皆悲しんでいる。当然の事。そういう場所だしそういう時なんだから。  
でも、僕はそんな気分じゃなかった。  
 
 
目が開く。  
深呼吸、よし。  
時間は朝の六時。目覚ましが鳴る十五分前。何時も通りの目覚め。  
布団を押しのけて手早く普段着に着替え、カーテンを開いてから台所に足を運ぶ。  
朝食を作る。と言っても火を通せばお終いの、簡単な物ばかりだけど。  
テーブルに食器を並べて親父を待つ。  
親父の出勤は早い。六時半には玄関を出なければならない。  
と、我が家唯一の稼ぎ役が居間に入ってくる。その足取りはしっかりしていて、  
起きて数分後とは思えない。  
「おはよう」  
「ん、おはよう」  
短い挨拶。それきり沈黙したまま親父は食事を始める。  
仲が悪い訳じゃない。もう何年もこうしているから、お互いに言う事もなくなっただけ。  
僕はまだ食べない。今食べたら昼までもたないからだ。  
「ご馳走さん」  
きっかり五分で終了する。立ち上がり、洗面台へ向かう。  
僕は使い終わった食器を水に浸し、ついでに仏壇に線香をあげる。  
もう一人の住人だった母さんは僕が高校に入る前に死んだ。  
急性の白血病。本当にあっという間に死んでしまった。恩返しをしたかったけど、  
もう叶わない。その分を親父にしてやりたいけど、それも出来るかどうか。  
洗濯機を回して居間に戻ると、ちょうど親父が部屋から出てきた。  
鞄を持ってスーツ姿、髪も整っている。  
早い人なら額が広くなり始める年だけど、その兆候は全くない。  
「気を付けてね」  
「ん、行ってくる」  
これまた短い会話だ。時間もないし、驚くような事件がある筈もないし。  
起きぬけと変わらず全然危なげない歩き。  
僕も寝起きが良いのは親父の遺伝か。はたまた生活環境への適応なのか。  
どちらかと言えば前者だろう。僕は未熟児で生まれてしまい、理由は忘れたが親父と  
血液を交換したのだ。その傷跡はまだある。その行為には長い時間がかかったのだろう。  
親父を見送ってから、ようやく食事を摂る。  
 
食器が触れ合う音が響く。テレビは見ない。新聞は一応は目を通すけど、  
その後は必ずインターネットでチェックする癖がついた。  
テレビの反対側に置いてあるPC。2台とも電源は入れっぱなしだ。  
食器を洗ってから、右側の一番機のマウスを揺らして定番のサイトを表示させる。  
…やっぱり、ウチで取ってる地方紙は偏ってるよなあ。所謂「左」の方へ傾いてる感じ。  
ま、それをどうこうするつもりもないけど。どうなると期待もしてないし。  
一通り見終わって、右下の青い豆としか表現できないアイコンをダブルクリック。  
母さんが死んでからこれを、UDがん研究プロジェクトに参加した。白血病や癌の治療薬を、  
世界中のPCを繋いで作り出そうというプロジェクトだ。  
母さんの命を奪った病が憎いという事もあるけど、  
それ以上に僕のような家事に時間を費やす男子高校生を増やしたくはないし、  
何よりも『何かを残せる』というのが一番の理由だ。  
サーバーから課題を受け取り、解析が済めば自動的に戻されて新たな課題がやってくる。  
その繰り返しで薬が出来てしまうのだ。えらく簡単なカラクリだけど、それ以上の説明もない。  
電気代以外の費用は必要ではないし、そして何か物理的な対価を得られる事もないけど。  
興味があるならこちらまで→http://ud-team2ch.net/  
課題の提出回数と、それに付随するポイントは確実に伸びている。  
PCはメーカー品じゃない所為か一時期やたらと不安定だったけど、  
それも今は落ち着いている。さらに興味半分でCPUクーラーやら電源やらを何度か変え、  
随分と静かなマシンになった。  
二番機はもう少し値が高くてCPUメーカーが違う物なんだけど、解析の進み具合はあまり変わらない。  
人間と同じく向き不向きがあるらしい。  
二番機も、止まっていない。よし。  
三番機も組んでしまう予定だ。親父は僕に家事を任せきりなのを負い目と思っているらしく、  
『財布は預ける。上手く使え』と出費の方針には無関心を決め込んでいる。  
それでもまぁ、この二台に関しては一応の説明もしたけど。  
…そろそろ時間だな。  
 
洗濯物を脱水にして、部屋に戻って制服に着替える。  
鏡を見ながら短い髪に手櫛をかける。くせのある髪は簡単にいつもの形になった。  
三度洗濯機の前に立つ。手早くしわしわの洗濯物を取り出して縁側に干す。  
男二人だと数えるくらいのものだ。秋も半ばになった。空気が冷たい。  
塀の外に黒い髪が覗いている。…もう待ってるのか、早いな。  
いかに幼馴染とはいえ、待たせるのは好みじゃない。  
ばたばたと小走りで準備を済ませ、玄関をくぐる。鍵、よし。  
 
「おっす」  
「おはよ、ひろちゃん」  
静かな返事で、相変わらずの『ちゃん』付けだ。  
角倉美里。顔はそこそこの造形だと僕は思うのだが、親しい友人から言わせると『かなりの上玉』  
だとか。どうしてもそこまでは評価出来ないんだけど、価値観の相違は無くさなければならない!  
なんて宗教はやっていない。違うから他人。違わなくなったら自分がなくなる。それだけの話。  
癖のないセミロング。頭のてっぺんは丁度僕の鼻と同じ。幼い頃から背丈の関係は全く変わらない。  
てくてくと無言で僕たちは歩き始めた。  
ここ最近、女の匂いになってきたなぁなどと妙な感慨を持っている。  
これまでは半分妹みたいに扱っていたけど、それも改めなきゃならないかな。  
こいつとは驚くべき事に保育園からずっと同じ学び舎なのだ。小中高、そして大学も、だろうか。  
嫌とは思わないが、良いと肯定もし難いというか。  
保育園の頃。美里がひどくいじめられていたのを偶然発見してしまい、  
いじめていた連中を力づくで追い返してから何かと関係を持つようになった。  
本人もいじめられていたのが積極性のなさだと自覚したらしく、助けた次の日からは明るく振舞う  
ようになって、今では結構な人気者である。あるのだが、僕だけには昔と同じ姿を見せる。  
猫かぶりもここまで徹底しているなら尊敬すべきかな。  
「そうだ」  
とある事を思い出す。  
「何、ひろちゃん」  
「姉御、どうしてる?連絡とかある?」  
「お姉ちゃん?…どこにいるんだか」  
「ふうん。そうか」  
僅かに心配しているようだけど、あの人ならどんな問題も蹴散らすだろうな。  
美里には五つ上の姉が居る。  
あらゆる事に秀でた才を発揮し、性格も『剛毅』としか例えられないものだった。  
背が高く、艶のある長髪に引き締まった美貌。  
大学では数々の伝説をぶち上げ、卒業とともに失踪。それでも毎月結構な額の仕送りがあり、その  
生存だけは間違いないそうだ。しかし、あの人が似合う仕事は…  
正義の味方、万能の請負人、まあそんな所か。  
美里に対する評価が高くないのも、多分姉御の所為だろう。  
 
校門を通り、上履きを換える。僕と美里は同じ教室なんだけど、下駄箱は随分と離れているから  
ここで肩を並べて歩くのは終わりだ。  
「いよう、今日も元気かい?」  
「…、そりゃどうも」  
唯一と言える友、阿川桂介がばんばんと僕の背を叩く。  
ぼさぼさの髪を揺らし、曇る事を知らない眼。珍しいくらいに活気を持つ男だ。  
「良いぞ良いぞ!」  
人目を気にせずからからと笑い声を響かせるその様は、こいつと縁を切りたいと  
思わせるに十分だったりする。  
ぐあ、見知らぬ人々が注目している。絶対同類扱いされてるよなぁ…  
「おい、早く教室に行くぞ」  
「せっかちね、外崎浩史くんは!」  
うるせー馬鹿。  
ここでやり合うだけ無駄、つーか不利益だ。  
しかしまぁ、小学校の頃と変わらないヤツだ。中学は遠い私立に通い、公立高校で再開という  
やや変則的なパターンである。  
こいつが通ってた中学は県内でもトップ級の学校だったのに、こうして進学校としては二流の  
公立高校にいる理由は不明だ。訊くつもりもないけど、何かあったんだろう。  
で、教室に到着。  
ざわめく級友達の間を縫い、窓際の後ろから二番目の席につく。  
続いて桂介が後ろの机についた。  
明るい笑い声があちこちから聞こえる。  
「やだ、さっちゃんたらぁ!」  
美里も僕以外の人がいればあの様に笑う。  
その辺りに釈然としない気持ちはあるけど、他人を全て解ろうなんて冒涜はしたくない。  
天気は良い。気分も良い。僕の場合は天気と気分は大概同じなのだ。  
晴れの日はそれだけで心配が減るからだ。  
 
滞りなく授業は進む。  
とはいえ、こうして夜の献立が脳内で生成されていくのはいかがなものか。  
近所のスーパーのチラシはとうの昔に分解され、整理と整頓も終わっている。  
家計が厳しい訳ではないのに、あれこれと安く仕上げるようにメニューが構築されてしまう。  
まあ、こうして考える事自体が僕にとっては気持ち良い行為だ。  
頭脳が普通に回るのは幸せだ。体が普通に動くのと同じ。  
「外崎、この問題を解いて」  
白髪の先生が言う。黒板の数学の問題。大したは事はない。  
かつかつと小気味良いチョークの音。ちと丁寧に書きすぎたかな。  
「よし、正解」  
渋い声だ。この声で昨年の学園祭にて『一番好きな先生』に選ばれたんだよな。  
性格も予想を裏切らない堅実な人だ。  
席に戻った途端に思考は献立に戻る。授業の事も動いてはいるんだけど、解りきったものに  
そんなに大きく思考を割く必要はない。今は良くて二割程度か。  
とんとんと肩を叩かれる。犯人の要求は手を伸ばせ、と相場は決まっている。  
左手を後ろに伸ばすと、紙切れを押し付けられた。  
『えらく簡単に解いたな。予知能力?』  
阿呆か。  
『うるせー馬鹿』  
と書き足して返してやる。  
 
いつだったか、桂介に稀だけど正夢を見ると言ったことがある。  
正夢といっても数秒程度の長さしかなく、もしその場面に出くわしても、  
『あ、夢に出たな』  
と思った頃には見ていない場面に進展しているのだから、全く意味がない。  
僕が考えるには、時間というのは深くて大きな河みたいなものだ。  
普通の人は頭のてっぺんまで水に浸かっている。で、何の拍子か顔だけその河から出てしまった時に  
正夢というのを見れる。流れの外なのだから、どんな流れになっているのかを知る事が出来る。  
では川岸はあるのか。当然のように空気に相当するものだってある筈だ。  
流れがあるのだから、源流は高い山の中にあるのは間違いないだろうし、その山に  
登って振り返ればどんな世界があるのか。  
山と水で河になる。こうしてここにいるのは偶然であり必然でもある。  
河が流れつく先は海。海の水はどういう仕組みで山に戻るのか。  
河の中と海の中では何が違うのだろうか。  
・・・しかしまぁ、つくづく意味がない思考だよな。心で苦笑いをしつつ授業を意識する。  
こんな感じで僕の授業時間は過ぎていく。  
 
何回見ても飽きないよな。  
ここは学食。目の前には僕の昼飯があり、その向こうに桂介と彼の分の飯がある。  
「・・・・・・・・・」  
桂介は親の仇のように飯を睨み、無言で口を動かし続ける。  
普段なら何かと口に出す奴なんだけど、飯の時間だけは別人に見える。  
で、僕が何か言うと不機嫌そうに睨まれるし。桂介に倣って黙々と食べるしかない訳で。  
「・・・・・・・・・・・・」  
髪は自分で切るし言動もかなり大雑把なんだけど、やっぱり良家の御坊っちゃんなんだよなぁ・・・  
躾が半端じゃない。  
中学が私立だったのも、家の事情だとか。高校も私立の予定だったらしいけど、  
どんな手を使ったのかこうして公立にいる。  
その辺に結構な怖さを感じるのは僕だけかな。  
学食は安いんだけど、自分で弁当を作れば更に安上がりだというのは知っている。  
夜に作っておくのは十分可能だけど、それだと課題を処分する時間がなくなってしまう。  
かといって朝だと確実な実行は出来ない。  
時間を買えるなら安いもの、だな。  
時々は購買で済ませる事もあるけど、こいつは教室でも全く同じ様子で食べる。  
将来はきっと頑固親父だろうな。いや、何となく。  
 
全ての授業が終わる。少し前までは美里と一緒に帰るのが日課だったけど、  
最近あいつは終業と同時に学校を出てしまう。教室を見回す。…今日も、既にいない。  
横から桂介が言う。  
「浩史、どっか行かねえか?」  
「また今度な、悪い」  
僕の返事を聞いた桂介は少しだけ考え込み、いつも通りの明るい声で言った。  
「遊びたいんならいつでも言えよ。KOするまで連れまわすからよ」  
ふ、と笑ってしまう。たしかに、こいつならやりそうだな。  
「期待しとくよ」  
桂介は僕の肩を軽く叩いて教室から去った。  
そういう事に興味がない訳じゃないけど、やることがある。  
「外崎君」  
振り返ると、美里と親しい水原小夜がいた。ウェーブがかかったやや茶色の髪が印象的な子だ。  
「美里ならもういないよ」  
一応、訊いておくか。  
「あいつ、どこいってるの?」  
「市立図書館。何か調べてるみたいだよ」  
図書館。何日もかかるような調べ物。何だろう?  
まあ、危ない事をしていないなら心配はいらないか。  
「ギブアンドテイクって事で、一個だけ訊いて良い?」  
ぴ、と人差し指を立てて言う水原。  
「良いけど、何?」  
「課題しかやってないのに、何であんなに点数取れるの?」  
僕は課題以外の勉強は一切してないと美里に言っている。あいつから聞かされたのは  
予想に難しくは無い。あんなに、とは試験での順位の事だろう。  
入学以来、学年で三位より下に転落したのは一度もない。  
課題だけでその学力は納得出来ない、と水原は言っているのだ。  
・・・まぁ、これも望んで努力した結果なら、多少は自慢の種にはなるんだろうけど。  
 
納得してもらうには一番解りやすい二番目の理由が良いだろうな。  
「集中力。水原も集中力をつければあのくらいは簡単だぞ」  
「えー?本当に、それだけ?」  
「だけ。じゃあな」  
不満そうな表情。それ以上の追求を避ける為に背中を見せ、教室から出た。  
 
 
水原の問い。一番目の理由。  
僕は思考する事に快感を覚えるから、だ。  
裏を返せば思考出来ない苦しさが身に沁みているから、とも言える。  
人に限らず全ての動物は快楽を追いかける。快楽には本当に果てが無い。  
ただひたすら『気持ち良いから』という理屈ですらない感情を満足させるべく続ける。  
僕にとって、それに値する行為の中で『思考する』が最も強い。  
何時だって思考は出来る。朝ごはんを作る。学校に向かって歩く。授業中。下校途中。  
常に情報の柱は何本も立っている。霧のような小さな情報が固まり、崩れ、変質し、舞い上がる。  
意識を向けない情報も止まる事を知らない。  
頭の底から引き上げる必要なんてない。ただ目を向けるだけでいい。  
もちろん底辺に沈んだ情報も多い。僕がいらないと判断した物から、  
いらないと判断しなければならなかった物まで。  
・・・・・・ごみ捨て場だな。拾えるのは、どれだって手にするのが嫌な物ばかり。  
だから、可能な限り様々な情報を沈ませないのかも知れない。  
 
家に着く。  
着替える前に洗濯物を取りこむ。うむ、しっかりと乾いているな。  
親父と僕の下着やら靴下をたたみ、いつもの場所に置く。  
そして着替えてから買い物だ。夕方と呼ぶにはまだ早い時間で、僕のような若者が買い物カゴ  
を持つ姿は目立つ。もっと遅い時間なら人も多く、そんなに珍しいものではなくなるけど、  
それだと目的の物が買えなくなる恐れがある。  
こうして買い物をするようになって二年が経つ。レジのおばさんとも馴染んでいて、  
『いつも感心だねぇ』という笑みすら見せてくれる。  
何事もまめにすべし。母さんの教えだ。  
家事を覚えたのは小さい頃に友達を作らなかったのが大きい。  
余る時間。退屈しのぎに家事を手伝い始め、洗濯や掃除、料理も覚えてしまう。  
母さんにとって、僕は良い生徒だったらしい。  
面と向かって『女の子だったら良いのにね』などと言われる事もあった。  
女の子だと何が違うのか…ああ、そうか。もしそうならもっと色々な事を伝えられるから、  
そう言ったのだろう。僕は十分だと思ってたけど、母さんは更に仕込みたかったのだろう。  
ま、それも中学三年の春で終わり。  
それ以来、僕が家事全般を仕切るようになった。  
慣れてるとはいえ、最初は結構失敗をやらかした。ずっと見ていた母さんがいなくなっただけで  
あんなにも不安になるとは予想外だ。  
最近では迷う事はなくなった。我流ながら新しい料理なんかも身につけてしまう。  
本当に、一般の男子高校生とはかけ離れてしまったかな。  
世間の流行には疎いし、遊びまわる事もないし、金銭感覚もあるし。  
若年寄確定である。  
 
昨日まではあっさりした献立だったから、今日は辛めの方向で。  
親父が帰ってくるのは八時半を過ぎてしまうから、何かない限りは先に夕食を済ませてしまう。  
今日もそのつもりで台所に立つ。  
もう少しで完成することろで電話が鳴った。  
液晶画面に写る相手の番号。見慣れた数字の列だ。  
『私、美里だよ』  
「どうかした?久しぶりに電話で話すけど」  
『ええと、今日、晩御飯一緒にしていい?』  
美里のお母さんは市立病院の看護婦だ。勤務時間が度々変わってしまい、ひとりきりで夕食を  
摂らなければならない時がある。その寂しさを紛らわす為に僕と一緒に食べる、というのが  
以前から何度かあった。  
ま、断る理由はない。  
「おう。手ぶらでもいいよ」  
『お米くらいは持っていくよ。・・・ありがと、ひろちゃん』  
ちなみに、美里の親父さんは単身赴任中だ。  
当時は揉める事もなく、すんなりと決定したようだ。  
・・・どうも僕は角倉一家から当てにされてるらしい。  
美里は明言を避けているけど、どうやら『困ったら僕に相談してみろ』と言われているようなのだ。  
年頃の女の子を、同年代の男に任せるなんてどうかしてる!と言いたいんだけど、  
そうも言い難い感情もあり、表面上は渋々、内面的には期待しつつ面倒を見ている。  
最近の美里。  
外見はその期待を裏切らず、変化をしている。  
心情面は推測のしようもないが、まあのんびりと待つ事にしよう。──って、何を?  
『ぴんぽん』  
とチャイムが鳴る。美里の家はすぐ近くだ。丁度斜め前にある。  
相手が美里ならエプロンを着けたままでも構わないか。  
開錠し、玄関を開ける。  
薄い桜色のシャツと白いスカートの美里が居た。  
 
赤い手提にはさっき言っていた米が入っているのだろう。それとは別に小さい鍋を持っている。  
「お邪魔するね、ひろちゃん」  
「それは?」  
顎で指して訊いてみる。  
「うん、作ってみた。味見してよ、コック長」  
こりゃまた懐かしいあだ名を。  
小学の家庭科で、料理実習をやった時の話だ。  
その頃は既に料理の仕方も覚え始めた時期で、授業での作業は呆れるくらい簡単だった。  
つまらないから早く終わらせようと包丁を振るう僕。黙々と作業するその姿がいかにも  
『レストランのコック長』らしかったようで、その後暫くは『コック長』と呼ばれた。  
「うん、任せろ」  
美里を家に入れる。ふとシャンプーの香りが鼻をくすぐった。  
・・・こいつは、僕をどう想っているのかな。  
洗髪してきた理由は何だろうか。他人の家にあがるからなのか。それとも、  
僕を異性として意識しているからなのか。  
その後姿だって、もう女性らしい曲線で創られている。目が離せない。  
くそ、どうにも意識してしまう。  
「どうしたの?ひろちゃん?」  
気が付けば美里は食器を並べ終えている。  
「いや、大したことじゃないよ」  
熱っぽい感情を押さえつけ、台所の夕食を運んだ。  
 
「ん、まあまあだと思うよ」  
「本当に?良かった…」  
珍しく微笑んで答えてくれた。  
実際、美里の作った料理はなかなかの出来だった。  
僕の真似から始めたようだけど、やはり感性の違いは否めない。  
しっかりと美里の味になってる。僕を目標にしているみたいだけど、この分じゃ将来的には  
随分と違うものを作るようになるだろう。  
「ご馳走さまでした、ひろちゃん」  
「うん、お粗末さま。いつでも食わせてやるから」  
二人で食器を台所に運ぶ。何も言わなかったのに協力してくれるのは躾が出来てるからだな。  
そういえば箸もきちんと持っていたか。  
「ひろちゃんはさぁ、・・・」  
やや暗い声で言い出す美里。少し待ったけど続きを言わない。  
「・・・ごめん、何でもない」  
「?言いたいなら言ってくれよ。何でも聞くよ」  
「いいの、うん・・・あ、そうだ。今日の数学の問題、どうやって解くの?」  
誤魔化すように話題を振ってくる。無理に言わせる必要もないか。  
「あれは・・・、書いて説明するか」  
電話の側のサインペンを取ってテーブルに戻り、裏が白いチラシに問題を書く。  
美里はちょこんと僕のすぐ隣に座り、紙を覗いている。  
「うん、で最初は?」  
「まずはだな・・・」  
つらつらと書きながら、ちらちらと美里の胸元に目が行ってしまう。  
白い下着。その膨らみは予想以上に大きい。着痩せするタイプだったんだな。  
「うんうん」  
「で、こうなるだろ」  
肩が触れ合う。柔らかい。美里の匂いだ。  
いつから、こんなふうに女として見るようになったのかな。  
「ちょっと待ってよ。ここって、何で?」  
「ん?じゃあこれは解る?」  
さらさらと流れる髪。触ってみたい。  
出来る事なら、それ以外の部分も触れたい。見たい。  
 
「え?こうなるんじゃないの?」  
「違うって。こうきて、こうだろ」  
美里は僕をどう見ているのか。  
まだ幼馴染なのだろうか。仲の良い友達なのか。  
まだ、異性ではないのかな。  
「え、あ!そっか!」  
「何勘違いして覚えてるんだよ。これで解るだろ?」  
どうしたら異性として見てもらえるのかな。  
強引にでも、そう見て欲しい。駄目だ傷つけるだけだろ。僕は美里を、どうしたいのか。  
「そっか、うん、解る」  
「そんなに難しい問題でもないだろ」  
美里は僕にどうして欲しいと思ってるのかな。  
聞きたいけど、聞いていい事なのか。その時まで待つべきじゃ、ないのか。  
「流石ひろちゃんだ。私、やっと解ったよ」  
「そりゃどうも。授業中で理解しろって」  
こんな事を考えるなら、僕の気持ちなんて決まってるのも同然。  
思い切って、言うか──  
「ひろちゃん?顔、赤いよ?」  
その言葉と目でようやく正気に返った。それでも、はっきりと固まった気持ちが消える訳じゃない。  
それが動き始めないように、なるべく平静を装って答える。  
「気のせいだよ。で、あとは解らないこと、ある?」  
僕は美里の気持ちが解らない。  
この問題、どうやって解いたらいいのか。  
「え、…うん。ない、みたい」  
二人で沈黙する。肩は依然触れたままだ。温かさが伝わってくる。・・・僕は動けない。  
失うにはあまりにも勿体無い時間だから。  
静かな時計の音をやっと意識出来た。見ると、美里が来てから随分経っている。  
「そか。もう遅いんだから帰った方がいい。送るよ」  
「・・・うん、もう、そんな時間だったね」  
それきり僕達は何も言えないまま立ち、半ば機械のように一緒に玄関を出る。  
やっぱり、言えば良かったかな。・・・後悔しても遅い。  
次の機会なら、きっと。  
 
美里の家に着く。一分もかからない近さだ。用があれば便利な距離。  
でも、もっと遠くても良いと初めて思った。  
玄関前で美里が振り返る。薄暗くて表情はよく見えない。  
何となく僕と同じ顔になってる気がした。後悔と、その下には期待。  
「おやすみ、美里」  
「おやすみ、ひろちゃん」  
美里が見えなくなって、僕はため息をつく。  
全く、どうしたらいいんだろう。・・・いや、布団に入ってから考えよう。  
朝食の準備をしなければ。それから課題を済ませて、風呂に入ろう。  
美里の事を考えるのはその後だ。  
一番大事なことだっていうのに、何で一番最後にしなきゃいけないのか。  
 
 
朝。目が開いて、深呼吸。  
今日も何の変化の無いサイクル。  
朝飯。授業。昼飯。放課後。夕日。  
いつものサイクル。安定した一日。安心する、一日。  
大丈夫。大丈夫なんだ。  
不安ならどうにかしろ。当然の思考。どうにかなるなんて幻想。体験からの答え。  
誰にも解ってもらえない。誰にも解ってほしくない。  
誰にも──背負わせるなんて不可能。支えてくれるのも絶対無理。  
それで良いんだ。僕は、その道を選んだ。  
だったら、何故。  
『プルルルル』  
・・・電話だ。  
『ええ?何で?ひろちゃん助けてよ』  
何だか力が抜けた。緊張感の欠ける援護要請だな。  
「美里、何?」  
予想はつく。大方、  
『揚げ物上手くいかないよ。こうして、ええ?』  
だろうな・・・じゅうじゅうと音が聞こえる。  
 
僕は無料サポートセンターじゃないぞと思いつつ返事をする。  
「火、止めて待ってろ。すぐ行くよ」  
昨日の失敗を取り戻す機会だと確信。今日なら、言えるか。  
幸いにして親父と僕の晩飯は準備が済んでる。  
そんなに長い時間はかからないだろう。親父が来るまでは時間もあるし。  
とにかく行くか。  
角倉家の玄関でチャイムを押す。  
「入って!」  
まだやってるらしい。  
止めろって言っただろうに。火傷したらどうするんだよ。  
引き戸の玄関はからからと軽い音を立てる。  
中に入って、台所に行く。  
髪を後ろで結ってる美里。難しそうな顔で失敗作らしい揚げ物を凝視していた。  
「で、何?」  
「ひろちゃんのみたいに、サクサクしない。何でだろ?」  
周辺には使用する物がいくつか置いてある。  
ふむ・・・そうだな・・・  
「パン粉がちょっと少ないかな。あと油の温度、低い感じだよ」  
コンロの火力を調節して、実践して見せる。  
「・・・うわあ、ぜんぜん違う・・・」  
赤いエプロンの美里が心底関心したと言葉で表す。  
しかし。  
「結構な量、作るつもりなんだな。二人でこんなに食べるのか?」  
「うん、・・・多分ね」  
その声音で解る。失敗したなぁ、と感じているのだろう。  
丁度いいか。昨日の続き、出来るかもしれない。  
「食えないならそう言えって。手伝うよ」  
目を大きく開いて僕を見つめる美里。  
「え?いいの?」  
「いいの。んじゃ家から適当に飯とおかず持ってくるよ」  
疑問を肯定に変えて返事にした。こいつの好意を無駄にはしたくないし。  
 
揚げ物の数はやはり多すぎたけど、三人分にする事で普通の量になった。  
僕と美里が作ったものを美里のお母さん、聡子さんにも食べ比べてもらおう、ということに。  
「ご馳走様。美味かったよ」  
「揚げ物、駄目だったでしょ・・・」  
「そんなに悪くはないよ。それに他は良かったっての。本当だよ」  
二人で昨日の様に肩を並べて食べ終わる。  
聡子さんの分以外はきれいになくなってしまった。  
育ち盛りが二人も居れば当然かな。  
さて。  
昨日の、続きか。  
「・・・・・・・・・」  
「・・・・・・・・・」  
僕が話題を振る場面だ。どうにも不自然な雰囲気だけど、言うしかないんだ。  
緊張する。もし、僕の一方的な感情だったら、・・・聞いてから判断する事だろ。  
美里の顔を見ながらだと流石に言えない。何となく、という感じで言うんだ。  
「なあ、美里・・・」  
「なに、ひろちゃん・・・」  
ごくりと喉が鳴る。・・・よし、言うぞ。  
『がらがら』  
「ただいまーぁ。美里、お客さん?」  
・・・人生なんてこんなもんさ。そうとも。簡単に思い通りに行くかっての。  
「・・・お母さん、帰ってきたね」  
「・・・そう、だね」  
どすどすと元気な足音。  
さて。僕は立つ。すぐ後にショートカットの聡子さんが居間に着いた。  
予想通りとの表情で聡子さんは言う。  
「あらいらっしゃい」  
「お邪魔してます」  
言ってから頭を下げる。親しき仲にも礼儀ありだ。  
聡子さんはにっこりと笑い、  
「そんなのいらないから、ゆっくりしてていいの」  
と鷹揚に応えた。  
 
曇りのない笑顔だけど、僕に向けられた目には微妙な光が灯っている。  
下心、見透かされてるな。絶対。  
この母ありてあの姉あり、だな。  
「珍しいわね、浩史くんがウチに来るなんて」  
「私が呼んだの。揚げ物、失敗したから・・・」  
美里が言いにくそうに僕がいる理由を説明する。  
聡子さんは、んん?と首を傾げて疑問の顔で数秒止まる。  
そのまま美里の揚げ物を口に入れた。  
もぐもぐと咀嚼して飲み込む。数瞬して、またしてもにっこりと美里に笑う。  
「こんな日もあるわよ。次は上手くいくって」  
何回かは成功しているのか。この腕前なら納得できる話だけど。  
「解ってるよぉ・・・」  
頬を膨らませ、不機嫌な声で美里が言う。そんなに気にする事なのかな。  
下手なら失敗しても当然だろうに。  
ま、何にせよ帰るか。もう昨日の続きは無理だな。  
聡子さんは着替えの為だろう、自室に戻っていく。  
「じゃ、帰るよ」  
家から持ってきた食器をお盆に載せる。  
今日も駄目だったか。・・・仕方ない。落胆が大きくなる前に帰ろう。  
「ひろちゃん」  
お盆を持つと、美里が言う。  
「次は、もっと上手に作ってみせるからね」  
その顔は何か強い決意が漲っている。僕も、そうなって欲しい。  
「そうだな、期待してるよ」  
ゆっくりと美里は笑顔になる。僕だけの為の笑顔。どくん。跳ね上がる心臓。  
見惚れそうになって無理やり目を逸らす。  
もう幼馴染じゃ満足できない。  
完全に想いを寄せる女の子になってしまった。  
「?」  
「何でもない。じゃあな」  
別れの挨拶もそこそこに家に帰る。  
全く、上手く行かないよな。  
 
 

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