「ありがとうございました」  
 今日は香子は朝から大忙しだ。本当なら夫のお盆休みに合わせて休むつもりだったのだが、帰省する  
学生バイトが何人か重なって休みをとる事になり、他のバイトで埋められなかった分を『今日だけごめん!』  
と店長に頼み込まれてしまったのだ。  
 せっかくの休みを邪魔されたとあって夫の伊知朗は少々面白くなさそうではあった。が、そこは何事  
にも真面目に取り組む男である。家事を済ませるのを手伝ってくれてから(と言ってもゴミ出しと布団  
干し位だが)、しっかり頑張れとここまで車で送って来てくれた。  
「次のお客様お待たせ致しました。いらっしゃいま……」  
 カウンターに置かれたCDのラインナップを見てふと顔を上げた。  
「当日でお願いします」  
 にっこりと人の好さげな笑顔で  
『ひ・ま・だ・か・ら』  
と声を出さずに口を動かす目の前の夫の姿に香子は目が点になった。  
「八神さん。どうかした?」  
 横から店長に声を掛けられて慌てて仕事に意識を戻す。  
「あ、えと、あの」  
 予想外の出来事にCDケースを持つ手もたどたどしい。その様子にくすりとしながら伊知朗――イチは  
「初めまして八神です。妻がいつもお世話になっております」  
とすらすらと述べ、  
「あ、ああ、そうですか。いやこちらこそいつも八神さんには……今日は本当に突然お願いをしてしまって」  
「いえ。お役に立てれば良いのですが」  
と恐縮する店長と挨拶を交わしていた。  
 
 
「八神ちゃんの旦那さんて格好いいね!背も高いしイケメンだし」  
「うん、流石大人っていうか〜。あたしも年上の旦那様にしよう」  
 休憩中のロッカールームでバイト仲間の女子学生達とお茶を飲む。帰りに買い物に付き合ったり、  
と最近はそういう事も増えてきた。  
 
「ああ、そうだこれ。もしよかったら貰ってくんない?」  
 すっと二枚のチケットが香子の目の前に差し出される。  
「何?」  
「あたし明後日友達と旅行行くんだよね。で、帰ってからも予定とか色々あるから……」  
 この辺りではメジャーなテーマパークのプール入場券とフリーパス付きの物だ。  
「えー嬉しいけど……いいの?」  
「うん。それ期限もあるし、八神ちゃんまだ行ったことないって言ってたでしょ?だから旦那様とどうぞ」  
「ありがとう」  
 じゃあ、と遠慮なく頂く事にした。  
 そろそろ休憩終了だ、と片付けてバッグにチケットを仕舞っていると、  
「あーさっきさぁ、店長が旦那様の事『俺の若い時に似てるな』だってよ八神ちゃん」  
と思い出したように言い出した。  
「え……」  
 それはちょっと、と四十代半ばにして未だ独身趣味はメイド喫茶巡りの発言に頬をひきつらせる。  
「……思い出は美しいって言うからね」  
「あ、あはは……」  
 肩にポンと置かれた手に力無く笑う。  
 いやまあ、万が一イチの頭髪が店長化しても自分の気持ちに変わりはないと思うのだが。  
 
 
 仕事が終わる頃イチがCDを返しに来て、そのまま表で香子の出て来るのを待った。  
「プール?」  
「うん。せっかくだし……」  
 考えてみれば、海やプールに連れてってやったのは香子が小学校以来だった。中高生ともなれば、  
何となく恥ずかしい気持ちも互いにあったのか、どちらからともなくそういった誘いは無くなった。  
「そうだな……久々に遊んでもいいかなあ。行くか!」  
「本当?」  
「ああ。でも今は混んでるだろうから、せめて来週かな」  
 車内に今朝借りたCDの曲が流れる中、香子は思わず信号待ちでハンドルを握るイチの手を握った。  
「ありがと!」  
「いや、俺は別に……何、そんなに嬉しいのか?」  
 子供だな〜とニヤニヤしながら自分を眺めるイチに  
「どっちが……」  
と目玉焼きをいかに潰さず食べるか、を課題に格闘する朝食時の姿が浮かんだ。  
 と同時に  
「サギだ……」  
「ん?何か言った?」  
「別に」  
と職場でのイケメン評価ぶりを頭の中で比較しこめかみを押さえた。  
 
* * *  
 
 今日は少し帰りが遅くなってしまった。  
 冷蔵庫を確認するとあるもので簡単にメニューを考え、時計を見る。  
「少しなら大丈夫かな……」  
 盆明けだからどうだろう?忙しくてそう早くはないかもしれないが、残業の連絡はないのでそれなりの  
帰宅にはなるだろう、と考えながら紙袋から買ってきた品物を取り出し鏡の前に立つ。  
 少し迷いつつも、うん、と頷くと服を脱ぎ、取り出したものを身に着け鏡を眺めてみる。  
 最初は戸惑ってあちこち体を捻ったり隠してみたりと不自然な動きを続けていたが、暫くすると少し  
ずつそれに慣れ、何となく笑みがこぼれるまでになった。  
「あ、やばっ!」  
 そんな中時計を見ると思ったより時間をくってしまっていて、慌てて食事の支度をしにキッチンへ  
行こうと脱いだ服を手に取る。  
「……ま、いっか、後で」  
 急ぐし汗もかく。とりあえず先に用意を済ませてから着替えても間に合うだろう――そう考えてソファー  
に服を置きエプロンを手に取った。  
 
 
 レンジで鶏肉を解凍してる間にダシを取り、玉葱を切って、味噌汁も用意しておく。後はほうれん草  
でおひたしを作り……。  
「今日はお弁当だから親子丼でも大丈夫だよね」  
 昼が外食の日はそういうメニューが多いので、なるべく平日に作るのは避けているのだ。  
 肉を切って煮ていると、ガチャガチャと玄関の鍵が開く音がした。  
「えっ!?嘘、もう帰ってきた!!」  
 香子は出迎えようと火を止め玄関に足を向けかけた――が、今の自分の格好を思い出しそのまま回れ右  
して奥に駆け込んだ。  
 
「ただいまー。香子?」  
 キッチンには甘辛いいい匂いが漂っているのに、可愛い嫁の姿は見えない。風呂からも気配はない。  
 ふむ、とイチはそのまま奥の寝室の襖に手を掛けた。  
「香」  
「うわあ!ま、待ってえぇ!!」  
 どすん、と鞄の落ちる音。  
 香子の叫びも空しく、目の前には口をあけて襖を開けたまま立ち尽くすイチの姿があった……。  
 
「ななな……」  
「違う!違うのこれはっ……もう、着替えるから出てってよぉ!!」  
 真っ赤な顔で半泣きになりながら部屋から押しだそうとイチの胸に手を押し当てるが、逆にその手を  
掴まれてあっという間に畳の上に押し倒される。  
「ちょ、な、何ぃ!?」  
「何っておま……このまま俺を悶え殺す気か?」  
 先程とはうって変わってギラギラとした目で自分を見下ろしてくるイチの姿に、香子は一瞬で身を  
固まらせた。蛇に睨まれたカエルとでもいうのか。  
「え、や、あの、疲れてるでしょ?帰ってきたばっかだよ!?あ、ご飯食べなきゃ」  
「後でいい」  
「でも!じゃ、せめてお風呂へゆっくり入っ」  
「疲れてる時ってのは燃えるもんなんだなこれが」  
 えー……と視線をこっそりイチのズボンに向ける。  
「それに」  
「それに?」  
「こんなご馳走目の前に出されて、食えずに死ねってか?」  
「はい?」  
「……嫁の裸エプロンは男の夢なんだぞおぉぉぉ!!」  
「えええーーーーっ!?」  
 イチの大柄な体が 押し倒した香子の上に覆い被さった。  
「ち、ちょっとイチ君ちょっと!」  
 香子の首筋に鼻を押し当てすうっと息を吸い込みながら、手は素早く折り曲げた膝から太ももを撫で上げる。  
「あれ?ぱんつは履いてるのかー」  
「あ、あの」  
「普通ノーパンだろやっぱ」  
「無理っ!!」  
 何を言うか、と睨む香子にちぇ、と口を尖らして  
「ま、いっか脱がせば同じだし」  
と今度は胸へ手を伸ばす。  
 上からごそごそと撫で回していたが、ん、と首を傾げると胸当ての脇から手を滑り込ませる。  
「やっ」  
「あーなんだ上も着けてんの?もう、これじゃ裸じゃないじゃん」  
 むーとまた軽く拗ねた顔が変に小憎らしいのが可愛い、と香子もまた妙な所に腹が立ってカチンときた。  
「だからっ!裸じゃないって言ってるじゃんっ!!勝手に想像してキレないでよね」  
「えーだってこれじゃ仕方ないだろー」  
 えー?と冷静に自分の体を首を伸ばして見下ろす(?)と、体を覆うエプロンから見えるものは伸びた  
両手両足のみで、他には身に着けているものは何もないように見える。  
「な?」  
「……」  
 これではイチが一人喜び舞い上がっても無理もないのかもしれない。  
 
「いきなりそんな真似できるわけないでしょー!ほら、水着着てるの、水着!!」  
 胸元と裾をチラッと捲ってやると、黄色い布地が見える。  
「なんだ、水着着てたんだぁ」  
「わかった?」  
 確かに、肩紐も太く一見ジャンパースカートのようにすっぽりと体を覆うタイプのこのエプロンは、  
キャミソールやミニスカートの上に着けるとぱっと見下に何も着ていないように見える。水着なら尚更だ。  
 物凄く期待したのだろう。ちょっとばかりイチの肩の位置が普段より低く感じられた気がした。だが  
こればっかりは、親が子供に言うように『また今度ね』と気軽に言うわけにはいかない。  
「……あの、ごめん。イチ君、着替えるから」  
「あー、うん。脱ぐの?それ」  
「うん。どうせ一度洗うし、ご飯……」  
「……」  
「イチ君?」  
「んじゃあ汚してもいいな」  
「えっ!?」  
 きっと凄く、物凄く期待していたのだろう。  
 唇を塞ぐと同時に香子の脚に押し当てられた下半身は、既にそれを物語っていた。  
 香子が声をあげる間もなく唇は塞がれ、また脇から割り込んだ手が今度は水着のブラの下から直に  
肌を探ってくる。  
 少し汗ばんでいる胸の僅かな膨らみの先にあるものを見つけると、指の腹でつっと撫でた。  
「やぁっ!」  
「なに、もう起きてんの?えっちな奥さんだなぁ。散々無理って言ったくせに」  
 反対側からも同じ様に手を差し込んで両手で攻めると、イチの肩を掴んで軽く抵抗していた香子の  
腕は力無く畳の上に落ち、苦しげにカリカリと音を立てて震えた。  
「んあ……だめだよ……まだ、明るいし、ま、窓……っ」  
 イチがくいと顔を上げると、なる程窓が開いて網戸になっている。香子は外から帰るとまずムッと  
するこの部屋のこもった熱気を逃がすために窓を必ず開けている。寝る前にエアコンを入れるまでは  
大概そうだ。  
 僅かな風に揺れるカーテンを目で追いながらも、体の下で止まらない指の悪戯に喘ぐ香子の声にイチの  
意識は持って行かれる。  
 
 裸にエプロンなんて言葉にすると非常にあれだが、見下ろしているのはいわゆる白いフリフリレース  
やメイドさんのようなデザインのピンクのフリルなんて物ではなく、その辺の雑貨屋で売っているタイプ  
のグリーンのチェックにうさぎさんの柄という色気からは完全にかけ離れたものだ(くまさん柄のもある)。  
 だがその下で蠢く指の動きに合わせて躰をしならせ、首筋に滲ませた汗を拭う事なく小さな声を洩らす  
半開きの唇にたまらず吸い付かずにはいられない。  
 大人のような甘い声をあげながら、多少子供っぽいラインの躰をにじり寄せてくるそのアンバランスさが  
益々香子をどうにかしたいという気持ちにイチを駆り立ててしまうのだ。  
「俺はやっぱ変態なのかなあ……」  
「え……?んぁ……っ……あ……ん」  
 直接吸い付くしたいと思う小さなピンクの蕾を思い浮かべながら、悩んだ挙げ句視覚の欲望を満たす  
方を選んだ。  
「はんっ……あ……うっ」  
 懸命に声を堪えようとするものの、執拗に攻めてくる指の動きにその我慢がついていかない。  
『やべ、もう我慢できない……』  
 まだ真夏の暮れかけた薄明るい部屋の外から聞こえてくる日常の生活音は、却って非現実な時間を  
過ごしているような気持ちに追い立てられて、その妙な罪悪感が普段の穏やかな営みとは違った興奮  
を呼び起こす。  
「外でやるともっと凄いんだろな」  
「えっ!?……やだ、そんなの」  
「わかってるよばか」  
 香子のこんな姿を見るのは自分だけだ。  
「ひやっ!?」  
 自分のした勝手な想像に苛ついて、少しばかり摘む力が強くなってしまった。  
「香子……こっち触るよ」  
 エプロンの裾から手を入れるといきなりショーツの脇から指を差し入れた。  
「うわあ、凄……」  
「いやぁ!」  
「嫌なもんか、ほら」  
「あ……あぅ」  
 ついと指を押し曲げるだけで、絡み付く露がくちゃくちゃと音を立てる。その指で探り当てた突起を  
弾くと  
「っくぅ……」  
苦しげに息をつきながら香子は唇を噛んだ。  
 
「ああんっ……や……やぁぁ……」  
「嘘付け。こんなに……なんか早くないか?濡れるの」  
 わざと音を立てて弄ると、その動きと濡れ音に合わせて香子の脚が跳ね腰が浮く。  
「ばかぁ……んっ」  
 ふるふると真っ赤な顔で潤んだ瞳で睨まれ、イチの我慢は限界に達した。  
「あー、もう可愛い!駄目だ俺。挿れさして」  
 汗で体に張り付いたシャツを脱ぎ捨てランニング姿になるとベルトに手を掛けた。  
「だ……だめ」  
「なんで?俺これじゃ生殺しだって」  
 膝を立てて腕を伸ばし何とか引き出しからゴムを出す。  
「今でこうなのに、声……そんな事したら、もっと」  
「もっと?」  
 膝までズボンを下ろし準備完了。  
「……もっと出ちゃう……」  
 うっ、と喉を詰まらせ下半身を押さえたままイチが固まった。  
「ど、したの?」  
「危ね……お前、俺の方がでちゃうだろ、そういう事言うと」  
「え?」  
 ――中学生でなくて良かった。  
 イチは真剣にそう思った。  
「じゃあ手で塞いだら?」  
「だめ。だって途中でいつも……」  
 確かに最初は恥ずかしがって我慢して当てた手も、いつの間にか夢中になるとイチの背中に思いっ切り  
淫らな傷痕をつけ、シーツにシワを残す。  
「でもこれじゃ閉めに行けねえわ今更」  
「もーばか!だから最初に言ったのにー」  
 ぶーと膨れて文句を言い足りない顔を覗き込むと、その唇を塞いで黙らせる。  
「だったらこうして」  
 エプロンの裾を捲り上げ、離した半開きの香子の唇に押し当てた。  
「噛んで」  
「……?……えっ、やぁっ!?ん……」  
 一気にショーツを引き下ろすと脱がせて脚を開かせお尻を高く持ち上げる。  
「香子のキレイだよな、いつも。もう、こんなに濡らして……」  
 じゅわりと溢れる雫を指で掬うと、赤く波打つ裂け目の先にある先端に塗り込め転がした。  
「んむぅ……んんんっ!」  
 思わずぎゅっと摘んで握りしめたエプロンの生地を言われた通りに噛み締め、悲鳴に近い声をあげる  
ことを耐えた。  
 その真っ赤な頬にそっとキスすると、滑るように動かした指を止め、一気にイチのそれは香子の躰を貫いた。  
 
「ふううっ!んっ!んんん!?」  
 足首を掴んで大きく開いた脚の間にねじ込んだ躰をイチが大きく揺さぶる度に、苦しげな息遣いの  
香子の堪えた喘ぎが耳に届く。  
「いい?いいか香子」  
「んんー……」  
 胸の上で裾を握り締め震える両手に更に力を込めると、白い喉元を反らせて仰け反って応える。  
「ごめんな、苦しい?」  
「……」  
 ぐうと喉を鳴らして首を振る。だがそのぎゅっと閉じた瞳にはうっすら光るものが滲んでいた。  
「……だよな……」  
 でも綺麗だ、とイチは思う。  
 見た目はまだまだ高校生のそれと変わりは無いのに、こんな風にしていると時々はっとする程女らしく  
艶めいて見える。  
 さほど豊かではない胸も、少しまろやかなラインのお腹も、白い肌と細くも太くもなくすっと程よく  
伸びた脚を絡ませられると、普段ではなかなか想像出来ないその声と相俟ってイチの欲望を刺激する。  
 勿論それには、『惚れたものの欲目』というフィルターを通しての事情というものも含まれては  
いるのだろうけれど。  
 引きちぎらんばかりに裾を握っていた両手を離すと、イチに向かってそれを伸ばす。それに応える  
ように足首から離した手を床につけ躰をゆっくりと倒した。  
 ――多分イキそうなのだ。  
 イチの背中にぎゅっと回して来た手に力がこめられ、それを合図に腰を大きく引く。  
「んああっ……んっ!」  
 ずん、と引いた分だけまた大きく突き上げるとその衝撃に耐えきれず、香子の口を塞いでいた布は  
声と共に胸元へと零れた。  
「や……んっ、んー」  
 変わりにイチが自らの唇を重ねてそれを塞ぐ。ぴったりとくっつき合った躰を更に引き寄せようと、  
香子の脚がイチの腰を押さえ込むように絡み付き、背中の指がシャツをぐしゃぐしゃに掴む。  
 ときに耳障りなガチャガチャと揺れるベルトの金具の鳴る音が次第に速く大きくなると同時に、二人  
の息遣いと揺さぶる腰の動きも激しく速くなっていく。  
「――ッ」  
 震える両手が食い込む背中にイチが思わず眉をしかめると、僅かに白い歯を覗かせた唇から舌を抜く。  
 それと同時に汗に濡れた衣擦れの音も、止んだ。  
 
「これ何?形のわりに地味なパンツだな」  
 ベージュの小さな布地をひらひらとさせる手から  
「水着の下に履くのっ!」  
とひったくり、そそくさとシャワーに向かおうとする。  
「……香子、そんなちっこいので大丈夫なのか?」  
 見た目は至ってシンプルで色気も素っ気も無いが、前後を覆う部分は普通の下着より少なく横は伸縮性  
のある紐になっているので、形だけ見ればかなり露出の高い物だろうと考える。  
「うん。だってビキニだからこれ位じゃないとはみ出ちゃう」  
「えっ!?」  
 裏返ったイチの声にそらきた、と言わんばかりに微笑んで  
「んふふ、見たいー?」  
とわざと勿体ぶってみせた。いつもの彼のノリならきっと  
『けしからん。確認するから今すぐ履いて見せろ!勿論上もだぞ』  
と前のめりになって要求して来るに違いないからだ。  
 だが、  
「……いや、いい」  
と返ってきたのはスケベ心丸出しの物ではなく、目の前にいるのは『見てはいけないものを見てしまった』  
子供のように目を逸らすイチの姿だった。  
「なんで?」  
「だってほら、あれだろ。そういうの着けなきゃはみ出すって事は……だろ?」  
「あー、あ、そういう事?そりゃビキニだもん仕方ないよ。でもパレオもあるから大丈夫だよ」  
 ほら、とヒラヒラした布地を床から拾い上げて見せる。  
「でもな」  
「でも、何よ?」  
 俯き加減に正座の状態でベルトの金具を所在なげに弄るイチに気付いて、  
「(もしや……拗ねてる?)」  
と不穏な空気に見せびらかそうとしていた水着を持つ手を引っ込めた。  
「気に入らない」  
「はっ?」  
「もっと他に無かったのか?誰が選んだんだよ、それ」  
 ついさっきまでそんな不満は微塵も無かったのに。  
「プール……駄目なの?」  
「いや、そんな事無いけど、それで行くのは気が進まない」  
「わかった。……もういい」  
 イチは昔から滅多な事では香子の楽しみを奪うような真似はしなかった。一度約束した事は、日を  
改めてでも守る男である。その彼が腰を上げようとしなくなったのは余程気に入らない何かがあったの  
だろう。  
「お風呂、先に入るね?」  
 しょんぼりと肩を落とし、脱いだ物を纏めて部屋を出て行く。  
 それを見ながらイチは  
「解ってないよなぁ……」  
と呟いた。  
 
* * *  
 
『ごめん。昨日持って帰った時にファイル忘れたんだけど届けて』  
 
 イチからの電話で会社までやって来た。  
「何うっかりしてるんだか」  
とファイルの入った紙袋を見下ろす。それと一緒に  
「いらないよね……」  
ともう一つの忘れ物の入った小さめの紙袋に目を落とす。  
 
「八神さんですね?今電話中ですのでこちらでお待ち下さい」  
 一階の受付から部署のある階まで来るように言われやって来たのだがそう言われ、応接に通された。  
 一度社員旅行で顔を合わせた者が多いので、香子を見つけると皆がにこやかに頭を下げたり簡単な  
挨拶を交わしてくれるためか、思った程居心地は悪くない。が、やはり知らない人間からは「?」と  
いった視線を送られる。  
「良いけどね、別に……」  
 そのままバイトに行くつもりだったのでポロシャツとジーンズという格好。確かにこんな場所では  
目を引くのも無理は無いのだろうが。  
 出された麦茶を頂いているとパタパタと忙しない足音が聞こえてきた。が、すぐにそれは  
「あー、八神さん!××様から……」  
「ええ!?もう今になって……」  
とぶつぶつ言いながら回れ右して去っていった。余程急ぎの電話だったとみえる。  
 ひょいと薄い衝立から覗き見ると、一番近くのデスクの電話を取り上げ会話中のイチの姿が見えた。  
「あーあ。せっかく寝癖直したのに……」  
 深刻な内容なのか、辛辣な物言いで顔を歪めながら頭をがりがり掻いている。毎朝身なりは香子が  
きちんと整えさせて出すのに帰るとぐしゃぐしゃなのはこのせいか、とほっぺを膨らませながらその  
姿を盗み見ていた。  
 片手にペンを持ち、受話器を肩に挟みながら慌ただしく手元の書類を捲り、側の数人に声を上げて  
何かを指示し会話に戻る。  
 最初はちょっと冷やかし気分でそれを眺めていた香子だったが、やがてその顔から笑みがゆっくり  
消えていく。  
 二人きりの時にはまるで見た事の無い厳しい引き締まった横顔や鋭い目つき。  
 以前聞いた『彼は仕事の鬼』という一言が頭に浮かんだ。  
「なんか知らない人みたい……」  
 そんな事を思いながらただ黙ってそれを見つめていた。  
 
「ちょっと今立て込んでてな。悪い」  
 一段落したのか少し張り詰めた感の残る顔をしたイチがやって来た。  
「……ううん。はい、これ」  
 少し迷ったが頼まれた物を渡すと香子は残りの荷物を手に持って立ちあがった。  
「じゃ、私もバイト行くから」  
「うん。悪いな」  
 何か一言言いたそうに唇を開きかけたが、そのまま手を降って周りに会釈するとエレベーターに向かう。  
 イチは黙ってそんな香子の後ろ姿を見送った。  
 
「八神さんの奥さん来てたね」  
 エレベーターを待っていると物陰から洩れてくる声がする。どうやらそっちは給湯室らしい。  
 聞こえぬフリを装ってみるものの、やはり気にせずやり過ごすのもなかなか難しいもので……。  
「可愛いよね。10歳下だっけ?」  
「うん19だって。八神さんがデレるのも解るわ。けどあれだね、ちょっといいなと思う男は大体カノジョ  
 か奥さんいるんだよね」  
「あの位の歳じゃね。けどいつもよりかなり張り切ってなかった?」  
「思うー。奥さん見てるからだよ絶対。なんか可愛いよね」  
 可愛い、という言葉にちょっとカチンと来た。イチは香子の前だと甘えて年上だという事を完全に  
忘れている。そういう所を独り占めしているのがちょっとした優越となっていたのだ。  
 だが、これまで香子はイチの社会人としての評価を人伝に聞いた事はあったが、実際にその姿を目に  
する機会など無かった。  
 当然ながらイチにも香子の知らない時間はあり、そこには知らない姿が存在する。  
「働くイチ君て、結構格好いいんだな……」  
 彼の全てを知ってるつもりでいた。だがそんな自分が知らなかった事を知っている誰かがいるという  
事実が、正直面白くないと思ってしまった。  
「(うわ。妬いてる?あたし……)」  
 ばかみたい、とごく小さな声で呟くと、やって来た誰もいないエレベーターに乗り込んだ。  
「わっ!ちょっと待って!!」  
「え!?きゃっ!!」  
 閉まりかけたドアめがけて男が一人乗り込んでくる。  
 驚いて顔を上げると息を切らしながらニッと笑う。さっきとは180度違ったいつものイチの顔だった。  
 
「下まで行く」  
 ゆっくりと動き出した密室の箱の中は、静かで不思議な空間となる。気まずいような恥ずかしいような  
何となく落ち着かない気分でいた香子に  
「あのな」  
とイチが話し掛ける。  
「子供の時にゲームのカードが流行ってさ、友達がレアカード見せびらかしてんの羨ましかったの。  
 で、ある日俺もまだ誰も持ってなかった奴が手に入ってさ、早速自慢してやろうと思ったんだけど」  
「……けど?」  
「なんかさ、惜しくなっちゃったんだよな。で、こっそりしまい込んで自分だけの楽しみにしちまった。  
 ケチっつーかなんつーかその、秘密にしとくのがなんか逆に気分良くなっちゃってさ」  
「……ふうん」  
 もうすぐ一階に着く。  
「あれが無ければ今だってチューの一つもしてやりたいってーのに」  
 ちらりと斜め上を見る彼の視線の先にはカメラのランプが光る。  
「つまりはそういう事」  
「え?」  
「お前は俺のレアカードだから。水着姿なんて大事なお宝、勿体無くて見せびらかすのが惜しかったわけ」  
 扉が開き、ロビーを出口に向かって足早に歩く。  
「……ばかみたい。子供みたい」  
「だよな」  
 むっと唇を尖らせて上目遣いにイチを睨んで足を止める。  
「子供だよ俺は。だからさー……たまにはプールとかで遊びたい時もあるわけよ」  
 香子の手に残る小さなもう一つの紙袋をひょいと取り上げると  
「あれ中身はタダの広報誌だったんだよね。本当は届けて欲しかったのはこっち、と」  
ぴん、と香子のおでこを弾き  
「こっち」  
と笑ってその弾いた跡を撫でる。  
「だからさー……俺のも土曜日までに選んで」  
 紙袋の中の弁当包みを覗くと満足げに笑う。  
「……今日卵焼き入れてないよ。昨日使っちゃったから」  
「そうか。じゃ、罰として今日も水着で待っとくように」  
「は!?な、何の罰?」  
 香子の耳元に唇を寄せるとごく小さな声で囁いた。  
「側にいるのに何にも出来ないんだぞ?仕事に身が入らなかったらどうする。なので昨日出来なかった  
 分隅々までチェックさせて頂こう」  
 真っ赤な顔で口をぱくぱくするしかない香子を、意地悪な目で眺め笑いを浮かべながら去っていく。それが  
またエレベーターに消えていった頃やっと  
「……どスケベ」  
香子もつられて笑った。  
 
* * *  
 
 夏も終わりに近づいたとは言え、やはり土曜日のプールは人が多い。  
「やっぱりカップル多いよな、ここ」  
とイチが今朝来る前に急いで店に寄って買ったばかりの海パン姿で周りを眺めていると、いきなり頭を  
後ろからがつんとどつかれた。  
「いでっ!!」  
「どこ見てんのよスケベ!」  
「どこって俺は別に」  
「うそっ!だってほらー」  
 思いっきりむくれた顔で香子が顎をしゃくる。胸の前で組んだ腕のおかげでできた僅かな谷間らしき  
線を惜しみながら彼女の指す方向へ目をやる。  
「ほらー。あそこの可愛いお姉さん達の水着姿見てニヤニヤしてたんでしょ!?」  
「ああ確かにいるな。けど俺は別になあ」  
「どうせ私はひんぬーですよ。あんなに胸大きくないし、くびれてないしっ!!」  
「まあ確かにどっちかっつうとロリ体型……ハッ」  
「……もういい」  
 ぷいと膨れたままスタスタと先を行く香子を慌てて追った。  
「……やっぱりわかってないよなぁ、あいつは」  
 程よい肉付きの柔らかな抱き心地の良い背中。  
 若く張りのあるぷりっとしたお尻が、歩く度に揺れる短めなフリル付きのパレオから覗く。  
 バイト仲間と何度も試着して選んだ明るい黄色に白の水玉ビキニは、香子の白い肌に綺麗に映って  
欲目抜きでも可愛いと思う。まあ、大きな胸を惜しげも無く晒す大人の女性も悪くは無いのだろうが。  
 しかし世の中には色んな好みがあるもなのだ。それを香子は解っていない、無防備だ、と思う。  
「ああ、言わんこっちゃない」  
 その自分を虜にしている白ウサギに近づく狼を見つけて足を速める。  
 端から見ればどんなもんだか知らないが、自分にとってはどこのどんな花より色鮮やかな花なのだ。  
 今日までに何度着せては脱がせたかわからないその水着姿を側で眺めるのは、自分だけの特権だ。  
 
「うちの妻に何か?」  
 
 目一杯大人の声色で自分を抱き寄せるイチを、香子はちょっと見上げてその腕にしがみつき、  
「レアカード……?」  
と小声で笑った。  
 
 
 
「終わり」  
 
 

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