仄暗い部屋。
日の落ちた夜の街。窓の外からのかすかな明かりと、安い蛍光灯に備わったたった一つの豆球の光だけが、その部屋を照らすただの光。
小さな、四畳半の間に一人の少女。
歳は十と九つ、大人のなりをしてはいるが、まだ幼さの残る面差し。
濃紺の衣服は、彼女のメイド服である。
所々を可憐なレースで飾りながらも、どうにも地味で、野暮ったく見えてしまうのは、ただ服のデザインだけの問題というわけではない。
身なりも清潔で整ってはいるのだが、彼女自身にいささかやつれた雰囲気があるのだ。
ふと彼女は白くほっそりした右手の指を左の手首に添えた。長袖のメイド服、その袖口を止めているカフスを不安げに押さえている。
決して高くない、安物のカフスである。しかも、根本にわずかヒビが入り、時期に割れてしまいそうな儚さをはらんでいた。
そして彼女の指に押さえられ、ぐらついていたそのカフスが押し込められると、今にも割れて、転げ落ちてしまいそうなそのカフスが、少しだけ物の寿命をつなぎ止めた。
夕刻の陽に焼けて痛んだ畳の上、安物の四脚テーブルが小さく、一つだけおいてある。その前に少女は、ちんまりと姿勢正しく座っていた。
テーブルには同じ種類の細かな部品がたくさん、仕分けされて積まれていて、それらは少女の細やかな指で組み合わされ、組み合わされ、積み上げられていく。
単調な作業を延々と、彼女は繰り返す。一個の作業がわずか何円の、いわゆる内職だった。
彼女の名前は青沼静香(あおぬま しずか)、その職業、メイドである。
なぜメイド業に従事する静香がさらに内職などに手を煩わせるのか。
それは、この部屋の質素な造りからして察することが出来るだろう、あまり裕福な暮らし向きではないのだ。
かちり、と時計の針が時を告げた。静香はその音に慌てて内職の手を止め、テレビの電源をつけた。
画面は小さいくせに、今時ずいぶんと奥行きのあるブラウン管のテレビだ。電源が入ってから画面が絵を結ぶのに、やや時間がかかるところも、いかにもおんぼろの風情たっぷり。
そしてチャンネルが切り替わり、賑やかな音楽とともに番組が始まった。司会とゲストが集まり、大阪を中心とした近畿圏の飲食店を紹介する番組だった。
そう、ここは大阪の町。
彼女が見ている番組も、関西ローカル局の一つでもある毎日放送、大阪に流れるTBS系列のテレビ局だ。略称MBS。
今日の放映は『こなもん(粉もの)』特集、たこ焼きやお好み焼き、変わったところではイカ焼きなど、大阪の町でも人気のある店が紹介されていた。
静香はその番組を、目をそらすことなく見ていた。
しかしその真剣さは、貧しさから来る卑しさなどを起因としたものではない。
番組が進み、次のお店紹介、とコーナーが切り替わったとき、それを見ていた静香の瞳がくわ、と見開き、荒く鼻息も鳴った。
背の高い、坊主頭の青年がレポートをしていた。
そのスキンヘッドのおかげで何ともコミカルな印象を与える彼、数年前からテレビで顔を見かける若手の芸人である。
コメディアンとしてまだまだ駆け出しの青年だ。顔の作りは悪くはない。それなりの髪型であれば、十分イケメンタレントとしても通るだろう。
だが彼は、そんなイケメン風を吹かせることなく、芸人らしいリアクションを交えながら、お店の料理をレポートする。
そうして彼は、数点のお好み焼き屋を回り、レポートを終了した。
その段階で、それを見ていた静香の興奮も収まり、あとは番組終了を待ってそのままテレビの電源を消した。
その、番組に出ていたスキンヘッドの芸人、芸名を『ハルダンジー』という。
本名、犬神助清(いぬがみ すけきよ)、彼はこのメイド、青沼静香の主人である。
それからしばらくの時間。
ちまちま、ちまちまと内職の手を休めない静香がいる部屋の中。さすがに豆球だけでは手元もおぼつかないせいか、蛍光灯を半分だけ灯らせていた。
そして不意に、ガチャリとドアを開ける音がした。
「かえったでぇ」
「お帰りなさいませ、だんな様」
その部屋に、主であるところの青年、犬神助清が帰ってきた。それを出迎える静香、テーブルから離れて立ち上がり、深く礼をした。
背の高い、坊主頭の青年。先ほどのテレビに出てきた男だった。
静香の礼に応えるでもなく、助清は部屋にあがり、どっかとテーブルの前にあぐらをかいた。その顔はなにやら赤く、かなりのアルコールが入っているのは確かだ。
「腹が減った。はよう、飯の準備をせい」
ぶっきらぼうに、食事の催促をする主人に、静香は、はい、ただいま、ときびきび動き出した。
テーブルの上の内職を手早く片づけ、静香は食事を準備する。
一膳の飯と煮魚、そして納豆。
実に質素な食事だ。
助清は黙って煮魚に箸を付け、飯をかき込んでいく。食事が中程まで進んだとき、彼はメイドに目を向けることもせずに、言った。
「酒、」
彼の言葉に、静香は肯いて、台所に戻っていった。小さな片手鍋に水を張り、コンロの火にかけてから銚子をとりだした。
そのように熱燗の準備をする静香、肝心の酒を冷蔵庫から取り出し銚子に注いでいくが、残りもわずかなその酒は銚子を満たしきることもなく、半ばのやや手前で尽きてしまった。
「これだけかい、酒は」
メイドが用意した酒を猪口で数度傾け、あっさり空になってしまった銚子を振りながら言う助清に、静香は頭を下げ、申し訳在りません、と詫びた。
そしてしばらく、夕食を終えた助清に向かって、静香がおずおずと切り出した。
「あ、あの、だんな様、お給金は?」
メイドである静香が言った言葉。給金とは、働くメイドである静香がもらうべき給料のことではない。
今日、助清が持って帰るはずの、彼自身の給料である。
彼女に言われて、助清はポケットから薄い封筒を取り出した。お疲れさまでした、と深く礼をしてから静香はその封筒を受け取り、中を開けてみた。
その少女の、表情が曇る。
「あ、あの、これだけ、ですか?」
中に入っていたのは数枚の紙幣と、一枚の明細書。入っていた金額は明細と深く比較するまでもなくずいぶんと目減りしている。
静香はおずおずとそう問うたのだが、助清はおもしろくなさそうに、飲んできた、と答えた。
そうですか、と目を伏せてから静香、その封筒を戸棚の中へと仕舞った。
「・・・あっ、」
そうして立ち上がった静香の背後、いつの間にか同じように立ち上がっていた助清が彼女を抱き寄せた。
「だ、だんなさま・・・」
背後から少女の脇をくぐって回した掌で彼女の乳房を服の上からまさぐる。
「あの、すぐに御布団敷きますから、すこし、」
待ってください、と少女は訴えたのだが、彼はそれに構うことなく、乱暴な愛撫を続けていった。
そうして、次第に静香の恥じらいによる抵抗も弱まり、男に身体をなぶられる切ない泣き声が漏れ始めた。
乱れたメイド服をただす少女。
汗で張り付いた額の髪を整え、喘ぎすぎて渇いた喉を、コップの少しの水で潤した。
男との情事を終えて、ようやくその始末を終えた静香だったが、そのとき小さな、ぷつりという音。
「あっ、」
慌てて彼女が、思い当たり左の袖口をもう片方の手で押さえたが、それも間に合わず小さなカフスが砕けて落ちた。
「・・・割れちゃった」
小さく呟いた静香。
カフスが壊れ、左の袖口はだらしなく開いてしまっている。
今まで、痛んだ物を騙し騙し使ってきたのだが、それもどうやら限界を迎えたようだ。
壊れたなら新しく買えばいい。
普通はそう考えるのが世の少女だ。しかし彼女は、そうではない。
新しいカフスが買えない代わりに、どうやってこの袖口を押さえようか、そんな慎ましい思考に切り替わっていた。
しかし同時に、身だしなみが満足にいかぬ不自由さに、悲しくなるときもある。
静香が不意に、そんな切なさに襲われかけたとき。
「おい、」
彼女のそばにいた、主人の助清が言った。
「これを使え」
ポケットに入れていた小さなケースを取り出し、軽くほおって静香に渡した。
「だ、だんな様、これは?」
ケースを開く。そこには、銀色に輝く小さな一組のカフスピンが納められていた。
「おまえはわいのメイドやからな、みっともないカッコさせるわけにはいかんのや」
彼女に背を向けたままそう言った彼は、そのままごろりと横になった。
「だんな様、ありがとうございます・・・」
先ほどとは別の理由で緩くなった涙腺があふれ、ぽろぽろと涙がこぼれる静香であった。
ここで唐突に。
伴奏開始。同時に一本、まばゆいスポットライトが男を照らす。
立ち上がるハルダンジーこと犬神助清。
右手をすっ、と胸元にあげると、その掌にはいつの間にやら一本のマイク。
彼はその伴奏に合わせて、歌い始めた。
(歌)
芸のためならメイドも泣かす
それがどうした文句があるか
雨の横町 MBS 浪速しぐれか寄席囃子
今日も呼んでる 今日も呼んでる どあほハルダンジー
(セリフ)
「そりゃあわいはアホや 酒もあおるしメイドも泣かす。
せやかて、それもこれも、みんな芸のためや
今に見てみい、わいは日本一になったるんや
日本一やで、わかってるやろな、静香。
なんや、その辛気くさい顔は?!
酒や酒や、酒買うてこい!」
助清がマイクを下ろすと、彼にあたっていたスポットライトが消え、その隣の少女を新しい光が照らす。
立ち上がった少女、青沼静香が胸元に両の手を添えると、いつの間にやら彼女にも一本のマイクが与えられていた。
そして間奏を終えたメロディにあわせて、今度は静香が歌い始める。
(歌)
そばに私がついてなければ
なにも出来ない だんな様だから
泣きはしません、辛くても
いつかテレビの星になる
好きな男の 好きな男の おおきな夢がある
(セリフ)
「私はだんな様が好きだからお仕えしているんです。
だからだんな様、遊んでください、お酒も飲んでください。
だんな様が日本一のコメディアンになるためでしたら、
私はどんな苦労にも耐えてみせます!」
ほのかな情を込めたセリフが終わると、再び隣にもう一本の光が射し、先ほどの青年を照らす。
二本の光が一つに交わると、それに併せてふたりは寄り添う。
そしてその、メイドと主は見つめ合い、微笑み合ってから、歌の締めを共に歌い始めた。
(歌)
凍り付くよな 浮き世の裏で
耐えて花咲く 主従花(しゅじゅうばな)
これがおいらの恋メイド
あなた私のご主人様よ
笑うふたりに 笑うふたりに
浪速の春が来る
客席が沸き、盛大な紙吹雪と拍手の嵐。
舞台の上から男とメイド、満員の客席に向かって、深々と笑顔の礼。
止まぬ拍手の中、スポットライトが途切れ、そして、幕。
幕の下りた舞台に、拍手が途切れることはなかった。
END OF TEXT