猫が恩返し 3話 雪の日のお話  
中編 雪の夜  
 
 
 しんしんと雪の結晶が降りてきている。  
 窓辺の壁によりかかり、正博は外の景色を眺めていた。フローリングの床に座布団を敷  
いて、両足を伸ばして座り、毛布を身体に巻き付けている。足から伝わってくる冷たさも、  
不思議と心地よい。  
 夜の闇に白い雪の結晶が浮かび上がり、幻想的な色合いを見せていた。  
 
「何してるんですか、ご主人様?」  
 
 振り向くと、シロが立っている。  
 丁度風呂から出たところらしい。身体にバスタオルを巻いただけの恰好だった。猫耳や  
白い髪の毛、尻尾が微かに湿り気を帯びている。  
 正博は毛布から手を出して、窓の外を指差した。  
 
「こうやってぼーっと雪を眺めてると、なんというか、心が落ち着く」  
「そうなんですか。風流ですねぇ」  
 
 納得したように頷くシロ。何か思いついたらしく、ぴんと猫耳が伸びた。  
 身体の向きを入れ替え、壁に付いているスイッチを押す。部屋を明るくする蛍光灯が消  
えた。明るかった部屋から、一瞬で光が消える。さらにリモコンを掴み、暖房を消した。シ  
ロは座布団を一枚持ってから窓辺へ行き、いきなり窓を全開にする。  
 外から流れ込んでくる冷たい空気。  
 
「うなぁ、寒い……!」  
 
 身体を撫でる冷気に、シロは猫耳と尻尾を伏せて目を閉じる。  
 慌てて正博の前までやってくると、  
 
「ご主人様、入れて下さい! 想定外に寒いです!」  
「あ、ああ」  
 
 正博は頷いて、毛布の前を開けた。  
 シロは正博の両足の間に座布団を置く。なんとなく足を動かし座りやすい場所を作ると、  
シロは迷わずそこに腰を下ろして、体育座りをした。バスタオル一枚のまま。  
 その意図を大体察し、正博は素直に毛布の前を閉じる。毛布を手で掴んだまま、優しく  
抱きしめるように。シロも毛布の縁を掴む。  
 
「……で、何してるの?」  
 
 同じ毛布にくるまった正博とシロ。二人で首だけだしたような恰好である。  
 
「こういうのってなんかいいですよねー」  
 
 シロが楽しそうに笑いながら、猫耳を動かした。  
 雪の日の夜。電気を消し、暖房を消し、窓を開ける。部屋と外を隔てるものは無くなって  
いた。内と外の境をあえて取り払い、雪の寒さと美しさ楽しむ。  
 
「風流だな」  
 
 正博は少し強くシロを抱きしめた。  
 微かなシャンプーの匂い。  
 外から流れてくる冷たい空気と、シロの暖かな身体。部屋に灯りはない。窓の外では夜  
の闇に、小さな氷の結晶が無数に降っていた。ちらほらと民家の灯りが見える。道路や屋  
根や植木などに積もった雪が白く浮き上がっていた。  
 
「なんだか不思議な感じですね」  
「だね」  
 
 シロの呟きに、正博は頷く。  
 
「このまま吸い込まれそう……」  
 
 静謐な空気に、思わず声が小さくなってしまう。  
 年に何度も見られない雪の夜。それは、日常とは違う異界だった。自分たちがそこにい  
るのが、場違いなようで、気を抜くと向こう側に連れて行かれてしまうような、淡い恐怖を感  
じる。だが、その恐怖も心地よい。  
 正博は右手を毛布から出し、そっとシロの頭を撫でた。  
 
「シロはやっぱり、"シロ"なんだよな」  
「何ですか、急に」  
 
 首を傾げるシロ。  
 すぐには答えず、正博は丁寧にシロの頭を撫でる。人間に化けているとはいえ、元々は  
猫。人間とは髪の毛の手触りが少し違っていた。猫を撫でるように手を動かしていると、シ  
ロが心地よさそうに目を細めるのが分かった。  
 ゆらゆらと揺れる二本の尻尾が、正博のお腹を撫でている。  
 
「ぅー」  
 
 指で顎の辺りを撫でると、小さく声を漏らした。尻尾をゆったりと動かしているのがわかる。  
身体から余計な力を抜いて、正博の手にその身を預けていた。  
 シロをじゃらしながら、正博は口を開く。  
 
「大切に飼っていた老白猫が姿消して、しばらくたってその猫が人間の少女になって恩返  
しにやってきたって話。実はまだ完全に信じているわけじゃないんだ」  
 
 毛布の縁から見える、色白の滑らかな肌。艶やかな曲線を描くその肢体は、紛れもなく  
人間の少女そのものだ。しかし、シロは人間ではない。  
 
「うーん。わたしも時々これが夢なんじゃないかって思う事ありますから」  
 
 正面を向いたまま、シロがそう呟く。  
 普通の飼い猫として生きて、猫又になって、人間に化けて飼い主の元にやってきて、さら  
に人間になって生涯の伴侶になろうとしている。一介の猫としては、相当に規格外の一生  
を送っているだろう。  
 
「でも、シロが来てくれて、僕は嬉しいよ」  
 
 正博は両手でシロを抱きしめた。  
 小さく細い身体だが、それは紛れもなくシロの身体だった。人間のようで人間ではない、  
猫のようで猫でもない、まだ中途半端な猫又のシロ。  
 
「わたしも、正博さんとこうして一緒になれて、とっても嬉しいです」  
 
 正博の腕に頬摺りしながら、シロが囁く。  
 その微かな声が、冷たい空気と降り積もる雪に吸い込まれて消えていった。何も言わぬ  
まま、シロが正博の腕に頬を寄せている。静かに雪は降り、二人を邪魔するものはない。  
冷たい空気が頬を撫でる。  
 
 白い雪の降る漆黒の夜。静謐な時間。  
 ふと思いつき、正博は口を開いた。以前にも同じような事を言った記憶があるが、  
 
「そういえば、いつまでも『シロ』じゃまずいかな」  
「まだ人間の名前を貰っちゃ駄目なんです。色々と順番があるんです」  
 
 腕から頬を離して、シロが答える。やや残念そうな声だった。  
 しかし、明るい声で続ける。  
 
「でも、先に決めておくのは大丈夫と言われました」  
 
 正博は少し考えてから、シロの白い髪の毛を撫でた。人間ではまず見られない生まれつ  
いての白い髪の毛。白猫のシロは髪の毛も白い。  
 
「じゃ、ユキだな」  
 
 そう告げる。  
 シロが肩越しに振り向き瞬きをした。  
 
「雪が降っているから雪ですか?」  
「それもあるけど」  
 
 頷いてから、正博は苦笑を見せる。  
 
「親の話だと、シロがうちに来た時に"シロ"にするか"ユキ"にするかもめたらしい。シロっ  
て名前の女の子はいないと思うけど、ユキって女の子はいるからね」  
「どっちも安直な名前ですね。変に気取った名前付けられても困りますけど」  
 
 呆れたように猫耳を伏せるシロ。  
 ガラス戸ががたりと音を立てる。  
 風が吹き、冷たい空気が部屋の中に吹き込んできた。白い雪の結晶がフローリングの  
床に落ち、溶ける。風はすぐに止まったが部屋の寒さは消えない。  
 
「にゃぁ……」  
 
 シロが猫耳を伏せる。  
 正博は口から出る白い息を見つめた。  
 
「さすがに冷えてきたかな?」  
 
 外の気温は零度近い。ついさっきまで暖房の効いていた部屋の空気も、外の冷気に触  
れて温度が下がっている。壁に預けた背中からも、冷気が伝わってきた。骨の髄に届くよ  
うな寒さ。雪の日の寒さを遮るのに毛布一枚はさすがに心許ない。  
 風流に雪を眺めて風邪を引いてしまったのでは、笑い話にしかならない。  
 
「そろそろ……」  
 
 言いかけた正博の言葉を遮り。  
 シロがおもむろに口を開いた。何故か得意げに。  
 
「こういう時は身体と身体で暖め合うものですよ、ご主人様?」  
「そういう知識ってどこで手に入れてくるんだ?」  
 
 シロの頭を押さえながら、ジト眼で訊く。  
 
 元が猫だからなのか単純にそういう性格なのか――おそらく後者だろう。シロは性的な  
方向に好奇心旺盛だった。言動を見る限り、既に純粋な猫だった頃からそのような知識は  
あったように思える。  
 白い眉毛を内側に傾け、シロは言い切った。  
 
「乙女の秘密です」  
「………」  
 
 無言のまま。  
 正博は握った両手を、シロのこめかみに押し付けた。  
 
「にゃ……」  
 
 ぐりぐりぐり。  
 
「にあ゙あ゙あ゙あ゙! 痛いッ、痛いです、痛いです! ご主人さま、待って! 本当に痛いん  
ですよ、これ! ンにあああ! ごめんなさい うにゃあああ!」  
 
 十秒ほどお仕置きしてから、手を離す。  
 目尻に涙を浮かべ、ぐったりとうなだれるシロ。猫耳と尻尾を垂らして、小さく痙攣してい  
る。たった十秒だが、それで体力の大半を奪われてしまったような有様だった。  
 しばらくして、復活したシロが振り向いてくる。  
 
「それに、男の人は可愛い女の子の誘いを断っちゃ駄目です」  
「まったく、この猫又は……」  
 
 乾いた笑みを浮かべ、正博はシロの頭を撫でた。  
 
 

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