――詩野、素直でありなさい。
耳になじんだ声が聞こえる。
――人を、信じなさい。いつかそれがお前の財産になるから。
詩野が頷くと、そっと髪をなでられたような気がした。
――お前を認めてくれる人ができたら、その人のことを大事になさい。
はい、と返事をしようとして、声が出せないことに気付く。はっとして喉に手をやるが、やはり声は出なかった。
――いいね、詩野……
聞こえる声が遠くなる。同時に目の前が黒く塗りつぶされていき、突然母の手から放り出された赤子にでもなったかのような心細さが詩野を襲う。
状況ができないまま、ぐうっと上から押しつぶされるような圧迫感に出せない声にくわえ息さえも詰まった。
足もとがぐらつきだし、ガラスが割れる音や得体のしれない轟音が耳に飛び込んでくる。何かがはじける音と熱さが一緒くたになって身を撫で、
どこかで火の手があがったことを悟り、詩野は恐怖におののき、その場からただ逃げたくて必死にもがいた。
(誰か助けて……!)
詩野が声にならない声で叫んだそのとき、その闇の中、ぼんやりとひとり、見知った青年の姿が浮かびあがったではないか。
穏やかに微笑む姿をみとめるなり、胸が張り裂けそうな切なさがひといきに沸き起こり、こらえきれず涙が落ちた。
繊細に張りつめた薄氷(うすらい)のような詩野の瞳から、頬へ、一筋。
「ああ……!」
いっぱいまで伸ばしたこの腕は、けれど詩野は、彼には届かないことを知っていた。
そしてそのまま彼を見失い、二度と会えないということを、知っていた。
「いかないで!」
「わあっ!」
「――っ」
ぱっと歌舞伎の早替えのように夢と現実が切り替わり、詩野は朝を迎えたことを知った。けれど消えない圧迫感を
不審に思って首を動かすと、驚いた顔で薄いかけ蒲団の上から詩野にまたがっている小さな人影と目が合った。
「!!」
その正体を理解した詩野が面喰らって顔を動かせずにいる間に、少年はさっと身を起こし、
風のように実質詩野の私室である奉公人部屋から飛び出して行ってしまった。
朝からいったいなんだったんだろう、と思う余裕が出てきたのは、視界がはっきりし、天井の木目が見慣れたものであるとようやく確信が持ててからだった。
意を決して起き上がると、頭の奥がじんじんと痛んだ。目尻から耳にかけてがひりついている。触れてみれば、
うっすらと濡れた痕が残っていた。
胸にこごったものを深い溜め息で吐き出し、詩野は布団を上げた。寝巻きからえんじ色の小袖に着替え、
いつものように首の後ろで髪をひとつにくくる。袖口にほつれた糸を見つけ、ぷつりと噛み切った。
かすかな溜息は、いつもどおりの顔でいつもどおり開いた障子のすべる音に、かき消されたのだった。
食卓に並んだきれいに盛り付けのすんだ皿を前に、詩野は困り果てていた。
粛々と朝餉をとる青年のはすむかいで、小さな客人が口をひん曲げたまま箸を取ろうとしないのである。
ふたりとも一言として口を利かないため、女中に過ぎない詩野としては口をさしはさむわけにもいかず、
不器用に沈黙に耐えるしかない。飯櫃の蓋のふちをなぞる人差し指が、無意識に同じところを行きつ戻りつする。
雑穀米はやわらかめ、味噌汁の豆腐とわかめは小さめに切った。少年の分の納豆にはからしを添えておらず、
青菜は旬の菜の花を白和えにしたものだ。主好みならからし醤油でおひたしにするところなのだが、
甘いもの好きの少年の好みから推し量ってみた。
そんな詩野の影の努力もむなしく、信次郎は親の敵でも見るような険しさでじっと目玉焼きを見つめている。
主と同じ半熟で火からあげたものだけれど、それが気に食わないのだろうか。前もって誰かに好みを聞いておくべきだったと、
詩野は己の手落ちを悔やんだ。きのうの様子から察するに恐らく信次郎は頑固者なのだろう。彼の信条に沿わない何かが、
その小さな握りこぶしをかたくなにしているのだ。
「信次郎、食欲が無いなら前もって言いなさい」
助け舟を出すように、視線を動かさず黙々と箸を動かしながら青年が信次郎をたしなめる。少年はきっと顔を上げて、
春のうららかな朝には不似合いな大声をあげた。
「だって! バナナが!!」
「声が大きい!」
気付いているのかいないのか、青年の声もつられて大きくなる。平素から温厚な人柄であったはずだが、
信次郎に対しては声を荒らげっぱなしだ。眉間に刻まれた皺がくせになってしまわないか、心配になるほどだった。
「バナナが最後に無いなら食べない!」
ぷくっと頬を膨らませ、そう宣言した信次郎はそっぽを向いた。示し合わせたように詩野と主は顔を見合わせて、
ふたりして呆気にとられる。どうしてそんな極端な理論になるのか、子供の思考というのは難しい。ともかく、
どうやら目玉焼きの焼き具合が問題だったわけでは無いらしいことは、詩野にも分かった。
「どうしてそんな一か十かの話になる」
呆れかえった青年が脱力して箸を持った手を食卓に落とす。
「それに朝からそんな高いもの食べてどうするんだ。おやつの時間になさい」
「いいいいぃやああああああぁだあああああぁ!!」
「ああ! やかましいっ!!」
吉祥寺に来てからというもの、こんなに騒がしい朝は初めてだった。そろりと立ち上がると、ふたつの違った視線が注がれる。
期待に満ちた少年の強気な瞳と、引き止めるような青年の気遣わしげな瞳。どちらと視線を交わそうか詩野は迷って、
やがて右へと顔を向けた。
「少し、お待ちくださいね」
先までのしかめ面が嘘のような少年の笑顔と、驚いたように目を見開いた青年を背に、こころもち弾んだ足取りで詩野は台所へと向かった。
ふたたび居間へと戻ってみれば、信次郎が皿のものに箸をつけていて、詩野はにわかに嬉しくなった。
食後のお茶の用意と一緒にお盆に乗せてきた2枚の皿を、それぞれ食卓へと並べる。はじめは咎めるような表情をしていた青年も、
さすがに実物を前にしては息を飲んだ。
ところが、あれだけ楽しみにしていたはずの信次郎があからさまに落胆したではないか。これには詩野も慌てて、
たまらずに声をかける。
「信次郎さま、いかがなさいましたか」
けれどへそを曲げてしまった信次郎は、ふんと鼻息で不服を申し立てるだけで何も言おうとしない。視線すら合わせてくれず、
まるで取り付く島がなかった。ここまで強烈に拒絶されてしまうと、詩野にはこれ以上何も言えなくなってしまう。
「なんでそんなにがっかりする」
信次郎の妙な頑迷さに慣れたのか、詩野の主は気の無い口振りで理由をたずねた。下女の問いには答えずとも、長兄の声に対しての反応は早かった。
「だって丸ごと一本じゃないじゃんか!! 半分なんて聞いてないぞ!!」
兄の皿を引き寄せると、信次郎は身を伏せて視線を食卓と同じ高さにし、子供らしい膨れ面をつくる。
「明らかにお兄の方が大きい!」
「……僕には同じに見えるけれど」
もはや青年は真面目に付き合う気は無いらしい。黄色い皮をかぶったままのバナナの切り口に指をかざしてまで寸法の違いを主張する末弟に、投げやりな言葉を返す。
「大きいよ! 大きいし太い! ずるい! おい、お前! 不公平だ!!」
ばっと身を起こすと同時に人差し指を突きつけられ、詩野はお盆を抱きしめておろおろとするしかない。
懐手してうんざりと眉間に皺を寄せる青年が指摘したのは、詩野にとって思いがけないことだった。
青年が抗議する小さな手を捕まえると、短い悲鳴を上げて信次郎は顔をしかめた。
「痛いよお兄!」
「そうやって指で人をさすなと教わらなかったのか」
静かな声音ではあったが、そこにあらわれた峻厳さに、叱られた本人ではないのに身が竦む。さしもの信次郎も一瞬言葉を失っておびえた表情を見せた。
「それに、いくらなんでも『お前』はないだろう」
場の空気が凍りついたことを察してか、青年はいくらか語気を弱めた。
「お兄はよくて俺はいけないの?」
ひるんだだけで反省したわけではないらしい信次郎が、すかさず言い返す。青年はその性懲りのなさに苛立った表情を浮かべたものの、
兄弟げんかにすっかり萎縮してしまった詩野に気付いたらしい。少なくとも表向きはその怒りをおさめ、諭すように言った。
「いけない。詩野はお前より年上だろう」
「だんな様、別にわたくしは」
「きのうも言ったけれど、これは信次郎のためだから」
相変わらずむすっとして反抗的な態度をとる信次郎の前に座っているのがいたたまれなくて、詩野はその場で肩を竦めて小さくなる。
『信次郎のため』とはいうが、何も自分を巻き込んで礼儀作法を説かなくても良さそうなものだ。
「じゃあなんて呼べばいいのさ?」
「『ねえや』なり『詩野さん』なり、いくらでもあるじゃないか」
「そぉんな田舎くさい言い方出来るかよ!」
信次郎は口を尖らせたまま、使い時を誤っているとしか思えない鋭すぎる視線を詩野に向けた。
「しの!!」
「は、はい!」
「返事したな! よし!」
勢いにほだされてつい返事をしてしまったけれど、しまったと我に返った頃にはもう遅い。
青年のかみなりにも臆すことなく、信次郎は詩野の呼び方を定めてしまったのである。
「……詩野、お茶」
「は、はい」
諦めたような溜め息があって、青年は食後の茶を催促した。それを見ていた信次郎が、茶碗にへばりついた米粒を一粒ずつさらえながら茶々を入れる。
「バナナにお茶ぁ? こーしー無いのこーしー」
「子供のくせにコーヒーなんて生意気な。そんなハイカラなものがこの片田舎にあると思うか?」
青年は急な要望に目を見開いた詩野の手の急須を一瞥した。ちぇ、とあっさり引き下がった信次郎は、
箸を置いて両手を合わせた。お待ちかねの主役登場に喜色満面でバナナへと手を伸ばし、はたと止まる。
「ねえ、お兄。大きさ同じだって言うならバナナ俺のと交換してよ」
「いやだ」
「じゃあ、あとは頼むよ。行ってきます」
「はい、行ってらっしゃいませ」
今日は珍しく出かけるところがあると言う主を玄関先で見送ると、詩野には仕事が山のように待っている。
一番の難敵である洗濯に、晩の買い物、一人のときは抜いてしまいがちな昼食も、今日は信次郎のために用意しなければならない。
だのにいくら仕事が増えようと、詩野は浮き足立つ気持ちを抑え切れなかった。何せ、来客は本当にしばらくぶりだったのだ。
青年との暮らしに不満があるはずも無いけれど、二人以外の声がするというのはやはり感慨深いものがある。
「だんな様、いつごろお戻りになりますか?」
「晩に間に合うようには戻ってくるよ」
立ち上がり紺袴の裾をはたくと、主はその涼やかな目をわずかに見開いた。
「せっかく信次郎さまがいらっしゃいますから、なるべくお早めにお戻りくださいね」
ゆうべの賑やかな食卓を思い返し、詩野は嬉しくなってふふっと微笑んだ。その様子をなぜか物珍しそうにしげしげと眺めながら、青年が両手を組む。
「さっきのバナナのときも驚いたけれど」
「はい?」
「自分のことさえ後回しなのに、おまえが僕以外の人間を優先するのを初めて見たような気がする」
その一瞬の詩野の当惑は、主に伝わったかどうか。
青年をないがしろにしたつもりは無いし、青年自身もそうは思っていないだろう。後ろ暗いことなど何一つ無いのに、
ただ、ぴしりと音を立てて思考が固まってしまった。自分で自分に驚いた。
本家と離れたったの二人きりの暮らしで、その相手は自分の主人であるのだから優先されるのは当然のことだ。
おかしいことなど何も無い。とはいえ、そこまで自分のことを顧みてこなかっただろうか。詩野は思案に眉をひそめた。
青年が、詩野が膝に抱えていた風呂敷包みを受け取ろうと手を伸ばす。自分の荒れた指先がちりっとその手の甲をこすった気がして慌てて引っ込める。
色を失った詩野の顔には気付かないまま、戸に手をかけたところで、からりと三和土(たたき)に下駄の音を立たせ、青年はふと振り返った。
「ねえ、詩野」
「お忘れ物ですか」
「いや、そうじゃなくて。三つ編みとリボンは余所行きのときしかしないのかい」
「いえ、そんなこともありませんけれど」
「うん、似合ってたから、またしないのかなと思っただけでね」
気にしないで、と何ともない素振りで付け加えると、今度こそ青年は出かけていった。
ざわっとどこからともなく訪れた何かが全身を駆け抜ける。
声も出せずがばりと詩野は立ち上がって、着物の裾がまくれあがるのも気にしているゆとりなどなく、
行儀悪くバタバタと廊下を走り自室に飛び込んだ。
誰に教わらずとも知っているはずの呼吸が、うまくできない。胸が詰まる。
(かおが、あつい)
左手で両頬をかわるがわる触れながら右手で鏡台の埃除けを払うと、頬どころか目尻も耳も赤くした己の顔がそこにあった。
大雑把にひとまとめにしていた髪を、気が急いて不器用になる指先で紐をほどく。
ひきだしから出したつげの櫛で髪を梳かし、指を通して後ろ髪を三つに分ける。右、左、と順繰りに編んでいくだけなのに、
詩野は何度か失敗した。必死になりすぎて、途中で右を編んだか左を編んだか混乱してしまったのだ。
(恩賜公園の桜は、まだもう少しかな……)
詩野が遠出のときに束髪ではなくて三つ編みをするのは、女学生に対する憧れからだった。
詩野の実家は、小石川で定食屋を営んでいる。小さいながらも常連客もついており、それなりに不自由ない暮らしぶりであったが、
八年前の地震で大きな被害をこうむったことで、詩野の境遇も違ったものになった。
無理をしてでも高等女学校に通わせたいと言ってくれていた両親が、半壊した家を片付けながら茫然としているところを見てしまっては、
学費のかかる上の学校へ通わせてくれとなど、とてもではないが言えるはずがない。だから詩野も、尋常小学校を卒業してすぐに女中奉公へあがることとなったのだ。
詩野は決して、今の自分のありように不満を抱いたりしてはいない。
だけれども、少しばかり、想像してみたりも、する。
(セーラー服なんて、着てみたりして)
目白への道中ときおりすれ違う女学生は、近頃ではほとんどがセーラー服姿で、幼い頃に憧れた海老茶袴とは違うけれど、
洋装に馴染みの無い詩野にはそれが余計に眩しく思われるのだった。
リボンは、きのうと同じ桜色にした。
じっと鏡を見つめる。生真面目な表情をしているつもりなのに、どこか、目元のあたりが嬉しげに笑っているように見えた。
「……さて、と」
詩野はぴしゃりと頬を両手で叩くと部屋を出て、緩んだ白いたすきを歩きながら掛けなおした。
意味もなく胸の浅いところに苦しさを感じて、いつもより少しゆるめに紐を結ぶ。
(いつか……)
いつか自分も、青年ではないほかの誰かに思いを尽くす日が来るのだろうか――近いのか遠いのかも分からない未来のことを、
縁側から軒下の向こうに広がる春特有の白い空を眺めながら、詩野はなぜだかそんなことを考えた。
初めてこの屋敷に足を踏み入れたときに感じた古い畳の匂いなど、気付けばすっかり感じなくなってしまった。
裸足で踏みしめる廊下の床板も、目を瞑っても軋む音や感触でどこを歩いているか分かるほど、自分はもうこの家に馴染んでいる。
春先に庭から漂う香りが梅でなくなるかもしれないことも、座布団ではなく椅子に座するようになるかもしれないことも、今の詩野では想像もつかないことであった。
(そんな日が来たら、私は)
詩野はひとつ溜め息をついて、ふるふると首を振った。こんな空想など、無意味だ。
考えれば考えるだけ不安になる。そしてどれだけ考えようとも、詩野の手に選択権は無い。
自分が唯一考えるのを許されていることは、青年がいかに心安く日々を過ごせるかだけなのだ。
――角を曲がると、居間の前の縁側に少年がうつ伏せに寝転がっているのを見つけた。同じ瞬間に信次郎も詩野を見つけたのか、上目遣いに見つめてくる。
まだ丸一日分もともに過ごしてはいないが、正直なところ、詩野はこの目が苦手だった。
遠慮を知らず真っ直ぐに視線を投げてくることも、子供らしいどんぐりまなこも、どこか自分でも知らないことを
見透かされているような気がして、なんとなく落ち着かない気分になる。
それでもせっかくわざわざ訪ねてきてくれたのだから、詩野は信次郎となんとか仲良くしようとにっこり微笑みかけてみた。
「おはようございます、信次郎さま」
「さっき茶の間で会ったばっかだろ」
「あ、そうでしたね……」
苦笑いをする詩野を値踏みするように、信次郎はあいもかわらずじっと視線を送り続ける。
「…………」
「…………」
会話が続かない。
曖昧に微笑を浮かべたまま、仕事もあるためその場を離れようと試みたが、少年の妙な威圧感に負けて足を動かすことが出来ない。
朝食時のように何か言いたいことでもあるのだろうけれど、詩野は信次郎の口を開かせるすべを知らない。
こんなとき主やぬいならどうするのか思い巡らしてみても、実践できそうな対処法は残念ながら浮かばなかった。
信次郎が食いつきそうな話題を探すが、それさえもてんで見当たらず、詩野は困り果てて笑顔を消しそうになる。
「バナナが!!」
「!!」
唐突な大声に詩野は驚いて、ひっと身を強張らせた。
肘を突いてうつ伏せのまま上半身を起こした信次郎は、目尻を吊り上げてまた音量調節の利いていない大声で言い放った。
「バナナの本数が! 減ってない!!」
たしかに詩野は学はなかったが、決して頭の回転は鈍くは無い。ひとりで屋敷の手入れと主の世話を出来る程度には頭の使い方を知っているつもりだ。
しかし、こと信次郎の思考回路に関しては完全にお手上げ状態で、もはや最近銀座や新橋でよく見かけるようになった異人を相手にしているような心持ちだった。
日頃この少年を相手にしているぬいや書生の達彦はどんな特別な技術を持っているのか不思議になるほど、
信次郎の考え方にまるでついていけない。
「絶対俺たちに隠れてお勝手で一本丸ごと食べてると思ってたのに!! 食べてないなんて!!」
「そ、そんなことできませんよ」
信次郎の剣幕に押されながらも、なんとか返事をしてみる。どうも自分は盗み食いをしそうに思われていたらしい。
いくらなんでもな疑いに怒るべきだろうとは思ったのだけれど、少年の見事な怒りっぷりに毒気を抜かれ、逆に詩野は思わず宥めるような口ぶりになった。
信次郎の隣に膝をつき、視線を合わせる。
「絶対ずるっこしてるってさ。思ったのに」
「ずるっこ、でございますか」
「お兄が帰ってこないのはしののせいなんだろ」
話が見えず、つい訝しげな表情になる。
「朝だって見張りに行ったんだ。でもそういうことしてなかったから。それに、やたらめったら『じゅうじゅん』だし」
目と目が合ったそばから信次郎はふいと庭へ顔を背けてしまう。けなされているのか褒められているのか分からないけれど、
ばつが悪そうに勢いを失った声が、少年の照れをあらわしているように詩野には思えた。
「ねえ、しの、お兄はさ」
投げ出していた手足を子猫のように丸めて、少年が言葉を継ぐ。その呟き方が主にそっくりで、詩野はぎくっとした。
言葉の区切り方が、間の置き方が、言葉にまとわせたためらいが――ひと回り以上歳が離れていても、母親が違っても、
由幸がそうであるように、信次郎ともまた兄弟なのだという繋がりが、そこに染み出していた。
「お兄はさ、いつ帰ってくるの」
少年らしからぬ哀切の響きを宿して、信次郎はぽつりと呟いた。
詩野は返答に困って、曖昧に微笑みながら首を傾げる。
青年の背負う事情を信次郎がどこまで知っているのか詩野は知らない。真田家はそういう血筋なのか、
歳よりもいくつか頭の良さそうなところからして、ぜんぶを知っていてもおかしくはないし、
結局は年端もいかぬ子供であるから、何も知らなくてもおかしくない。
「……信次郎さまはお兄さまがいらっしゃらなくてお寂しいんですね」
口をついて出た憐れみは半ば共感だ。その寂しさは、少年も青年も同じ色かたちをしているに違いなかった。そして――
「詩野にも歳の離れた兄がおりましたから、坊っちゃまのお気持ちはよおく分かりますよ」
「そうなの?」
億劫がりながら起き上がって縁側に足を下ろし、不思議そうにこちらを見てくる信次郎に、詩野は頷き返す。
「はい、信次郎さまのお兄さま方と同じように頭が良くて、自慢の兄でございました」
「……いまは、いないの」
本当にこの少年はその大きな目で何を見ているのか、将来が末恐ろしくなる。
詩野は、そんな信次郎に対して、穏やかな声音で語り始める。
「信次郎さまがお生まれになる前でしょうか、大きな地震がありましたのはご存知ですか」
「目白のお屋敷も離れの瓦が落ちたり石どうろうがくずれたって聞いた」
「詩野の家のあたりは、一番ひどかった隅田川のむこっかしに比べるとそこまで大変な被害ではありませんでしたけれど、
少し行った先の養生所は避難してきた方で溢れておりました」
「ふうん……」
あまり現実味がないらしい。生まれる前の話だ、無理もない。
「人が死んだだの行方知れずだの、そういう話は好きくない」
詩野が苦笑して首を傾げると、話の行き先を敏感に察知した信次郎は、ぷいっとそっぽを向いた。
「ごめんなさい、いやなこと聞いて」
「――信次郎さま……」
「わあっ!」
子供らしいあどけない声ではあったけれど、そのひどく真摯な響きに、信次郎に対する胸のつかえが取れたのが分かった。
詩野はたまらなくなって、小鹿のような少年の身を細い腕できゅうっと抱きしめる。
「なんだよ、無駄話してないで仕事しろよ! うちから金貰ってるんだろ!」
こんな風に乱暴な言葉を投げつけられても、その奥にきちんと相手を慮れる優しさを持っていることが分かるから、
むしろその不器用さを愛しいとさえ思う。
詩野は名残惜しげなぬいの顔を思い出し、今さらながらその気持ちが本当の意味で理解できたのだった。
「最初のお家から今井様のお家に移って、弥生子さまのお輿入れにあわせて今度は真田様のお家へまいりましたけれど。
詩野は、真田様のおうちに来られて、本当に嬉しゅうございます」
信次郎も、詩野の主も、恐らくは次期当主由幸も、こう表現するのが正しいかどうかは別として、
とかくなぜだか放っておけない。そばにいて、あれやこれやと世話を焼きたくなってしまう。
そしていちばんの理由は、彼らが詩野のようなはしために対しても驕らずに向き合ってくれることにあるのだろう。
丁寧な扱いをされればこそ、誠心誠意尽くしたくなるというものだ。……もちろん、詩野の場合はさらに個人的な理由と事情が加わるのだけれども。
信次郎に子犬が鳴くように仕事へと急きたてられ、詩野はころころと笑いながら洗い場へ向かった。
そのままとてとてと後をついてくる少年は、「暇で暇でしょうがないから手伝ってやる!!」と、目白の屋敷では
近寄らせてもらえない場所への隠し切れない興味を顔に出している。
断るかどうか悩んだのはほんのわずかで、最後には信次郎の押しに詩野はやはり負けた。
たらいの中で洗濯物を踏みつけてきゃいきゃいと喜ぶ様子を自分も手を動かしながら微笑ましく見ていると、
不意に信次郎が顔を上げる。
「しのはなんでそんなにお兄のことが好きなの?」
「え――」
凍りついたようにまぶたさえ動かせない詩野の様子など気にもかけず、少年は足踏みをしながら、つぶらな目でさらに追い討ちをかける。
「だって今朝、そのリボンつけてなかったろう。きっとお兄にいいこと言われたのだろ?」
「いいえ、いいえ、そんな!」
反射的に詩野はぶんぶんと首を振ったが、それがかえって信次郎に確信を得させたらしい。
ひょいと伸びてきた子供の小さな手におさげを掴まれ、耳まで赤い顔をまじまじと見られてしまい、詩野はなおのこと慌てる。
「ねえ、どうして? お給金がいっくら良くたって、お兄のこと好いてなかったらこんなに尽くしたりしないだろ」
「それはそうですけれども……」
「別に変なことじゃないじゃんか。ぬいも俺のこと好きって言うよ」
「え……っ」
詩野は少年の言う『好き』と自分が思っていた『好き』の意味の違いに、ほっとしたような残念なような思いで、
身体の力を抜いた。早合点した自分に苦笑いを浮かべ、少年の疑問に見合う答えを探す。
「なにも分からないまま吉祥寺でお勤めすることになって、何日かして、だんな様がわたくしの料理を喜んでくださったのですよ。ですから」
「それだけ? それだけじゃないだろ?」
うふふ、と珍しくもったいつけた詩野はじれったそうに続きを催促する信次郎に満足して、口を開いた。
今日の詩野は少し、いつもよりも目線が低い。
「いいえ、それだけでございますよ」
不服そうに唇を尖らせた信次郎へ、詩野はにこりと小首を傾げてみせる。
「それだけ、でございます」
想う人のことを語るのは、楽しい。我知らず言葉が弾む。ひとり上機嫌になる詩野をよそに、
興味を失った信次郎はふうんと生返事をしただけで、どこからかやってきた庭先のスズメが地面をついばむ様子を目で追いかけ始めていた。
たしかにそれ自体は取るに足らない些細な出来事であることは、詩野だって分かっている。青年自身もそんなことは覚えてなどいやしないだろう。
「それだけですけれど、詩野はすごくすごく嬉しかったのです」
それでも構わないのだ。誰が覚えていなくとも、詩野にとって大事な思い出で、そしてきっかけであることに変わりはないのだから。
(『ご飯が美味しいと、憂鬱も晴れるような気がする』)
まだ日も高いうちから、詩野は夕餉の献立をうきうきと考えるのであった。
宣言通りにきっちり夕飯前に戻ってきた主は、どこか朗らかな表情をしていたように見えた。どんな良いことがあったのか
あからさまにすることは無かったが、平素あまり見ることのないここまでの晴れやかな面持ちは詩野の心までをも軽くさせる。
青年は紐付きの封筒を大事そうに小脇に抱え、詩野に風呂敷包みを預けるといそいそと下駄を脱いだ。
「まあ、どのような良きことがありましたやら」
「うん? ふふ、ちょっとね」
「おにいー!」
まだ内緒、と微笑んだ口元に人差し指を当て、青年が上がりかまちから立ち上がると、待ちかねた様子で居間から信次郎が走ってきた。
「これ、埃っぽいだろう」
「平気の平左だい!」
甘えて兄の袴の左膝に抱きつき足の甲の上に座り込み、ひしと両手両足をそのふくらはぎに絡みつかせた少年は、
期待に満ちたきらきらした目で顔を仰向ける。
「ちょっと会わないうちに、お前重くなったなぁ……」
「全然ちょっとなんかじゃないよ!」
青年はまんざらでもない様子で、「よっ」だの「それっ」だの掛け声を出しながら少年を振り落とさぬよう
えっちらおっちら足を動かしていく。足を振り上げるときの遠心力が気持ちいいらしい。
はしゃいで嬉しそうな笑い声が詩野の耳にも明るく響いた。
兄弟の姿を後ろから眺めながら、笑いたいような泣きたいような気分になって、詩野は唇を噛み、こっそりと湧き上がる感情を殺した。
(真田の家の人たちは、本当に)
詩野を惹きつけて止まないのだ。
「やれやれ、子どもができたときの予行演習とでもしておこうか」
うっとうしそうな口振りとは裏腹に、その頬が緩んでいるのが分かる。すらりと背の高い主とまだ成長途中の信次郎のじゃれあう様子は、
やはりまるで親子のようで、詩野は将来こんな日が本当に青年に来ればいいな、と密かに願った。
そのとき隣にいるのが自分でなくてもいい。今日のそれのように、困っていない笑顔をいつでも浮かべられる青年を見てみたい。
それは詩野が青年を慕うようになって以来の夢で、ささやかだけれど、一方で途方も無い望みであった。
ひとまずは真田家に横たわるわだかまりを解消しないことにはどうにもならない。そしてそれは、詩野は傍観しているしかない問題で、
なまじ当事者に一番近いところにいるだけに、こんなに幸せなひとときにあって、けれど決して頭から離れない重荷なのだった。
その重荷さえ、詩野が勝手に背負っているだけだ。痛みを共有してくれなどと頼まれたことも無い。さしあたってできることがあるとすれば、唯一。
(今日のお夕食は、気に入っていただけるかしら)
そんな詩野の期待と緊張は、思わぬ方向から簡単に打ち砕かれることになる。
「ちい兄とやえ姉さんのややも俺みたいに賢いといいね!」
「――やや?」
「聞いてないの? だからやえ姉さんの部屋広くするんだ」
興奮して上気した頬を青年の袴にひたとくっつけて、信次郎が嬉しそうに言う。
それとは対照的に、自分の顔からどんどん血の気が引いていくのが分かった。ざわっとなだれを打って背筋を駆け抜けていった悪寒は
喜ばしい事実には不似合いで、詩野の自己嫌悪を誘う。しかしそんなことは問題にならぬほど、気にかかるのは青年の表情だった。
(由幸さまの手紙には、そんなこと一言も)
後ろから見る限り、特に変わった様子もなく柔和な表情を崩してはいない。胸を突き刺されたような想いであるのは違いないのに、
つゆほどもそんな素振りを見せない。そのことが、余計に詩野の不安を煽る。
詩野が平素からつとめて触れぬようにしていた弥生子の話題。しかも信次郎のもたらしたのは、当の詩野すら知らないことだった。
黙っていてもいずれ分かることではある。例え知っていたとして、どんな頃合で伝えようとも青年にとって見れば今と同じように唐突な報告として捉えられるのだろう。
分かってはいる、分かってはいるが、けれど割り切れない。割り切れるはずが無い。
青年の心の平穏を何よりも第一に考えてきた詩野を愕然とさせるには十分だった。
「そうか……あいつも、人の親か……」
感慨深げな呟きの『あいつ』が弥生子をさすのか由幸をさすのかはっきりしないまま、青年は天を仰ぐ。
太陽も半ば落ちかけた空は、紫色にたなびく雲に彩られ、ひと日の終わりを惜しんでいるようだった。
「お兄は男と女どっちがいい?」
「うん? そうだなあ」
すでに食事の支度の整った茶の間に着くと、足から離れた信次郎の頭をぐしゃぐしゃと撫で、
青年は詩野が求め焦がれる満面の笑みを浮かべる。
ひとりで賑やかな少年といつもどおり物静かな青年との対比が辛くて、詩野は生きた心地がしなかった。
だんな様、と声をかけようとして。
「詩野、冷めてしまう前に食べよう。荷物を置いてくるから、少し待っていて」
その笑顔のまま促されては、もう何も言えず従うしかない。
「あ……はい」
「元気に生まれてきてくれたら、それでいいと思うよ。家族が増えるのは嬉しいね」
そう言うと、詩野から荷物を引き取った主はゆったりと着物の袖をひるがえして、奥の自室へ歩いていってしまった。
「どうしてそんな顔してんの?」
「え、いえ、なんでもありませんよ」
くいくいと太腿あたりの裾を引っ張られ、詩野は自分が暗い顔を隠せていなかったことにようやく気付く。
笑顔を取り繕うと、信次郎は別段気にした様子もなくこちらを一瞥しただけでさっさと自分の席についた。
(だんな様……)
詩野には主の心のうちがまったく読めなかった。
詩野は詩野なりに、自分の主との信頼関係を築いてきたつもりである。自分が主を想うまではいかずとも、
主も詩野のことを信頼してくれていると思っていた。またそういう自負もあった。
それなのに、こんなときに限って詩野は彼にとっては他人であるのだということを思い知らされるのだ。
(もし、私が)
男に生まれて、同じ学校に通い、そして朋輩として認めてもらえたなら、本音を打ち明けてくれただろうか。
(そんなわけ、ない)
詩野はかぶりを振って、あさはかな考えを捨てさった。実現するはずの無いたとえ話はまるで無意味だ。
それに口外無用の事情を、屋敷の外の人間にそう簡単に話すわけが無い。
今の自分では青年に頼ってもらえない。心配する心にくわえ、その事実にも詩野は打ちひしがれた。
信次郎という来客を向かえ、いつもにまして力を入れたせっかくの料理だったのに、手間をかけた煮物の出来栄えを推し量るどころか、
詩野は戻ってきた青年の顔をまともに見ることが出来なかったのだった。
客間に通した信次郎を寝かしつけたあと、屋敷中の雨戸を閉めて回る途中、詩野は主の部屋から押し殺したような声が漏れているのに気がついた。
主が何かにうなされているのかもしれない、そう思うと、いてもたってもいられなくなった。
無闇に主の邪魔をしないで済むよう、足を忍ばせそっと部屋へ近づく。
月の光に落ちる影が映らないよう柱にそっと身をもたせかけ、障子越しに中の様子を伺う。
「……っく……ふ……」
押し殺した声は相変わらず断続的に漏れている。
気持ちが沈んでいるのなら慰めるなりそっとしておくことしか出来ないが、もし万が一病気の兆候が見られようものなら一大事である。
(もう少し、中の様子が知りたい)
いけない、とは思った。主人の部屋を勝手に覗き見るだなど、許されることではない。けれど、なぜだかそのとき、
詩野は障子に手をかけてしまったのだった。
す、と上等な障子は音も無く滑り、指二本挟める程度の隙間を詩野に与えた。
心配したというのは紛れも無い事実だけれど、好奇心が無かったかといえば嘘になる。絶対に気付かれてはならないというゆえの緊迫感が、
どくどくと心の臓に早鐘を打たせる。
ごく細い光が一条、主の部屋の畳に線を描く。ぎくりとしたが、幸いにも気付かれなかったらしい。
気付く余裕がないのかもしれないと思い至り、なお詩野は中の様子が気になった。
「う……ぅ」
ぼんやりと闇に浮かぶ青年は、障子に背を向けて褥にあぐらをかいていた。息遣いが荒い。
てっきり枕を抱えて突っ伏しているのではと思っていたため、予想外の光景に余計に鼓動が大きくなる。
(もう、やめよう)
実のところ部屋の中を覗いてからすぐ、詩野はその尋常でないことには気がついていた。激しい後悔に襲われて障子を閉めようとしたその瞬間。
くちゅりと、かすかなかすかな水音が、した。
「――っ!」
中で行われている行為をまさしく理解した途端、うわっと顔に血が集った。柱に預けていた背がずりずりと滑り落ち、縁側の床板に尻をつく。
周囲の寝静まった夜でなければ気付かなかったほどの大きさではあったが、詩野は確かに聞いた。
おぼろげに心に浮かんでいたことが確信に変わり、驚きから素っ頓狂な声を出さぬよう、己の小さな両手でしかと口に蓋をする。
「あ、ふ……っ……う……」
やめなければ、やめなければ、やめなければ、と思えば思うほど、詩野の身体はその場から動くのを拒んだ。
立ち去らなければという罪悪感はいつの間にか抗いがたい好奇心にすりかわり、全神経がうすい障子紙一枚へだてた
向こう側の様子を必死で探っていた。
青年のせわしない息遣いにあわせるように、洗いざらしの木綿の着物がこすれてさやかな音を立てる。
その声が、その音が、詩野のやわ肌の上を舐めるように走ってゆく。
(こんな……こんなこと……!)
目が離せない。己の脈動が分かるほど、詩野は周りを忘れて主に見入っていた。非日常的な光景に呑まれ、
己が意識が溶かされてゆく。
おもむろに青年のあごがのけぞった。普段はきりりと引き結ばれている口元が危うげに開いているのが見え、
こぼれ見えたくちびるに乗った悩ましげな感情に、詩野の心の臓は鷲掴みにされた。
あの肌に、その熱い肌に、触れたい――そんな欲が、じわっと内からにじみ出たのを、詩野はもじとこすり合せた両膝で知った。
(わた、わたしは)
熱に浮かされ始め、息が浅く、早くなる。自分の吐息がたなごころを撫でる、その感触にさえ詩野はおぼれ始めていた。
「っは……、は……ぁ」
利己的な快楽に理性を預けた青年の押し殺した声に耳を澄ませる。詩野はやおら目を閉じて、記憶の中の青年とすぐ後ろの青年との姿を重ね合わせた。
白い指で己の耳をそっとくすぐる。きっとあの息は熱いのだろう。あの夜詩野の耳を撫でていったそれのように。
「く、ん……」
赤い舌で己の唇をちろりと舐める。きっとあの舌は正直なのだろう。あの夜詩野の乳房を翻弄したそれのように。
「……う」
薄紅色の丸い爪を袷の上に滑らせる。きっとあの手は貪欲なのだろう。あの夜詩野の秘所を蹂躙した、それのように。
「ふ……、あ」
下腹の疼きをどうにか宥めようと、詩野は悩ましげに眉根を寄せ身をよじった。裾が割れ、青い月の光に素足のふくらはぎが晒される。
(触れたい)
普段は慎ましく隠されている部分に外気が触れ、その些細な刺激が詩野の背徳的な欲をざわりと煽った。
視線は吸いつくように、青年の腰元を追っていた。……きっと、あの――
「……っ!」
唐突に、荒々しかった主の息遣いが止まった。強張った背中と一瞬の静寂ののち、全力疾走でもしてきたかのような息遣いが戻ってくる。
「……弥生子、僕は――」
ぞわっと全身がの毛穴が粟立った。
その名が耳に入るなり、さあっと我に返ってゆくのが分かった。
(あ、あ……)
詩野はかたかたと途端に震え始めたその身をままならない両手でぎゅうっと抱いて、主の部屋の前から逃げ出した。
音が立ったか立たなかったか、気にかけている余裕すら、なかった。
転げるようにして逃げ帰ってきた自室の布団をはぐっても、そう簡単に動悸は治まってくれるはずもなく、
詩野は狭い布団の真ん中で小さくうずくまる。己自身の体温で、少しは安らぐような気がした。
(やっぱり、忘れてなどおられなかった)
どんなに、どんなに詩野が想っても尽くしても、青年は弥生子を忘れてはくれない。押しつぶされそうに胸が苦しい。
もはやあの凛と穏やかな青年の心に自分が入り込む余地などありはせず、詩野がどんなに心を尽くそうとも、
身分でも家柄でも負け、そして女としても弥生子には決して敵わないことを、ほかならぬ青年自身につきつけられたのだ。
詩野は布団の中でかすかにうめいた。喪失感なのか、嫉妬心なのか、罪悪感なのか、何ともつかない感情のたかぶりが、
出口を探して全身をさまよっている。
(……ん、あ)
一方で、じんじんと女の入り口が刺激を求めてもどかしく疼いているのが、詩野の行き場の無いやるせなさに拍車をかける。
わずかに膝を開いてみれば、中からとろけた欲がにじみ出てくる感触がした。同時に、その事実が悦として
ぶわっと脊椎を逆流していき、首筋を抜けた痺れにたまらずに身をよじる。
こんなに女として否定されたような思いでいるのに、歳若い身体はこんなにも女であることを誇示している。
青年の強張った背や、せつなくこぼれた声、くちびる。詩野は、その味を知っている。その熱さを知っている。
(けれど)
詩野はついに、そろそろと寝巻きの裾を割り開いて、そこに触れた。ぬるりと濡れた感触が、細い指を迎え入れる。
詩野の心のなかで、何かがぷつりと切れた。
(ここは、知らない)
ぬめりに助けられながら怖々と往復する右の中指が、たまさか深みに滑り込む。そのたびに御しきれない熱がうまれ、
詩野の脳髄を内から溶かしていく。
けれど、そこはまだ、男を知らない。
「んっ」
女の体にあって一番敏感な部分に触れた拍子に、押さえきれなかった甘い声が漏れた。
果たして青年は、己のこんな声を覚えているだろうか。いつかの夜に思い浮かべたこともあっただろうか。
ゆるゆるとほどけきったあわいをなぞっていると、わだかまった官能が熱い息となってこぼれた。
まぶたを落とし、青年の無骨な指先の凹凸をつたない記憶から蘇らせる。あの夜、彼はどんな風に自分を触り、煽っていったか。
敷布をつかんでいた左手を、裾から素肌の胸元へ忍び込ませる。
(これはだんな様の手……)
張りのある乳房をつかまえる。指がやわらかな丸みに埋まり、押し返される。そのまま乳首をたわむれに摘むと、
また背筋が痺れたように何かが駆けた。知らず、腰が揺れた。
押し殺した高い声がちいさく、狭い部屋にこだまする。
青年に触れられたのはたった一度だ。それも無理をしかれての行為で、奥の奥まで開かれたわけではない。
それなのに、一度覚えた快楽を詩野は忘れていなかった。火のついた身体は、未だ鎮まりそうにない。
(だんな様、だんな様……!)
ひだを往復させていた指で、ぷくりと膨らんだ突起を撫でてやる。強い刺激を受け、詩野の眉がきゅっと切なげに寄せられ、
声ともつかない掠れた声が上がる。
ゆるゆると粒のまわりに指先を這わせ続けると、だんだんと息が荒くなる。左右交互にもてあそぶ乳房にも、
じっとりと汗が浮いている。
おぼつかない自慰でも肉芽は貪欲に悦楽をまさぐり、指の動きはどんどんと大胆に激しくなっていった。
愛液をひきつれて、思うさま指を動かし、肉芽をこねくりまわす。いつかの夜の青年の動きをまねて、
胸にやった手で乳首を弾いてみる。
「……ぅんっ」
びくりと足の付け根の筋肉が痙攣し、なやましげに腰が揺れた。羞恥も理性もかなぐり捨てて、
ぐっと自ら膝を立て、秘所に触れる手に自由を与えた。
「ん、ん、ふ」
どうせ誰も見ていない。みだらな行為にふけっても、自分しか知らない。
そう思えばこそ、詩野は快楽に身を委ねた。動きやすくなった手が、本能のままにひだを、肉芽を、中をこする。
割れ目を往復する指の速さがいや増し、快感の糸を着実に紡いでゆく。
「あ、は、あ、あ」
閉じた瞼の裏側に青年のまなざしを思い描く。ぬかるみをもてあそぶ指が好いた男のものであると想像するだけで、
甘いしびれが倍になる。無意識に腰を手に押し付ければ、どろりと身体の奥から欲があふれ出す。熱に浮かされた詩野は、
うわ言のように主を呼んだ。
「だ、んな、さまぁ!」
濡れた右の人差し指が、固く膨れた突起をぐりっとひっかいた。衝撃のような快感が詩野の身を貫く。
「あ、あぁ、ん……っ!!」
一気に意識が焼き切れる。背筋がぶるりと震え、ひくつく入口がこぼした愛液が、脱力し、くたりと倒れた太ももの付け根と柔らかな尻を伝い落ちていった。
疲れ切った身体で寝返りを打つと、自己嫌悪と満たされない気持ちに蓋をして、詩野は切ない溜息を敷布に隠した。
「……だんな様、私は――」
夢を見た。
夏の盛り、屋敷のまわりの野原に自生したひまわりが咲き誇っている。まだ荷解きの終わっていない荷物が、
部屋の隅に積まれている。
絽の着物を着て、たすき掛けした自分が、汗を拭きながら台所に立っていた。
襖をという襖を明け放ち、風通しのよくなった茶の間の軒先につるされた風鈴を、卓に行儀悪く身をも投げ出した青年が見上げている。
『……あの、お食事を』
お盆に料理を載せて茶の間へとやってきた詩野が、恐る恐る声をかけた。表情のない顔で、大儀そうに青年が詩野を見上げる。
『ああ……ええと』
額を押さえながら起き上った青年が、言葉を探すように眉を寄せた。
『詩野、です。だんな様』
『うん、そういえばそんなような名前だったっけ』
興味の無い様子を隠そうともせず、青年は大きくあくびをした。
『……食欲がない』
そんな青年の前に、おどおどと詩野は小鉢を並べていく。きゅうりとわかめの酢の物に、焼き茄子。
それから少し硬めに炊いたご飯と、大根の葉と豆腐の味噌汁。
『だから、いらないと言ったろう』
『あ、あの』
詩野は飴色のお盆を抱きしめながら、震える声で『どうか召し上がってください』と懇願していた。
――そうだ、このとき、私は……。
まだ吉祥寺に移ってきて、三日も経っていない頃だったろう。前の家に暇を出され、つてを頼って今井家へ奉公し、
ようやく慣れてきたところでまた主が変わり、詩野とて戸惑いを隠せなかった頃のことだ。夢の中で詩野は、
始めは気力に欠けた青年の投げやりな態度をたいそう怖がっていたことを思い出した。
このときのことは、よく覚えている。
こちらに来てからろくに食事をとってくれなかった青年に対して、なけなしの勇気を出して話しかけた日のことだ。
『い、いくらだんな様がお丈夫でも、これ以上何も食べないでいらっしゃると、その、お身体に障ります』
ぎろりと落ちくぼんだ目で睨まれ、詩野は身を凍らせた。
夏なのに歯の根がかたかたと鳴りそうなのをじっとこらえる。信頼関係がどうとか彼が主であるとか、
そういうのを抜きにして、詩野はただただ、食事もとらず日がな一日ぼんやりとしているばかりの青年の身体が心配だったのだ。
だから、どうしても食べてほしかった。ここでひいては、きっと青年はこの先詩野の料理を食べてはもらえないような気がして、
気弱な詩野にしては珍しく、主に対して強情を張った。
『……そんな、泣きそうな顔して』
このときは必死すぎて、青年の顔などよく見えていなかったけれど、夢の中の青年は、どうやら呆れ返っているようだった。
ぼそぼそと聞こえるか聞こえないかという声で、青年が何事か呟いた。
骨ばった左手が箸をとり、右手に持ち替えたのを見て、詩野ははっと目を見開いた。先ほどのつぶやきはいただきますと言ったのだ、と気が付いたのだ。
青年の箸が、焼き茄子を器用に切る。だし醤油が卓に落ちないよう左手の茶碗を箸の下に添え、
口へ運ばれていくのを、詩野は祈るような思いで見つめていた。
茄子にはきちんと火が通っているかしら。だし醤油は濃くないかしら。わけぎはお嫌いではないかしら。かつお節は固くないかしら。
それから、それから、それから。
焼き茄子が青年の口の中で咀嚼されているあいだ、詩野はそわそわしっぱなしで、次の動きを待っていた。
(もういらないって言われたら、どうしよう)
『出汁は』
『は、はい!』
目を小鉢から離さないまま話しかけられ、詩野はぴしゃりと背筋を伸ばす。
『何でとったの』
『こ、昆布です』
『ふうん……』
詩野の危惧をよそに、青年は淡々と食事を続けた。茶碗と小鉢の中身が少しずつ減っていくのを、詩野はじっと見つめ続けた。
その時の不思議な沈黙は、ある意味で勝負のようなものだったのかもしれない。
ここで詩野が余計な気を回して話しかけたりすれば、青年は食事をやめてしまったのではないかと、今にしてみれば思う。
けれど、青年は出された膳を食べきった。箸を置いたのちに聞こえてきたごちそうさま、という言葉は、詩野の緊張をほぐす何よりの薬だった。
『お粗末さまでした』
ぺこりと頭を下げて膳をお盆の上に片付け始めると、しばらくして軒先の向こうの入道雲を眺めていた青年がなんとはなしに言った。
『ご飯が美味しいと、憂鬱も晴れるような気がする』
『は……』
『こんなにご飯がおいしかったのは久し振りだよ。……どうもありがとう、詩野』
困ったような微笑みをさしむけられ、詩野はうち震えた。忘れてしまった笑い方を何とか取り戻そうとして、
そうしてやっと作り上げられたような、精一杯の微笑み。
――詩野にとって、こんなに心のこもった『ありがとう』は、初めてだった。
はい、と返事をすると、そそくさと詩野はお盆を持って茶の間から逃げ出す。
嬉しくて嬉しくて、涙目になっていたのを青年に見られたくなかったのだ。
拭っても拭っても飽きもせず湧き出してくる涙を懲りずに着物の袖で拭いながら、詩野は思った。
この方を心から笑わせて差し上げたい。この方のお世話をしたい。『ありがとう』の言葉に応えたい。
このとき詩野は、どうしようもなく青年に惹かれてしまうのを、止めることができなかったのだった。
青年の抱えた事情を知るのは、それから半月後のことである。
///春待ちて・4 おしまい