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 祭りの喧騒から離れた、稲荷神社の祠。訪れる者も少なく、静謐とした空気には、一種荘厳とも呼べる雰囲気が漂っている。  
 八百万参道、と呼ばれる道にある祠の中で、稲荷神社は咲耶にとって特別な場所だった。物心が付くか否か、という小さい頃、彼女は父に連れられてここに来ることが多かったのだ。  
 
『―――ここは、お父さんとお母さんの、思い出の場所なんだよ』  
 
 父はいつもそう言って、夏の日差しを振り仰ぐ。それが潤んだ目元を娘に見せない為だったのかどうかはわからない。父に倣って空を見上げても、咲耶はいつも、眩しさに目を細めていただけだったから。  
 咲耶の母は、咲耶を産んでまもなく帰らぬ人となったらしい。何故、とは思わなかった・・・いや、思っても、父に聞こうとしなかった。  
 母の事を聞けば、父は決まって悲しそうな顔をして、お母さんは遠いお空の向こうから咲耶を見守っているんだよ、と言うだけだったから。父の悲しい顔を見たくなくて、咲耶はいつも、疑問を口はしなかった。  
・・・もっともその父も、咲耶が十歳のとき、違う意味で遠くへ行ってしまったのだが。  
 
(・・・わたしは、お父さんを苦しめていたのかな)  
 記憶の中にある父は、穏やかな人だった。山口のおじさんやおばさん・・・和宏の両親とも仲が良く、父が仕事で出かけている間は和宏と一緒に山口家に居た。  
 あの頃は、父の惜しみない愛情に、何の疑問も持たなかった。けど、今では時々疑問に思う。  
・・・父も、苦しかったはずだ。けれど、父はそんな素振りを見せなかった。父はその苦しみをどうやって押さえていたのだろうか。そもそも父に『苦しみを和らげる方法』などあったのだろうか、と。  
 ひょっとしたら自分の存在が、父からその方法を奪っていたのでは無いだろうか、と。考えれば考えるほどに、暗い答えばかりが思考の底から返ってきた。  
 
 暗い記憶を振り払い、周囲に目を向ける。和宏との待ち合わせ場所は、賽銭箱の前。どの賽銭箱の前かは覚えていなかったが、自分が小さい頃からここに訪れていた事を、和宏は知っている。  
 ならば待ち合わせの賽銭箱は、ここなのだろう。咲耶は勝手に決めつけて、祠の階段に一人、ちょこん、と腰掛けていた。  
 やがて、眼下に広がる会場から、一つ、また一つと明かりが消える。もしかしたら和宏は、自分を探してまだ会場を歩いているかもしれない。それに、もしかしたら、本当の集合場所はここではなかったのかもしれない。  
 下に下りてみよう、と思って階段から立ち上がり、お尻に付いた砂をぽんぽん、と払う。  
 と、その時。  
「・・・咲耶?」  
 振り向いた先に居たのは、和宏ではなかった。  
 
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(あのアホ!見つけたら取り敢えずデコピンの刑だっ!)  
 古賀と別れてから、俺は全力で走っていた。八百万参道に立ち並ぶ祠の数々を一軒一軒見て回っているのだ、その疲れる事といったらそれはもうとてもとてもとても。  
 大体にして、なんであいつは『賽銭箱の前』って事は覚えてんのに『本殿の』っていう超重要なポイントをすぱっと忘れてんだよ!?つーか、それにしたって一番目立つ本殿をスルーするか普通!?  
(ええいもう、何で俺がこんな事に・・・)  
 苛立ち任せに足元の石を蹴る。ざしゃっ、と音がして砂まで飛んだ。  
 
 走り始めて十分。回り始めて十三個目の祠。稲荷神社の立派な鳥居が見えてきた。  
「そういえば・・・」  
 咲耶は小さな頃、よくここに来ていたらしい。父親が居なくなってからは避けていたようだが・・・彼女がここに来ている可能性は高い。  
 よーっし、ここに居たら思いっきりデコピンしてやる。その上更に二、三日はおやつ抜きにしてやる。俺が黒い事を考えながら鳥居をくぐろうとした、その時。  
 
「・・・やっ!」  
 
 小さな悲鳴が、聞こえた。この声、やっぱり・・・  
「咲耶っ!このア・・・」  
 アホ、と言いたかったけど、目の前の現実に息が止まる。  
 
 咲耶を捕まえようとしている人間が居る。良く見るとそれは、さっき俺に道を聞いてきた、あの男だった。  
 咲耶は肩を捕まれて、その手から逃れようともがいている。  
・・・そこまで見れば充分だった。  
「てめ、何しやがるっ!」  
 走る勢いをそのままに、男に体当たり。ぎゃっ、とか言う声が聞こえた。バランスを崩した男の前に割って入り、咲耶を庇うように立つ。  
「な、なんだ君は・・・」  
「こっちの台詞だ!あんた、今こいつに何しようとした!?」  
 拳を握り込み、目の前の男を睨みつける・・・見たところ、俺の親父と同年代に見えた。頼りなさそうな表情は異常者のそれとは程遠く、穏やかなイメージすらある。  
 が、なんにせよ夜の神社で逃げる女に詰め寄っていたんだ。全うな人間なはずが無い。  
(危ねえけど、殴って逃げるのが最善か・・・?)  
 ぐっ、と腰を落とし、目の前の不審者を退けるのに充分な力を拳と脚に込めようとした、その時。  
 
「ま、待ってかずくん!」  
 咲耶が俺の肩を掴んで、叫ぶように言った。  
「だめだよ!そのひと、ぶっちゃだめ・・・!」  
「はぁ!?ばっ、お前この緊急時に何言って・・・」  
 俺と咲耶が言い合いを始めた所で、固まっていた男が口を開いた。  
「か、『かずくん』?・・・そうか、和也の倅の和宏君か!?」  
 
 
 
っ!?この男、俺と親父の名前を・・・一体何者―――  
 
「和宏君、私だ、光也だ!頼む、話を聞いてくれ!」  
 
 
 
 
 
―――ドクン、と。鼓動の音が、無闇に頭に響く。  
 馬鹿な、そんなはずがない。有り得ない。そんな事があって堪るか。言葉はいくらでも思い浮かべる事ができる。だがその中に、目の前の現実を突き崩せるものは無い。  
 弁解めいた、焦燥に満ちた声。一瞬、なんの話をしているのかと思った。けど、言葉の後ろのほうに付いていた、一人の人間を表す単語。それは、俺には・・・俺達には忘れる事の出来ない、忌まわしい名前で。  
「な・・・」  
 頭の奥底に沈めていた記憶が、呟きとなって俺の口から漏れ出す。  
 
 
 
 
 
「・・・たか、はし・・・みつや・・・っ・・・」  
 それは、七年前に失踪した咲耶の父親の名前だった。  
 

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