会計も済ませて外に出ると、途端に熱さが蘇る。カランコロン、というドアベルの音に続いて再び身体を包み込んだ、ぬるま湯に浸かっているようなじっとりとした暑苦しさに、俺達は揃って目を細めた。
「・・・あぢー」
「・・・・・・(こくり)」
三十分前と同じ台詞を言う俺と、やっぱり無言で頷く咲耶。
「・・・咲耶、家までダッシュで行けるか?」
「・・・・・・(ふるふる)」
無理か・・・まあ、当たり前だよなあ・・・
「まあ、日陰に入りながら行くか」
「・・・・・・(こくり)」
咲耶が頷いたのを確認して、俺達は歩き出す。の、だが。
「あっれー?山口、オンナ連れ?」
俺の耳に不法侵入を果たしやがったのは、不本意な事に聞き覚えのある声だった。声の聞こえた方を振り向くと、予想を裏切らず、軽薄そうな顔が見えた。
「古賀・・・」
古賀英一(こが えいいち)。俺と同じクラスの男子で、現役の柔道部員。一年の冬までは普通に話をするごくごく普通のクラスメイトだった。
だったのだが、去年の体育で行われた柔道の授業で帰宅部相手に手を抜いて・・・結果として俺に投げ飛ばされた事が気に入らないらしく、以来俺に向かって何かと挑発的な態度を取るようになった。
こいつの嫌なところはそれだけじゃない。何年も前の漫画みたいに、偉そうに取り巻きなんぞ連れて居やがる。現に今だって、古賀の後ろには二人、金髪やらピアスやらでごちゃごちゃと頭を飾った連中が気だるそうに突っ立っていた。
こいつと関わるとろくな事が無い。そう思って、俺は咲耶を連れて逃げようとする。
「咲耶、行くぞっ・・・」
「あ、わ・・・」
ところが、運が悪かった。俺は焦って咲耶の手首を掴んで歩き出そうとしたのだが、驚いた咲耶は足をもつれさせてしまった。
結果、咲耶がバランスを崩して倒れかけて・・・
「おっと、危ない危ない」
最悪な事に、それを古賀が抱き留める。
「わ・・・すい、ませ・・・」
反射的に、古賀に謝る咲耶。
「ふーん、あんたが高橋咲耶?」
対照的に、面白そうに口元を歪める古賀。
「あんたの事は知ってるよ、有名人だからな」
―――『有名人』。その言葉に、咲耶の唇が引きつるのが見えた。
「おい古賀・・・」
「可哀そうだよなぁ、喋れないなんて。でもそれだったら、山口にとっては男の威厳振りかざすには絶好の相手だよな」
間違いない、こいつは・・・咲耶が、俺達家族以外と口を利けない『理由』を知っている!
「古賀、黙れっ!」
「おお、コエエ。ねえねえ咲耶ちゃーん、こんな怖い奴よりもさ、俺に乗り換えない?おとーさんとおかーさんが家に居ないんじゃ、こいつに襲われちゃうよー?」
「古賀っ!」
「ひゃはは!落ち着けって山口!」
軽薄な笑みを浮かべながら、古賀は容赦なく咲耶を突き飛ばした。そして、言ってはいけないことを、言い放った。
「嘘に決まってんだろ、バーカ。親に捨てられてヒッキーになった女なんて、いらねーよ」
「てめえ、古賀っ!」
咄嗟に古賀に掴み掛かりそうになるが、それよりも突き飛ばされた咲耶を支える方が先だった。
ぼすっ、という手応えと共に、咲耶が俺の腕の中に倒れ込んで来る。
「咲耶っ、大丈夫・・・」
大丈夫か、と聞こうとして、俺の頭は凍りついた。
咲耶の瞳から、透明な雫が一筋。つう・・・っと頬を流れるのが見えて。
(・・・この、やろう。)
その光景をスイッチに、頭が動かなくなった。
「ま、お前もラッキーだよな。喋んないんだったら、犯そうがマワそうがチクられねえしよ」
「・・・黙れよ」
「なんなら今度、俺達も仲間に入れてくれよ。どーせそいつ、お前の言う事なら何でも聞くだろ?」
「・・・古賀」
「あ、でもヨガんねえんなら興奮しないんじゃねえ?もったいねえよな、喘ぎ声なしじゃ・・・」
ウルセエ、黙レ。ブッ殺スゾコノくそ野郎ガ。
怒りに、視界が真っ赤に染まった。赤いセロハンを貼り付けたような視界で、古賀の顔が一気に近づく。
俺はそこに、迷わず拳を叩き込んだ。
「がっ、ぁああっ!?」
下品な声と鼻血を撒き散らしながら、古賀の巨体がアスファルトに倒れる。視界から伸びた見覚えのあるスニーカーが、ワイシャツの下の鳩尾を的確に踏み貫く。
「てめえ、山口ッ!」
「こ、古賀!大丈夫かっ」
うるせえ、お前らも失せろ。拳を振りかぶって向かってきた雑魚二匹の顔面に、もう片方の靴底を順番にめり込ませてやる。二匹とも黙らせるまでに二回殴られたけど、どうでも良かった。
蹴ったときに、ごき、とけっこう派手な音が聞こえた。脆いな、つっぱってても所詮は雑魚か。
(・・・ごき?・・・ああ、どっか折れたのか・・・まあ良いや、俺には関係無いし)
もう一度足元の巨体に足を乗せると、やめろ、とか、許してくれ、とかいう声が聞こえたが、そんなつもりは毛頭無い。うるさかったから、答える代わりにもう一回、赤く染まった口元を踏みつけてやった。耳障りな絶叫が、聞こえた気がした。
・・・下品な声だ。
耳に響くその声を聞いても尚、俺は意識がぼんやりとしていて、まるでアクションゲームのプロモーション映像を見ているような気分だった。
踏んでも黙らなかったから、もう一度踏もうとした。けど。
「・・・・・・っ!」
突如、背中を揺らした衝撃に、俺の意識は一気にクリアになった。
「あ・・・?」
自分の腹に温かさを感じて、ふと視線を巡らせて見る。細い腕。女の子の、白くて綺麗な腕が、俺を捕まえている。
誰だ、と思って視線を巡らせる。
「・・・・・・かず、くん・・・だめ」
「咲耶・・・」
細い身体の、どこにそんな力があるのだろうと思うような力で。咲耶が俺を捕まえていた。
「・・・わたしは、いいから・・・」
「なに、言ってんだよ・・・こいつらは、お前の事を」
「・・・お願い、だから」
咲耶は、泣いていた。涙を拭こうともせず、俺を捕まえていた。その気になれば簡単に振りほどく事はできるのに、俺には何故か出来なかった。
大人しく一歩下がり、足を除けると、水を得た魚、というべきか、それまでぐったりとしていた古賀は生き返ったように飛び起きて、足を引きずりながら逃げていった。取り巻きの雑魚共が、それに続く。
それを見送ると同時に、殴られた頬と腹が、急に痛み出した。
「あ、ぐっ・・・」
短く息を吐いて、俺は道路にペタリと座り込んでしまった。
「っ!」
鋭く息を呑んだ咲耶が、俺の正面に屈み込んだ。
「いたそう・・・かずくん、いたい?」
「あ、ああ・・・ちょっと、いつつっ・・・すげえ痛い」
・・・あの野郎共、尖った指輪か何か身に着けていたのか。頬の皮膚が線を引いたように切れていて、そこから血が流れていた。
咲耶がスカートのポケットからハンカチを取り出して、俺の頬に当てた。
「さんきゅ・・・いててっ」
それから、数分経って。咲耶が、小さな口を開いた。
「ごめんね・・・かずくん」
「んあ?どうして咲耶が謝るんだよ」
咲耶は俯いていて、整った口元が微かに動いている事しか、俺の位置からは見えなかった。
「・・・わたしの・・・せいで」
「・・・・・・馬鹿、そんなこと言うなよ」
ああ、この少女は。どうして、そんなことを言うのだろう。俺は彼女を守りたかったから、あいつらを殴ったのに。彼女を傷付けるものを消してしまいたくて、手を出したのに。
そうやって、俺が彼女を傷付けてしまった。
「けど・・・」
「うん?」
「・・・ひとをぶつときのかずくんは・・・こわくて・・・きらい」
「そっか」
「だから・・・・・・いつものかずくんでいて・・・おねがいだから・・・」
「うん・・・ごめんな」
俺の前で涙を流している少女。そんな顔を見て居たくなくて、抱きしめて隠してしまいたかった。もう泣かないでくれと言って、両手で抱きしめて、涙を俺の服で拭いてしまいたかった。
けど、俺にそんな資格は無い。今彼女が涙を流しているのは、俺のせいなのだから。
俺は、咲耶が好きだ。