シロが死んだ。
俺が生まれた時に我が家にやってきた猫である。
身体が白かったからシロと名付けられた。かなり適当な理由であると思う。何にしろ、
物心付いた時からほぼずっと――十八年も一緒に暮らしていた。それが去年死んでしま
った。猫としては相当な長生きだろう。
死んだと言っても、死んだところを見たわけではない。獣医にあと数日の命と言われた
翌日、衰弱した身体のまま居なくなり、そのまま帰ってこなかった。
シロの写真を見ながら正博は、小さく嘆息する。
「もう一年か、長いようで短かったな……」
シロが死んでから一年。正博は高校を卒業して専門学校に入り、親元を離れて一人暮
らしをしていた。今でも時々シロのことは夢に見る。
暖房の効いたワンルーム。一人で使うにはやや大きめのこたつで暖まりながら、窓の
外を見つめる。十一月終わりの冷たい夜の闇が広がっていた。寒気が流れ込んで気温
は十二月後半並と、天気予報で言っている。
付けっぱなしのテレビから流れるバラエティ番組。
そちらをちらりと見やってから、正博はレポートに視線を戻した。
カリカリ……。
窓の方へと目を移す。何かが窓を引っ掻いているらしい。ガラスの上半分は透明だが、
下半分は磨りガラスだった。そこに写る小さな影。猫だろう。
「やれやれ……」
正博はこたつから起き上がり、窓の方へと歩いていった。放っておいてもいいのだが、
すぐに止めるとは思わない。適当に追っ払いておいた方が面倒はないだろう。
そう判断して、窓を開けようとした時だった。
「正博さん」
窓の外から声が聞こえてくる。聞き慣れない若い女の声だ。
いきなりの声に、正博は動きを止めた。理解不能な展開に、思考が止まる。窓の外に
人はいない。ここはアパートの二階で、ベランダにいるのは一匹の猫だけ。
「お久しぶりです。私はシロです」
「え……?」
思わず声を漏らす。意味が分からない。磨りガラスに映った猫の影はガラスを引っ掻く
のを止めて、その場に腰を下ろしていた。
「シロ……?」
「はい。もう一度あなたに会うために、猫又になってやって来ました」
その言葉に息を呑み込む。
正博の思考はほとんど働いていないが、言いたいことは理解できた。猫又。年を経た
猫がなると言われる妖怪。シロが猫又になって、自分に会いに来た。信じられない話で
あるし、現実とは思えない。
その動揺はシロにも伝わったらしい。
数秒の沈黙から、シロが言葉を紡いだ。
「信じられないと思いますけど、私はここにやって来ました。ただ、これは私の我が儘です
し、猫又は猫の妖怪ですし、会うのが嫌だというなら私は帰ります」
期待と不安の入り交じった声。
「それでも、会ってくれますか?」
その問いに。
正博は十秒近く迷ってから。
「分かった」
ガラス戸を開けた。
冷たい風が頬を撫でる。夜の肌寒さとは違った不思議な緊張感。
視線を落とすと、そこに一匹の猫がいた。
「ありがとうございます、正博さん」
絵に描いたような白猫が座っている。きれいな白い毛並み。ただの白い猫だが、その
体つきと毛並みはシロのものだった。よく似た白い猫ではない。そして、尻尾は二本。
黄色い瞳でじっと正博を見上げていた。あまり表情を変えない猫ではあるが、嬉しそう
に微笑んでいるのが分かる。
「本当にシロなのか?」
正博は息を呑んでそう問いかける。あまりの出来事にこれが、まだ現実であるという自
覚がなかった。レポート作成の途中で寝てしまい、夢を見ているのかもしれない。
「はい。本物のシロです。本当にお久しぶりです。私が普通の猫を止めてから、もう一年
も経つんですね。もう少し早く会いたかったんですけど、修行にちょっと時間がかかってし
まいました。すみません」
「とりあえず――」
正博は窓辺から離れてウエットティッシュを二枚手に取った。
ベランダでじっと待っていたシロを左手で抱え上げる。以前と変わらぬ軽い身体。柔ら
かな毛並み。衰弱していた時は毛並みもぼろぼろだったが、今は元気だった頃と変わら
ぬきれいな毛並みに戻っている。
足の裏をウエットティッシュで拭いてから、フローリングに下ろした。
「外は寒いだろうし、中でゆっくり話そう」
正博はこたつを示す。シロは冬になるといつもこたつに潜っていた。猫はこたつで丸く
なる、という言葉通り、寒いのは苦手だった。
「そうですね、ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げてから、シロはこたつへと歩いていく。根本から分かれた二本の白い
尻尾が揺れていた。しかし、こたつの中には入らず、こたつ布団の縁に寝そべる。
「中に入らないのか?」
「こたつの中では正博さんとお話できません」
シロが答える。
「それもそうか」
苦笑してから、正博はこたつへと戻った。こたつ布団を持ち上げ、両足を入れて、一息
つく。冷えていた身体に暖かかさが戻ってくる。
そっと手を伸ばし、正博はシロの頭に触れた。ゆっくりと手を動かし、優しく頭を撫でる。
整った毛並みと暖かな柔らかさ。懐かしい手触り。
「本当にシロなんだな……」
「私も、また正博さんに撫でてもらえるとは思っていませんでした」
正博の手に心地よさそうに目を細めるシロ。
シロから手を放し、正博は尋ねた。
「でも、何で猫又になって、俺の所に?」
その問いに、シロは身体を起す。腰を下ろしたまま、両前足を揃えて背筋を伸ばした。
まるで気をつけの姿勢を取っているように。
「私は正博さんに恩がありましたから。猫の神様にお願いして、恩返しに参りました。猫
の神様については、詳しくは答えられません。すみません」
「恩返し……?」
正博は首を傾げた。
シロとは生まれた時からの付き合いであるが、シロに対して何か特別なことをした記憶
はない。普通に可愛がっていたとは思うが、恩返しを受けるようなことをしたとは思えない。
シロには何か心当たりがあるのだろう。
「それに、私は生まれた時からずっと正博さんと一緒にいまいたから、別れるのは本当
に辛かったんです。たとえ、私の寿命でも別れるのは辛かった……」
顔を伏せ、悲しそうに呟くシロ。
正博はシロの身体を持ち上げ、両手で抱きかかえた。軽く暖かい猫の身体。優しく背
中を撫でながら、話しかける。
「色々あったとは思うけど、俺の所に来られたからいいじゃないか。また前みたいに一緒
に暮らそう。このアパートはペット禁止なんだけど、そこら辺は上手く誤魔化してくれ。猫
又だし何とかできると思う」
「ありがとうございます、正博さん……。やはり、あなたは本当に優しい人です」
正博の腕に顔を埋めたまま、シロは囁くように言ってくる。顔は見えないが、何となく泣
いているようにも思えた。正博は何も言わぬまま、シロを撫でる。
そうして二分ほどだろう。
シロが顔を上げた。
「でも正博さん」
やや強い口調でそう言ってくる。
シロは正博の腕からするりと抜けだし、床に降りた。すっと背筋を伸ばして、両前足を
揃えた気をつけの姿勢から、
「私ももう猫又です。以前の普通の猫ではありません。ただ、正博さんに飼われるという
のでは、私がこうして猫又になった意味がありません。私は正博さんに恩返しするために
やって来ました」
きっぱりとそう答える。強い決意を伺わせる口調。黄色い瞳には、意志の光が灯ってい
た。猫とは思えない威圧感を覚えるほどに。
「だから、これから私は正博さんのお手伝いをさせて貰います」
「お手伝いって……」
正博は頭をかいた。
猫又。尻尾が二本増えて、人間の言葉を喋り、知能も少なくとも人間と同じくらいまで上
がっている。しかし、猫は猫である。あまり大きなことが出来るとは思えなかった。
その考えを読んだように、シロが声を上げた。
「大丈夫です、正博さん」
「大丈夫?」
「はい。私、猫の神様にお願いして、人間に化ける術を教えてもらいました。だから、人間
として正博さんのお手伝いができます」
自信に満ちた声音で、そう言ってくる。
正博は瞬きをした。
「化ける?」
「はい」
頷いてからシロは腰を上げ、少し離れた所に移動した。正博に向き直ってから、神妙な
面持ちで目を閉じ、口笛に似た鳴き声を発する。静かに歌うような奇妙な鳴き声。
「変化!」
その言葉とともに、シロの姿が霞んだ。白い煙のようなものがシロを包み込み、その輪
郭が大きく膨れ上がる。猫の輪郭から、人間の輪郭へと。
煙が空気に溶けるように消え――
人間の少女がそこに佇んでいた。
「どうですか、正博さん?」
年齢十七、八歳くらいで、身長は百六十センチ弱。背中の中程まで伸びた髪はきれい
な白い髪。どこか幼さの残る穏和な顔付きで、黄色い瞳と猫目のような細い光彩。身体
は細く引き締まっている。全体的に猫のような印象の少女だった。
そして、なぜか紺色の長袖ワンピースで、白いエプロン。頭にはカチューシャを付けて
いる。さらに、猫耳と二本の尻尾があった。
「ちょっと待て」
さすがに見逃すことは出来ず、正博は制止の声を上げていた。
「何だ……その格好は?」
「ネコミミメイドです。あと、今からご主人様と呼ばせて下さい」
至極当然とばかりに答えてくるシロ。それが当たり前のことであり、疑問に思うことがむ
しろ不自然と言いたげ様子。危うく納得しかけるが、何かが間違っている。
次の言葉に困り、正博は一言だけ呟いた。
「何で?」
「ご主人様がよくそういう本を読んでいたので、この姿ならきっと喜んでもらえると思いま
した。それに、私この姿以外には化けられないので……他の姿になれと言われましても、
今すぐというのは無理です」
済まなそうに猫耳と尻尾を垂らす。よくは分からないが、人間に化けるというのは大変
らしい。シロはこの姿に化けることだけを練習していていたのだろう。
「そう、か……」
喉を引きつらせながら、正博は頷いた。色々と腑に落ちないことがあるものの、考えて
はいけないような気がする。母親にバレていることはある程度予想していたものの、まさ
か飼い猫にバレているとは思わなかった。母親にバレるよりもショックかもしれない。
ふと頭をかすめる疑問。
「あと、シロって確か猫としてかなり高齢だったのような……」
「私が普通の猫を辞めた時が十八歳でしたので、人間の姿でも十八歳ということにしてい
ます。それとも、お婆ちゃんの方がよかったでしょうか?」
「いえ、今の姿で大丈夫です」
正博は即答する。
シロは両手を腰の前で組み、丁寧に頭を下げた。
「それでは、ご主人様。これからよろしくお願いしますね」
そう言ってくる姿はどこか楽しそうだった。