午後は雨かもしれない、と詩野は思った。  
着物の上に綿入れを羽織ってなお芯まで冷えるような心地で庭へ出たが、息が白く濁らない。  
湿度が高いからだろう、空模様もどんよりとして、もう十時だというのに、ほの暗く冬の顔を見せ付けている。  
肩先で跳ねて邪魔だからと髪をまとめたのは失敗だったろうか、とわずかに後悔する。  
はあ、と凍える手を吐息で温め、新たな布を手に取る。  
一年半前、小柄な詩野にあわせて新たにしつらえられた物干しには、すでにずらりと洗濯物が並んでいた。  
とはいえ、たった二人分だ。以前に比べるとずっと楽になって、一抹の寂しさすら時折感じるほどだった。  
「精が出るね」  
後ろから聞こえた声に、詩野は肩を震わせ慌てて振り返る。  
「だんな様、起きていらしたのですか! 申し訳ございません、ちっとも気がつきませんで」  
「良い良い。それよりほら、そうして慌てるとその手のものを落としてしまうよ」  
寝起きの気だるさがまだ残るのか、懐手のまま濡れ縁の柱に凭れ、ぞろりと紬を着流した青年は優しく微笑んだ。  
その妙に艶っぽい姿に詩野はさっと頬を染める。  
勝手に駆け出した心臓をどうにか宥め、まだ籠に残るものはそのままで、庭から上がる。  
「ただ今朝餉をお持ちいたします。ここは冷えますから、どうか中でお待ちになってください」  
「今日はね、午後から雪だとラジオで言っていたよ」  
ああ寒いね、と目元に笑みを残した彼はぼんやりと虚空を見上げ、けれどそこから動こうとしない。  
怪訝に思って声をかけると、少し伸びた襟足をいじり、ふふっと困ったように笑って肩を竦めてみせる。  
困っているのは、詩野の方だというのに。  
「あの……」  
「うん、行こうか」  
その声に滲む困惑を悟ったのか、ようやっと青年の足がのそりと動く。  
ほっとして、詩野は青年を追い越し、台所へと急いだ。  
フライパンに卵を落とし、味噌汁を温め直すあいだ、考えたのは主の表情の意味だった。  
御歳二十三となる青年は、名を真田遼一郎という。  
華族のなかでも名門真田家の長男であるが、故あって大学を卒業する少し前から、目白の本宅には戻らず吉祥寺の小さな屋敷で暮らしていた。  
己から望んでのことではない。何くれと理由をこねられて、遠ざけられているのである。  
詩野は主好みの半熟になった卵を皿に移し、ほうと溜息をついた。気が重い。  
今日は午後から外出する旨を何日も前から告げていた。  
月に一度、こうして外へ出るその理由を、今までに答えた記憶がない。聞かれたことがないからだ。  
けれど、その行き先を、そしてその意味を、青年は気付いている。  
詩野は、半ば確信を持ってそう信じていた。  
ほうれん草の胡麻和え、半熟の目玉焼き、納豆。味噌汁の具は豆腐とわかめ、雑穀米。  
青物は季節によって替わるが、青年の朝はいつも決まって同じだった。  
うちのお爺様が朝はこれと決めていたからだよ、とは彼の弁である。  
作る手間がかからないので助かってはいるものの、毎日同じ献立であるだけに、少しでも味が違うとすぐに指摘されるのだ。  
今日のは上手くいってよかったと、後ろめたい思いを抱える詩野は胸を撫で下ろした。  
 
お盆に載せて居間へ向かうと、主は座布団にあぐらをかき、新聞を読んで待っていた。  
「ありがとう、詩野」  
「いいえだんな様、これがわたくしの仕事でございますから」  
「ははは、違いない」  
並べられた膳を前に、青年は姿勢をただした。  
いただきますと手を合わせ、左手で箸を拾い、右手に持ち替える。  
(美味しいと思ってくださるかな)  
口に出さずとも、そう感じてくれたなら、それが詩野にとっての幸いだった。  
「詩野は」  
「はい」  
「いくつになったのだっけ」  
「この三月で十九になります」  
「……見た感じは十六、七だのにね」  
平素、食事のさなかには終始一言も口にしない青年が珍しく軽口を叩いている。  
いつもと違う態度に、詩野は彼の表情から料理の出来映えを探ることも忘れ、密かに背筋を凍らせた。  
「おまえほどの器量ならばいくらでも嫁の貰い手があるだろうに、すまないね」  
「いいえ、そのようなこと」  
また、困ったように微笑まれる。詩野も、困ったように微笑む。  
何と返してよいものか判断がつきかねたからだ。  
実のところ、そういう話が無かったわけではない。  
しかし、縁談に詩野が返事をする前に本家が断ってしまうのが常だった。  
なぜなのか疑問に思っても、聞ける相手はいない。  
大方この青年の世話係を変えるのが面倒なのだろうと見当をつけていたが、  
果たして本当にそれが真実であるのか、詩野にはまったく自信はなかった。  
ただ、破談になるたびに詩野はほっとする。  
それは偽りようの無い真実で、その先は一切考えないように努めることだけが、縁談に対する返事のようになっていた。  
結局、その後はいつも通り彼の食事は黙々と進み、次の言葉はごちそうさまで、詩野もお粗末様です、といつものように返した。  
途中で短い会話があったこと。  
その他は昨日となんら変わらぬ朝の風景であったのに、冷たい水で食器をすっかり洗ってしまっても、  
詩野の困惑と動揺は胸に渦を巻いたまま流れてはくれなかった。  
 
目白の本宅に入るとき、詩野はいつも緊張する。  
元はこの屋敷で働いていたはずであるのに、慣れとは不思議なものだ。  
吉祥寺が日本家屋であるのに対し、こちらが洋風のモダンな建物であるのも影響しているかもしれない。  
知らないメイドに通された客間のソファは、詩野にはふかふか過ぎて居心地が悪い。  
客扱いされてせっかく出された紅茶にも手をつける気分にならず、借りてきた猫のように縮こまるばかりだ。  
遼一郎の暮らしぶりについて当主に月に一度の報告を終えた詩野は、気を張りすぎてくたくたになっていた。  
だらしなくソファに身を預けていたところへ、控え目なノックの音が届く。  
はっとして身を正すと、程なくして洋装の女性が詩野の前にかけた。  
「あの方は、どうですか」  
「お変わりなく過ごされていらっしゃいます」  
「そうですか……そうですよね」  
眉間に皺を寄せ目を閉じた彼女は、複雑な声色で呟いた。  
「変わられるはずが、無いのだわ」  
「やえこ、さま。あの」  
テーブルを挟んだ向こうで難しい顔をしたまま溜息をついたかつての主に、詩野は遠慮がちに声をかける。  
「差し出がましいようですが、申し上げたく思います」  
「何かしら、言って御覧なさい」  
「だんなさ……遼一郎さまは、あのまま吉祥寺にいらしても、決していいことは無いと存じます」  
「……そうですね。あなたの言うとおりだと私も思います」  
「こちらにお戻りになることは、叶わないのでしょうか」  
返事が芳しいものであるはずが無いとは詩野とて理解していたが、それでも乞わずにはいられなかった。  
遼一郎は、決して不満を口に出したりはしない。  
大学を卒業しながら、家業を継ぐことはおろか研究を続けることも別の職に就くことも出来ず、  
ただ無為に過ごすことを甘んじて受け入れている。  
たかだか一年半の付き合いながら、その姿は憐憫の情を誘われるもので、  
なんとかこの飼い殺しの状況から抜け出して欲しいと詩野は痛切にねがっていた。  
「詩野、あなたは、あの方がこちらに戻っていらして、それが本当に幸せであると思いますか」  
「え……」  
思いもよらぬ問いかけに、しばし呆気に取られる。  
「私がいるこの屋敷に戻ってきて、由幸さまのいるこの屋敷に戻ってきて、本当に」  
弥生子は賢く敏い女性である。今風の短い髪のよく似合う、現代的な女性だった。  
その弥生子が真面目な顔をして問うたその意味を、詩野は幾ばくもせず悟り、息を呑む。  
詩野はもともと弥生子の生家のメイドで、輿入れに合わせて真田家に移ってきた。  
それが、間もなく遼一郎と共に吉祥寺へ移されることになる。  
理由は簡単だ。遼一郎と弥生子が道ならぬ恋に落ちてしまったからである。  
遼一郎は長男ではあるが、嫡男ではない。真田家を継いだのは腹違いで二歳弟の由幸であった。  
良家の息女である弥生子は十六のときに由幸と婚約を結ぶ。  
それから何度と無く真田家を訪れるうち、いつしか妾腹である遼一郎と惹かれあってしまったのだ。  
二人の仲が発覚したとき、誰より怒ったのは本妻であるふくであった。  
普段は温厚で別腹の遼一郎にも公平に接していた彼女が、あのように怒り狂うさまは後にも先にも見たことが無いと目白屋敷の人々は口をそろえる。  
結局、他でもない由幸のとりなしで何とか過ちが公になる事はならずに済み、弥生子は遼一郎との別れを選んだ。  
一年後、彼女はかねてよりの約束どおり二十歳で由幸に嫁ぐ。  
同い年の二人の仲は睦まじく、全ては丸く収まったかのように見えた。  
――しかし、その裏で。  
「あの方の御母堂を追い込んだ責任は、私にもあるのですよ」  
 
ふくが怒りを収める直接的な原因となったのは、遼一郎の母が書置きを残して屋敷を出てしまったからだ。  
自分が責任を取るから、どうか遼一郎の過ちを赦して欲しい。  
このようなことで、今井家との縁談が無かったことになってしまわぬように、と。  
当主は方々手を尽くして彼女を捜させたが、ひと月たっても、み月たっても、その行方は杳として知れなかった。  
持ち出した物がいったいなんなのか見当がつかないほど、彼女の住まいであった離れ座敷はそのままで、  
どこかで身投げをしたのだとまことしやかに囁かれたのは致し方ないことだったろう。  
後ろ盾を失った遼一郎は、弥生子が目白に入る直前に吉祥寺へ追いやられる。  
その指示をしたのは真田家の当主であったことを、詩野は知っていた。  
輿入れ準備のために何やかやと真田家へ出入りするうち、当主直々に吉祥寺へ行くよう申し渡されたからだ。  
弥生子のメイドであると同時に真田家のメイドとなった詩野に拒否権は無い。  
だから、理由も事情も分からないまま、吉祥寺で働くことになったのである。  
「こんなことを言うと、呆れられてしまうかもしれないけれど。でもね、詩野」  
私は由幸さまを愛しているのです、そう口にする弥生子の切なげな顔に嘘など見えず、詩野は、はい、と静かに頷いた。  
一介のメイドに過ぎない詩野が弥生子の個人的な部分に踏み込む事は無く、  
弥生子と遼一郎が恋仲であったことを話に聞いていても、目の当たりにしたわけではない。  
庭の花を愛でる弥生子の隣にあるのはいつだって由幸で、その寄り添い固く掌を結びあう二人の幸せそうな顔の方が、  
詩野にとっては現実だった。  
「あ、え」  
ついと弥生子は身を乗り出し、詩野の荒れてささくれた指を両手で包んだ。ひやりと冷たい。  
「働き者の手ですね」  
「若奥さま、あの、わたくしの手など、その」  
「うら若き乙女だというのに、こんな風にしてしまったのも、私の責任ですね」  
「そのようなこと……」  
なぜだろう、と詩野は泣きたくなった。今の主も、かつての主も、こうして詩野に謝る。  
真田家に雇われる、しがない平民の出である詩野に対して。  
弥生子だけではない。謝られるようなことは何も無いのに、当主にも、由幸にも、そしてふくにも、詩野は謝られる。  
特にふくからは、謝罪の言葉に乗せてそっと金子を握らされることもあった。  
いわく、遼一郎にあわせる顔がないから、と。  
彼の母が屋敷を出てしまってから、ふくの憔悴ぶりは痛ましいものがあった。  
嫉妬もあったろう、わが子可愛さもあったろう。  
けれど、このような結果を招くつもりでは無かったのだというふくの薄い背に、鈴蘭のように可憐だと形容された面影は、今は無い。  
(この家の方々は、誰も彼も優しすぎる)  
対する詩野は、弥生子の手のさらりとした絹のような肌に、こんなにも浅ましい感情を覚えたというのに。  
この方はだんな様の手の温もりを知っている。唇の柔らかさを知っている。  
十五の春からずっと仕え、心から弥生子を尊敬しているのに、どうしても湧き上がる醜い嫉妬。  
外戚腹でも良家の子息である主を慕うことなど、詩野には決して許されない。  
そうわかっているのに、ふとした切っ掛けで無視できないじめっとした感情が詩野の身にまとわりつく。  
生まれる家が選べたなら、誰もこんな痛みを抱えずに済んだのだ。  
そんな、途方も無い文句は、いったい誰にぶつければいいのだろう。  
「私には、大旦那さまがあなたをあの方のところへお遣りになったのが、なんだか分かる気がしているのです」  
どういう意味だろう、と詩野が首をかしげると、弥生子は泣きそうな必死な顔でその手に力をこめた。  
「あの方を、よろしくね」  
すぐには答えられなかった。  
よろしくなどと言われても、詩野に出来ることなど限られている。  
毎日家事をして、月に一度こうして遼一郎の様子を伝えに本宅に戻って。  
いったい何をすべきなのか、まるで思いつかない。  
「この家に無いものを、あなたは持っているのだから」  
無理やりつくったことがありありと分かるその笑顔が、あまりに凛と美しくて、だから詩野は肯首するほかなかった。  
 
吉祥寺に戻った頃にはもうとうに日が暮れていた。  
弥生子が気を利かせて惣菜を持たせてくれたおかげで夕餉の心配はしなくて済んだのだが、門をくぐったところで別の心配が詩野の頭を過ぎる。  
(お出かけになられたのかな)  
雨戸がきっちり閉められ、屋敷に明かりが灯っていない。  
外出する予定のあるときはいつも前もって伝えてくれていたため、詩野は不思議に思いながら草履を脱いだ。  
(……さむい)  
部屋をひとつずつ見て回っても、その姿は見当たらない。  
出かけてしばらく経っているのだろう。  
どの部屋も青く沈み、主の言葉通り目白を出るのに前後して降り出した雪のせいか、今朝ストーブで暖めた名残も消えている。  
いないものは仕方が無いので、とにかく自分の部屋だけでも灯りをつけて衣紋掛に羽織を直す。  
荷物を置いてささっと前掛けと襷をかけ台所へ戻ると、詩野は風呂敷に包んで大事に持って帰ってきた惣菜を皿に移し始めた。  
(あ……お米屋さんに寄ってくるつもりだったのに)  
さて米を研ごうかと米びつを覗いて思い出す。今晩の分はまだあるとして、明日の昼には空になってしまいそうだ。  
(明日の夜はおうどんかお蕎麦にしようかしら)  
それとも朝のうちに頼めば夕方には配達してもらえるだろうか、などとつらつらと考えつつ、晩の支度を続けていると、不意に玄関の戸ががらりと開けられる音がした。  
詩野はその音に敏感に反応して、前掛けで手を拭いながらぱたぱたと玄関へ急ぐ。  
「お帰りなさいませ」  
「うん、今帰った」  
「……っ」  
かっと顔に血が集まるのが分かる。ぞんざいに脱ぎ捨てられた下駄を、詩野は震える手で揃えた。  
ゆらゆらと左右に揺れながら足元の覚束ない青年をそっと振り返る。  
――春を買いにゆかれたのだ。  
すれ違いざま主の着物の袂から香った匂いで悟る。  
酒精の匂いとは明らかに違う、甘く、神経をなぶる香り。  
ぞくりと粟立った肌を、詩野は己を抱きしめることで必死に耐えた。  
育ちのいい彼は、決して物を乱暴に扱ったりしない。  
それが時折、こうして自棄になったように外で酒を喰らってくることがあった。  
何かから目を逸らすように、逃げ出すように。  
(気付いていらっしゃる)  
いつまでも玄関先で呆けているわけにもいかず、のろのろと立ち上がる。  
重い足取りで居間へ戻ると、青年は灯りもつけず、食卓へだらしなく突っ伏していた。  
「だんな様、だんな様」  
遠慮がちに肩を揺するが、小さく低く唸っただけで、彼は起きようとしない。  
「お辛いのですか? お水をお持ちしますね」  
ざわざわとむずかる落ち着きの無い心を必死で殺したまま詩野は部屋を辞そうとしたが、続く主の声に足が縫いとめられる。  
「目白にも……雪は降ったのかな」  
今度はさぁっと顔から血の気が引く。やはり彼は気付いていた。  
月に一度の外出先が、目白の屋敷であることを。そしてその理由まで、間違いなく。  
「ああ、こちらとあちらは大して離れていないのだよね、本当は」  
なんだかひどく遠いような気がしていた、と大儀そうに頭を持ち上げ、卓に肘をついた左手に乗せる。  
うつろな瞳は熱を孕み、その視線は力なく畳に落とされていた。  
「きゃっ」  
赤くなった腕で強引に着物の裾を引っ張られ、詩野は体勢を崩した。  
酔って力加減が上手くいかなかったのか、主の膝の上に乗り上げる形になる。  
突然のことに気が動転し、身を離そうと躍起になる詩野をよそに、青年はそのまま両のかいなを背に回し、白い首筋に顔を埋めた。  
 
心臓がどっどっと大げさに脈打つ。  
外はまだ雪が降り続き、部屋も暖めていないのに、いっそ暑いほどだった。  
「だ、だ、だんなさま、どうか酔いをお醒ましくださ……」  
「お屋敷の匂いがする」  
「いっ」  
ぐ、と腕に力を込められ、痛みに顔が歪む。  
反動で身をそらしたときに眇め見た主の表情が、この一年半で初めて見るような険しいもので、詩野は恐ろしくなった。  
「みな、おまえを好奇の目で見たろう。好き者の血は争えぬ、と。放埓者の檻にやられたお前も、とっくに喰われているのだろうと」  
快活で聡明な普段の青年からは想像もつかない下卑た言いように唖然とする。  
「何を仰います!」  
「おまえが気付いていなくても、周りはそう思っているということさ。おまえのことも……僕のことも」  
主はくっくと喉の奥で自嘲気味に笑った。吐息が酒に焼けている。  
「おまえも僕が『過ち』を起こしたと思っているのだろ」  
低く漏らしたその言葉は、常の距離ではきっと聞こえなかったろう。  
耳元で呟かれたその声は苛立たしげで、たがの外れた感情の昂りが、慕う心を覆い隠すほど詩野を怯えさせる。  
「僕の想いは、『過ち』の一言で片付けられてしまうような安っぽいものじゃあない、僕はたしかに愚かだったかもしれないけれど、過ちなんぞ起こしちゃいない。  
後継ぎになろうだなんて思ったこともない、ただ、ただ純粋に人を想っただけなんだ。なのに……っ!」  
「だんな様……」  
やえこ、と彼の人を呼ぶ掠れた声。  
息が詰まった。  
二年もの間空白を過ごす青年への同情、二年が経った今も青年の心を独占する弥生子へ対する卑しい感情、  
それでも誰かを憎むことも恨むことも出来ない自分の甘さ、恋い慕う想い、強く捕らえられ肺が潰れそうな物理的な痛み、鼻につく酒と見知らぬ女のにおい。  
すべてが綯い交ぜになって、詩野を追い詰める。  
主は鼻で笑って、がぶりと詩野の首筋に噛み付いた。  
「あうっ」  
鋭い痛みに堪らず悲鳴を上げると、心底愉快そうに青年が笑う。  
「『だんな様』ね。ずっと思っていたよ、どうしておまえが僕をそう呼ぶのか」  
「だ……だんな様は……この家の主ですから」  
「ふうん、おまえはそう思ってるのかい」  
囲われる力がわずかに弱まったかと思うと、右手が詩野の顎をぐいっと掴み上げさせた。  
乱暴な動きに抗議の声を上げようとしたが、憎い相手を見るような青年のきつい視線に言葉を失う。  
こんな目をするような人では無かったはずだ。詩野は青年の抱えた重圧を思い悲しくなった。  
「おまえは元は弥生子のメイドだから、目白では由幸をそう呼ぶのだろ? この家は真田のもので、僕のじゃない。僕はこの家の主でもなんでもない」  
お前の主も弟なのだろうという青年に、詩野は否定も肯定もできずに途方にくれた。  
確かに、この家は真田の資産かもしれない。  
目白に行けば当主を大旦那さまと呼ぶし、由幸を若旦那さまと呼ぶ。  
けれど、ここに住み、詩野を使うのは遼一郎だ。  
良家の長男として生まれながら、庶子であるがゆえに己の血に誇りがもてない青年を、詩野は無二の主と慕っている。  
その想いは無体な扱いをされてなお揺るがない真であった。  
真田の家と遼一郎、どちらかを選べと言われたら、迷わず遼一郎の方を選ぶほどに。  
「そ、それでも、わたくしにとってだんな様はだんな様、です」  
震える声で、懸命に伝える。  
学は無かったが、青年が抱えた孤独や今吐露されている昏い想いに気付かぬほど、詩野は愚鈍ではない。  
心の痛みに触れるたび、密かにその痛みを共有しているつもりだった。  
彼とて、詩野の想いや目白の人々の想いを知らぬわけではないのだと思う。  
ただやり場の無い想いが一杯になって、吐き出さずにはいられなかったのだろう。  
押さえつけて無視をして、その反動で自分を見失っている。  
 
「今日抱いた女に、だんな様と呼ばせてみたよ。だけどね、逆に萎えてしまった」  
右手の力が緩み、するりとその親指が詩野の顎を撫でる。  
「おまえは、僕を満足させてくれるかい?」  
意地悪く口元を歪めたつもりなのだろうが、詩野は気付いてしまった。  
彼の瞳が、うっすら濡れていることに。  
拒まなければという考えが一瞬そがれる。それが命取りだった。  
「ん、むっ」  
噛み付かれるように口付けられ、奪うように弄られる。  
初めての接吻に詩野は戸惑い、ぎゅっと瞼を閉じてされるがままになる。  
「んん!」  
歯の裏を舐められ、ひとりでに上半身が揺れる。  
顎をつかんでいた青年の右手が後頭部に移動し、ますます逃げられなくなる。  
はらりとまとめられた髪がほどかれ、詩野のうなじで黒髪が踊った。  
雨戸の向こうで降りしきる雪が外の音を吸い、口付けの水音だけがぴちゃりぴちゃりと薄暗い部屋に響き、聴覚をなぶる。  
何か縋るものが欲しくなり、反射的に主の着物の胸元を掴んでいた。  
「だんな様、いけません、このような、こと……!」  
「なら、この手はなんだい?」  
「それは……っ」  
「くだらない噂をまことにしてやろうというだけだよ、今さらだ」  
「や、あぁ!」  
べろりと首筋を舐められて、詩野は頤をのけぞらせた。  
その隙に着物の合わせ目を強引に開かれ、そのまま鎖骨の上のくぼみをきつく吸い上げられる。  
「はは、いいね。綺麗についた」  
「うぅ、ふ、ん」  
ちゅ、ちゅ、と首筋や鎖骨に口付けながら、青年は器用に襷や前掛けをほどいていく。  
「あ、や、おやめ、くださいませ」  
「往生際が悪い」  
しゅるりと帯締めが引き抜かれ、卓の上に投げられた。  
それに目を奪われているうち、そのまま貝の口の結び目もほどかれた。  
帯が緩み、白い肩と柔らかな乳房がまろびでる。  
詩野は声も出せず、己のあまりの姿に涙を浮かべた。  
けれど青年は、そんな詩野を見て逆に煽られたのか、皮肉をこめたような笑みのまま、弄る手を止めない。  
「いつものように素直におなり」  
着物を開いていた指が、きゅ、と乳首を摘んだ。  
こりこりと転がされ、堪らずに身を竦める。  
主の顔がもう片方の乳房に下り、まさか、と思う間もなく乳首を口に含まれた。  
「……っ」  
ぞわっと鳥肌が立ち、未知の感覚に瞠目する。  
詩野も年頃であるから、こういった想像を今までしてこなかったわけではない。  
けれど、ささやかな知識を基にした想像と現実では、大きな乖離があった。  
他の女の残り香をまとわせる男へ、身の程知らずにも嫌悪感を覚える。  
想起される顔も知らない誰かが、どれだけかき消しても、いつの間にか弥生子に変わった。  
(なんて、浅ましい……!)  
それがまるで弥生子のことを嫌っているように思えて、詩野は誰に叱られているわけでもないのに胸が苦しくなった。  
 
「あ……は……ぁ」  
それなのに、銜えられたものを弾くように舐められ甘噛みされると、意識はあっという間にそちらへ持っていかれる。  
己をかき抱く腕の力強さ。  
むき出しの肩を撫でる雪の日の寒さと、他人の肌の、吐息の熱さ。  
舌の動きのなまめかしさに、囁かれる声のつやっぽさ。  
唇を噛み視界を閉ざし、なんとかやり過ごそうと試みても、じわじわと背中を駆ける何かは確実に詩野をいたぶって、感覚を狂わせる。  
詩野の意思などまるきり無視で、身体は熱を宿し、瞳は潤み、息が上がる。  
「ん、ふ!」  
再び口を吸われ、身体から力が抜ける。それを待っていたかのように、ゆっくり畳に押し倒され、帯を落とされた。  
「んぁ……ふぅん……んむっ、ん」  
舌を絡められ身体中を撫で回されながら、伊達締めも腰紐も取り払われる。  
腹も脚も露わになり、詩野は羞恥と寒さに身を震わせた。  
「寒い? すぐに温めてやるから、力を抜いておいで」  
耳元をくすぐるように囁かれ、上半身を捩る。  
知らず知らず己を抱きしめていた腕をやんわりとどかされ、着物の袖を襦袢ごと抜かれ、足袋も脱がされてしまう。  
「や、んっ、だんな様……駄目です!」  
片方で胸をこねるように揉まれ、もう片方で太腿を撫でられ、顔中に口付けられる。  
このまま流されてしまってはいけないと、かすかに残る理性で考え、荒く整わない息で制止の声を上げる。  
うまく力の入らない手で青年の肩を押し返し、拒否の姿勢を示す。  
抱かれるのが嫌だと言っているわけではない。  
ただ独りこの屋敷に遣わされた以上、いつかはこんな日が来ることは、何となく予期していた。  
けれど今のように酒の勢いを借りて一時の感情に流されたまま行為に及ぶのは、我に返った後で誰あろう主その人が矜持を失いかねない。  
それではお互い傷つくだけだ。  
そして何より、他の誰かを抱いたその腕で触れられるのが、メイドに過ぎない自分の立場も忘れ、詩野にはどうしようもなく嫌だった。  
「おやめください、だんな様、だんなさ……ぁっ」  
その拒絶の意思も、節くれ立った男の指に内股をさすられてあっけなく途切れる。  
「ん……ぅく……あ……」  
「初心だね、詩野。覚えておくといいよ、そうやって拒まれると余計に男は煽られるということを」  
耳を食まれ、ざわっと全身がわなないた。胸の内、身体の芯の方からじんと痺れが広がる。  
「っふ……ぅ」  
今までに無く熱に浮かされ濡れた己の声に、詩野は自ら煽られた思いがした。  
下敷きになった着物を掴んでいた手で慌てて口を塞ぐ。  
その様子がおかしかったのか、青年が柔らかに目を細める。  
「可愛いな」  
ちゅ、と額に口付けを落とされたのと同時に、ぐいっと左膝の裏に手が入り込んだ。  
「いやぁ!」  
外気が秘所に触れ、ひやりとした感覚に襲われる。濡れているのだと分かった。  
認めがたい思いを嘲るように、そこをくちゅりと音を立てて撫でられる。  
「気持ちよかったならそう言ってくれても良かったんだよ」  
「あ、あ、はぁっ……や、や」  
溝を往復する指に否が応でも意識が集まる。  
くちゅくちゅと無音の室内に高く響くその音が、詩野の理性を引き剥がしていく。  
「いや、……あ、あ……んんっ……」  
そのうち、もう片方の手も身体の線をなぞりながら下りてくる。  
茂みをさわりと撫で、無遠慮に詩野の敏感な芽に触れた。  
「いっ!」  
快感を通り越し痛みを覚え、詩野は思わず悲鳴を上げる。  
 
「あ……申し訳ない」  
それに怯んだのか、先までの気勢をどこへしまったのかと思うほど妙にしおらしいさまで、青年は謝罪の言葉を口にした。  
「詩野は……生娘なのか」  
かっと全身の血が騒いだ。  
はしたなく男に脚を割り開かれたまま啼き喘ぐ自分の姿が急に客観的に見え、ぞっとした。  
これではまるで遊び女だ。  
ほんの数刻前まで、彼の腕の中にいた、見知らぬ誰かと同じ。  
指摘されたとおり詩野は生娘であるはずなのに、主にほだされてあられもなく淫らな声をあげている。  
「きゃあ! あっはぁっ、あ、あ、駄目、おやめ、く、ださい……っふ」  
ふむ、と思案顔になった青年は、おもむろに詩野の秘所に顔を埋めた。  
溝を舐め上げ、蜜を引き連れた舌が今度は繊細な動きで肉芽に触れる。  
「ん……っく……やぁ、いやぁ……っ」  
そこに触れられるたび、下腹に疼きがたまっていく。  
もはや抵抗もかたちだけで、自らの恥じらいすら情欲をあおり、与えられる刺激をひとかけも落とすまいと必死で青年の肩に縋りつく。  
肉芽を舌で転がされ、左手で改めて襞に触れられる。入り口をくちゅくちゅと探る指がもどかしくて仕方ない。  
「……ぅん……あ……は……」  
「大奥ならともかく、行儀見習いの娘がお手つきとあっちゃ、貰い手がなくなってしまうか」  
熱に浮かされた頭では何を言っているのか分からず、ただ詩野は眉をひそめた。  
やおら青年は身を起こし、着物の前を寛げた。  
弾むように合わせ目から顔を出したそれから目が離せなくなる。  
「こら、そう不躾に見るものではないよ」  
「え! あ……」  
無意識にまじまじと見つめてしまったことに気付き、詩野は赤い顔をさらに赤くして視線を逸らした。  
再び覆いかぶさってきた主の口付けを受ける。  
「ふ、む……んん」  
不意に、左手が主に掴まれ、身体の下の方へと導かれた。  
何事か分からずされるがままにしていると、唐突にその手が熱く脈打つ何かに触れた。  
そのままそれを握らされる。  
「もう少し、力をこめておくれな……うん、そう」  
う、と青年が小さく呻いたことで、詩野はそれが何であるかを知る。  
きゃあと声を上げて離そうとしたが、青年の手に上から押さえつけられてそれは叶わなかった。  
二人の手が重なったまま、肉棒をしごく。  
それは詩野のものと同じようにしとどに濡れていた。  
「あ、は……」  
裏筋を詩野の手が滑ったとき、欲に濡れた吐息が青年の口から漏れ、耳元でわだかまる。  
ただそれだけのことに途方もなく感じてしまい、中途半端で投げ出された身体が刺激を求め、もじもじと腰が動いた。  
「手も、そのまま動かしていておくれ、詩野」  
その仕草に気付いた青年が、詩野の頬に口付けを落とし、愛撫を再開する。  
硬く張り詰めた乳首を吸い上げ、もう片方を摘み転がされると、詩野の口からも上擦った声が上がる。  
「だ、だんな様」  
乳房をこねくり回しながら、主の右手が秘所に届く。  
「ん……ん、あぁ……っ」  
蜜を絡みつかせるように人差し指を動かすと、ゆるゆると肉芽に触れた。  
待ち焦がれた感覚に、びくりと身体が揺れる。  
「やぁ……あっああ!」  
押しつぶされるようにこねられ、じわりと生理的な涙が滲み、甘い声で詩野は啼いた。  
身体の自由が利かず、主を慰めていた手が止まる。  
 
「だんな様、駄目、あっ、それ以上は……っくぅ」  
「詩野、手を」  
「む、無理です」  
「詩野」  
「……っ」  
肉芽を押し撫でていた指が、ずぶりと泥濘に沈んだ。ほとを犯す僅かな痛みに喘ぎが途切れる。  
「手を動かして、詩野。……辛いんだ」  
結局、詩野は青年のこの困った顔に弱い。  
それはまるで刷り込みのようで、おずおずと言葉に従い、熱く猛るそれを握りなおした。  
「いい子だね」  
ふふ、と青年は微笑んだが、余裕の無さが早口で切羽詰った声に現れていた。  
ずぶすぶと中を抜き差しする人差し指に加え、乳房をもてあそんでいた左手の親指がぬるぬると愛液に滑る肉芽をなぶる。  
「やっ! あ、あ、あ、駄目、も、ほんとに、あっ! やぁ!」  
「気を、遣ってしまえば、楽になる。ほら」  
「は……ぁ、こ、怖い……!」  
ずるりと人差し指が抜かれ、その手が詩野の腕を片方ずつ青年の背に回させた。  
その間も肉芽をいたぶられ続け、水も無いのに詩野は溺れそうになり、促されるまま主にしがみつく。  
襞をなぞられ、肉芽をつぶされ、首筋に吸い付かれ、詩野はついに快楽に負けた。  
「ん、ん……ああ……っ!」  
「詩野、詩野……」  
抱きしめる力を失った腕をとられ、主の欲の塊に導かれる。  
条件反射のようにそれを擦ると火照った手が重なった。  
口唇を吸われ、舌の付け根をくすぐられる。  
達したばかりだというのに、甘い喘ぎ声が漏れた。  
「……っく」  
鈍い呻き声とともに、青年の左手がきつく詩野の肩を掴んだ。  
はたはたと音を立て、独特のにおいのする液が詩野の腹に飛び散る。  
青年が果てたとき、その口が三度形を変えたのを、詩野はおぼろげな視界で見た。  
(や、え、こ)  
詩野にはそんな風に動いたように見え、ふわふわと心地よい浮遊感を覚える身体とは裏腹に、  
諦めにも似たどこか満たされない思いで、静かに目を閉じる。  
眦から雫がこぼれるのを、拭うことすらできなかった。  
 
はあはあと荒い息でしばらくじっとしていた主が、懐紙で詩野の腹と落ち着いた腰のものを清めた。  
乱れた着物を直すと、裸のままの詩野を抱き起こし、膝に乗せぎゅっと抱きしめる。  
紬のざらざらとした感触に、詩野は己ばかりが乱れていたような気になり、羞恥に眉を寄せた。  
「途中で……」  
独り言のような呟きに、詩野は意識を傾けた。  
「途中で、僕はいったい何をしているのだろうと、思った」  
「だんな様……」  
詩野は顔を合わせようとしたが、青年に頭を抑えられてしまい失敗する。  
かわりに幼子をあやすような手つきで髪を撫でられ、その優しさにかえって胸が詰まった。  
「ふふ、今日は寒いね、詩野」  
場違いな明るい声に詩野は青年の表情を悟る。摺り寄せられた頬は、濡れていた。  
ああさむい、さむい、さむい。  
うわ言のように繰り返される言葉は少しずつ小さくなり、いつしか切なる想いを宿した溜息へ変わる。  
「今年の冬は、いやに長いね」  
ついばむように頬に口付けを落とし、青年は詩野の肩口に額を乗せた。  
「この屋敷に、春がおとなうことは無い気がしてしまうよ」  
「庭の梅のつぼみがほころんでおりました。じきに、春になりましょう」  
「……そうだね」  
詩野はそっと、まだ情事の熱の残る腕で、青年の背を抱いた。  
(――この雪を溶かすのはだれ)  
その答えはとっくに遼一郎の腕の中にあることを、このとき二人は気付けずにいた。  
大地を優しく抱きしめる春の日差しは、けれどまだ遠く、はるか。  
 

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