卵が焦げた。否、焦がした。  
 その事実に、詩野は軽い眩暈を覚えた。仕方なく焦がした卵は自分の分にすることにして、油を引き直し新しい  
卵を落とす。今度は失敗しないようにフライパンとにらめっこをし、いつもの半熟で皿に移すことに成功したところで、  
ようやく肩から力が抜けた。  
 いったいどうしたというのか、詩野は己の不甲斐なさに口唇を噛んだ。  
「えっ!」  
 はあ、と力ない溜息をつきかけたところで後ろから不意の声。詩野が振り向くと、台所の入り口に掛けた藍染の  
たれ布を持ち上げ、端正な顔立ちを呆けさせた青年が、そこに立ち尽くしていた。  
「だ、だんな様! 申し訳ございません、今お持ちするところだったんです」  
 とっさに腕を伸ばし、襷がけの袖で焦げた卵を隠す。がしゃんと耳障りな音がしたような気がしたが、それを  
確かめている余裕は無かった。ところが青年は、詩野の顔を見るなり、いつもは凛々しい真っ直ぐの眉をハの字に  
したまま、ばたばたと慌てた足音を立てて今来た廊下を戻ってしまった。  
 その謎めいた行動に詩野は首を傾げるしかない。仕方無く、お盆に朝食を乗せ、釈然としないまま主の後を追った。  
 
 居間に戻っているものと思っていたら、玄関の方からぼそぼそと話し声がする。  
(お客様……? こんなに朝早くから、どなただろう)  
 普段なら客の対応は詩野がしていたが、すでに主が相手と話し込んでいるところに顔を出すわけにもいかず、  
食卓に膳を並べて待つことにした。  
 誰も見ていないのをいいことに、ぽてっと食卓に頭を預ける。ひやりとした感触が頬と額に気持ちがいい。  
今朝は妙に頭が霞がかったようにはっきりせず重かった。  
「……あっ」  
 無意識に手が首筋をなぞっていて、はっとする。薄くなった痕を思い、詩野はたまらずにぎゅっと目を閉じ、  
すぐに開き、ぼんやりと視線を彷徨わせた。  
 目を閉じれば、ゆうべの主の熱い腕を思い出す。目を開けば、きっちり着込んだ着物の下、赤い痕が透けて  
見えるようで、どちらを選ぶにしても、首筋に残った歯型を意識してしまった以上、夜半の出来事を無かった  
ことにしてしまうのは、主がそう望んでも詩野には無理そうだった。  
(たとえ一夜の夢だとしても)  
 青年に求められたという事実が、己の身にしっかりと残っているのが堪らなかった。本来であればはしたないと  
恥じるべきだと分かりながら、泣きたくなるような想いになかなか詩野は蓋が出来ずにいる。悲しいと嬉しいが  
一緒くたになって、切ないという言葉へ変わる。胸が苦しく息が詰まり、きゅっと握った小さな拳には、  
痺れたように上手く力が入らない。  
「詩野……?」  
「きゃ!」  
 縁側に面した障子が静かに開いて、そっと青年が顔を覗かせていた。条件反射で背筋をぴしりと伸ばすと、  
気持ちの早さについていけなかった身体が、頭痛というかたちで悲鳴を上げる。  
「あ……すまない、驚かせるつもりは」  
「違います、違うんです、その」  
 ずきずきと鈍痛を訴える額を左の掌で押さえ、右の掌を振って己の非を主張する。ひそめられた主の眉間から  
皺が抜けていないと分かると、詩野は更に言い訳を重ねた。  
「みっともないところをお見せしてしまって、その」  
 よもや情事の痕に思いを馳せていたなどとは言えず、しどろもどろになりながら立ち上がる。  
「ただいま朝餉のお支度を――」  
「詩野っ!」  
 障害物も無いのにふらりと身が傾ぎ、詩野が最後に見たのは、伸ばされ近付くはずの青年の手が逆に遠ざかって  
いく様子と、瞠目した青年の顔だった。  
 
 
 目が覚めてぼやけた視界がはっきりしてくると、あからさまにほっとした表情の青年が、上から詩野を覗き込んでいた。  
その向こうには見慣れない柄の天井があり、見慣れたはずの襖には違和感がある。決定的な違いは、床の間に  
水墨画の鷲が飛んでいたことだった。不思議に思った詩野が起き上がろうとすると、困ったような微笑みがそれを制する。  
「まだ無理しない方がいい」  
 頭を動かした拍子に額に乗っていたらしい濡れた手ぬぐいが瞼に落ちてきた。生ぬるい感触に眉をしかめて  
それを取り上げると、ようやく己の置かれた状況が分かり始める。  
 見覚えのある掛け布団なのに肌に馴染まない。その理由に思い至り、詩野は再び気を失いかけた。  
(だんな様の部屋、だんな様の布団)  
 今にも逃げ出したいような焦燥感に駆られたが、それ以前に身を起こす気になれなかった。主の残り香のある布団から離れがたかったから  
というよりは、自分の認識以上に横たわった姿勢でいることを身体が欲していたのだ。  
「須藤先生をを呼ぼうと思ったんだけれど、電話番号が分からなかった」  
 苦笑いをした青年はやんわりと詩野の手から手拭いを奪い去ると、枕元に置いた小さな金だらいに落とした。  
「……だんな様の、お部屋ですね」  
 平静を装って静かに言ったつもりが、掠れて上擦った声になる。軽く部屋を見回しながら、こほっと控え目に咳をした。  
息苦しくて本当は深呼吸をしたかったけれど、それは諦めた。そんなことをしたら、布団に残る青年の匂いに  
いよいよ頭をやられてしまいそうだった。  
「女性の部屋に断りも無く入るような真似事は出来ないよ」  
 ははは、と苦笑いののちに、青年は続ける。  
「本当は、足が真っ先に向かったのが僕の部屋だっただけだよ。――そうだ」  
 青年は立ち上がり、部屋の隅の文机からお盆を持ち上げた。  
「お粥をね、作ってみたんだ。食べられるかい」  
 元の位置に胡坐を掻いて座りなおした主の横にお盆を置かれ、そこに乗せられた土鍋が目に入っても、  
詩野は一瞬言葉の意味を図りかねた。  
「おかゆ……?」  
「そう。あ……詩野、今日は台所に近付かないでおくれ」  
 妙に焦った様子を不思議に思って首を傾げても、青年は軽く肩を竦めるだけだ。  
「あー、その、なんだ。病人を働かせるわけにいかないだろ」  
 詩野は若干うろたえた青年の声を耳元で聞きながら、首の後ろに腕を入れられ、ゆっくりと上半身を起こされた。  
「多分、風邪なんだろうと思うけれど。気分は悪くないかい」  
 こくりと頷いて、大丈夫ですと告げる。  
「うん、良かった」  
 青年は柔らかく微笑み、お盆の上で土鍋から小皿へ粥をよそうと、手にしていた木製の匙に息をふうふうと吹きかけて詩野に差し出した。  
「はい」  
「……?」  
 てっきり小皿を差し出されるものだと思って待っていたのに、それは主の左手に納まったまま、動く気配は無い。  
「いらない?」  
「え、と」  
「うん」  
 詩野は差し出された匙に浮かぶ溶けた雑穀交じりの米粒を凝視して、固まった。  
「どうしたの。やっぱり、いらない?」  
 青年はなぜ詩野が頬を染めているのか分からない様子で、ただ心配そうに匙を差し出している。  
 詩野は困った。  
 熱でぼんやりとして働かない頭で、必死に状況を整理した。  
 不可抗力とはいえ使用人風情が主の布団を占領して、介抱され。  
 青年の――この屋敷の主の、雇い主の、遼一郎の手作りの粥を。  
 手ずから。  
 
「……っ」  
 無理です、と言いかけたがすんでの所で留まった。主にこんなことをさせている申し訳なさもあったけれど、  
わざわざ時間を取って詩野を労ってくれているその真心を否定することの方が出来なかった。  
「ほら、あーん」  
 何かを決心した様子が見て取れたのか、青年が優しく微笑む。  
 かけ声の恥ずかしさから決心が鈍り、わずかに逡巡して、詩野は白旗を揚げた。  
「ん……ふ」  
 小さく開けた隙間に滑り込んできた匙から、粥を舐め取る。  
「ふ、ぅむ、ん」  
 木匙がざらりと詩野の舌と唇を滑り出るたびに、主は小皿から新たに粥を掬いなおした。  
「……っく、んむ」  
 差し出されるものを今さら拒むことが出来ず、観念したように詩野はそれを口に含む。時折白米ほど柔らかくは  
ならなかった雑穀が喉に引っかかり、ごほごほとむせた。そのたび、主は小皿と匙を置いて詩野の背を撫でて宥める。  
 小皿が空になったところで、青年は嬉しそうに匙を置き、今度は背ではなく頭を撫でた。  
「えらいえらい」  
 まるきり子供扱いだったが、それについて文句を言えるはずなど無い。  
 主の手が触れたところから、じわじわといたたまれない感覚が広がっていく。詩野はどんな顔をしていいものか  
途方にくれ、視線が知らずうろうろとして、落ち着かせられなかった。  
「味についての感想はいらないよ、分からないだろうから」  
「え……」  
「今朝の味噌汁は塩辛かったなぁ」  
 詩野が寝ている間に食べたのだろう、苦笑いを浮かべて、その顎をまじまじと撫でつける。  
「あ、目玉焼き――」  
 味見をしたのにそう言われるということは、鼻が利いていないのだ。そこから、犯した失態がそのひとつでなかったことを唐突に思い出す。  
「いつもどおりのと、焦げたのと?」  
 何でもないように青年に指摘され、詩野は絶句する。途端にさぁっと顔から血の気が引いた気がして、それに気付かれたくなくて俯いた。  
(幻滅される)  
「詩野?」  
「申し訳ありません」  
「何が」  
「ちゃんと、お勤めを果たせませんで……」  
 顔を上げられないままの詩野の横で、ああ、と青年が呟く。  
「とりあえず、横になろうか」  
 両肩を優しく押され、大した抵抗もなく頭が蕎麦殻の枕に乗る。掛け布団を引き上げてくれた青年は、困ったように微笑んでいた。  
「謝らなければいけないのは、僕だ」  
 主の大きな掌が急に視界に降りてきて、慌てて詩野は瞳を閉じた。さらりと前髪をかきあげられ、額に何かが触れる。  
その掌で熱を測っているのだろう、それは息を詰めた数秒のうちにあっさりと離れ、詩野は名残惜しいと感じる余韻を強引に打ち消した。  
 目を開けようと睫毛を震わせると、それを拒むように掌が再び伸び、詩野の視界を覆う。  
「だんな様……?」  
「体調が辛いときに話すことではないかもしれない。でも、大人しく聞いていて」  
 いつになく真面目な声に、詩野は視界を閉ざされたまま素直に頷いた。  
「――風邪が治ったら、目白にお戻り」  
「えっ」  
「さっき、本宅に電話をしたんだ。ちゃんと話はつけてあるから、安心おし」  
「…………」  
「おまえのこの風邪は……僕のせいで」  
 瞼を覆っていた手が頬へ流れても、詩野は目を開けることが出来なかった。  
(今朝のお客様は、人ではなくて、電話だったんだ)  
 実家とは疎遠になっている青年がわざわざ電話をかけたのだから、本気で詩野に暇を出そうと言っているのだろう。  
 きゅっと唇を噛み締めて、感情を逃がそうとする。けれどそれを阻むように、青年の手は優しく、柔らかく、  
慈しむように詩野の頬を撫でる。どうして今さらそんな触れ方をするのか、いっそ恨みがましいほどの思いで顔を背け、  
その手から逃げた。  
 
「……ねえ、詩野?」  
 拒まれた指が、名残惜しげに詩野の首筋に一瞬そっと触れ、離れていく。ちょうどそこに刻まれた歯の痕が、  
ずきりと痛むようだった。  
「向こうに戻ったら、何を言われるか知れない。でもその全て、僕のせいにすればいい。僕らの間には何もなかった。  
ね、そうだろう。僕は今さら何を言われようと構わないけれど、おまえは、そういうわけにはいかないから」  
「……っ」  
 掌だけでなく優しさからも逃げたくて、必死で枕に顔を押し付ける。頭ががんがんと痛む。何が原因なのか、  
もはや分からなくなっていた。ぽつ、と音がして、枕に涙が丸く染みを作り、それはどんどん大きく広がってゆく。  
「どうして、泣くの」  
 うっすらと開いた瞳はぼやけた世界を見せ、主の顔を上手く認識できなかったが、けれど詩野にはその表情が  
手に取るように分かった。上から伸ばされた指に涙を拭われると、思い描いたとおりの困ったような微笑み。  
「わたしは――」  
 声が震え、みっともなく泣いて、あまつさえせっかくの優しさを拒もうとしている自分はなんと愚かなのだろう。  
拭われても拭われても飽きもせず雫をこぼす涙腺を、己の腕で押さえつける。こうすれば顔を見られなくて済むことに気付き、  
詩野は無性にほっとした。  
「わたくしは、だんな様のお役には立てませんでしたか」  
「そんなことないよ」  
「なら……何故ですか」  
 青年が息を呑む気配がした。  
「何故って? ……どうして?」  
 詩野は逆に聞き返されたが、返すべき言葉を見つけられず、口を噤んだ。疑問の答えを探しているのは主も同じようで、奇妙な沈黙が訪れる。  
「おまえは」  
「はい」  
「この屋敷に居たいと言うの」  
「……はい」  
「ゆうべのことがあっても?」  
「はい」  
「なんで?」  
 青年は疑問を口にせずにはいられないらしく、心底理解できないという様子で詩野に答えを促す。  
「……分かりません」  
「分からないのに、居たいって?」  
 珍しく焦れた言葉が返ってきたが、いくら促されてもそれ以上のことを詩野は言えない。  
 本当は、分かっていた。分かっていたから、言わなかった。越えてはいけない一線があることを、詩野はわきまえていた。  
主が使用人に手を出すのと、詩野が遼一郎に想いを告げるのとでは、まるで意味が違うのだ。  
 東京の片田舎に押し込められて精神的に不自由な思いをしている青年を、これ以上追い詰めることなど、出来ない。  
どんなに詩野が一途に恋い慕っていたとしても、結局のところ、それは今の主にとっては重荷以外の何ものでも無いからだ。  
 けれど、それだから、青年に「屋敷に居たいのか」と問われて、詩野は即座に否定することが出来なかった。  
「いいえ」と答え、素直に屋敷を去るべきであったのに、あろうことか「はい」と正反対の答えを渡してしまった。  
詩野の馬鹿げた恋心の生んだためらいの犯した、大きな過ちだった。  
 華族の生まれである主と、平民の生まれである使用人が結ばれることなど、例え法律上は許されているとはいえ、  
名門真田家において、それはゆめゆめあってはならないことだった。仮に詩野が華族や士族に生を受けていたとしても、  
使用人という立場に身を置いている時点で同じことであったし、そうでなければ真田遼一郎という人物に出逢うことすらなかっただろう。  
「僕には、おまえがここから逃げ出さなかったのが不思議で不思議でたまらないんだよ」  
 また「何故だい」と問われ、詩野は曖昧に微笑んで返す。  
「さぁ、何故でしょう。ただ」  
「うん」  
「あのあと、服を着て部屋に戻ると、すぐに眠ってしまって。目が覚めてお天道様を見たら、いけない、お米を研がないと、と真っ先に思いました」  
「なんだい、そりゃ」  
「自分でも不思議です」  
 詩野は両目を隠していた腕を外した。  
 
「……今朝、君が居て」  
 唐突ではあったが、ひとつひとつ言葉を選びながら、ゆっくりと青年が語り始める。詩野はじっくりとその声に耳を傾けた。  
「驚いた。心底、本当に」  
 目が合うと青年はやはり困ったような微笑みを浮かべ、胸元に置いた詩野の手に恐る恐る、ためらいがちにその手を重ねた。  
詩野をさす「君」という聞きなれない二人称が、青年の緊張を伝えてくれるような気がした。  
「僕は君に……ひどいことをしたから、きっとさっさと荷物をまとめているものだと思っていた」  
「そんなこと」  
「そうだね、君はいつものように、台所で朝食の支度をしていた。まるで、何事も無かったみたいに」  
 なぜだろう、と詩野は思った。  
 なぜ青年はいつものように微笑んでいるだけなのに、それを眺めていると胸が切なくなるのだろう。  
別におかしいことなど何も無いのに、なぜだか胸が一杯になって、溜息がつきたくなる。  
「あの時僕は、自分で朝食を作らなければと思っていて、まさかそこに君が居ることなんか、考えもしなかった」  
「なぜですか」  
「言っただろ、君が、僕に、愛想を尽かしたと思ったから」  
 重ねられた手が、ぎゅっと握られる。少し痛かったが、かえってそれが心地良いと感じる自分がいた。  
「心底驚いて、怖くなって、僕はその場から逃げてしまった。情けないなぁと我ながら思うよ、まったく」  
「怖い……」  
 予想外の言葉があって、詩野は繰り返すように呟いた。  
「――きっと嫌われていると思っていたのに、いざ目の前にすると、拒まれるのが怖くなった。怖い思いをしたのは、僕ではなくておまえなのにね」  
「…………」  
「僕は、一人じゃろくに実家以外に電話も掛けられないし、食事だって大して作れない。一年半もここで暮らしていて、  
どこに何があるのかも分からない。きっと洗濯も掃除も上手くいかないだろう、なにせ、満足にやったことがないから」  
 荒れ放題になる吉祥寺屋敷を想像して、詩野はたまらなく悲しくなった。手入れの行き届かない建物より、  
そこで暮らす青年は、きっとさぞや寂しいだろうと思った。  
「そう分かっていても、詩野の後に、誰も寄越してくれるなと目白には伝えたよ。同じ過ちを犯さないとは、限らないから」  
 過ち。  
(だんな様……)  
 弥生子とのことをそう言われるのをあんなにも嫌がるのに、昨日の一件はそれで済ませてしまうのか。  
主の気持ちが自分に向いていないことは重々承知していたつもりだったけれど、何気ないそのたった一言に詩野は傷つけられる。  
(違う、勝手に傷ついているんだ、私は)  
 傷つけられる、だなんて自分本位な表現は正しくない。なのにまた泣きそうになる自分の弱さに閉口した。  
「だのに、何故だろう。ああ、なんでだろうなぁ」  
 握られた手が不意に持ち上がった。大きな溜息を手の甲に感じて、詩野はどきりとした。  
「理由も上手く言えないけど、今、僕はすごく――泣きたい気分だ」  
 ぎゅうっと握った詩野の手を己の頬に押し付けた青年は、まさにその、泣きたい気分の表情を一瞬見せて、ぎこちなく微笑んだ。  
 
「詩野」  
「はい、だんな様」  
「この屋敷に居たいと思ってくれるかい」  
「はい」  
「僕は堪え性がないから、きっとまた、おまえを傷つけるようなことをする。それでも、ここに居てくれるかい」  
「はい」  
 詩野は一度としてためらわず、主の問いかけに答えてゆく。  
 ひとつ「はい」と言うたびに、握られた手に感じる力が強くなる。  
「何も出来なくて、迷惑ばかりかける男だけれど、主と思ってくれるかい」  
「はい」  
「五分だけ、僕に時間をくれるかい」  
「……はい」  
 最後の「はい」だけ間が出来たのは、手の甲から頬の感触が消えたからだった。そのまま、青年は立ち上がる。  
「うん。電話をかけてくる。目白に、今朝の電話は取り消しますと」  
 にこりと笑って部屋を出て行った青年に、はい、という返事が聞こえたかどうか、詩野には自信がなかった。  
矢も盾もたまらなくなって、涙が溢れて来てしまったから。  
 ふらふらと上半身を起こし、掛け布団ごと膝を抱く。声を押し殺して、静かに詩野は泣いた。  
 
 しばらくして部屋に戻ってきた主は、金だらいに浸したままの手ぬぐいを絞ると、詩野の頬に残った涙のあとを丁寧に拭った。  
「詩野」  
「はい」  
「最後の質問をするよ。はい、以外で答えておくれ」  
 とっくに涙は消えているだろうに、しつこく手ぬぐいで顔を撫でられながら詩野が頷くと、青年は何故かかしこまって、大袈裟に咳払いをした。  
「電話帳の場所を教えて。須藤医院と出前屋さんの番号が、分からないんだ」  
 
 
///春待ちて・2 おしまい  
 

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