「ぬーいー。ぬーういーい!!」  
 自分を呼ぶ少年の不満げな声を、歳若い女中は無視を決め込んだ。だいたい、先に無理を言ったのは少年の方なのだ。  
この程度の我慢はさせてしかるべきだろう。  
「ぬいってば!! あーもう、この屋敷で俺を無視できるのはお前とあいつくらいなもんだ!!」  
「あいつじゃありませんでしょう、しんじろ坊っちゃま。須藤先生とお呼びなさいまし」  
「やっと反応したな!!! それといやだ!!!!!」  
 強情っ張りな信次郎を軽くねめつけて、ぬいは溜息をついた。  
「あーつーいー。もーうー出ーたーいー」  
「だめですよ、まだ1分も浸かってらっしゃらないのに」  
「でも、あついもんはあついんだよ!」  
 使い古した手桶で掬った湯を身体に浴びせかけ、垢を落とす。身体を拭った糠袋をその桶に落とし入れ、  
ぬいは静かに湯船をまたいで、小さな信次郎を自分の胸の中に抱え込んだ。さっきまで出たがっていた勢いはどこへやら、  
信次郎が待ちかねたようにぬいの裸の胸に頬を寄せる  
「あっついー」  
「そんなにくっつかれると私もあっついですよ、坊っちゃま」  
「仕方ないだろ! 狭いんだから! 使用人はいつもこんな狭苦しい風呂に浸かってるのか!!」  
「使用人棟に湯船があるだけでたいそう贅沢なんですよ。そもそも出たかったんじゃ……あ、ちょっと坊っちゃま!」  
「やわこい」  
 ほのかな胸のふくらみを小さな手で揉まれ、ぬいはたまらず眉を釣り上げた。まったく、油断も隙もない。  
こんな様子では、成人した暁にはとんでもない放蕩息子になりかねない。  
そんな危惧を覚えたが、声を上げただけで引き剥がせないあたり、自分も相当信次郎に甘い。  
屋敷の誰も彼もが真田家の末息子である信次郎には甘いから、将来この少年がどうなってしまったとしても、  
誰も何も言えないだろう。唯一、信次郎のお目付け役である書生を除いては。  
「風呂ってそんな贅沢なものなのか?」  
 ぬいの叱責など意にも介さず、まどかな瞳を純粋に向けて、信次郎が首を傾げる。  
「そうですよ、私の実家でもお風呂はありませんでしたから」  
「風呂屋!! 俺知ってる! お兄にね、連れてってもらったんだ!! しのも一緒だった!!」  
 思いがけない名前が出て、ぬいは目を見はった。確か目白屋敷にもそれは立派な風呂場があったはずだが――  
「なるほど、詩野さんひとりじゃ、お風呂沸かすのも一苦労ですもんねえ」  
 信次郎の話と総合すれば、自ずと答えは出た。あまり暮らしぶりに頓着した様子がなかった遼一郎のこと、  
自分のためだけに湯支度をさせるのを拒んだのだろう。  
 そもそも、人に媚びない猫のような信次郎があれだけ懐いているのだから、根っからの悪人であるはずがないのだ。  
その理論だと、あの書生は極悪人ということになってしまうけれども、それはひとまず脇に置く。  
 しかしまあ、謹慎中とはいえ、仮にも名門真田家の長男が、女中と連れ立って風呂屋とは。  
聞く人が聞けば卒倒しそうな話である。加えて、よくない噂も立ちそうな。  
 女中同士の噂話の端々で語られる遼一郎評はまるきり二極に分かれていたが、実際にまみえて言葉を交わした限り、  
誠実な人間のように思えた。信次郎の気が済んだら、この話は口外無用と釘をさしておかなければ、とぬいは心に決めた。  
ぬいの印象は、実際には上辺だけのもので、本当は黒く淀んだものを腹に溜め込んでいるのやもしれないが、  
どちらにせよこの話は外に漏れていい類のものではない。  
 ぬいの中でどれだけ遼一郎の株が上がろうとも、世間に出せばあらゆる意味で評判を落とすことに違いはないのだ。  
「あのね、俺が真ん中で、お兄と詩野と手繋いで行ったんだ!! 服脱ぐところが広くってな!!」  
 信次郎がはしゃいだ拍子に、湯がばしゃりと跳ねた。一応それを叱りはしたが、ぬいの頭にふとひとつの疑問が湧く。  
「しんじろ坊っちゃま?」  
「なんだよ、いいところなのに!!」  
「坊っちゃまは遼一郎様と詩野さん、どちらとお湯に入られましたんですか?」  
 その質問にきょとんとした顔を見せて、信次郎は当然のように言い放った。  
「しのはぬいよりも年上だから、おっぱいも大きかったよ」  
「な……っ」  
 信次郎が幸せそうにぬいの裸の胸に頬を摺り寄せた。  
 絶句したぬいの、その膨らみの奥に渦巻いた苦悩など、何も知らずに。  
 
 ――子どもってずるい。  
 
 ぬいの心の声か、はたまた天の声か、どこからか、そんな声が聞こえた気がした。  
 
了  
 
 

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