ふ、う」  
とっくに汗だらけだ。脚の筋肉は大した運動をしてないのに張ってる。ぎしぎしと動きが悪い。  
腕も重い。味覚もろくに働いてない。  
こんなだから、朝は簡単なものしか作れないようにしてる。  
さて、もう一回動くか。親父の朝食、作らなきゃ。  
 
親父が起きてくる。  
「おはよう」  
挨拶をしてくれるけど、答えるだけの活力は使い切ったばかりだ。  
ソファに座って、頷くので精一杯。それを見ただけで親父は僕の状態を把握した。  
「無理そうなら、休んでもいいんだぞ」  
解ってるけど、そんな事はしたくない。  
・・・?親父がいない。って、当たり前か、出勤時間はとっくに過ぎてる。  
のろのろと冷えた食器を片付ける。今日は朝食の時間はないか。洗濯も無理らしい。  
でも仏壇に線香はあげる。微量の香りが気管を通って、症状が悪化。  
それでも、これだけは守らなきゃ。  
身体を引きずるように部屋に戻って、制服を着る。  
本日木曜一時限目、体育。見学、するか。  
外に出ると、美里がこっちに歩いてくるのが見えた。  
「おはよ、ひろちゃん」  
「・・・・・・」  
片手を上げて答える。声を出すのもきつい。  
薬は飲んだけど、完全に収まってくれるのは昼頃、じゃないな。下校時間にはそうなるかな。  
「ひろちゃん、大丈夫?」  
美里は気付いている。病気の事も言ってある。  
「ああ、・・・いつもの、事だよ。慣れてる」  
そう。こんな事、何回もあった筈だ。  
──何回目なのか解らないし、前はいつだったかな・・・最近もあっただろうけど、思い出せない。  
「・・・行こ、遅刻しちゃうよ」  
美里の言う通りだ。早く行こう。  
 
「おーす、浩史」  
「・・・、おはよう」  
「・・・そっか。早いトコ教室行くか」  
同級生で僕の状態を見定めることが出来るのは桂介と美里だけ。  
普段とどのように違って見えるのかは知らないけど、聞いたところでどうにもならないだろう。  
どすんと椅子に座る。ああ、疲れた。  
いつもならどうでもいい話題を振ってくる桂介も、こんな日は静かなものだ。  
助かるけど、気を遣わせてる自分が嫌だ。  
HRが終わり、一時限目。  
担当の先生に体調不良で見学したいと伝える。  
「精神が弱いから、そんな病気になるんだ」  
……何と言ったか。こいつは。  
弱い、だって?ふざけるな。ただの思い込みだと言うのか。  
そんな事で、あそこまでなってしまうと、言うのか。  
「大した事ないんだろう。甘えるな」  
頭にくる。頭にくる。  
そうまで言うなら解らせてやろうかこの場で徹底的に容赦なく皮肉血骨髄液まで  
一生涯忘れられないように毎夜悪夢として出るように。  
こいつが、どんなに──  
「俺からも頼みますよ、先生」  
・・・桂介。  
沸騰しかけていた脳が静まっていく。  
「無茶させて救急車なんて、一番拙いのは先生じゃないですか?」  
ちらと桂介を見る。その目も口調も真剣そのものだ。  
また助けられた。『ダチに貸し借りなんてねーんだよ』とこいつは言うけど、  
いつか、なにかをしてやらないと。  
「ふん、休んでろ」  
不機嫌なのを隠そうともせず、僕を体育館の隅に追いやる先生。  
桂介は『してやったり』と会心の笑みを僕に見せて、休んでろと手で表現する。  
精一杯の笑みで返事をする。後で礼を言わなくちゃ。  
 
二時限目からは寝不足による吐き気との戦いも加わる。  
対策には、水原が言った問いへの二番目の答、集中力を高めて押し出すしかない。  
発作もまだあるけど、朝に比べれば少しは楽か。  
さて、集中だ。授業の情報に意識を向ける。平時よりは動きは鈍いけど、まあ何とかなるかな。  
雑音が五月蝿い脳。こんな時に普通に思考出来る幸せを思い知らされる。  
 
 
昼飯の時間になった。  
学食に行かず、購買にも行かず。  
水飲み場でがぶがぶと喉を鳴らし、貯まってた痰を出し尽くす。  
あー、・・・腹減ったな。やっぱり朝飯抜きは堪えるな。  
今から学食に行っても席はないだろう。購買に至っては運動部連中の買占め政策で売り切れだろうし。  
仕方ない。帰るまで我慢するか。  
「ひろちゃん」  
美里の声。背を伸ばして彼女に向きなおす。  
「これ・・・」  
おずおずと伸びた手にはパンが二つと缶ジュース。  
「悪いな美里。ありがたく貰うよ」  
行儀が悪いと知りつつ、その場で袋を開けて噛り付いてしまう。  
うむ、美味い。『空腹は最高の調味料』とはよく言ったものだ。  
一つ目を胃袋に収納し、美里の思い詰めたような顔に気付く。  
「ひろちゃんはさ、・・・」  
「何?どうかした?」  
やや俯いて、続けた。  
「今日、一緒に帰ろ。絶対だよ」  
珍しく強い口調だ。何か話したいことでもあるのかな。  
「わかったよ。そうだ、調べ物はもういいのか?」  
「・・・うん、・・・校門で、待ってるから」  
そこまで言った美里は教室に戻っていく。  
残ったパンをジュースで流し込み、身体の状態を確認。  
・・・ふう、八割方回復か。  
後は眠気をどうやり過ごすかが問題。ま、いつもの事だ。  
 
言った通りに美里は校門で待っていた。  
教室から一緒にならなかったのは、人目を意識しての事だといいけど。  
「お待たせ」  
「うん、行こ」  
暫くは無言で歩く。すぐにでも話してくれて良いのにな。  
それなりの決意が必要とくれば、用件は限られてる。  
僕から言い出すべきだったかな、この想いは。  
この気持ちを伝えられるなら、言い出すのが美里でもいいだろう。  
さっきまで降っていた雨で道路は濡れている。あちこちの水溜りに夕日が写っている。  
空には赤い雲。僕の方もほぼ回復し、気分がいい。  
「ひろちゃん」  
やっとか。  
「何?美里」  
視線を送ると、ひどく思い詰めた表情だ。  
つい理由を聞いてしまう。  
「どうかした?」  
「その、病気のことなんだけどさ、……」  
ちょっと予想外。…いや、僕が期待し過ぎただけだろう。  
「きっと大した事ないよ。ちゃんと───、……」  
……。大した事ない。  
お前まで、そんな言い方をするのか。  
「───ゃん、聞いてる?」  
うるさいもう口を開くな。  
「どうしたの?何か言ってよ」  
そうか。聞きたいか。なら言ってやる。  
「何で、そう簡単に、否定するんだ」  
美里の顔が強張る。ふん。聞きたいんだろう?  
腕を掴む。じっくりと聞かせてやるから、そこにいろよ。  
 
「知ってる。重い方じゃないってくらい知ってるよ。  
 だから何だって?そう言い聞かせれば、少しは楽にしてやれる?  
 心の持ちようで治るって?妄想だよ。馬鹿にするのもいい加減にしろ。  
 ああ、確かに精神面の影響もあるだろうな。否定はしない。そういう病気だからな。  
 で?僕がどれだけ苦しんできたか知ってるのか?  
 どれだけの時間をこいつと過ごしたのか想像がつくのか?  
 そうだよな、こいつの事を一握りだって感じた事ないんだっけ。  
 ただの一回も、こいつで苦しんだ事ないんだよな。  
 だから、簡単に否定するんだ。大した事ないなんて言えるんだ。  
 こいつの苦しみを、全く想像出来ないんだ。  
 僕の体験をなかった事に出来るんだ。  
 僕の今までをなかった事にするんだ。  
 言えよ。一体どんな理由で、僕を否定してるんだ?」  
美里はうなだれている。謝罪か?遅いぞ。  
「精神が弱い。そんな理由で、あんな事になるのか。  
 ・・・そうか、美里は知らないんだよな。  
 夏休みに親戚の叔父さんが死んだ。僕と同じ病気で死んだ。  
 夜が明ける前、奥さんが気が付いた時には唇が紫色だったらしいよ。  
 すぐ救急車を呼んだけど、間に合わなかった。  
 僕もそうなる可能性はあるんだ。  
 眠るのが怖いって感じた事、あるのか?  
 朝、目が覚めるのが嬉しいって感覚は?  
 噛み締めるように息をした事はあるのか?  
 明日の存在そのものに不安を抱いた事は?  
 僕の何を知ってるつもりなんだ。  
 思い上がるのもいい加減にしておけよ美里」  
さあ満足しただろう。何か言えるなら言ってみろ。  
手を離す。美里の肩は震えていて、直後に背中を見せて走り去る。  
がちゃりとアスファルトと衝突する鞄。見向きもしないで行ってしまった。  
 
「何なんだ、くそ」  
美里の鞄を拾う。と、ばさばさと中身が落ちてしまった。  
授業で使う教科書、ノート、それに筆記用具。後は何だろう。  
白い紙にびっしりと書かれた文字。手にとって目で追った。  
「・・・何なんだ、くそ」  
美里はあの言葉の後、何を言ったのか。  
完治は無理でも軽くする事なら十分出来るよ、と言っていただろう。  
それを証明する為の文字列。僕の病気についての出来る限りの情報が載っている。  
「何なんだ、くそ!」  
三度目の罵倒。馬鹿野郎。僕の馬鹿野郎。  
美里の好意を蹴り飛ばしておいて、何してるんだ。  
さっきの美里の顔。思い詰めた顔。  
早く見つけて、謝るんだ。ありがとうって言わなきゃ。  
そうしないと、あいつは馬鹿な事をするかも知れない──!  
「くそ、どこ行った・・・っ!」  
まずは美里の家だ。  
は、はあ、はぁ。  
息を弾ませてようやく着いた。暗くなり始めているのに、窓には明かりがない。  
そして玄関前には足跡がない。いない、と判断するべきか。  
「どこだよ美里、教えろ」  
愚痴ったところで意味はない。次に行きそうな所は・・・  
と、その前に。美里の鞄を側に置く。  
僕の鞄も邪魔だ。素早く家に戻り、靴箱に置く。  
「さて、どこだ」  
美里と行った所。  
美里と行きたかった所。  
美里が行きそうな所。  
出鱈目に走る。思いつく所に向かって走る。  
「は、ひゅーーう、は、ひゅーぅ」  
ああくそ、発作がぶり返してきやがった。  
それでも走る。今、走らないとずっと後悔する。  
 
「!、っと」  
何も無い道路で躓く。転びはしないけど、脚が上がっていない証拠。  
心臓がガンガンと五月蝿い。休む?馬鹿言え。美里に何かあったらどうするんだ。  
後、美里が居そうな所ってどこだ。  
美里。美里。みさと。みさと。  
くそ、あたまに酸素がたりてない。思考がもやもやしはじめた。  
ここは、そうだ一丁目だろ。しっかりしろ。  
まったく、どこいったんだろ、みさとちゃんは。  
「は、・・・かはっ!・・・ひゅーーう、はああ、ひゅーーぅ・・・」  
なんでさがしてるんだっけ?まあ、いいや。探してから、かんがえよう。  
みさとちゃん、と、はじめてあったところは、まだみてないよな。  
こんなに暗くなるまで、なにしてるんだろ。  
鳥居。このむこうに、みさとちゃん、いるかな。  
すこしあるいてひとやすみ。すこしあるいてひとやすみ。すこしあるいてひとやすみ。  
わかってるよ、かあさん。じかんがかかるけど、やれないことなんてないんだよね。  
神社のしょうめんにあるブランコ。・・・いた。みさとちゃんがいた。  
「は、・・・、は、・・・」  
ちかくの木にせなかをあずける。もううごけない。  
けどまあ、ぶじで良かった。これであんしんだ。  
「・・・!──、・・・!」  
みさとちゃんが、なにか言ってる。すぐちかくでなにか言ってる。  
ごめん、もうすこし、やすませてくれよ。  
そうしたらなんでもきいてあげるから。  
あれ、いない?またどこかに行ったのかな。みず、のみたい。  
「が、っぐ、うう!は、・・・!、う、ぐうう!」  
くそ、やばい。アかしんごう。きけンとまれ。みズ。みず。  
キカンがかたまる。たんがデナい。うまる。うまってしまウ。  
クウキがなんのていこうモなくいったりきたり。  
いとみたいなくうきガおうふくしてるだけだ。はいなんてうごくハズがない。  
・・・なんで、いきてるんだろ。  
「ぁ、・・・っ、ぅ、──、・・・」  
かたまった。かたちをカエナイ。でない。  
あとは、うまる、だけ。  
──、おわる、らしい。  
くるしいのが、おわるのかな。  
なら、いいや。  
やっとおわる。おそすぎだろ。  
なんで、もっとはやく、おわらなかったのかな──  
「   、・・・!──!!」  
・・・みさとちゃん、もどってきた。ペットボトルをみっつもモってる。  
蓋をねじって、ぼくにおしつける。さすがみさとちゃんだ。わかってるな。  
ごくり。がは、ごくごく。げほっ、げほっ。は、ふう、ふ。  
くうきが「は、ああ!」気管をとおる。よし、「げほっ!」その調子だ。  
焦るな、ゆっくり「が、・・・はあっ!」広がってくれよ。  
・・・今、何時だろ。「はあぁ、・・・があっ!」美里の身体、冷えるな。  
早く、帰さないと。  
「ひろちゃん!何で?何でこんなに無理したの!?」  
何でって、・・・何でだろ?  
探してた理由。それは。  
「好きな女の子が、自棄になりそうなのを、放って置けないだろ」  
ああ、頭が、回らない──  
「僕の所為で美里に、何か、あるなんて、許せるもんか。  
 僕はどうなってもいい、んだ。僕が美里より先に、消えるのは当たり前だ。  
 当然の事なんだ。でも、僕より先に美里が、いなくなるなんて、許せない。  
 絶対にそんな事に、なっちゃいけないんだ。  
 ・・・うん、何もなくて、良かった。本当に、良かった」  
がしがしと美里の頭を撫でる。何もなくて良かった。  
あとはどうでもいい。僕はちょっとやばいところだったけど、美里が無事ならそれでいい。  
三つ目のペットボトル・・・コーラだったのか・・・に口をつける。額の汗を拭う。  
膝が揺れてるな。ま、こんなに走ったのは久しぶりだからな。  
 
「は、すーー、はああ、すーーぅ」  
肺がすこしは広がってる。良し、四割、回復。  
美里のおかげだ。僕ひとりだったらどうなってるか解らなかったな。  
さて、ゆっくり歩くくらいなら出来る、はずだ。  
「帰ろう、美里。身体、壊すよ」  
「まだ休もうよ、ひろちゃん」  
美里、そんなに不安な顔するなって。  
「いや、大丈夫、だって。お前に、何かあったら、いけない」  
空のボトルをゴミ箱に捨て、美里の手を引いて帰る。  
・・・やっぱり冷えてるよな。僕の所為だ。  
 
「え?美里?」  
玄関前で別れたはずの美里が、家の中までついて来る。  
「本当に、大丈夫なの?」  
余程不安らしい。安心するまで帰ってくれないようだ。  
「・・・大丈夫、だっての。美里の、おかげだよ」  
何度も痰を出してから薬を舌に乗せ、口の中で水と混ぜて一気に飲む。  
・・・眠い。今朝の寝不足がやってきた。眠気を感じる程に回復してるんだから、心配はない。  
でも、寝るにはまだ早い。ちゃんと回復してから寝ないと、また発作が起こるかもしれない。  
ああ、そうだ。  
「美里、ひとつ、だけ頼んでもいいか?」  
「何?ひろちゃん」  
居間に戻りながらの受け答え。  
「今から、寝るからさ、十五分くらい経ったら、起こしてくれよ」  
「大丈夫、なの?」  
「うん、他の人はどうなのか、知らないけど、収まりかけてる時に、ちょっとだけ寝ると、  
 随分楽になれるんだ。頼むよ、美里」  
ソファに腰を下ろす。横にはなれない。横になるにはまだ厳しすぎる。  
「・・・解った」  
美里も左に座る。幾分ほっとした顔だ。もっと安心させないと。  
黒い髪を撫でる。  
「悪いな、美里」  
背もたれに身体を預けて力を抜くと、すぐに意識が消えた。  
 
「・・・ちゃん。時間だよ」  
「ん・・・、ああ、サンキュ」  
吸う。みしみし。肺が平時と同じく膨らむ。  
空気が引っ掛かる感覚は僅かにあるけど、それでも八から九割、回復。  
とはいえ、咳やくしゃみで七割程度には落ちるかもしれないけど、もう安心。  
「すーぅ、はぁぁ」  
全身に酸素が渡ってる。きりきりと脳が回転している。全身の筋肉が張ってるのは  
当然だろうな。いつもの事だ。  
「──え、」  
・・・手を、握られている。美里の両手が、僕の左手を。  
美里が何かを祈るように下を向き、沈黙している。  
さっき神社前で言った言葉がじわじわと思い出される。・・・ぐあ、しまった。  
「美里、さっきの、その、ええと」  
くそ、もっとちゃんと言うつもりだったのに、何であんな状況で言ってしまったんだ。  
時間と共に顔が熱くなる。心臓が高鳴る。今、言い直すのか?凄く格好悪い事じゃないか?  
「最低、だよ」  
絞り出すような、美里の声。  
「何で、あんな事、言うの?」  
見れば、その細い肩が震えている。  
「やっと両想いなんだって解ったのに、何でひろちゃんは私より先に居なくなるなんて言うの!?  
 ずっと居てよ。お願い、いなくなっちゃ嫌だよ!いつまでも一緒に居てよ!」  
驚いた。  
こんなに感情を出す美里は初めて見る。言葉も真っ直ぐで、とても──僕の芯を揺さぶる。  
「美、里」  
何て返せばいいのか解らず、それでも名前を呼んでしまう。  
ゆっくりと美里の顔があがる。瞳が濡れている。頬も僅かな赤みを帯びていて、僕は右手を  
美里の肩に伸ばしていた。  
美里も身体を乗り出してくる。この後にする事は、ひとつ。  
どちらからともなく唇を重ねる。柔らかくて、温かい。  
離れると、美里は更に赤い顔で目を逸らしている。  
恥ずかしさと、嬉しさと、期待で染まった表情。僕は衝動に抵抗しきれない。  
しなやかな身体を思いっきり抱きしめる。  
 
はあ、と。美里の息がゆっくりと肩を撫でる。その小さい手も背中を伝う。  
女性を表すふくらみが胸に当たっていて、ぞくぞくと本能がくすぶる。  
その熱を受けた僕は、無言で美里を押し倒した。  
きれいな脚。スカートの皺。ほっそりとした腰。  
微かに上下する胸のボタン。受け入れるために開かれた腕。この先を促す、閉じられた瞳。  
・・・・・・・・・駄目だ。  
惜しいけど、悔しいけど、身体を離す。  
「ひろ、ちゃん・・・」  
美里を正視出来ない。  
気持ちはこんなにも盛り上がっているのに、応えようとしない身体の状態。  
今ほどこの病気を恨めしいと思った事はない。  
くそ、今を逃がしたら、次はいつなのか。  
「今日は、遅いから、帰った方がいいよ。・・・親父、帰ってくる時間だ」  
美里の期待を裏切った。この事実は間違いない。  
本当に自分を叩き潰したくなる。  
「解ってるから、・・・そんな顔、しないでよ」  
身体を起こした美里が、さっきと同じように手を握る。  
理解してくれているのは嬉しいけど、それでも心が晴れる訳がない。  
「でもな、・・・」  
「私は、いつでもいいんだから、・・・ひろちゃんがいいって思ったら言ってよ。  
 ・・・その、私、だって、したいんだから・・・」  
聞くだけでこんなにも恥ずかしいんだから、言った美里は文字通り茹でたように真っ赤に。  
・・・そうだよな。美里も、同じ気持ちなんだよな。  
「うん、解った。・・・僕も早く、美里を抱きたい」  
僕も素直に言った。紛れもない本音を、正面から。  
「…待ってるからね、ひろちゃん」  
ほんの少し照れ笑いをしながら美里は返事をしてくれた。  
その後は手を繋いで美里を家まで送った。何も言う必要はない。手の感触だけで  
十分に心が通じている。  
玄関先で見せてくれた美里の笑顔は、一番可愛いものだった。  
 

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