きっかけは些細なことだ。
中学生になったばかりだったあるとき、母さんの親戚が倒れたことがあった。
もちろん母さんは親戚の下へ向かった。このとき父さんは出張で家にはいなかった。
学校を休むわけにはいかない俺は、結果として一人で留守番をすることになったのだ。
が、小学生気分が抜けなかった当時の俺にはできないことが多々あった。
例えば、弁当を作ることとか。
チャイムが鳴った。
まだ説明の途中だった国語担当の教師は少し不服そうに鼻をならし、
「仕方ない。委員長、号令を」
と、授業の終了を告げた。
「起立」
しかし号令に従ったのは全体の八割程度。あとの二割は教師の言葉の直後に教室を出ていってしまった。
「あ、ちょっとあなたたち!」
「……はぁ。もういい、ほうっておけ」
相変わらず彼らを止めようと、声を荒げる委員長。
もう慣れてしまったのか、ため息をつく教師。
その二人に同情しつつも、しかし俺には出ていった人の気持ちもわかったりする。
だって、仕方ない。
昼休みの購買と食堂は、それはもう何の祭りかというくらいの混みようを示すのだから……。
もちろん母さんはいくらかお金を渡してくれたし、
晩飯に関してはお隣さんに頼んでご一緒させてもらうことになった。
だがしかし、昼飯代として渡された臨時収入は俺にとって魅力的な金額だった。
母さんが帰宅するのは五日後。
もしその間、昼食を少し減らせば……いや、もっと言うと。
「これって、昼飯抜けば全額手元に残るよな……」
そこに考えが至った瞬間、俺の頭はさてこのお金を何に使おうかということに切り替わったのだった。
それは、昼飯を抜いたところで特に問題ないだろうという、そんな甘い考えから来ていたのだが。
「いただきます」
各々が食事の挨拶をして、昼飯を食べ始める。
俺は昼休みは何人かの男子とダベっていることが多い。今日もいつものメンバーと一緒だ。
「しかしいいよなー、高遠はよぉ」
俺がいつものように弁当を食べていると、そんな恨めしそうな言葉をかけられた。
「ん、何がだよ」
声の主に聞き返す。
正面に座っていたそいつ、水口はどんよりとした視線を俺に向け、
「だってお前、弁当じゃん」
手に持ったコッペパンをちびちびと食べながら、そんなことを言った。
確かに俺の昼飯は弁当だ。
今日も彩りのよい具が並び、特に卵焼きが絶品であるいつもの弁当。
しかし、弁当だからうらやましいってのは何というか……。
「水口、僕はともかく委員長だって弁当だよ」
同じくサンドイッチを食べながら言ったのは瀬尾だ。
ちなみに、水口も瀬尾も昼飯は購買を利用する。
特に水口は先ほどあった「授業終了直後に出ていく」タイプである。
が、授業の挨拶もしてからゆっくり購買に向かう瀬尾のほうがいいものを食べていることを考えると、
やっぱりズルをしないやつが報われるというか、
童顔のイケメンって有利だよなとか、そんなことを思ってしまう。
水口はそんな瀬尾の一言を鼻で笑って、
「バカ、斉藤は自炊した結果だろうが。高遠の場合は誰かさんが作ってくれてるんだよ、な?」
そう言って向けた視線の先には何人かの女子のグループと、
「お前はいいよな、弁当まで作ってくれる『幼なじみ』がいてよー」
俺の幼なじみが、楽しそうに談笑していたのだった。
当時の俺は中学生。とりあえずたくさん食べたい盛りである。
そんなときに昼飯を抜けばどうなるか。
「は、腹減った……」
昼休み中、俺はずっと机に突っ伏して飢えに耐えていた。
この頃の俺は周囲に壁を作っていて、誰かと一緒に昼飯を食べたりとかはしなかった。
周りの連中もクラスに馴染もうとしない俺のことなど気に掛けずにいたので、
俺は一人で空腹と戦い続けることになった。
しかし、それも限界がある。
三日目、俺はついに全額確保をあきらめることにした。
体育の授業があったために空腹はピークに達し、とにかく何か食べないと仕方なかったからである。
全額を手に入れられなかったことを残念に思い、
しかし何か食べられることを喜びながらポケットをまさぐり、
「……財布、ない」
そのときの気持ちと言えば、本当に地獄に叩き落とされたようであった。
空腹で死を覚悟したのは、恐らくあれが最初で最後だろう。
絶望の縁に立たされた俺。それを救ったのが、
「……み、水口。何の話だよ?」
声が上ずる。水口はニヤニヤといった表情を浮かべ、
「ネタは上がってんだぜー?お前が委員長から毎朝弁当箱を受け取ってるのはよぉ!」
「あぁ、それは確かによく見かける光景だな」
水口の台詞を受け、今まで黙々と食事をしていた斉藤が同意する。
ちなみに、斉藤はクラスの副委員長である。
しかし瀬尾は彼のことを『委員長』と呼ぶ。本人曰く「気質が委員長」なのだとか。
で、水口がいう『委員長』が本物、我がクラスの委員長のことだ。
ちなみに俺の幼なじみでもある。
……閑話休題。
斉藤はそのまま淡々とした口調で、
「もっとも、弁当まで作ってもらうような関係が『幼なじみ』で済まされるのか、甚だ疑問ではあるがな」
と、こちらの痛いところを突いてきた。
「う、うるさいな。そういうお前は彼女に作ってもらったりしないのかよ」
図星を突かれたのが癪だったのでやり返す。
斉藤にはクラス公認の彼女がいる。
こちらの関係も幼なじみが発展したもので、聞くところによるとやることは済ませてるとか。
「あ、それは僕も気になるな」
「おい斉藤、どうなんだよ」
瀬尾と水口が俺の振りにのる。瀬尾はともかく水口は扱いやすくて助かるな。
斉藤はしばし無言になったあと、
「……あれは、人間の食べ物じゃない」
ポツリと、そんな言葉を洩らした。
…………。
「何か、ごめんな」
「気にするな、忘れろ」
そんな会話の後が交わされ、俺たちの話はまた別のことに切り替わったのだった。
「ほら、これでも食べなさい」
顔をあげる。
目の前にあるのは一つの包みと、それを持つ白い手だ。
もう少し視線を上に向けると、彼女と目があった。
彼女は顔を赤くしながらそっぽを向いて、
「ま、まぁ、一人分も二人分も対して変わらないし。飢えてる姿を見るのは少し忍びなかったからね」
などと、それはもう早口でまくし立てた。
「……くれるのか?」
「そ、そうよ。作りすぎたからね」
「……本当に?」
「嘘ついてどうするのよ……」
「……マジか」
「……あぁもう、さっさと食べなさい!」
押しつけるように渡される弁当袋。
彼女は機嫌を悪くしたのか、足早に俺の席から離れていった。
残された俺は一人、そっと包みを解き、蓋を開ける。
中身は何の変哲もない弁当である。
いや、作りは何だか素人っぽい感じで、卵焼きとかは焦げていたが。
さっき見た手を思い出す。……そう言えば、絆創膏が巻いてあったような気がした。
箸を手に取り、おかずを口に運ぶ。
焦げた卵焼きはちょっと塩が効きすぎていてしょっぱかったが、
「……あぁ、うまいな」
三日振りにとる昼食は、俺にとっては最高のご馳走だった。
帰り道。
「優奈、いつもありがとうな」
「な、何よ。藪から棒に」
突然のお礼の言葉にびっくりする。
最近は私の助けに対して礼を言うことが多くなっているけど、
今日は彼が礼を言うようなことをした覚えはない。
「いやさ、毎回弁当作ってくれるだろ?そのお礼」
「……あぁ、なるほど」
別にそんなこと、いつもやっていることだし。
「一人も二人も作るのは変わらないわよ」
「んー……、それでも、誰かが昼飯を作ってくれることは幸せなんだと思ったんだよ」
水口とか見てるとさ、と続く。
……何か変な話を昼休みにしたらしい。また今度斉藤くんに聞いてみよう。
「幸せ、ね。そう言ってもらえるならありがたいけど」
そもそも事の始まりは、お金欲しさに飢えていた幼なじみを見かねたから、というだけなのだ。
私が礼を言われる筋合いはない。私は幼なじみとして、
「あぁ、幸せだな。お前の作る弁当なら一生食べてたいくらい」
当然のことを、している、だけ、で……
「……あれ、どうかしたか?顔赤いぞ」
「な、なんでもない!」
こ、この……!
たまにとんでもなく恥ずかしいことを言うんだから、匠は!
「お、おいおい優奈……」
足早になる幼なじみを追いかけつつ、ふと思う。
初めて弁当をもらった日。帰宅して、弁当箱を洗ってから届けに行ったあのとき。
「あ、あんまりおいしくなかったでしょうけど……」
などと言う優奈に対して、俺は正直に、
「いや、最高にうまかった。また作ってくれ」
と、素直に感想を述べた。
その時の優奈の顔、
「……よかったぁ」
何だかとても嬉しそうな表情は、しっかり俺の心に残っていて。
「いや本当、俺って幸せ者だよな」
あの顔をずっと見ていたいと、そんなことを考えていた。
「……ん?さっきのって、もしや実はめちゃくちゃ恥ずかしい台詞じゃあ……うわ」