* * *
部屋に入ると真っ先にスイッチを探す。明るい無人の部屋で冷蔵庫を開けると、タッパーに入った煮物を見つけレンジに
入れ、椅子に腰を下ろす。
ネクタイを緩めながらメールを送り、その先にいる妻に想いを馳せた。
一年前の今頃は、いわゆる『遠距離恋愛』。
「去年の今頃もこんなだったっけな……」
誰にともなく呟くと、ビール片手に煮物をつまみ、今は当たり前にある筈の温もりの無い空間を寂しいと感じる。
それを紛らわす為につけたテレビの音が今度は妙に耳障りに感じ、箸をくわえたまま手を伸ばしてリモコンを探り、
スイッチを押した。
こんな機会に午前様を気にせず飲みにでも行けば良いものを――そう考えるものの、こんな時に限って誰一人誘ってくる
者などいない。
だが、自ら連れ出す程の気力も残ってはいなかった。
いい年をして、妻が家を空けるのがそんなに寂しいのか、と情けないと言わんばかりの顔をされ、その友がいそいそと
可愛い娘と妻の待つ家に帰るのが羨ましくて堪らない。
香子――妻が何日も戻らない。といっても逃げられたわけではなく、親友の元へ泊まりに行っているだけなのだが――
初めてなのだ、結婚してから1人の夜を過ごすのは。
ぼーっとぬるくなりつつあるビールをちびちびやっていると、携帯にメールが来たのがわかり、慌てて床に落とした
それを拾い上げ開く。
『お帰りなさい(^_^)明日予定通りに帰ります。面倒臭がらずにご飯もチンして食べてね』
何気ない内容にも口元が綻ぶ。単純な男だ、と自分に苦笑しながら冷凍庫からラップに包まれた白飯を出しレンジにかけた。
ほんの少しの寂しさだけなら、明日になれば終わる。
そうすればこの何かが渦巻く胸のもやもやともおさらばできるのだろうか。
何かを振り切るように空けかけの缶を飲み干すと、二本目を出しに冷蔵庫の扉を勢いよく開けた。
* * *
「綺麗ですねぇ」
上司から渡された写真を見てそう述べると、にこやかに顔を崩す様につられて頬を緩める。
「お嬢さんのお見合い写真ですか?」
「まさか!成人式のだよ。当日だと混雑するんでな、面倒だが前撮りってやつだ。まだ出してたまるか!!」
振り袖のそれを見ててっきり、と思ったのだが。
「すみません」
「君んとこは来年だっけ?奥さん」
「あ……うちは」
「人妻だからって気にしなくていいんじゃないか?振り袖位着せてやれ。レンタルならいいとこ紹介してやるぞ」
「そう……ですね」
まだぎりぎり十代の香子だが、来年には成人式だ。本当なら写真の彼女のように振り袖を着せてやろうと思っていた。
そのための貯えもしてあったし、その先も――そう考えて準備をしてきた。
それは自分と結婚した事で半分果たされはしたものの、あとは無かった事のようにゴタゴタに紛れてそのままにされていた。
これまで気にしてなどいなかった――というより考えもみなかった色々なことが、彼の頭を掠めていった。
退社時間を少し過ぎて建物を出た。駐車場までの距離はさほど無いものの、1月の寒さは厳しくて思わず首を竦める。
「こんな日はおでんが食べたいな……」
途中でコンビニにでも寄ろうかとも思ったがやめた。独り暮らしの頃はよく買っていたが、毎日手料理を食べるように
なると手作りの方が断然良い。
少し早めに着くと、次々と出てくる人の群れを眺めながら自販機で買ったコーヒーを飲む。
そのうち待ちわびた顔をその中に見つけ、缶をゴミ箱に放り込むと急いで駆け寄った。
「イチ君!迎えに来てくれたの!?」
声を掛けるより早くこちらに気づき、小走りで駆け寄ろうとして――はっとしたように歩を緩めた。
「?……お帰り。荷物持つよ」
遠慮がちに荷物を渡しつつ、足下に視線を落とす。それを多少怪訝に思いつつも口には出さず、努めて明るく聞いた。
「りっちゃん元気だったか。楽しかった?」
「うん、久しぶりに他のコ達とも集まって楽しかった!」
「そうか。疲れたろ?このまま飯食いに行こう」
気のせいだと思いたい。
彼女が、何かを隠していることを。
それを知られまいとしていることも。
* * *
「なあ早川、デートってどこ行きゃいいの?」
「ぶはっ!!……何だいきなりお前は」
啜っていたそばをむせそうになりながら茶に手を伸ばす。
「悪い。いや、マナちゃんとどうだったのかなと思って」
「別に意識してした事はねえな。観たい映画があったらとか、何となく……ぶらぶら出掛けたり、だな。何だ、お前だって
女がいた事くらいあるだろが」
「もう忘れちゃったよ」
そんなのは遠い昔の話だ。
学生時代はそれなりに付き合っていた彼女もいた事はあるが、さほど深入りしない内に別れてしまった。そのため余り
ちゃんとした恋愛をしたという意識が無い。
その後すぐ結婚を意識した女性に逝かれ、香子を手元に置いた。それからはそんな機会は無かった。
「香子がさ……」
今朝の様子を思い出しながら、イチも湯呑みを手にし肘をつく。
「……デートなんかしてみたかった、って言うんだよ、急にさ」
「何だそんな事か。要は遊びに連れてけってんだろ?それ位聞いてやれ」
「ああ……そうか。そうだな」
考えてみれば、香子と自分にとってはほとんど交際期間というものが無いに等しい。
彼女を引き取ってから丸9年、そして10年目を迎える。
互いの気持ちを確かめ合った時はもう離れてしまうつもりで、香子を先日会いに行った彼女の友人宅に預けて、
自分だけが今の土地に移り住んできた。
それを結局は当時まだ高校生だった彼女の卒業まで待つことにしたのだが、いわゆる遠恋のためにデートらしきものは
ほとんどした記憶が無い。
一緒に買い物や食事に出たことはあるものの、そういうのとは違ったものを言っているのだろうと思い、親友の
早川に聞いたのだが。
「何の参考にもなんないよ……」
「悪かったな。出不精だからな俺は」
そう言いながらも、子供が産まれてからは何だかんだとレジャー施設を探してはいそいそ出掛けている。
変われば変わるものだ。
――自分は香子を喜ばせてやろうとした事があっただろうか。
「……あ、ごめんちょっと今いい?聞きたいことがあるんだけど」
トレイを手に立ち上がると、近くにいた女子社員に声を掛けた。
* * *
「明日、映画でも行こうか?」
「えっ?何よいきなり」
「だって、お前が言ったんじゃないか」
「あ……そうだけど……いきなりなんだもん。そっか、映画ねえ」
「観たいのある?それか遊園地行こうか。天気も良さそうだし。ただちょっと寒……」
「あ、いい!だったら映画にする。あのほら、こないだCMしてたあれ、リメイクの。イチ君が嫌じゃ無かったらあれにする」
「俺はいいよ。……じゃ、あれにしようか。ああ、香子ビールまだ冷えてる?」
「うん。出してくるね」
ご機嫌で空の缶を持ち、冷蔵庫を開けに行く後ろ姿を見ながら鍋をつつく。
会社の若い女の子達にあれこれリサーチしてみたものの、結局人それぞれでさほどよく解らなかった。
昨日ボソッと洩らした言葉を覚えていて、今日はおでんを作ってくれた。普段ならつい寛ぎ過ぎて酔っ払うからと禁止
されているのだが、休み前だからとコタツで一杯のお許しも付いて。
疲れた体に染み渡る温もり、妻の優しさ。これ以上に幸せなものなど望むべきではないのかもしれないがと思いつつ、
缶を手に戻った香子にそれを手渡す。
「これ、今日仕上がって来たんだ。俺からも色々頼んでみてたからいい感じだと思うんだけど……細かい事はやっぱり奥さん
の方が、って言うからさ。いっぺん目通してみて」
それは家の設計書だった。
イチは建設関係の会社に勤務している。早川が自社の関わった物件を購入する事になり、その伝手で勧められ自分も
どうせこの地に落ち着くつもりだからと思い切って手頃な家を買うことに決めた。
所謂建て売りではあるが、幾らか追加すれば融通がきく。腕が良く気心の知れた人間が担当者とあって、自分の意見も
入れつつほぼ全面的に任せてあった。
「……家かぁ」
初めに話をした時には、驚きながらも目を輝かせながらパンフレットに目を通し、あれこれと理想を並べてはしゃいでいた
ところを見ると、本心から喜んでいたのだろう。
「わかった。――へえ、対面にするとちょっと狭くなると思ったんだけど……」
「……ああ、その分収納の位置変えたから」
少しだけ曇った表情。本人はきっと、それを気付かれているなどとは感じていないのだろう。
だからイチも知らない振りをする事にした。
* * *
翌朝目が覚めると、香子の姿がどこにも無かった。
慌てて風呂場からトイレ、ベランダに至るまで決して広くはないマンションの部屋を隈無く探し、青い顔でキッチンの
椅子に座ったところでテーブルの上のメモに気が付いた。
『先に出ます。駅前の本屋にいるから起きたら来て』
側にはラップをかけた朝食があり、コーヒーメーカーもセットされてある。
一体何なんだ、と携帯を探そうとしてある事に思い当たり、そのまま黙々と食事を取り始めた。
昨夜出掛ける計画をたてているときにぼそりと呟いた一言を思い出したのだ。
『たまには……待ち合わせとかしてみたいなぁ』
一緒に暮らしているわけだから、当然外出の際には同時に家を出て同時に帰る。だからたまには変わった事が
してみたかったのだろう。それ位の我が儘など別に構いはしない。
だが、問題はそこではない。それ以前に不自然な事が多すぎるのだ。
このところ香子の様子がおかしい。
家を買おうと決めた時は飛び上がらんばかりに喜んだ。庭が広くて設備も豪華――というわけにはいかず、今の自分の
稼ぎでなら何とかなるという程度の家だ。これまで賃貸暮らしで初めて自分の家が持てる。その事を純粋に喜んでいる
ように見えた。
だがここ最近、そう本当に最近になって、具体的に話が進み出すと手放しで喜ぶ事無くどことなく不安を抱えた表情を
浮かべるようになった。
不満があるのかと聞けばそうではないと言う。そんな彼女にイチは『生活の変化に対するちょっとした不安があるの
かもしれない』と考えるようにした。
高校を卒業したばかりでいきなり“人妻”にしてしまった。今までとは違い、個人としてだけではなく“八神家”の顔
として頑張って貰わなければならない。その重圧は想像以上に辛いのではないか――。
今回突然親友に会いに行きたいと言い出したのも、知った人間の居ない街に来て、里心がついたのかもしれない。
それだけならいいのだ。
だがイチの心にはもっと重い不安がのしかかっていた。
――香子が抱かせてくれないのだ。
* * *
「お待たせ」
奥の方でうろうろしていた香子を見つけて声を掛けると、少し驚いた様子で振り向いたが、すぐ笑顔を見せる。
「あ、意外と早かったんだ。もうちょっとゆっくりしてくれて良かったのに」
「何だよ。待たせちゃあれだし……せっかくのデートなんだから」
「……そっか」
イチの袖口をつんと摘んで俯く。
「なんだよ」
「ふふっ」
怪訝に思って覗き込んだ香子の口元が弛んでいるのを見て、思わず自分もにやけてしまう。
「んじゃ行こうか」
香子の手を握りながら店の出口へと向かう。
「どれくらい待った?」
「ん〜……けどゆっくり本が捜せたからいいよ。立ち読みで吟味できたし」
「……何か欲しいの?だったら待っとくから見ろよ。買ってやるぞ」
「ううん、いい。また今度で。……それより早く映画館行こ?今からなら多分次の回間に合うよ」
「ああ……」
何を捜していたのだろう。ちらりと香子の居た辺りを見てみるが、実用書や地図などジャンルが幅広すぎて見当がつかない。
無難に今話題の恋愛物を観る事にした。内容が内容だけにカップルか女同士の客が多い。
こうして二人で映画館で映画を観るなんて初めてだ――とこれまでの自分達を思い返してみる。
大概レンタルで済ませていたし、わざわざ待ち合わせて出掛けるような事もなかった。
一緒に暮らせる様になったら、あれもしてやろう、ここへ連れてってやろう等と思い描いていたのに、いざそうなると
仕事や生活に追われているうちに、いつでも傍にいてくれるのだからとなり――また今度と先延ばしになるのも当然の流れ
となってしまっていた。友人にチケットを貰ったり、何かきっかけでもなければせいぜい外食どまりだ。
結婚は生活だ。どんなに愛し合っていても、いざ一緒に暮らし始めれば噛み合わない数々の事に気持ちが冷めてしまう
場合もある。幸いなことに自分達はその基盤は出来ているから何の不安も無い筈だ。
だが、普通それに至る前の段階――恋人同士と呼べるような時間が自分達にはほとんど無いに等しい。なのに結局何も
してやれなかったとイチは今更それを悔やみ、スクリーンを見つめながら唇を噛んだ。
「行きたい所がある」
映画館を出た後香子にせがまれてやって来たのはショッピングモールだった。
「服でも欲しいのか?」
「ううん、そうじゃないの」
言葉通り、いつもは買わないのに覗きたがる彼女が好みそうな店も素通りしてゆく。
香子に従い黙って付いて歩いていくと、中心地にある広場に出た。そこにある巨大なある物を見上げながら
「あれに乗りたい」
と指をさしてねだる香子の姿にふと蘇る記憶。
新しく出来た観覧車に乗り込みながら思い出すのは、2年前のあの1日。
「ねえ、あの日のこと、覚えてる?」
「……ああ」
親代わりに育てた彼女を手離すつもりで、最後の思い出作りに出掛けた。その時もこうして観覧車に乗って肩を寄せ合った。
「そっち行っていい?」
「いいよ」
狭いと文句をいいつつ、ぴったり寄り添う。そう、こんなふうにすぐ傍にある頬を撫でて、
「あっ――だめ」
「……ごめん」
――あの日と同じように口づけようとしたイチの肩を、そっと、しかし頑なに押し返した。
「……やっぱりな」
深く、しかし震える声を零しながら息を吐き出しつつ呟く。
「え……なに?あ、えっとこれは」
押し戻された体をそのまま黙って離し向かいの席へ移るイチに戸惑いながら、香子は自分が今相手にした仕打ちに対して
はっと思い返し自分も後を追う。
「いいよ、そっちにいたら」
腰を浮かしかけた体を制し、香子を傍に寄らせまいとする。
「イチ君……あの」
「いいから」
言い訳など聞きたくないとでも言うように首を振り、顔を逸らしたまま俯いた。
「……最後、だったんだよな。あの時も」
最初で最後、そう思って香子を抱いたあの日。
十も下の女の子――だが娘と呼ぶには愛が過ぎた――まさか今のように結ばれるとは夢にも思わなかった。
だが、夢はいつかは醒めてしまう日がやって来てしまうのだと、幸せだった筈の昨日までの時間に想いを巡らせながら、
声もなく見つめる香子から目を背け、イチはただ一刻も早い地上への帰還を願うだけだった。
観覧車を降りてから一言も話さず先を歩くイチに香子も黙ってついていく。
「あっ……!?」
そのままショッピングモールを出て尚歩を緩めようとしない彼に離されまいと駆け出しかけて、僅かな段差に足を取られて膝から転んでしまった。
「いた……」
小さな声で呟きながら、身を縮めて何かを抱き締めるような格好でその場にうずくまる。
周囲の人々の目線やほんの僅かなざわめきに、やっと背後の異変に気付く。
先程から強くなってきた耳を斬るような風の音と騒々しく流れてくる音楽に、香子の足音など簡単にかき消されて
聞こえなどしない。
――いや、それだけじゃない。
「大丈夫か!?ごめん。俺が……」
「……へーき」
「嘘つけ!血が出てるぞ」
見ればストッキングの膝が破け、両膝それぞれに擦りむいた痕がある。
「本当だ……いたた、やっぱり痛い。見たらだめだね、こういうの」
途端に顔を歪め痛みを訴える香子の腕を取って抱き上げる。
「歩ける?」
「ん……」
そう言いつつも香子の手はずっとコートの前を押さえたままで、時折視線をそちらへ落とす。
「腹でも痛いのか?」
「そんな事ないけど……ちょっと休みたい。着替えなきゃいけないし」
「気分でも悪くなった?帰る?」
「それは……」
嫌なのか。香子がこんなちょっとした我が儘を言うのは珍しい。これまでも、特に一緒になるまではイチにあれこれ
せがんだり強請ったりした事はほとんど無かった。自分を育てるために働いているイチに気を遣っていたのだろう。
自分のせいだ、とイチはまた唇を噛んだ。
しなくても良い怪我を負わせて、言いたい事まで呑み込ませて。
同じ年頃の女の子のように、自由を楽しむ事は許されず、これからの人生を自分によって縛らせた。
成人式の振り袖位は着せてやれるだろうが、考えてみれば式も挙げてないのだ。写真さえ撮ってもいない。
幸せにすると誓ったのに、夫としても育ての親としても――自分の、そして香子の母親にも申し訳が立たない。
――ずっとついて来てくれているものと、ついて来てくれるものと思っていた。
背を向けた罰が当たったのだと、膝の傷を痛々しく眺めた。
「それ、何とかしなきゃな」
傷の手当ての出来る場所はないかと考えを巡らせていると、握りしめた手のひらに強い力が流れ込んでくるように感じる。
「あの……さ」
「ん?」
「まだ行きたい所があるの」
イチの記憶の隅にあるほんの些細なやり取りが、ぼんやりと頭のどこかを掠めてゆく。
「……いいよ」
香子の行きたい所でいい。
それが精一杯の応えだった。
* * *
「とりあえず、傷洗っておいで」
香子をバスルームに追いやると、買い物袋を放り出しベッドに倒れ込む。
真っ昼間からこんな所に来る羽目になるとは、と聞こえてくるシャワーの音に耳を傾け目を閉じた。
『いきなりこんなトコでごめん。俺そういうのわかんなくて』
『それがいいの。だってめったにこんなチャンスないよー』
最後にと思い出作りをしようと決めて初めて男と女になったのは、ちょうど2年前の今頃だった。
香子から誘ってきたのは、彼女なりの覚悟と決意の表れだったのだろう。だが、自分はそれを全て受け止める勇気も覚悟も
持つことが出来なかった。
今になってそれを死ぬほど悔やみ、自分の不甲斐なさを思い知るとは。
拳を握り締め、叩きつけたマットに跳ねたそれが沈む。ぼんっと言う間の抜けた布団の音に重なってバスルームのドアの
開く気配がした。
首を持ち上げてみれば、備え付けのバスローブを羽織った香子が脚をタオルで拭っている。
「スカート濡れちゃうし、面倒だから。すごい広いよ!どうせならちゃんと入りたかったけど……」
残念そうにイチの横に座る。ちらりと捲れた裾から下着が覗くと、押し倒したい衝動が湧き上がってくるのを堪え、
先程の袋から、来る途中見つけたドラッグストアで買った薬と替えのタイツを出し、枕元の棚に並べる。
「何がおかし……いたたっ」
「いや。……ほら、無理に曲げ伸ばしすると痛いぞ。楽にして」
ベッドの中央に脚を投げ出すように座らせ、消毒薬と貼り薬で覆った手当てをする。
「……ありがと」
「いや、俺のせいだから」
そう言うと香子に背を向けベッドの端に腰掛ける形で座った。
「まあね。私の事ほったらかしてっちゃうからだよ」
「ああ、俺のせいだ……」
がっくりとうなだれたイチの後ろ姿に、香子は自分が冗談混じりで責めたつもりの言葉が酷く冷たく白けて行き場の
ないものになった気がした。
「あ……ごめん。そんなつもりじゃ、いいよもう。ほんっとに気にしな」
「いいんだ!」
自分の肩に置かれた香子の手を振り払うように身を捩る。そしてそのままその背中を丸めて頭を抱えて震え出す。
「いいんだ……もう」
「イチ君?」
弾かれた手は宙に浮いて行き場を失う。何が彼に起こっているのか、というよりも彼が“怒って”いるのか、
それとも――。
「イチ……君」
まだ少しぴりりと走る膝の痛みを堪えベッドを下り、イチの前に跪く。見上げた彼の表情に一瞬息を呑むが、そのまま
無言で膝にある震える拳を自らの手で包み込み頬を寄せた。
「……でくれ」
香子の手の甲にぽとりと雫が零れる。
「ごめん。だから行かないで、香子」
一体何を言っているのだろうかと眉を寄せ首を捻る。
「何?どこに行くって?ここにいるじゃん。行くとこなんかありませんよ〜」
「そういう意味じゃないんだよ……」
香子が他に行く宛てなど無いのは自分が一番良く知っている。
だからこそ大事にしてやらなければならないというのに、どこかで胡座をかいていい気になっていたのではないか
と思うのだ。信じていた彼女への自分への気持ちも含めて。
「お前を離したくない……」
一度は諦めた、下手をすると端からは道ならぬ恋と思われたであろう愛おしい存在を、知ってしまった優しい温もりを、
どんなことをしても――例え悪あがきと思われようとも――二度と失いたくはない。
「えっ!?何それ!離れるって……」
「だってお前、俺のこともう……」
「はあっ!?ちょっ……」
今まで優しく添えていた筈の手でイチの両頬を押さえると、ぐいっと強引に自分に見えるように顔を上げさせる。
「な・ん・だ・っ・て?」
「え……えっとだって俺に愛想尽かしたのかと」
「!!……なんで!?なんでそういう話になんの!?おかしいと思ったんだよ!何よ、ぐじぐじそんな事1人で考えてたなんて。
勝手に何でも抱え込んでさ!イチ君の悪い癖だよそういうの」
「っ……じゃ、じゃあ、聞くけど、お前はどうなの?ここんとこ変だぞ。急にりっちゃんに会いに行ったり」
「友達に会いに行ったら悪い?イチ君てそういうの縛るタイプだったんだ」
「違……それに、家の話だって進むにつれてノリが悪くなったし、今日の行動だって考えようによってはまるで……」
あの時の、あの日の流れを再現しているようにも感じられる。
「それは……だって……最後になるかもしれないから……」
最後。
一番恐れていた事が現実になる。その絶望感で頭が一杯になると、そこから溢れ出す感情を抑える事が適わなくなった。
香子が困惑した顔で見つめるのも構わず、子供のようにしゃくり上げる。
「……イチ君」
「なんだよ」
「なんか勘違いしてる?」
「何がだ。だって最後なんだろ?家、買うのは一緒にずっと暮らすってことなのに。それがあんまり気乗りしないのは
それが重くなったからだろ。本当はどこかで俺と結婚なんかしちゃって後悔してるんじゃないのか?」
19歳ならまだ遊びたい盛りだ。久しぶりに親友に会って、住み慣れた地に里心でもついたのかもしれない。
「俺ヘタレ男だしさ。真面目だけが取り柄の女々しいおっさんなんか……」
「ちょっ」
「いや、いいんだ。……最近は触られるのも嫌だって感じだし。そろそろ加齢臭もするしそりゃ嫌だよな」
「……は?」
話が一向にのめずにいる香子に思わず苦笑いし、鼻を啜りつつ精一杯の気力を振り絞る。
「最後まで格好悪いな。短かったけど幸せだった。今までありがとな、香子」
そう言って自らの薬指から指輪を外そうとする。
そこまできてようやくイチの言わんとすることに気が付いてそして、
「……ちょっと待って!勝手なこと言ってんじゃないっ!!」
「はいっ!?」
――香子がキレた。
「黙って聞いてりゃなに?いつ、いつ私がイチ君のこと嫌いだとか、重いとか後悔してるなんて言った?ねえっ!?」
「いや、だってあの……」
「何!まだぐだぐだ言い掛かりつける気?」
「……いえ。あ、でもセーター伸びる……」
「じゃあ黙って聞きなさい」
「はい」
涙があっさりと引っ込んだ。とりあえず目の前で自分の服の胸元を掴み立ち上がって見下ろす妻に逆らうのは危険と
判断した。賢明であろう。
手をぱっと離されて勢いでひっくり返りそうになるのをなんとか堪える。マットの上なら何の心配もないが、余りに不様だ。
特に今は。
「……最後って言うのはね、もうこれからはこんな機会は持てなくなるからって思ったからなの。……私達、元々家族だった。
だからいわゆる『普通のお付き合い』っぽい事してみたかった。外で待ち合わせして、お茶とか映画とか、それから
……みたいな。たまたま何となくあの日と同じみたいになっちゃったけど、私はただ懐かしくて……けど、まさかイチ君が
そんなふうに思うなんて」
「深読みし過ぎだって?」
「そうだよ。大体さあ、私の事信用してないわけ!?頭くる!」
「じゃあ……なんで……俺のこと拒むのさ」
「えっ?」
「もうひと月は軽く……」
「……ああ……うん……それなんだけどね。まだ、ちゃんとわかってなくて、でも多分間違いないと思うんだけど、
はっきりするまでは、って……。私だって、我慢……してたんだよ」
「何が?」
黙ってイチの横に並んで座り、彼の膝の手をとるとバスローブの結び目の下に持って行く。
「香……」
「いるの」
「えっ?」
香子は自分の下腹部にある手の温もりをそっと押し当てながら、今度はイチの顔を見上げて僅かに頬を染めた。
「いるかもしれないんだ」
突然降ってわいた思いもよらない存在。
「ほ……んとに?」
「まだ、病院行ってないけど、アレ……無いし。判定薬は陽性が出たから多分。あれ結構正確らしいし」
まだ信じられないという面持ちのイチに今度は香子に不安が募る。
「……そうか」
ぽつりとそれだけ呟くと顔を逸らす。
喜んでくれないのだろうか。
これまで、もし間違いであったらぬか喜びをさせてしまうかもしれないと慎重にそれを守ってきた。そろそろ限界に
きていたとはいえこんな形で伝えるのは多少不本意だが、それでも彼ならばきっと望んでいる筈だ。ならば――と。
だが訪れた沈黙が、これまでの暮らしで培ってきたその自信が脆くも崩れ去ってしまう――かに思えた。
その時だ。
お腹に当てた手はそのままに、また鼻を啜る音がする。
「……うそでしょ?」
さっきとは明らかに意味は違うだろう。だが、大の男が、それももうすぐ三十路に手の届くという人間が今日だけで
何度涙を見せる気か。
「もう……」
それに対する不安はどこへやら、違う意味でまた香子は頭を痛めそうだとため息をついた。
「イチ君、それ、喜んでくれてる?よね」
「当たり前だ!ばか」
ばっと振り返ると、勢いよく香子を抱き締める。
「たった1人の肉親だった母さんに死なれて、兄弟もいなくて。そんな俺に……血を分けた自分の子供が生まれるんだぞ?
それも惚れ込んで一緒になったお前が産んでくれるんだぞ?嬉しくないわけないだろうが!何で早く言わないんだよ〜」
「だって……そしたらりっちゃんに会いになんか行かせてくれなかっただろうし」
それを聞いてハッとする。
「そうだ!お前、あんな距離……新幹線は揺れるし疲れるんだぞ!何ともないか!?ああもう、もし具合でも悪くなってたら」
「ほらね〜。大丈夫だよ。まだ何にも身体変わんないし悪阻もまだだし。これからはもっと会えなくなると思ったんだもん」
「それにしたって……じゃあもしかして家も関係ある?」
「バイト辞めなきゃなんないから。また、イチ君に1人で負担掛けるし。ローンも始まるし……」
「ばか!それが俺の仕事なんだよ。お前はただ自分の身体の事だけ考えてりゃいいんだ。だから……」
睫毛に残る涙を光らせて、まっすぐ香子を見つめる。
「ごめんな。それから……ありがとう」
今度は香子が泣く番だった。
(続く)