親父が死んだ。  
三年前の春。僕の入学式を見届けた次の日に倒れ、それきりベッドから降りることはなかった。  
そんなにも重い病魔に冒されながらも三年も生きたのだから、驚嘆すべきなのだろう。  
仏間に入り、こうして遺影を見ているだけで思い出す。  
「どうしたの?」  
僕は声の主に向き直さず、考えていた事を口にする。  
「なんで、あんなに幸せそうにしていたのかなって。……それが今でも解らないんだ」  
病院では親父の最期が今でも語り草になっているらしい。  
 
 
──昏睡状態が続き、後は心臓が止まるのを待つだけ、という状況での診察中に突然に目を覚ます親父。  
驚きながらもあれこれと言葉を並べる医者を全く無視して、親父は言ってのけた。  
『あと二時間しかない。人を呼んで欲しい』  
その人数は両手の指で足りる程で、僕もその中に入っていた。  
報せを聞いた僕が到着した時には既に何人かいて、親父は身体を起こして──名前、思い出せないな──  
知り合いの医者と言葉を交わしている最中だった。  
他の人は最期の挨拶を済ませてしまったのだろう、部屋のあちこちに所在無く立ち尽くし、皆違う  
表情だ。涙を流し床に目を落とす人。潤んだ目を親父から離さない人。  
壁に身体を向け歯を食いしばる人もいた。  
そして親父は、元気そのものだ。病気が発覚する前の明るい顔と明瞭な声。  
…白い入院着には、びっしりと汗が染み込んでいる。髪からもぽつぽつと流れ落ちている。  
その身体は間違いなく絶叫している。苦しいんだから眠らせろ、さっさと失神してしまえ、と。  
親父はそれを無視して、身体を使う。ひょっとしたら、その苦痛も感じない程に心と身体の繋がりが  
薄くなっていたのかもしれない。  
親父がばんばんと話していた人の肘を叩き、これで最期だと頷く。  
そして僕を手招きした。  
最期なんだと動かない脚を叱咤して、どうにか親父の傍に立つ。  
……何も言えない。親父も何も言わない。言葉もなく、ただ見詰めあうだけだ。  
思い出が次々と浮かんでくる。一般的な父親よりも、実の息子である僕との会話は多かった方だろう。  
所謂スキンシップも堂々とやってくれた。  
ことある毎に大きな手が頭を撫でたり、僕の手を優しく掴んだり、時には拳骨と化して脳天を  
直撃したり。…思わずやりかえしてしまい、きっちり三倍返しされた事もあったか。  
 
その手と言葉が今日限りになる。  
──何も、言えない。何か言わなきゃいけないのに。  
言葉を捜して俯きかけ、不意に肩を掴まれた。  
倒れる前の力強さがひしひしと伝わってくる。……ちゃんと顔を上げよう。  
最期なんだから、親父の気が済むまで観察させてやろう。  
僕はとっくに子供じゃないって事を。  
時間が止まったように僕と親父は視線を外さなかった。数秒か数分か、随分と長い瞬間見詰め合ってから  
親父は納得し、僕に一言。  
『しっかりな』  
いつもの口癖だった。僕を戒め、正しい方向に伸ばしてくれた言葉。  
──最期の、言葉だ。  
『……っ!』  
ごうごうと荒れ狂う感情を塞き止め、僕は頷く。  
親父の期待に応えるんだ。しっかりしているところを見せてやるんだ。  
唇は震えているし、涙だって今にも流れそうだけど、親父の教えが身についている事を証明するんだ。  
それを見た親父は噛みしめるように頷いて、ぽんぽんと肩を叩く。  
終わった。僕との時間は、僕が何も言えないままに幕を閉じてしまった。  
床に貼りついた足の裏を剥がして、壁際に移る。  
後悔しても遅いんだ。せめて感謝くらいはすべきだった。  
 
全員に挨拶を済ませた親父は清々しい表情をしていた。  
その場に居る人達を網膜に焼き付けるようにゆっくりと見渡し、遊び疲れた子供のように  
欠伸をする。  
『やっと安心して眠れるんだから、出来るだけ起こさないでくれよ』  
傍に控えている医者にも目を向け、蘇生措置は遠慮すると伝える親父。  
誰もその言葉を訂正させようとしない。  
皆、納得しているから。仕方がない事なのだと。  
『じゃ、またな』  
極めて簡単な別れの言葉を言って、親父は横になって眠った。  
部屋は静かだ。ぐにゃりと親父が歪んで、光の波だけが見える。  
……こんな世界に行くんだな、親父。  
光が集束して、頬から滑り落ちる。  
僕はまだ行けないけど、いつかは必ず行く。その時までに沢山の思い出を作ろう。  
全部、親父に聞かせてやろう。  
 
 
「孫の顔だって見てないのに、まだまだ色々やれた若さなのにさ、……あんな顔で逝けるものなのかな」  
「そうね、まぁ……出来る限りの事をやれたから、でしょ」  
あの歳、あんな身体で、満足出来た人生。  
どうすればあんな風になれるのか。  
「………」  
「ほら、しっかりしなさいって」  
落ち込んでいると思っているのか、明るい声で僕を励まし始めた。  
「お父さんに立派なところ、見せなきゃ駄目でしょ?  
 もう三年生なんだから、ちゃんと出来るって」  
全く、落ち込んでなんかいないってのに。  
「……三年って言うけどさぁ」  
僕は座ったまま身体ごと振り返って言う。  
「中学三年生に何が出来るって言うんだよ、母さんは」  
それを聞いた僕の母、外崎美里はころころと笑う。  
「その調子よ、一浩(かずひろ)」  
元気付けようとわざと言ってたらしい。  
すんなりと感謝の言葉なんて出るはずがなく、ついつい反抗してしまう。  
「で、何が出来るって?」  
優しく微笑みながら母さんは答えた。  
「沢山あるでしょ?」  
『どたどたどたどた』  
「兄ぃ!」  
「あにー!」  
「夜宮に行くぞー!」  
「いくぞー!」  
騒々しく乱入してきた六つも違う双子の妹、真樹(まき)と千花(ちか)が僕の両腕に掴みかかり、  
手漕ぎトロッコよろしくギッコンバッタン。  
まだまだ日は高いってのに、母さんに浴衣を着せられてとっくにその気になってるようだ。  
「着せるのはいいけどさ、早すぎじゃないか?」  
「可愛いんだから早く見たかったの」  
まぁ、確かに絵にはなるんだろうけど、こんなにも活発だとそれもぶち壊しだ。  
 
チビ二人が交互にまくし立てる。  
「綿飴!」  
「たこ焼き!」  
「リンゴ飴!」  
「お好み焼き!」  
食い物しか頭にないのか、お前らは。更に爺さんまでもが仏間に来てしまった。  
「よしよし、爺さんとちょっと覗きに行こうか?」  
二人はぎゃあぎゃあと騒ぎながら爺さんにまとわりついて、行ってしまった。  
真樹と千華は親父と一緒に遊び倒したお陰で、度が過ぎるくらいに懐いてしまったな。  
悪くはないと思うのだが、これからの事を考えれば失敗だったかもしれない。  
女の子がタンコブ付きの男と上手く付き合うってのは難しいのではないだろうか。  
「夕食の下ごしらえ手伝ってね、一浩」  
受け入れるのを全く疑わない口調で母さんが言う。  
「まだ教える気かよ?」  
僕ほど料理が出来る友達はいない。そんなに仕込みたいのか。  
「そうよ。お父さんはもっと出来たんだよ?」  
「知ってる。何でそんなに料理させたいのかって事だよ」  
「あら、絶好のアピールポイントになるのよ?」  
ああ、意地悪な笑みだ。こんな顔の母さんが言う事は決まっている。  
「あの子とは上手くいってるの?」  
「……うるせー」  
塾帰りにあいつと歩いている所を見られたらしい。事ある毎にこうして母さんは僕をそそのかす。  
母さんと親父がかなり早い時期からくっついていたのは聞いている。  
が、僕までそうさせようってのはどうかと思う。  
「ほら、行くわよ」  
「はいはい」  
母さんに続いて部屋を出ようとすると、風鈴が鳴った。  
多分、親父が鳴らしたのだろう。顔だけ後ろを向けると、触れそうな程に親父の気配がする。  
あの日に言えなかった言葉、言おう。  
「大丈夫だよ。親父の分まで頑張るよ」  
 
エピローグ 終  
 

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