「碧生(アオイ)」  
 凛とした声音に呼ばれて顔を上げると、僕の座っている位置から三歩向こうに、ほかほかと湯気を立てる色違いのサーモマグを両手にひとつずつ持った夜子がこちらを見下ろしていた。  
 黄昏色に染まった室内に浮かび上がるひとつ年下の幼馴染どのは、いくら見慣れていても見あきることがないぐらいきれいだと僕は思う。  
 
 腰までもある長い長い濡れ羽色の髪は、くせやうねりなど一切ないわりに針金のような強固さはなく、さらさらと肩や背に落ちて柔らかく風を受け止める。  
 陶器のように白い肌はいっそ無機物のようだし、斜めに落した前髪のしたから覗く大きな黒目がちの両の瞳は、ガラス球みたいだ。  
 その上に引かれている整った眉の曲線は、山がくっきりと描かれすぎているせいで、愛想のない彼女を必要以上に勝ち気に見せている。  
 その造形に相応しい、形よく上品に上を向いた鼻と、適度な厚さを持った真っ赤なくちびる。  
 ふわりと揺れるスカートから延びた白い足。少し赤い膝。細い腰に、折れそうに頼りない二の腕と成長途中の薄い胸。  
 夜子はまるで、たったいま絵画から抜け出してきた天使のような出で立ちで、俗世に穢れた僕を見下ろしている。  
 
「コーヒー」  
 端的にそれだけを言うと、身を屈めて膝を床に落とす。  
 僕はああ、と頷いて、読んでいた本に栞を挟んでそれを受取ろうと手を伸ばした。  
 しかし、寸前で夜子がひょい、と差し出したはずのマグを引いてゆるゆると首を左右に振る。  
「だめよ、碧生。お礼をきちんと言えない人にはあげられないわ」  
 まるで母さんみたいなことを言う。  
 苦笑いをこらえながら僕は、神妙な顔で頷いて見せる。  
「悪かった。夜子、ありがとう。いただくよ」  
 その言葉を聞いた夜子は、満足したように頷いて少しだけ微笑むと、僕のマグを手渡してくれる。  
 
 褐色の液体の表面に、数度息を吹きかけたのちに、少しだけぺろりとやけどしそうに熱いコーヒーを舐める。  
 いつの間にか冷えていた身体が、ゆっくりと温もりを取り戻す。こわばった眉間がほぐれるような肉体の弛緩が心地よく、僕は両の瞼を閉じた。  
 
 ぎゅっときつく閉じた瞳を、またゆっくりと開いたら、じっと僕を見つめる夜子の視線と正面からぶつかった。  
 
「碧生」  
「なんだ?」  
「そろそろ、電気をつけた方がいいんじゃないかしら。また眼が悪くなってしまうわ」  
 本の読みすぎで視力が極端に悪い僕の眼を、僕以上に気遣うのが夜子だ。  
 僕は何も言わずに立ち上がると、ベッドに膝を立ててカーテンを一気に閉めると、リモコンを操作して部屋の明かりを灯す。  
 
 蛍光灯の人工的な明かりのしたで、夜子の白い肌はますますと白く光る。  
 
「いつの間にコーヒーなんて?」  
 夜子から視線を外さないまま、僕は元の位置に戻って再び分厚いハードカバーの単行本を持ち上げる。  
「それ、読み終わってしまって。少し疲れたから」  
「……へぇ?」  
 僕は少しだけ驚いて、片方の眉をあげた。  
 
 読み始めてまだ一時間も経っていないはずなのに、もう読み終えてしまったという夜子の、相変わらずの文字を追うスピードと、  
いつもは本を読んだってちっとも疲れるはずはないのに、ためいきとともに零したその言葉が引っかかったからだ。  
 
 夜子が、顎でテーブルの上の本をしゃくって見せる。  
 てらりとした真っ赤なカバー。妙に安っぽい。全然夜子の趣味ではない。  
 
「珍しい。疲れたなんて」  
「……ええ、そうね。クラスメイトに借りた流行りの小説なのだけど、ページあたりの文量が少なすぎて目が滑るし、何より必要な情報が読み取れないの。  
 横書きも見にくいし、左からページを捲るのってまるで教科書みたいで嫌」  
「そう。読む価値はあった?」  
「あると思って借りたけど、なかったわ。碧生は何を読んでいるの?」  
「量子の宇宙のアリス」  
 僕は本を持ち上げて、表紙を夜子に向けた。彼女はその美しい眉間に皺をよせて、怪訝そうな表情で僕を見つめる。  
「なあに、それ?」  
「量子学入門、かな?」  
「好きね、そういうの」  
「そういう夜子は、次は何を読む予定?」  
「三島由紀夫」  
「好きだね」  
「好きよ。いけない?」  
 
 はっきりと言いきって夜子は、自分のマグカップに口をつけて一口すすった。  
 寒さにその色を失いかけていたくちびるが、すぐに赤く色づいて艶っぽく濡れる。  
 とんでもなくいやらしいものを見てしまった僕は、慌てて視線を逸らして話題を探す。  
   
 唐突に、三島が好きだと言っていた同級生を思い出した。  
 昨日の帰り際に、突然夜子を呼びとめたあとに、すうと目を細めて僕を睨むように見ていたあの男だ。  
 
 
「岩崎さん、ちょっといいかな」  
 校内の狭い図書室は、閉館時刻から五分を過ぎていた。  
 委員の当番の帰り支度をすっかりと終えて、ハードカバーの単行本が二冊も入ったせいでずっしりと重くなったかばんを持て余しながら、僕と夜子はゆっくりと振り返る。  
 声の主は隣のクラスの図書委員だった。確か野本だったか。  
「なんでしょう?」  
 相変わらず愛想のない声音で夜子が聞き返す。  
「話があるんだけど」  
「ええ、お伺いします」  
 さあどうぞ、というように居住まいを正して夜子は、野本に向き直った。  
 一瞬だけ顔を引きつらせた野本は、すぐにまた爽やかと評すに申し分ない笑顔を浮かべて、口を開く。  
 
「……いや、その、できれば二人で話したいんだ」  
 野本はちらりと僕の方へ、また睨むように視線を向けた。  
 遠慮をしてくれないか、と目が口ほどに物を言っている。  
 別に野本には義理も借りもないけれど、仕方なく僕は空気を読むことにした。  
 
「夜子、僕は先に帰るよ」  
「悪いね」  
「だめよ」  
 野本と夜子が同時に言葉を発する。  
 僕は少し驚いて、隣の夜子を見下ろした。  
「先輩、そのお話は時間がかかりますか?」  
「……いや、すぐに終わるよ」  
「よかった。碧生、どこかで待っていてくれない?」  
「判った……じゃあ昇降口で」  
「ありがとう。すぐに行くわ」  
 
 夜子と野本の見慣れない2ショットに見送られて、僕は図書室を後にした。  
 彼女たちがどこで何の話をしたか、その後宣言通りにすぐに昇降口に現れた夜子の口からは何も語られなかった。  
   
 
「そういえば、野本は何の話だった?」  
 お気に入りの三島の文庫を開きかけた夜子が、ああ、と表情を変えずに頷いた。  
「碧生と付き合っているのか聞かれたわ」  
「そう。夜子はどう返事をしたんだい?」  
「付き合っていませんって。そうしたら先輩たら、毎日一緒に帰るのに、ですって」  
「ふぅん」  
「毎朝一緒に登校をして、毎日一緒に下校をして、帰ったらどちらかの部屋に集まって課題を済ませたら、  
 ずっと一緒に違う本を読んでいるだけの、ただの隣に住む幼馴染だと伝えたわ。事実だもの」  
「そうだね」  
 
 僕らが周りからなんて呼ばれているか。  
 ――本の虫、だ。  
 まさしくその通り、僕らは昔から今でも、本ばかり読んでいる。  
 何のためにそんなに本を読むのか、と聞かれることがある。その類の質問に対する明確な回答は、今のところ用意はできていない。  
 ただ僕も夜子も、本を読むことが好きなだけなのだ。  
 ずっとそんな生活をしているせいで、僕にも夜子にも友達が極端に少ない。  
 お互いだけが情報を交換できる相手であるので、必然的に一緒にいる時間が長くなる。  
   
「それだけ?」  
 僕が聞くと、夜子はむっとしたように眉をひそめ僕を見上げた。  
「どうしてそれを、今日聞くの? 昨日は何も言わなかったでしょう」  
「今日の仕事の間中、野本が僕を睨んでいたからさ」  
 
 当番でもないのに図書室に現れて、何か言いたげな視線で夜子を見つめていたかと思うとその眼で今度は僕を睨んでいた野本。  
 それはまさしく逆恨みや八当たりなのだが、夜子にぺこりと会釈をされただけで後はまるで意識も向けてもらえない彼が少々哀れにもなった。  
 
「付き合っていないのなら、そこに自分が入り込む余地があるのかと、聞かれたわ。……つまり先輩は、私のことを好きなのですって」  
「夜子はなんて返事をしたの」  
「何も。黙っていたら、考えておいてほしいと言われて、それで話はおしまい」  
「野本に愛を告白されるほど親しかったっけ?」  
「いえ……以前に当番が一緒になったときに、三島が好きだと話しただけよ」  
 
 それだけで野本は夜子に懸想をしたのか。まさか、そんな単純なはずはない。  
 夜子が気が付いていないもしくは忘れているだけで、野本が一生懸命に夜子に話しかける姿を僕は幾度か目撃をしている。  
 彼女は当たり障りのない笑顔と回答でその応対をしていた。ついでに、極力会話を短く終わらせる努力も。  
 つくづく、野本は哀れな男かもしれない。  
 
「どうするつもり?」  
「どうしたらいいのかしら? 付き合うってなに、何のこと? 全然判らないわ」  
「夜子が野本のこと、好きなのかどうかだろ」  
「まずその、好きという感情が判らないの」  
「それで昨日から恋愛小説づいているわけか」  
 僕は苦笑いを零した。夜子はますます不機嫌になる。  
 
 乱読、という言葉が相応しく僕も夜子も手当たりしだい興味を引かれた本を読む。  
 なのに昨日から夜子は、僕でもタイトルを知っているようなベタな恋愛小説ばかりを手にしていたのだ。  
 テーブルに置かれた、赤い表紙の借り物もそうだ。  
 
「そうよ。でも全然だめ。心が揺さぶられる、なんてひどく曖昧な感情を、本以外に抱いたことがないもの。  
 ね、碧生は人を好きになったことがある?」  
「夜子の言う意味では、ないかもしれないね」  
 僕のつまらない返事に、そう、と彼女もつまらなそうにつぶやいた。  
 
 そんな夜子をみて、ちょっとした嫌がらせを僕は思いついてしまった。  
 そうやって人の気持ちに鈍感なのは、彼女の短所なのだ。  
 
「夜子、少し試してみようか」  
「何を?」  
「ここに座って」  
 手招きをした僕の方へと膝たちですり寄ってきた夜子は、指示どおりに僕の目の前にぺたんと腰を下ろす。  
 手には相変わらず、文庫本を握ったままだ。  
 それをひょいと取り上げて、座卓の上に置いてしまう。  
 先ほどの軽薄な赤い単行本の上だ。  
 夜子は怪訝な顔をしているけれど、何も抗議はしない。  
 昔から、なぜか僕の言うことだけは素直に聞くのだ。  
 頑固な夜子を持て余した彼女の母親が、僕に諭すようにと頼みに来ることだってしばあしあった。  
 
「夜子」  
 すっと夜子の背後に回って、後ろから細い身体を抱きしめた。  
 うすっぺらな夜子の身体は、力の加減を間違えたら折れてしまいそうだけど、確かな体温とあまい香りが、作り物ではないと主張をしている。  
「な……なぁに?」  
「なにか、とくべつな感情が沸きあがったりするかい?」  
「そうね……距離が近すぎて、所在がないわ」  
 言いながらも夜子はもぞもぞと身をよじらせて、僕の腕から逃れようとする。  
「だめだ、じっとしていて」  
「え?」  
 素早く夜子の左手首を掴むと、残った右手でいっそう強く夜子の柔らかな身体を抱きしめる。  
「夜子」  
 吐息を吹きかけるように、耳元でささやく。  
 夜子の身体が、ビクリと震えた。  
 
 形のいい耳をくちびるでそっとなぞり、耳朶を甘く噛んだ。  
「やっ……」  
 顔を反らして僕の口から逃れそうとする夜子に、僕は低い声でまたささやく。  
「おとなしくして」  
 その言葉に催眠にかけられたように、夜子は抵抗をやめた。  
 だけどまだ、全身にものすごく力が入っていて、細い両肩が小刻みに震えている。  
「あ、碧生……なに?」  
 不安げな声音を無視して、僕はくびすじに舌を這わす。  
 チャイナカラーの上の柔らかな肉をぺろりと舐めたあとに、くちびるで甘く食む。  
 夜子は着るものにさして興味のないから、このシノワズリな服も彼女の母親の趣味だろう。黒い髪と白い肌に、それはよく似合っている。  
 
 細い手首を握った左手の指先が、どくどくと激しい鼓動をキャッチしている。  
 拘束だけが目的ではなく、脈拍を確認するためにこの態勢になったのだ。  
 
 舌を這いあがらせて、くちびるのすぐ横に軽くくちづける。もう少しで、キスになってしまうぎりぎりの所に。  
 
「……あ、おい……?」  
 掠れた声で、やっと夜子が僕を呼ぶ。  
 僕は無言で夜子の黒目がちな瞳を覗き込んだ。  
 彼女の心拍数は、どんどんと上昇をしている。  
 
 実はこっちの動悸も洒落にならないぐらい早くなってきているのだが、悟られない無表情を保った。  
 
 薄く開かれた夜子のくちびるが、かすかに震えてる。  
 ――たまらなく触れたい。  
 僕は欲望と葛藤をする。  
 だけどだめだ。まだだめだ。  
 夜子にはまだ早い。恋ってなになんて、言っている彼女には早いのだ。  
 
 やっと本能を押さえつけた僕は、ふ、と息を抜いてなんとか笑った。  
 
「ドキドキした?」  
 両目を三回またたかせた夜子の頬が、かっと赤みを増す。  
 
「……からかったのね。――しないわ、ドキドキなんて全然していない」  
「そう、じゃあ夜子にはまだ恋なんて早いな」  
 むっとした表情で夜子が身を捩る。  
 僕は素直に彼女を開放した。  
 
 夜子は痛々しく赤い痕が残った左手をさすりながら、考えるそぶりを見せている。  
 少し強く握りすぎてしまったかもしれない。  
 
 何かに思い至ったようで、夜子が僕をちらりと上目づかいににらんだ。  
「……うそよ、ドキドキしたわ。心臓が口から飛び出るかと思った」  
「そう。僕にときめいているようじゃ、夜子は恋なんてできないよ。  
 早く大人になることだね」  
 僕の言葉にますますきついまなざしを向けた夜子が、ずるりと身を滑らせて僕から距離を取った。  
 
「……そうやっていつまでも私を子ども扱いしてからかうのね。年なんて一つしか違わないのに」  
 拗ねたように頬を膨らませる。そういうところが、子どもなのだ。  
 
「野本にはできるだけ速やかに、はっきりとした回答をするべきだね。生殺しでは彼が可哀そうだから」  
「ええ、そうするわ。アドバイスをどうもありがとう」  
 儀礼的に感謝を述べると、座卓の上の文庫に手を伸ばしてページをめくる。  
 
 本に向き合う一瞬前に、夜子がぽつりと零した言葉を聞きつけてしまった僕は、胸の内で苦笑をする。  
 
「――碧生の性悪」  
 
 そう、確かに僕は性質が悪い。  
 世間一般では僕たちの関係を、付き合っているというと思う。それを夜子に教えてやらないのだから。  
 夜子は僕以外の男に興味はないし、僕は彼女以外の女性に魅力を感じない。  
 それはたぶん、穏やか過ぎていて判りにくいけれど恋愛感情に他ならないはずだ。  
 夜子が自分でそのことに気がつくまで、僕はひたすら知らないふりをする。  
 
「夜子、口が悪いよ」  
 
 聞こえないふりをしているのか、ほんとうに聞こえていないのか、夜子は返事もしない。  
 そんな彼女に自然と頬が緩む。こんなに愛しいものはないと、僕は思う。  
 
 夕飯まであと一時間。夜子と過ごせる時間も、同じだけ。  
 当て馬にもなってはくれなかった野本の、明日の不幸に少しだけ同情をしながら、僕も再び「量子と宇宙のアリス」に向き合ったのだった。  
 
 
(おわり)  
 
 

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