「ただいま〜」  
 
 正博は玄関のドアを開けた。時間は四時過ぎ。以前ならその辺りで遊んで帰っていた  
のだが、最近は授業が終わり次第アパートに戻っている。  
 
「おかえりなさい」  
 
 ドアの向こうからシロの声が聞こえてくる。  
 正博は玄関で靴を脱ぎ、スリッパを履いてから狭い台所を横切り、ドアを開けて部屋へ  
と入った。ほんのりと暖かい八畳の部屋。こたつと本棚と机とテレビ。ロフトへと続くはし  
ごがあり、いつもはロフトに敷いた布団で寝ている。  
 最近ではこたつに入ったまま寝てしまうことも多いが。  
 
「おかえりなさい、ご主人様」  
 
 こたつの横で起立したまま、シロが一礼した。白い髪と紺色のワンピースが揺れる。今  
までこたつに入っていたのだが、正博の帰宅に気づいてその場に起立したのだろう。服  
装はメイド服姿。他の服装には化けられないらしい。  
 こたつの上に四冊の古めかしい本が置かれていた。  
 
「勉強してるのか?」  
「はい」  
 
 頷くシロ。シロが来てから今日で一週間が経つ。掃除や料理など、シロは色々と手伝い  
をしてくれる。元々猫なので、さすがに人間と同じようにというのは無理だが、仕事の量  
は減るし手伝ってくれるという優しさが嬉しかった。  
 
「それにしても、勉強熱心だなー」  
 
 古めかしい本を眺めながら、正博は荷物を置いてこたつへと入った。暖かさが足から  
背中へと上っていく。その心地よさに頬をゆるめながら、エアコンのリモコンを手に取り、  
暖房を入れた。ピッ、という動作音。  
 
「私、立派な猫又になりたいと考えてますから」  
 
 右手を握り締めて、力強く頷くシロ。白い前髪が跳ねた。  
 その場に腰を下ろして、こたつへと両足を入れる。その暖かさに、白い猫耳と二本の尻  
尾がへなりとたれる。だが、気を取り直して本を手に取った。  
 本に書かれた文字は日本語のようで微妙に違う文字。猫又の文字らしい。  
 正博はその本を眺めながら、口を開いた。  
 
「シロがここに来てから、一週間……いや、六日が経つけど」  
 
 カレンダーを見やる。  
 シロが正博の元に来たのは先週の土曜日、そして今日が金曜日。シロが来てから六  
日。特に問題が起こることもなく普通に暮らしている。シロは昼間、猫の神様とやらの所  
に行っているらしい。もしくは、今のように自主勉強をしているか。  
 
「それが、どうかしましたか?」  
 
 カレンダーを見つめ、シロが訊き返してくる。いつも通りの穏やかな口調。だが、正博  
は尻尾の先が小さく跳ねるのを見逃さなかった。  
 気づかぬ振りをしたまま、正博は続ける。  
 
「シロはこれからずっと俺の所にいるのか?」  
「え――」  
 
 シロの肩が跳ねた。猫耳が動き、尻尾がぴんと伸びる。  
 それも一秒ほどの出来事。驚きの表情から、困惑の表情へと移っていた。不安げに尻  
尾を動かしながら、黄色い瞳に不安の色を見せ、縋るように見つめてくる。  
 
「できれば、そうしたいですけど……。いけませんか? ご主人様が駄目というなら、私は  
大人しく出て行きますけど」  
「うーん。そういう意味じゃないんだけど」  
 
 視線を泳がせながら、正博は頭を掻いた。別に追い出すつもりはない。シロがここにい  
たいというのなら、可能な限り置いておくつもりである。  
 しかし、疑問は解消したいと思っていた。  
 
「何だか、シロは俺に隠し事してるみたいに思えて。俺の所に来た理由は恩返しだけじゃ  
ないと思ったから。他に別の目的みたいのがある気がする」  
「そうですか……」  
 
 シロは寂しげな微笑みとともに頷いた。  
 
「やっぱり、ご主人様に隠し事はできませんよね」  
「付き合いは長いからな」  
 
 正博はぱたぱたと手を振った。猫であった時からシロの考えていることは何となく分かっ  
ていた。当時は相手が猫なので確認しようが無かったが、意思疎通が出来る今では自分  
の見当が正しかったと実感できる。シロの考えは分かりやすい。  
 シロは一度目を閉じてから、  
 
「もう少し経ってから言おうと思ったんですけど、仕方ありません」  
 
 神妙な口調でそう呟いた。  
 正博は表情を変えるでもなく、シロを見つめる。  
 不安げに動く猫耳と尻尾。視線も迷うように泳いでいた。口にするのには勇気が必要な  
ことなのだろう。ただ、言う覚悟は出来ているらしい。  
 ゆっくりと息を吸い込み、シロは答えた。黄色い瞳で正博を見つめ、  
 
「お願いします。私をご主人様の――正博さんの妻にして下さい」  
 
 そう告白した。  
 
「私、猫でしたけど、ご主人様がずっと好きでした。人間の恋愛感情とはちょっと違うんで  
すど、とにかくご主人様がずっと好きでした。だから頑張って猫又になって、ご主人様の  
所に来たんです……」  
 
 尻すぼみになる言葉。不安げに目を伏せてから、  
 
「あの、無理にとは言いません。無茶なこと言ってるのは分かっています。でも、よかった  
私をあなたの妻にして下さい……。ずっとあなたの側に置いて下さい」  
「多分、そう言うと思ってたよ」  
 
 正博は静かに答えた。小さく宥めるように笑ってから、右手を伸ばしてシロの頭に触れ  
る。柔らかな白い髪の毛。人間とは少し手触りが違う。  
 丁寧に頭を撫でていると、シロの身体から力が抜けてくる。緊張がほぐれていた。  
 
「返事も考えてある」  
 
 はっとシロが顔を上げる。  
 シロが自分の所に来たのは、妻になるため。それは予想していた。予想していたからこ  
そ、それに対しての答えも考えてある。  
 正博は考えておいた返事を口にした。  
 
「当たり前だけど今すぐ頷くわけにはいかない」  
「そう、ですよね」  
 
 正博の言葉に、シロは肩を落とす。  
 しかし、正博は続けた。  
 
「でも、俺もずっとシロと一緒に居たいと思ってる。シロが嫌だと言うなら仕方ないけど、で  
きれば俺の側にずっといてほしい。何と表現するべきかな……。あれか、結婚を前提に  
した付き合いってやつだ」  
 
 無言のまま、シロが見つめてきた。黄色い瞳が大きく見開かれ、その縁に涙が滲む。  
悲しみの涙ではなく、喜びの涙だった。  
 そして、その顔が笑顔に変わる。  
 
「ありがとうございます、ご主人様!」  
「といっても、シロは猫又だし、これから大変だろうな……」  
 
 ぽろっと本音が漏れる。とりあえず今は人間の姿をしているが、シロは猫又である。人  
間と一緒に暮らすのは大変だろう。この一週間は大丈夫だったが、これから問題が起こ  
らないという保証はない。  
 
「大丈夫です。私にもちゃんと考えがありますから」  
 
 目元の涙を拭いてから、自信たっぷりにシロは頷いた。今まで見えていた微かな影が  
消えている。自分の思いを受け入れてもらえて、不安が拭えたのだろう。  
 
「あと六年待って下さい。ちょっと長いですけど、六年で準備が整います」  
「六年?」  
 
 訝しげに正博は繰り返す。六年、それが何を示す時間なのかが分からない。六年も経  
てば社会人として働いているだろうが、そういう意味ではないだろう。  
 
「はい。私、今猫の神様の所で勉強してるんです、人間になる方法」  
 
「人間になる方法?」  
 
 嬉しそうに続けるシロに、間の抜けた問いを返す正博。何となくは理解できるのだが、  
思考がそれを受け入れない。認識の許容量をやや上回っている。  
 
「今は変化の術で化けてるだけですから、本物……じゃないですけど、本物に近い人間  
になる方法を勉強しているんです。ご主人様と子供もちゃんと生めますよ。神様には六  
年くらいかかるって言われましたけど、私頑張ります」  
「凄いな……」  
 
 シロの説明に、ただ感心する。  
 
「昔話である助けた動物が若い女の人になってやってくるのと同じですよ」  
 
 その説明は非常に分かりやすかった。冴えない村男の元に助けた動物が若い女になっ  
てやってくる昔話。ただの作り話だと思っていたが、シロのような実例を考えると、実際に  
あった話を元に作られた昔話なのだろう。  
 それから、シロは一呼吸する。ややかしこまった口調で、  
 
「あの……、ちょっとよろしいでしょうか?」  
「なに?」  
「ご主人様から夫婦になる了承を得たことを、神様に報告しなければいけないのですが、  
しばらく席を外してよろしいでしょうか?」  
 
 シロが自分の思いを告白し、正博に受け入れられる。それが、人間になるための条件  
のひとつなのだろう。その第一段階通過を報告しに行きたいらしい。  
 正博は頷いた。  
 
「いいよ。報告に行ってきても。俺は一人でも大丈夫だから」  
「はい、ありがとうございます」  
 
 シロはこたつから立ち上がると、目を閉じて口笛のような声を出した。化生した獣が用  
いる呪文のようなものらしい。  
 
「変化」  
 
 シロの姿が崩れ、人型から元の小さな猫へと変わる。  
 尻尾を二本生やした白猫。見慣れたシロの姿。ただ、最近はヒトの姿でいることが多い  
ので、猫の姿を見るのは久しぶりだった。  
 一礼するように頭を下げるシロ。  
 
「それでは、ご主人様。行ってきます」  
「そういえば――」  
 
 正博はふと疑問に思って口を開いた。唐突に頭に浮かんできた疑問。それほど重要性  
は高くないが、何となく気になった疑問。  
 振り返ってきたシロに尋ねる。  
 
「猫の神様ってどんな人なんだ? ヒトというか猫だけど」  
 
 シロはすっと視線を持ち上げてから、  
 
「私みたいに化生化して妖怪になってから、神格を手に入れた猫です。百五十年くらい生  
きていると言ってました。ちょっと変なヒトですけど、優しくて好いヒトです。あんまり詳しい  
ことは答えられないんですけど。ごめんなさい」  
「そうか。じゃその神様にもよろしく言っておいてくれ」  
「分かりました。明日のお昼過ぎには戻りますので」  
 
 頷いてから、シロは窓辺へと歩いていき――  
 動きを止める。  
 数秒の硬直。そして、何度か窓ガラスに触れてから、ツメを出して引っ掻いてみたりも  
する。しかし、窓は空かない。ガラスが重い上に、埃のせいで滑りもよくない。猫の力では  
開けられないっだろう。  
 
「すみません、ご主人様。開けて下さい……」  
 
 シロが泣きそうな顔で、そうお願いしてきた。  
 

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