寝ている場合じゃない。ここでの居眠りは絶対にまずいとわかってるけど。
手の甲に爪を立ててみても、睡魔は去ってくれなかった。一番眠気が増す五時間目、
窓から射しこむ陽光はポカポカと暖かくて、瞼が少しずつ重くなっていく。先生の低い声が、
眠りを誘う呪文のように聞こえる。
「メタノールの燃焼は……酸素と反応して……」
うんうん、燃焼も眠気も、自然の摂理だよね。
「シーエッチスリーオーエッチプラス……」
えっちえっちってうるさいよ。
こんなに眠くてだるいのは、誰のせいだと思ってる……んだ。もうダメ、沈没する。
「左辺と右辺の……原子数が……誰か答えてもらおうか」
先生の声が子守唄みたいで、気持ちいい。トロトロと夢の世界に引き摺りこまれながら、
先生の腕の中にいるみたいだなあって思う。
足音が近づいてくる。
「マキ、起きなってば。当てられちゃうよ」
誰かが脇腹をつつく。もういいってば。ほっといて。
ごつんと頭頂部に衝撃が走った。
「夢の世界へお出かけか」
耳元で、ぞくっとするような低音が響いた。慌てて立ち上がる。先生の顔は怖くて
直視できない。
「黒板の化学反応式の答えは?」
化学は格別好きでもないけど、先生が担当する科目だから予習済みだ。黒板をじっと
見つめる。よし、この問題なら大丈夫。
メタノールが燃焼すると、二酸化炭素と水ができる。答えのポイントは係数だ。
「ニシーオーツープラスヨンエッチ……ッーォー」
スラスラと答えるはずが、途中から蚊の鳴くような声になった。机の脇に立っている
先生と、目が合ってしまったから。
『先生のエッチ!』
答えた化学式で、昨夜自分が先生の腕の中で叫んだ言葉を思い出すとは……。
なんたる不覚。は、恥ずかしすぎる。
唇の端をわずかに歪ませ、怒っているように見える先生の表情は、実は笑っているのだ。
私にはわかる。笑われていると思ったら、頬がじわっと熱くなった。
白衣フェチという言葉があるけど、私は間違いなくそれだと思う。白衣に弱いのか、
それとも先生の白衣姿に弱いのかは、正直自分でもよくわからない。
先生は丸顔で少し鼻が上を向いている。黒くつぶらな瞳に、ややメタボ気味な体型。
いつも白衣姿だから、白ダヌキとかポン太とか陰で呼ばれて、女子の中でも人気がない。
競争率が低くてうれしいけどね。背もあまり高くない。今だって目線の高さは同じ。
キスする時に背伸びの必要がなくて便利だ。
「正解。居眠りのペナルティは、放課後に化学準備室の掃除だ」
踵を返して颯爽……というより、モタモタと教壇に戻っていく。その後ろ姿は、
ころんとして白熊のように可愛い。
白ダヌキの言うことなんか、気にすることないよ。そうよ、掃除なんてサボっちゃえ。
先生を非難する周囲のざわめきに、私は困ったように微笑んで見せ、着席した。
頬が少し紅潮してるのだって、居眠りを叱られ恥ずかしがっていると、
言い訳できる……と思う。二人きりになれる放課後が待ち遠しくて、授業も上の空だなんて、
気づかれてはならないのだ。
* * * * * *
「まさか、本当に掃除だなんて。どうしたら、こんなに散らかせるんですか」
「当たり前だろう。卒業するまで、公私の区別はきちんと付けないとな」
黙々と実験器具を洗浄する私に、先生が呟いた。
正論なんだけど、なんか腹立たしい。夜の先生と、ずいぶん態度が違うじゃない。
いやいや、思い出すな、昨夜のことは。記憶を蘇らせると、身体的にヤバくなってくる
ような気がするから!
「それとも何か期待してた?」
「し・て・ま・せ・ん!」
いつの間にそばに来てたんだろ。先生ってば油断ならない。
耳元で囁かれた先生の低く響く声に、ゾクっとした。うまく説明できないけど、何かの
スイッチが入りそうな感覚。フラスコを洗う手を止めて、深呼吸してみる。スーハースー。
ふうう。いちいち動揺してしまう自分が情けない。
ファイル片手に、試薬の確認をしている先生を、ぼんやりと目で追った。授業中でもなく、
二人きりの時でもなく、こんな距離で先生を眺めるのも新鮮だ。
「ん、なんだ?」
「なんでもありませーん」
カシャカシャと洗浄を再開する。先生と付き合ってるのは、卒業するまで誰にも内緒。
そして白衣だけじゃなく、先生の包みこむような声が好きだってことは、先生本人にも
秘密にしておこうと思った。なんとなく悔しいから。
fin.