夏休み八日目。俺は自室で机に向かっていた。現国の宿題である。
(くっそ、漢字とかさっぱりわかんねー・・・)
夏休みの宿題の中で、俺が最も恐れていた教科がこの現国だった。
自慢じゃないが俺は成績優秀だ。さほど豊かとはいえない我が家の経済状況で俺と咲耶の二人を高校に通わせるため、苦手科目の少ない俺は奨学金制度の世話になっていた。
咲耶も奨学金の試験は受けたのだが・・・まあ、結果は各自予想して欲しい。
つまり、俺の成績が落ち込めば奨学金が受けられなくなり、退学の危険があるのだ。いくら伯父が校長を務めているとはいえ、そこに家族だから、という理由を持ち込むわけには行かないのだ。
話を戻すが、その甲斐あって俺は理数系は殆ど難なくこなせる。体育も人並みである。だが、国語と英語だけはどうにも理解が追い付かず、毎回赤点すれすれの点数だった。
そんな感じでうだうだ言いつつも作文の宿題を片付けていると、読み返しているうちに妙な違和感を覚えた。
「んっと、私達が小耳に挟んだ情報は・・・あれ、ここ・・・」
平仮名で書いた文章があったのだが、読み返してみると漢字に直せるのに直っていない部分を一箇所発見。
放って置いても問題は無いが、そうもできない自分の性格が呪わしい。
「ざしき・・・えーっと・・・」
『座』の文字は分かるのだが、『しき』の文字がどうにも頭に浮かばない。適当に思いついた『しき』の文字を原稿用紙の端っこに書き出してみる。
『式』。違う。『識』。これもなんか違う。『織』。殆どさっきと一緒。『色』。着色してどうする。『四季』。問題外。
・・・まずいぞ、完璧にド忘れした。
咲耶に漢和辞典を借りようと思い、彼女の部屋のドアを叩く。
「咲耶、居るかー?」
「・・・・・・・んぅ」
・・・なんじゃ、今の無駄に色っぽい声は。
部屋の中にいるのは確認したので、とりあえず開ける。着替えだったら鍵は閉めているだろうからその辺はあまり気にしない。
「入るぞー、って・・・」
咲耶は眠っていた。ベッドにうつ伏せになり、タオルケットもかけずに。こう、くーくー、とか小動物っぽい音を飛ばしながら。お気に入りだという白のキャミソールを着ていて、負けず劣らず真っ白な肌が剥き出しになっている。
「風邪引くぞ、あほ」
彼女の足元に蹴飛ばされていたタオルケットを広げて、剥き出しになった肩にかけてやる。ちょっと名残惜しかったりするのは勘弁して欲しい・・・いやほら、俺も男の子だし。
すると、肩に触れた布の感触がくすぐったかったのだろうか。微かに身じろぎをする。
「ふゃ・・・・・・っん」
・・・やばい。何っつーか、かなり来る物がある。主に本能とか煩悩とかその辺に向けて。
(う、わー・・・すげえ可愛い)
気が付くと、ベッドの傍に座り込み、彼女の艶やかな黒髪を手で梳いていた。するすると指の間から黒い線がすり抜ける度に皮膚に走る柔らかな手触りが、心地よかった。
「・・・んん・・・」
ふと、再び咲耶が身じろぎを一つ。その動作と息遣いに、途端に意識がクリアになった・・・・・・って、これじゃ俺、ただの変態じゃねえか。
「あ、阿呆か俺は・・・」
このままここに居たら狼になりかねない。ちょうど良く机の上に出ていた辞典を手に取ると、俺は足早に部屋を出る、ん、です、が。
「・・・かず、くん・・・」
「ぬぁ!?さ、咲耶っ、起きて・・・」
「・・・・・・んー・・・」
・・・いなかった。び、びっくりさせやがって・・・寝言かよ。
反射的に騒いだので起こしてしまったかと思い、早めに部屋を出ようとする。が、またもそこでハプニング発生。
「・・・んゅ・・・ふふ」
再び聞こえてきた寝息に、俺は思わず足を止める。そこで振り返ったときに目に入った咲耶は、とても穏やかな笑顔を浮かべていた。それは、俺だって見たことが無いほど幸せそうな顔で。
・・・俺にも見せてもらえない微笑みを彼女にもたらしている夢の内容が、すこし気になった。
「むにゃ・・・かずくん」
「何だよ」
聞いている訳は無いけれど、なんとなくぶっきらぼうに言い返してしまった。
その、次の瞬間。
「・・・・・・だいすき」
俺は、ダッシュで部屋から逃げ出した。
きゅっ、ざばーばしゃばしゃばしゃ。
ぜーはーぜーはーぜーはー。
どっどっどっどっどっどっどっどっどっ。
息も絶え絶えに台所まで走っていって流し台に頭を突っ込み、青線の入ったバルブを右手で掴んで思いっきり捻る。あんまり混乱したものだから、聞こえてきた音のどれが呼吸でどれが鼓動でどれが水道の音なのか、一瞬だけ分からなくなった。
(おおおおお落ち着け落ち着け落ち着け俺えええええ!!そうだこういう時は素数を数えるんだ!2、3、5、7、9・・・は3で割れるから飛ばして11、13・・・)
心頭滅却すれば火もまた涼しけり。俺は何とかして先程のハプニングを忘れようとするが、意識すれば意識するほど、より鮮明にそれは浮かび上がってくる。
幸せそうな微笑み。伏せられた長い睫毛。小さな唇から漏れ出した言葉・・・・・・
『かずくん・・・・・・だいすき』
「だああああああああああああああああああああああああああっっっ!!!」
鏡のように磨かれたシンクの流し台にがんがんと頭をぶつける。死ぬほど痛いが今はそれどころではない。
「忘れろっ!忘れろおおおおおおおっ!!」
がんがんがん、がづすっ。
「げがぅっ!?」
額から感覚を奪おうとしていた鈍い衝撃とは違う、突如として不意打ち的に後頭部に突き刺さった鋭い一撃に、俺は頭上にあった蛇口の先端という存在を思い出した。そのまま崩れ落ち、後頭部を押さえて悶絶する俺。
「ぬぐをををををををををををををををを・・・・・・」
秘技、一人大騒ぎ。十年に一度見るか見ないかという、本人からすれば切羽詰っているが傍目から見るとただの馬鹿であるという禁断の一発ネタが今、俺自身の手で成立した。
・・・全っ然嬉しくなかったりする。
痛む頭を氷で冷やしつつ、部屋に戻る。全く酷い目に遭った。咲耶といい蛇口といい不意打ちと言うのはどうしてここまで破壊力が高いものなのか。
・・・そこ、完璧にお前の自爆だろとか言うな。突っ込み禁止だ突っ込み禁止。俺だってやりたくてやったわけじゃねえよ。あれだ、孔明の罠だ。
痛みを紛らわそうと、ベッドにごろっと横になって目を閉じる。夏の日差しが瞼越しでも目に染みた。
(・・・・・・あれ?)
すると、一つの疑問が浮かんでくる。
「・・・・・・俺・・・・・・なんで、咲耶の部屋に行ったんだっけ?」
ズキズキと痛む頭の奥には、何の答えも浮かばなかった。