「はぁ」  
下校途中の重いため息。白く変化しながら舞い上がり、霧散する。  
そのはるか向こうに季節外れの風船が浮かんでいた。  
たったひとつだけで、どこに行くのだろう。  
──思い出す。  
小学校の頃だ。風船に将来の夢を書いた紙切れをつけて飛ばすという  
他愛のない行事があった。その頃の私はお母さんと同じ看護婦になりたいと思っていた。  
迷う事なく札に書き終わって、風船のひもにくくり付ける。  
すぐ隣にたひろちゃんの札には何も書かれていない。  
色々と考えがあって、どれにすればいいのか迷っているのだろう。  
校庭に集まる私達に先生の声が響いた。  
『皆書いたわね?合図をしたら一斉に飛ばすんだよ』  
ひろちゃんはまだ書いていない。もう時間がないのに、まるで焦っている感じはない。  
何もせずに、白いままの札を見つめている。  
『いいわね?せーの、それ!』  
クラスの皆が手を放して、色とりどりの風船が空に飛んでいく。  
私の青い風船も一緒に飛んだ。ひろちゃんの赤い風船はまだ飛んでいない。  
飛んでいく風船の群れを見届けたひろちゃんは、ようやく手を放す。  
将来の夢を書く筈の札はついていない。それどころか、皆の風船とは全然違う方向に  
飛んで行ってしまった。同じ風に乗る事が出来なかったのだ。  
なのに、満足そうだ。  
『いいの?』  
私は訊かずにいられない。何でそんな事に満足しているのか。  
『いいんだよ。これでいいんだ』  
ふらふらとひとりぼっちで飛んで行く。  
私には耐えられない事。それなのに、ひろちゃんはそれを選ぶと言う。  
何でだろう。  
 
続いて目を移したのは、手に収まっていた真新しい鍵だ。  
一度も使っていないけれど、既に様々な思い出が詰まっている。  
ひろちゃんと初めて身体を重ねて随分経つ。  
デートらしき事もしたし、身体をひとつにしたのも数える程にはした。  
何度目かの温かい時間を共有して、この鍵を渡された。  
『僕の家の鍵だよ。美里ならいつでも来ていいから』  
その言葉の意味に翻弄されながら、私もスペアの鍵を渡そうとする。  
『いらない。行く時は必ず連絡するから、嫌だったら断っていい』  
感情の薄い顔だけど、優しかった。  
私が嫌な事はしない。私を大事にしてくれると言う。  
『…うん、解ったよ』  
その気持ちが嬉しくて、真っ直ぐな返事をする。  
満足そうに頷くひろちゃん。  
そんな顔をさせた事に、私も満足だ。  
保育園の頃に助けられ、二度とあんなことにならないように明るい子を演じるようになると  
様々なものを得られるようになった。  
友達とか、クラスでの今の位置とか、他にも沢山ある。  
全部、この人から貰ったようなものだ。  
お返しをするきっかけが今まではなかったけれど、これからはちゃんと返せる。  
少しずつ、返そう。  
 
だというのに、何でこんなことになっているのか。  
ここ二週間、ひろちゃんとまともに会話をしていない。  
少し前から何となく避けられてる感じがあったけれど、それを訊く機会がなくて  
こんな状況になってしまった。私だけじゃなくて、阿川君とも話をしていないようだ。  
今日の登校も別々だ。あの手の感触は失われている。  
気付かないうちに傷つけてしまったのか。……それは考えにくい。  
どうしても耐えられない失言があれば、それなりの言葉が来る筈だ。  
あの雨の日だって私の言葉に激しく反応したし、笑うときは目いっぱい笑う。  
クラスの皆はひろちゃんを『感情の薄い人』なんて言うけど、そんなことはない。  
薄いというよりも、常に出す状況を選んでいるのだ。  
それなりの背丈だし、わりと整った顔だと思う。  
試験での点数も高いし、突飛な発想も出来る人だ。  
皆の前でも感情を出せば結構な人気にはなるだろう。  
なのに、しない。  
どこか思いつめたような表情だし、それに加えて無駄のない行動が機械じみた印象を  
強めてしまう。友達は口を揃えて言うものだ。  
『なんだか近寄りがたい人だね』  
実際、私と阿川君以外の人がひろちゃんと親しくしている所は見た事がない。  
その事実もあって、彼女達の言葉を否定出来ない。  
阿川君がどういったきっかけでひろちゃんと親しい仲になったのかはしらないけれど、  
私と同じく、ひろちゃんにとっては特例なのだろう。  
……そうなのだ。特例なのだ。  
普通の相手だけならば、ひろちゃんの周りには誰もいないのだ。  
何故だろう。  
逆なら納得も出来る。嫌な人には決して近寄らず、それ以外の人にはそれなりの  
対応をするのが当たり前だろう。そうやって自分の許せる相手を探すのがごく一般的な  
感覚の筈だ。同姓なら良い友達だし、異性ならば恋愛の対象になるだろう。  
なら、ひろちゃんは最初から誰にも理解させない方向なのだろうか。  
 
……思い出してみると、彼は小さい頃からひとりでいた。  
特定の誰かを選ばず、不特定の多数にも入らず、  
たったひとりきりで過ごしていたのを何度も見てきた。  
何よりもひとりを選ぶなんて、それこそ人付き合いで手痛い失敗をすればの話。  
しかし、ひろちゃんにはその相手さえいなかった。誰とも接したことがないのに、  
誰とも接する事を避けていた。接する事を絶っていた感すらあった。  
そういう事に小学校の中学年のあたりで気が付いて、私はひろちゃんに積極的に  
触れる行動をとったものだ。時を同じくして阿川君とも話すようになったひろちゃん。  
時間を追うごとに私や阿川君とは親しくなったのだから、一度は解決した事だと言っていい。  
人と接するというのがどんなものなのか、ひろちゃんは理解しただろう。  
問題は、今の状況だ。  
特例だった私と阿川君を放棄する理由。  
何か──大変な事になっているのではないのか。  
「……、──って、角倉」  
誰かの声に顔を上げる。  
冷えた教室。放課後。阿川君だけがいて、他の人は全員帰ったらしい。……ひろちゃんも。  
やや心配そうな顔をしている阿川君が言う。  
「どしたい?えらく考え事してたらしいけど?」  
「……うん、ちょっとね」  
恐らくは水原さんとかが声をかけてくれたのだろうけれど、それにも気付けなかった。  
こんなにも悩むくらいなら正面から訊くべきではないのか。  
でも、信じて待つ方がいい結果になる気がするのも確かだし。  
「あいつ、浩史のことだろ?」  
バレてるけれど、隠す事なんかじゃない。  
「うん、…ひろちゃん、どうしたんだろうね」  
肩をすくめて同意する阿川君。  
この人でも解らないらしい。  
「帰ろうぜ。じきに暗くなるぞ」  
 
冬の夕暮れは早い。  
途中まで送ると阿川君は言ってくれて、私は承諾した。  
誰かといるだけでこんなにも心が安らぐ。ひろちゃんだったら、意識せずに笑顔になって  
しまったものだ。  
私は阿川君と特別仲が良い方ではないので、こうして送ってもらっている事に少しだけ疑問を  
感じている。教室では他の子を相手にすることが殆どだ。この人と話す機会なんて数える程だった。  
……ひろちゃんともっと話すべきだったな。  
昔の、いじめられていた頃の思い出。その再現が怖くて他の友達との付き合いを選んでいた私。  
ひろちゃんとは家が近く簡単に行き来できるということもあって、学校ではまず接することが  
なかった。──それが、原因なのだろうか。いや、違う気がする。  
「お、あそこだな」  
阿川君が何かを見つけたように顔の向きを変える。  
その先には小さな公園があった。ブランコやシーソー、水飲み場などがある。  
「ちょっと話したいことあるんだ。時間、いいか?」  
珍しく真剣な様子だ。教室ではどこかおどけたような仕草を絶やさない人だから、  
相応の内容なのだろう。  
「いいけど、何?」  
「長いから、あのブランコに座って話すか」  
赤い二つのブランコは両方とも空いている。  
近づいて座ろうとすると、  
「ちょっと待った」  
阿川君はハンカチを懐から取り出して、私が座ろうとしていたブランコに敷く。  
こういう風に妙に気がまわる人だ。  
「ありがとう、阿川君」  
「なに、俺の家ってこんなのには煩いんだ。…ちょっと待ってろ。  
 飲む物買ってくる」  
小走りで近くの自動販売機まで行って、ホットコーヒーを二つ買った。  
「お待たせ」  
私は受け取りながらお金を出そうとすると、いらないよと制止された。  
「俺にわがままに付き合ってくれる相手に、そんなことさせられないって」  
阿川君は少し笑いながら隣の席に座る。  
 
コーヒーに口を付ける。熱さが喉から身体全体に沁み行く感覚が気持ちいい。  
阿川君も無言で飲み始め、懐かしむように言い出す。  
「…ここでさ、浩史と喧嘩をしたんだよ。小学の時だけどな」  
目の焦点をどこにも合わせずに、つらつらと続ける。  
「いや、喧嘩じゃないか…」  
喧嘩だけど、喧嘩じゃない?  
「いや、悪い。順に話す。  
 小学の時だよ。浩史の病気のこと知って、親にどんなもんなのか訊いてみたんだよ。  
 んで、俺は学校の帰りに浩史の前で聞いたまんまのことを言って、  
 本当かって訊ねたんだよ。  
 そしたらさ、何て言うか…能面みたいな無表情で俺の襟を掴んで、  
 ここに連れ込まれたんだ。  
 で、喧嘩になったんだ」  
ひろちゃんの病気を調べたから解る。  
すこし前まで喘息という病気は精神的、心理的なものが原因だとされていた。  
今でもそれを信じている人は少なくないようだ。  
阿川君のお父さんも、多分これを信じていたのだろう。  
「さっき喧嘩じゃないって言ったけどな、要するにそのくらい一方的だったんだ。  
 俺だけが殴られて殴られて殴られて。  
 必死に殴り返すんだけど、全部避けられた。  
 冷静にキレるやつって怖いな。普通なら、がぁーって触れないくらいに熱くなるんだろうけど、  
 浩史の場合はドライアイスみたいにぎんぎんに冷え切って、触れない感じだな」  
感情の爆発ではなく、理屈の狂走。  
ひろちゃんらしい怒り方だと思う。  
「一発は大したことないんだけどな、あんなに連続で食らえば  
 さすがに堪えるぜ。…で、こりゃ敵わねぇかなって思った時に、  
 浩史の手が止まった。  
 肩で息しててな、そんな体力で喧嘩売るんじゃねえ!って思いっきり  
 殴ってやろうとして、……出来なかったよ」  
阿川君も見たのだ。  
私と同じものを見てしまったのだ。  
 
「凄い汗、出してた。目の焦点はどこにも合ってなくて、…聞いたこともないような  
 音で呼吸してるんだ。  
 そのときは何も知らなかったけど、ただ事じゃないのは理解出来た。  
 少し待ってもそのまんまだった。不安になって、声をかけたんだ。  
 大丈夫かって。…でも、反応しない。  
 ふらふら歩き始めて、何となく動かすのは拙い気がしてな、腕を掴んで止めたんだ。  
 ……。冷たかった。本当に生きてるのかって思ったくらいだよ。  
 浩史は俺のことなんかいないみたいに水飲み場まで行って、水を飲んでた。  
 馬鹿みたいに飲んでて、それでも息は荒いままなんだよ。  
 飲み終わった後も俺の方を一回も見ないで帰ったんだ。  
 ふらふら歩いて、躓きかけたりしてな。  
 …俺は、何も出来なかった。見てるだけだったな」  
私も同じだった。訳がわからなくて、なにも出来なかった。  
ひろちゃんの名前を何回も呼んだけれど、恐らくは届いていなかったのだろう。  
「俺、家に帰ってから考えたんだよ。  
 あの時のあいつ、どんなところにいたのかなって。  
 ……意識にあったのは家の場所くらいだろうな。  
 それ以外の、俺の声とか、掴んだ手とか、晴れた空とか、あそこの焼き鳥屋の匂いとか、  
 涼しい風とか、──ひょっとしたら、色も、名前も、時間も。  
 ……全部が全部、塗り潰されてたんだろ。その発作の苦しさでな。  
 ──どんな世界だ、それは」  
理屈だけなら想像もつく。理屈だけだから想像がつく。  
実際に体験すれば、想像もしたくないような世界だろう。  
「んで、次の日はけろっとした顔で学校に来るんだよ。  
 俺にちゃんと謝ってくれたよ。浩史は悪くないのにな。  
 その時の事を聞いたら、いつもなんだから気にしないでいいって言うんだ。  
 ……いつも、だって?そんな世界に慣れてる?  
 何だそりゃ?そんなのが、日常だって言うのか?そんな日常を認めてるのか?  
 色んなヤツと知り合ってたけど、あいつが一番解らないヤツだよ。  
 何とか解りたくて、何回も話しかけてるうちに友達みたいなものになってた。  
 ……なってたつもりだったんだけどな」  
 
阿川君はようやく顔を上げて、私に向きなおす。  
やや明るい声で私に訊いた。  
「角倉はさ、……浩史とは、深い仲になったんだろ?」  
頬は赤くなってるだろうから、言わなくても解るだろう。  
でも、ちゃんと言おう。  
「うん、……そうだけど」  
ふ、と弱々しい笑みになる阿川君。  
「だよな……うん、あいつの事頼むよ。  
 今、俺の声が届かない所にいるらしいんだ。  
 あの時の、浩史を殺しかけた事への償いをしなきゃいけないのに、俺じゃどうしようもない」  
阿川君は立ち上がって、私に頭を下げた。  
「……頼む。俺に出来るのは、お前に頼むくらいしかないんだ」  
私も座っていられずに立って、しどろもどろに答えた。  
「解ったから、頭をあげてよ。……うん、なんとかしてみるよ」  
確証なんてないけれど、阿川君に約束する。  
私だって以前の関係に戻りたい。戻して、お返しをしなければいけないのだ。  
頭をあげた阿川君は私を真剣に見詰めて、もう一度よろしく頼むと言ってから帰った。  
迷うのは止めた。ひろちゃんの家に行こう。ひろちゃんと、話そう。  
 
 
薄暗い夕暮れの中で、真新しい鍵だけが場違いなくらいによく見える。  
ひとつの傷もない鍵。こんな気持ちで使うなんて想像も出来なかった。  
……使おう。  
チャイムを押したとしても、まず反応はないだろう。  
その事実は確実に私を萎えさせるに違いない。だから、押さない。  
私の重い気持ちを嘲笑うような軽い音で、鍵は開く。  
きぃぃ。ドアが開く音も何だか空虚な印象だ。不安になる。  
来るのが遅すぎたのではないだろうか。  
中の様子は、暗くてよく見えない。  
明かりが点いていない。多分、お父さんが帰ってくる寸前まで、この暗さなのだろう。  
 
パソコンの音だけが聞こえる。無機質な起動音。  
ざわざわと焦りが濃くなっていくのを感じる。嫌な感じ。  
──ひろちゃんが、大変なことになってる。すぐにでも助けなきゃ。  
明かりのスイッチを探す時間がもったいなくて、  
暗いままひろちゃんの部屋に向かう。何度も往復した廊下だ。  
目を瞑ってもどこに何があるのか解る。それ程に親しみのある風景なのに、  
暗いというだけで殆ど異世界としか思えない。  
……そうだ。こんな所から、ひろちゃんを取り戻すんだ。  
こんな所に居ていい人じゃないんだ。  
ひろちゃんの部屋。冷たいノブを掴んで、捻る。  
開くドアは無音だった。その向こうのひろちゃんの部屋も、無音だ。  
横のカーテンは開いていて、僅かだけれど明かりの代わりにはなっている。  
正面のベッドに座ったひろちゃんの脚だけがうっすらと見える。表情は全く見えない。  
──行かなきゃ。ここから先に行けるのは、私だけなんだから。  
踏み出した足が、微かな音をたてる。  
みしり。  
「……美里、僕をひとりにしてくれ」  
ひどく暗い声だ。勢いなんて全然ないのに、気圧されそうになる。  
止まってはいけない。もっと近くまで行こう。  
歩く度にみしみしと何かに亀裂が入りそうな音がする。  
すぐ側まで近寄ると、ふとももの上に投げ出された両手が見えるようになった。  
でも、顔は相変わらず見えない。  
震えそうな喉に力を入れて、私は言った。  
「何で、そう思うの?」  
微かに笑ったような気配。こんな、すり潰されそうな暗闇で、笑える意味。  
「簡単な話だよ。  
 欲しいものがあった。欲しくて欲しくて、あまりにも欲しかったから、  
 僕はそれを考えないようにした。そうやって生きてきたのを忘れてた。  
 忘れてればよかったけど……思い出した」  
見えないけれど、その笑みが深くなっていくのが解る。  
自分を笑うための表情。  
 
「絶対に手に入らない欲しいもの。そんなものの中にいたらおかしくなるのは当然だ。  
 だから、欲しくないと決めたんだ。  
 ──そう決めなきゃ、壊れるだけだ。壊すだけだ。  
 でも欲しい。その気持ちは、やっぱり消えてくれなかった。  
 ずっと殺し続けたんだけど、死んでくれなかった」  
ひろちゃんが欲しがるもの。それでも絶対に得られないものなんて、  
ひとつしかない。  
「まだ羨ましいって所で止まってる。  
 何とか止められている。……誰かといたら、その先に進んでしまう。  
 だから僕の側にいない方がいいよ、美里」  
その先が何なのかは予想はついてる。高く積まれた嫉妬が崩れる時、それは大量の暴力を伴う。  
でも、ひろちゃんをひとりになんかさせない。  
私はその気持ちをこめて、ひろちゃんの両手を握った。  
それに応えるように、ひろちゃんの指が絡まってくる。  
「なぁ、解るだろ?  
 美里に、ひどい事、したくないんだ。  
 離れてくれよ」  
私はそういう事にはならないと思う。  
だって、  
「……大丈夫だよ。ひろちゃんは、ずっと頑張れたんでしょ?  
 私にはとても出来ない事をしてきたんだよ?  
 ひろちゃんは強いんだから、そうはならないよ」  
何年も耐えられたなら、それ相応の強さがある筈だ。  
「……強い?お前、何言ってるんだ?」  
しかし否定される。  
肯定して欲しくて、私は必死に続けた。  
「前に、損ばっかりじゃないって言ったでしょ?  
 あんな風に受け止めるなんて、強くなかったら出来ない事でしょ?  
 私には出来ない。そんな事が出来るひろちゃんは強いんだよ?」  
「本気にしてたのか、あれを」  
またしても否定された。  
 
ひろちゃんの息が、荒くなっていく。  
「ああ、そうだ。損ばかりじゃないさ。  
 ……そう思わなきゃ、やってられないんだ。確かに嘘じゃないけど、  
 本音でもない。建前ってやつだよな。  
 ──そんな、建前にしがみ付かなきゃ立ってられないなんて、どこが強いんだよ。  
 そんなのは強さじゃないだろ。  
 どう考えたって、弱さでしかないだろう」  
ひろちゃんの手が少しだけきつくなった。  
「だから、離れろ。こんな弱いヤツ、何するか解らないんだぞ」  
はぁはぁと荒い息。  
嘘だ。その言葉は絶対に嘘だ。  
これも建前だ。誰も近づけさせない為の壁だ。  
「……本当に、そう思ってるの?」  
もし本当なら、私の手をこんなにも優しく握るなんて不可能だ。  
「本当だ。……これ以上僕に近づくな。  
 美里に、ひどいことするんだぞ」  
……これも、建前。  
手の優しさは変わらない。本心では行くなと言いたいのだ。  
もうひとりは嫌だと訴えている。  
それなのに口からは離れろ、という言葉。  
「──違うんでしょ?」  
本当にしたい事はもっと違うはずだ。  
「…………」  
答えはない。  
私とより距離を置こうとしているのが解った。  
そんなところに行ってもなにもないだけなのに、何故行きたがるのか。  
私は、行って欲しくない。ちゃんと恩返しをしたいのに。  
 
不意にひろちゃんの手から力が抜ける。  
慌てて掴みなおし、強めに力を入れると僅かだけど反応があった。  
本当は行きたくないのだ。なのに、行こうとしている。  
理由も語らずに、誰も触れられないところに消えようとしている。  
許せなかった。こんなに苦しんでるのに解らなかった自分が。見ているだけで良くなるなんて  
思い込んでいた事が。待っているのが一番の解決方法だなんて決め付けていた私が。  
全て、この人を知っているという傲慢が生んだ結果だ。  
数回身体を重ねただけなのに、知った気でいた。  
……私はひろちゃんの事を何も知らない。知っていたら、こんな目に会わせることなんてなかった。  
「ひろちゃん……」  
「………」  
答えはない。  
あの時と同じだ。  
ひろちゃんはひとりで必死に耐えている。私は、見てるだけだ。  
あの時と同じで良いのか。何も出来ないと諦めたいのか。諦めて、抜け殻のように歩くひろちゃんを  
見たいのか。私の想いが全く通じなかったひろちゃんにしたいのか。私への想いが全くないひろちゃん  
にしたいのか。  
私は、この人を喪いたいのか。  
……嫌だ。それだけは嫌だ。やっと掴まえたひろちゃんの手。絶対に離しちゃいけない。  
この向こうに隠れているひろちゃんを、助けなきゃいけない──!  
「ひろちゃん!」  
握っていた手を、思いっきり引っ張った。  
ずるりとひろちゃんが闇から出てくる。その勢いで、私に圧し掛かってくる。  
月に照らされたその顔は苦痛に歪んでいて、今にも泣き出しそうだ。  
これが、ひろちゃんの素顔だ。誰も見せた事がない、本当の顔。  
「……駄目だよ。僕に触れるな」  
「何で、そう思うの?」  
ぎり、と歯を食い縛るひろちゃん。  
そして抱きしめられた。ひろちゃんの顔は私の肩に埋まって見えないけれど、  
さっきと変わらないだろう。  
 
ぼそぼそとひろちゃんは語る。  
心の闇で色づけした暗い声だ。  
「……。この心は病んでる。こいつの芯は、苦しみで出来てるんだ。  
 何度も何度も苦しんで、それにも慣れてしまって、……どうかしてるよ本当。  
 苦しいのが正常。楽なのが異常。  
 この苦しみがなくなったら、それこそ僕は狂ってしまうんだよ。  
 ……こんな考えは絶対におかしい。おかしいのに、僕にとっては絶対の真理だ。  
 だから、こんな危ないヤツは捨ててしまえ。  
 美里までこんな風になる必要なんてないだろ。  
 触れたら、僕みたいになるんだぞ?」  
ならない。そんなことは嘘だ。  
「大丈夫なんだよ?ほら、私なら全然平気だよ?」  
「それでも、だ。……僕は、美里とは違う。同じ事が出来ない。同じものが見れない。  
 同じように歩いて、将来に向かえないんだ。  
 誰とも一緒になれないなら、皆から離れてしまえばいいんだ。  
 解るだろ?  
 ……だから、捨ててきたんだ。走ったり跳んだり投げたり、友達も知り合いも先輩も後輩も。  
 全部捨てて生きてきたんだ。いつ消えてもいいようにしてきたんだ。  
 繋がりが多ければ多いほど、残る悲しみは大きいだろ。  
 だから、ひとりになるんだよ僕は。  
 どんな時に何があっても、誰も苦しまなくてもいいようにするんだよ。  
 僕の所為で、美里を苦しめたくないんだ。  
 ……美里を、不幸せにしたくないんだよ」  
その言葉で私は確信する。  
ひろちゃんを取り戻すことが出来る。こんな暗い所から連れ出せる。  
「……だったら、余計離せないでしょ?」  
「どうして、そんなことが言えるんだよ?」  
ひろちゃんと過ごした時間が次々に思い出され、胸に湧き出る感情は確かに本物なのだ。  
「今、私は幸せなんだよ?」  
 
「……っ!」  
ぐらりと揺れる大きな身体。  
「私を不幸せにしたくないなら、ずっと傍に居てよ。ひろちゃんが居なくなったら、  
 私は不幸せになるんだよ?」  
「……みさと」  
「ひろちゃんだって、私が傍にいる時は幸せなんでしょ?私から離れて不幸せになりたいの?  
 ……本当に、ひとりに戻りたいの?」  
はぁはぁとひろちゃんの呼吸が荒くなる。  
「……ちがうに、決まってる……っ!」  
搾り出すような声で、ひろちゃんは最奥の感情を形にし始めた。  
「ひとりは、もう嫌だ。寂しいのは嫌だ。やっと美里と一緒になれたのに、離れるなんて事は  
 したくない。ずっと一緒に居たい…!」  
ぎゅう、と私を抱く腕に力が入る。  
私を離さない為の言葉と行動だ。これで、ひろちゃんは何処にも行かない。  
私の傍にいる事を選んでくれたのだ。  
「ねぇ、……もっと言いたい事、あるんでしょ?いくらでも聞いてあげるよ?」  
ひろちゃんは全体重を私に預けている。今にも倒されそうだけれど、重くなんかない。  
この人は、もっと重いものを背負ってきたのだから。  
「私なら大丈夫だよ?ひろちゃんの代わりに支えてあげるから、  
 全部支えてあげるから!…ちょっとだけ楽になってもいいんだよ?  
 休んでもいいんだよ?  
 もう、我慢しなくてもいいんだよ?」  
いつも疑問だった。  
興味本位で何度も訊ねたものだ。どのくらい苦しいの、と。  
決まってひろちゃんは同じ答えをする。つくりものの笑顔で、機械のように全く変わりなく。  
『きついぞ』  
そんな顔と声で塗り固めなければならない程、膨大な感情が渦巻いているのに、  
何でそんなに我慢してるんだろう。  
苦しい、きつい、楽じゃない。もっと適切な表現があるのに、それを使わない。  
何故、それを言うのを我慢してるんだろう。  
 
「ねえ、誰もいないんだから、私しかいないんだから、  
 言いたい事、言ってもいいんだよ?」  
それを言わせたいと思う。  
ずっと溜め込んでいた感情を、その言葉と一緒に吐き出させてあげたい。  
「……意味ないだろ、そんなの」  
「言ってよ。滅多にない機会なんだよ?」  
「馬鹿。そ、んなこと、言えない。美里に、聞かせられない、だろ」  
とっくに出掛かっている。言葉を詰まらせながら、ひろちゃんは言おうとしない。  
多分、私が特別な存在だからだ。自分への評価を下げまいと頑固に意地を張っているのだ。  
私は腕に力を入れ、胸と胸をより密着させる。何を聞かされてもどこにもいかないと伝えたかった。  
「……、みさと」  
「なに?」  
数秒だけ沈黙して、その身に満ちていた誰にも言えなかった感情が、ついに噴き出した。  
「みさ、とぉ……ぐ、うう!」  
震える声と、身体。  
「──つらかった、よぉ……っ!」  
意味のある言葉になったのはそれだけだった。  
その後からも出てくる感情は涙と嗚咽にしかならなかった。  
長年の蓄積。時間がどれだけかかるか解らないけれど、全部を出させてあげて、  
全てを受け止めよう。  
そして、私が大丈夫なところを見せてあげるんだ。  
もうひとりにならなくても良いと教えてあげよう。  
意地を張る必要がない、素直になれる相手がいる事も解らせてあげるね、ひろちゃん。  
 
ぐしぐしと顔を拭いて、ひろちゃんは暫くぶりの言葉を発した。  
「ああ、泣いた」  
私と一緒の時に見せる優しい笑み。ほっとする。ひろちゃんはやっと戻ってきたのだ。  
私は彼の頬に口付け、迎えの挨拶。  
「お帰り、ひろちゃん」  
「……うん、ただいま、美里」  
もっと実感が欲しくて、何度も軽い接吻をする。  
ひろちゃんも嬉しいのだろう、月明かりに照らされた頬が赤くなっていく。  
「ん、…は、んん……」  
ひろちゃんの勢いが増していく。抱きしめる腕にますます力が入っていく。  
どうやら私を抱きたくなったらしいけれど、今はしない。  
「は、あ。待って。時間、ないんでしょ?」  
ひろちゃんのお父さんが帰る時間までは少ししかない。  
そういう仲だと知らせる良い機会だと言えなくもないけど、私としては  
そんな事を気にせず行為に没頭したい訳で。  
「……うん、そうだよな」  
やや残念そうな顔と声音。  
それも一瞬だけで、すぐに両方とも真剣なものになる。  
「ありがとうな、美里。助かったよ」  
「……うん、もうこんな事しちゃ、駄目だよ」  
頷くと、もう一度肩口に顔を埋めるひろちゃん。  
「でかい貸し、作っちまったな」  
そんな事はない。私が貰ったものに比べれば大したことがない程度だ。  
それに私一人の力なんかじゃない。こうしてひろちゃんを戻せたのは、阿川君の言葉もあったからだ。  
「阿川君も心配してたんだからね。ちゃんと言わなきゃ駄目だよ」  
「……うん、解った」  
それから少しの間、私達は無言で抱き合った。  
私よりも太い腕。厚い胸。ゆっくりとした鼓動。  
──身体の芯が、じんじんとむず痒くなっていく。抱いて欲しい。ひろちゃんを、  
全身で感じたい。  
けど、今日は駄目だ。  
 
「ね、三つだけ、お願いしていい?」  
気付けばそんな問いを口にしていた。  
その三つは既に頭にあって、そんな馬鹿な事を言わなければならないことが恥ずかしい。  
「なに?」  
ひろちゃんの声は穏やかで、その内容を全く想像できていないようだ。  
恥ずかしいけど言いたい。この疼きをきれいに消化したい。  
「一週間後、お昼ご飯食べてから、私の家に来て」  
顔が熱い。ひろちゃんの耳元で、私を抱いて欲しいと宣言したのだから当然だろう。  
「……明日じゃ、駄目か?」  
それも悪くはないけれど、どうせなら思いっきりしたいのだ。  
一週間後も経てば冬休みに入る。そうなればお母さんに気を遣う必要もないし。  
「うん、駄目。で、二つ目はね」  
ひろちゃんの首に腕を巻きつけて引き寄せ、口付け。  
「ん、っふ……ぅん、……っ」  
とろとろの唾液と熱い舌を吸い合った。  
思考が熱を持ち始めて、でも支配されないように気合を入れながら続ける。  
くちゅくちゅと淫らな音。意識がはっきりしてる分、普段よりも強い快感。  
「は、んん、みさ、……っ、は、むぅっ……」  
息苦しいけれど、もっとしよう。  
もっとして、ひろちゃんの心を私の感触で埋め尽くしてあげよう。  
「…っ、……っ!ふはぁ……」  
月明かりが伸びながら落ちる透明な糸を万色に彩る。  
ぞくぞくと燃え盛る本能を力づくで抑えて、私は言った。  
「こういう事、毎日しようね」  
自分でも解るくらいに艶めいた声だった。おそらくは顔だって相応のものになっているのだろう。  
ひろちゃんは苦笑いして答える。  
「この先までってのは、駄目か?」  
ひろちゃんは私よりも盛り上がってるらしい。私の身体に直に触れたいと言う。  
けど、そこまでしてしまったら絶対に止められなくなってしまうだろう。  
だから、ここまで。  
 
「うん駄目……それで、三つ目、なんだけどさ……」  
これを言うのが一番恥ずかしい。  
ひろちゃんは僅かに笑っている。どんな言葉が出るのか楽しみにしている感じだ。  
「えっとねぇ、その時まで、ひとりで慰めちゃ、駄目だよ」  
我ながらひどい事を言うよなぁ……  
「美里、それは、……流石にきついぞ」  
何だか今にも死にそうな顔になった。私は笑いを噛み殺して、止めを刺す。  
「その、いっぱい、したいんだから、……頑張って溜めてね」  
……凄い恥ずかしい事言ってるな、私。  
もうちょっとは遠まわしな言い方をしたかったけれど、そんな余裕がないくらいに  
昂っているのは確かだ。  
はしたないと思われそうだけれど、そういった欲情を溜めに溜めて、一気にぶつけ合いたい。  
ふ、と何か諦めるような笑いでひろちゃんは承諾してくれた。  
「ま、頑張るよ」  
ひろちゃんの事だ、間違いなく守りきるだろう。  
「うん、頑張って」  
励ましの言葉を言うけれど、こんな使い方をする人なんて私くらいだろう。  
「な、美里」  
「なに?ひろちゃん」  
「美里も我慢しろよ。僕だけじゃ、意味ないんだからな」  
かぁ、と思考が白熱した。  
言われると、その言葉の凄さが解る。その、本当に──我慢するのが難しいことなのだ。  
しかし約束したのだから、私も守らなきゃいけないのだ。  
「……解ってるよぉ……」  
「よろしい」  
ひろちゃんは笑いながら私の頭をガシガシと撫でた。  
私を褒める手。いつもの手の感触。  
──って、簡単に立場が逆になってるけれど、まぁいいだろう。  
私の表情の変化を見届けたひろちゃんは、腕を伸ばして部屋の明かりを点けた。  
『ぱちり』  
 
明るい部屋。本来の明るさ。いつものひろちゃんだ。  
安心したのを知って欲しくて、その胸に頬擦りする。  
これは私にとっての求愛行為の一歩手前だったりする。  
両手でひろちゃんの腰を必要以上に突き出させて、そのまま胸から覗きあげれば  
私がその気なのだとひろちゃんには伝わる。  
ちなみにひろちゃんの求愛行為というのは私のそれよりも思いっきり直球で、  
私を正面から抱きしめて、耳元で『お前を抱きたい』みたいな事を囁くのだ。  
その仕草と言葉に凄く感じるものがあって、わざと言わせるように振舞った事もある。  
私の中途半端な行為に、ひろちゃんはお返しとばかりに耳元で囁いた。  
「じゃ、一週間後」  
ふるふると私の大事なところが悦んでいる。予行練習のように収縮して、  
顔に出ないようにするのがやっとだ。  
待ち遠しい。これからの一週間は天国か地獄なのか、その判断が難しいところだ。  
「ん、……一週間後ね」  
同意と性的な喘ぎが混じった甘い鼻声が出た後に、確認の言葉。  
お互いの言葉が届いたのを確かめ合って、私達は無言で部屋を出た。  
ぱちん。ぱちん。  
弾けるようなスイッチの音と共に明かりが戻る。廊下、居間、台所。  
戻った。これで、元通りだ。  
何の不安もない日常が蘇ったのだ。  
「……よかった」  
「──そうだな。……悪かったな、美里」  
手を繋いでいたひろちゃんが謝罪の言葉を言う。  
何も悪くなんかないのに。いつかは整理しなければいけない事なのに。  
でも、この言葉で全てが終わるならば否定ではなく肯定すべきだろう。  
「うん、許してあげる」  
その後は久しぶりに送ってもらって、私は自分の家の前で振り返る。  
「じゃ、また明日ね、ひろちゃん」  
ひろちゃんはにっこりと笑って、  
「──っ!」  
無断で私に唇を重ねた。  
 
軽くなんかない。舌を噛み合わせる深い口付けだ。  
「は、ん……ふ、はふ……」  
予期しない快感に、私はあっさりと陥落した。気が付けば  
ひろちゃんの胸に指を食い込ませて、より深く結合出来るように顎を差し出していた。  
辺りは真っ暗だけど、誰かに見られるかもしれないという事実が余計に私の気分を  
盛り立てる。  
「ん、……ぁ、ぅん……」  
寒い屋外は熱い吐息を白いかたちに変えた。  
とすんと玄関に押し付けられながら、私はひろちゃんの胸で悶える。  
私を抱く腕は力強くて、停止と続行の決定権はひろちゃんだけが持つ状態。  
不快じゃない。求められ、与えることが出来ているのが素直に嬉しいと思う。  
かちかちと歯が当たり、つるつると涎が行き来する。  
口からの音響が全身に響いて、これ以上喘ぎが大きくならないように  
自制しているのがつらい。  
気持ち、いい。  
「……、っ!、──、は、あぁ……」  
快感の残滓を拾い上げるので精一杯。他の事に意識が向けられない。  
鼻先が擦れるくらいの距離で、雄性を剥き出しにしたひろちゃんは言った。  
「今日の分だよ、美里」  
これが、一週間も続く。とっくに身体は加熱していて、ひとりの時でも冷ます事も許されないのだ。  
やっぱり地獄だ。幸福の地獄だ。  
とんでもない約束、しちゃったなぁ……  
「頑張れよ美里」  
ひろちゃんの声でやっと現実に戻れた。  
目の前の人だって同じ気持ちなんだ。その言葉の半分は自分を励ます  
つもりで言ったに違いない。  
「うん、頑張ろうね、ひろちゃん」  
私は目一杯力を入れて返事をした。  
ひろちゃんは軽く頷くと、おやすみと言って帰っていった。  
……本当、約束しなければ、すぐにでも部屋にこもって自慰に耽っていただろうな。  
ひろちゃんの指とか、唇とか、充血した性器を思い浮かべながら、……待った。  
そこで終了だよ、私。  
 
 

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