僕の姉ちゃんは引きこもりだ。それはいいんだ。人それぞれ、生き方はある。
でも、姉ちゃんは人を信じない。僕はそれが辛い。
学校でいじめられた。親友だと思っていた子が、姉ちゃんの事をいじめはじめてから。
それから、人に近づくのを嫌がった。また失うのが怖いんだろう。
頑なに自分の世界に入り、僕にさえも、曖昧な態度と困ったような微笑みが返ってくるだけ。
僕は、そんな姉ちゃんに変わってもらいたいんだ。もう一度、明るい笑みを浮かべてほしい。
昔のように…。
「姉ちゃん、旅行に行こうよ。二人で、さ」
突然の事で、姉ちゃんも面喰ったみたい。
僕はそんな事に構わず、矢継ぎ早に説明していった。
汽車で行くこと。そんなに遠い所じゃないこと。短い旅行だけど、外に出るのはいいって事。
最初から鬱陶しそうな顔をしていたけど、姉ちゃんは僕のわがままを受け入れるしかない。
普段はその何倍ものわがままを僕に押しつけているんだから。気弱な性格が、こういうところにも出る。
最後はしぶしぶと言ったところで納得した。というか、させた。
出発するのは二日後。実はもう予定は決まっていた。
姉ちゃんには教えていないけど、この汽車には一つのあだ名がある。
人を楽しくさせる汽車、と。
「さぁ、姉ちゃん。乗るよ」
時は午後3時。姉ちゃんはなんだか面倒臭そうに、のっそりと乗り込む。一番ホームに入ってきた汽車に。
中に入れば、そこはもう別世界。
陽気な音楽が鳴り響き、誰彼問わずに踊っている。
その光景が、姉ちゃんには衝撃的…というか、初めて見た人は絶対そうだと思う。
「…ねぇ、なんなの?この列車…」
「ん?これは、人を楽しくさせる列車」
「こんなやかましい音楽で楽しくなるわけないでしょう?」
「ふふ…すぐにわかるよ。ここには魔力がある、ってね。姉ちゃん、僕は踊ってくるよ」
「踊る?知り合いでもいるの?」
「いーや。姉ちゃん以外は誰一人としていないね」
そう言って、僕は踊りの輪の中に入る。踊りって言っても、形になっているわけじゃない。
というか、この列車に乗る人で踊りが得意な人なんていないんじゃないかな?
姉ちゃんはいかにもつまらないって顔で座席に腰を下した。
すぐに踊りの誘いが来るけど、全部突っぱねてる。
でも、姉ちゃん。突っぱねても無駄だよ。すでに足でビートを取っているじゃないか。
本当は踊りたいんだろ?前にクラブで踊ったみたいにさ。
僕は、姉ちゃんの手を取って踊りの輪に引き込んだ。姉ちゃんも、もうされるがまま。
吹っ切れたみたいに、踊りだす。
「ねぇ、この列車だとどういう風に踊るの?」
「うーん…ちょっと、誰かこの人に踊りをレクチャーしてくれませんか?」
すぐにおう、って声がかかる。僕たちよりもずっと体が大きい男の人だ。
姉ちゃんは少し引いたけど、朴訥な口調にトゲはない。
「簡単だ。一歩前に出て、そのまま下がる。後は歩いてトゥイストさ」
「こ、こう?」
姉ちゃんはぎこちなく、その通りにする。男の人は拍手している。
「上手いなー。飲み込み速くて羨ましいぜ」
そう言って、男の人はまた踊りの輪に入って行った。
姉ちゃんは呼び止めようとしたけど、男の人が楽しそうに踊っているのを見て、やめた。
「お礼の一つも言えなかった…」
「それでいいんだよ、姉ちゃん。ここにいる人にお礼なんて言ったら、照れくさくて隠れちゃうよ」
「…?」
「この列車の中にいる人は、みんな心に傷を抱えている人たちさ。姉ちゃんと同じだよ。
感謝なんてされた事がないから、どう言葉を返したらいいのかわかんないんだ」
「そう…なんだ」
「さ、一緒に踊ろうよ。この音楽、楽しいロコモーションでね」
「うん」
そんな時、車掌が出てきてチケットの確認を始めた。もうそろそろ出発するって合図だ。
さぁ、出発前に踊らないと損だよ。そろそろ日が暮れるしね。
いよいよ出発。この踊り専用の車両じゃなくて、夜汽車に乗り換え。
汽笛が鳴り響く。
「姉ちゃん、早くしないと乗り遅れるよ」
「待ってよ、荷物が重くて…。」
手を貸そうとしたら、さっきの人が出てきて、何も言わずに荷物を持った。
「あ、ありがとうございます」
男の人はちょっと顔を赤らめて、おう、と一言。そして足早に夜汽車へ。
「ちょっと予定より遅れてる。もう少し踊れるけど、行く?」
「うん」
踊りの輪に戻ると、まだまだ騒ぎは続いている。
姉ちゃんは手渡されたウイスキーを呷って、明るく笑って、最後まで楽しくロコモーションを踊ってる。
夜汽車の車両は多くて、僕たちはどれに乗るか迷っている。
でも、それが当たり前なんだ。好みの子を探しながら歩く。それがこの列車のルールさ。楽しくないとね。
でも、姉ちゃんは僕と一緒にいる事を選んだ。
「あー、楽しかった。こんなに笑ったのって、久しぶりだよ」
余ったウイスキーを二人で分けて、また笑う。
そうだよ、姉ちゃん。その顔が見たかったんだ。
そう思ったけど、ちょっと照れくさくてうつむいた。
「姉ちゃん、いい顔になったね」
言おうと意を決し、顔を上げて姉ちゃんを見てみると、もう寝ていた。
その寝顔には充足感があふれている。
「お休み、姉ちゃん。いい夢みれるといいな」
この汽車は、朝までに折り返してくる。僕たちの降りる駅は、終点の駅。
ゆっくり寝ても構わない。残ったウイスキーを一気に飲んで、僕も寝た。
「お客様、終点でございます」
「う…ん…」
車掌に起こされた。まだ寝ぼけた頭をたたき起して、姉ちゃんを起こした。
「あー、筋肉痛…」
「僕も…」
もう人影もまばらな駅。寝過したかな…。
ホームに降りると、昨日の男の人が立っていた。
「おはようございます。明日まで、さよなら」
「おう。明日までさよなら」
「…明日まで?」
「そう言うのがこの汽車のルールさ」
「明日まで、さよなら…」
「じゃあな」
男の人はホームを駆け去っていく。
僕たちは大きく欠伸をして、家路についた。
さぁ、姉ちゃん。またチケットを手に入れて、ロコモーションを踊りに行こう。
姉ちゃんに笑顔を与えたあの汽車へ。
潰れそうだった僕の心をいやしてくれた、あの汽車へ。