僕、長野陽一がその猫を拾ったのは十年前だった。
「……」
「……」
冷たい雨が降りしきる肌寒い日。
遊び場の公園の真ん中でうち捨てられたかのように横たわっていた。
てっきり死体かと思ったのだが、生きていた。
そして目が合ったのだ。
「……」
「……」
どれくらい見つめ合ってたのか、たぶんそんなに時間は経ってなかったと思うのだけど、
結局抱きかかえて家に連れ帰った。
ちなみに、猫はかなり酷い怪我をしており、猫の血と泥で洋服が凄い事になってしまい、
家に帰るなり大怪我でもしたのかと母さんに誤解されたのは今からすれば笑い話だったりする。
「可愛くない猫ねぇ」
とりあえず事情が判明した後の母さんの第一声がそれだった。
「……」
まあ、確かに言うとおり可愛くない。
これが子猫だったらともかく、すでに成人(?)した野良猫である。
(後で獣医に見せたのだが、恐らく八才前後(人間でいう五十歳弱)ではないか、と言っていた。
野良でこの歳まで生き残るなど奇跡に等しいとも)
それに、長い野良生活のせいか、この猫はどこか荒んだ感じだった。
後に知ったのだが、野良猫を触ることなど普通はできないらしい。
それがこうして小学生の身で抱きかかえることができたのは、
多分抵抗する気力が無いほど、弱りきっていたのだろう。
どうしてこんな猫を連れて帰る気になったのか、と母さんに不思議がられた。
僕自身今思えば不思議である。ひょっとすると、このころ、学校で飼育係だったからかもしれない。
それはともかく、何だかんだ言いつつも、母さんはこの猫を近所の獣医に見せる手配をしてくれた。
で、獣医にも診せ(獣医も呆れていた、何でこんな猫を? と)
「怪我が酷いし、だいぶ歳もとっている。治るかどうかは半々だぞ坊主」
何て言われつつ、家に連れ帰り、自室で獣医の指示通りに看病した。
ちょうど冬休みだったおかげで、三日間付きっ切りで看病することができた。
三日後、起きたら猫の姿は無かった。
やけに寒かったので目が覚めたら、部屋の窓が少し開いていたのだ。
「やっぱり野良猫だからかしらねぇ。
でも窓を開けれるなんて随分頭の良い猫よね」
「……」
落ち込んでいる僕を慰めつつ、母さんは呟いていた。
が、その夜
「……ナァ」
「あ、お前っ」
カリカリと部屋の窓を引っかく音が聞こえたので開けてみれば、猫がいた。
それ以来、この猫は家に居着いた。
と言っても懐くのは僕に対してだけで、それもお世辞にも愛想が良いとは言えなかった。
一階の僕の部屋をねぐらとし、餌を出しても僕や家族が見ている前では決して食べなかった。
ふらりと家を出て二、三日戻ってこないなんてことも珍しくなかった。
まあ、それも最初の一、二年くらいで、それ以後は、僕の部屋の日当たりのいい窓際で寝そべることが大半となる。
多分、歳のせいだろう。
そして時折自分で窓を開けて、周辺を散歩して家に戻る。
そのため、僕の部屋の窓は、鍵をかけなくなった。
二、三年後には僕からの餌は目の前で食べてくれるようになったが、それでも愛想の無さは変わらなかった。
甘えてくることなど決してなかった。
そういうわけだから、名前を付けることもしなかった。
ただ、『ネコ』と呼ぶことにした。
そう告げたとき、『ネコ』はつまならそうに欠伸をしただけだった。
肯定の意思と受け取った。
そんな感じで、互いに深く干渉することもなく、共に過ごす事十年。
特に思い出があるわけでもないが、それでも傍らにいるのが当然と思えてくる日々。
そして、僕が大学進学を決め、一週間後には家を出て一人暮らしをするという、そんな日。
「あんた、ネコどうする?」
「ん……」
夕飯を食べていると、母さんが言ってきた。
「あんたがいなくなったら、世話する人いなくなるし」
「うん……」
僕にも懐いていると言うわけでもないが、それでも僕の世話は受け入れてくれる。
「下宿先に連れて行けないの?」
妹のゆうが聞いてきた。
「聞いてみたけど、だめだって。それに、引越しに耐えれるとは……」
「そうよね……ネコはもう……」
それ以上母さんは言わなかった。
僕も妹も黙った。
ネコはここ数年食事の量もめっきり減り、日課だった散歩もしなくなっていた。
そろそろだ、と僕も家族も、分かっていた。
考えてみれば瀕死の重症を負っていた初老の野良猫が、十年も生きたのである。
大往生というべきだろう。
それでも、キッチンにしんみりとした空気が漂ってしまう。
僕は母さんとゆうにネコの世話をくれぐれも頼むと、部屋に戻った。
ネコは、いつものお気に入りの窓際にいた。
月が明るく照らすその窓際で、丸くなっている。
僕は電気も点けずに、ネコの傍に座った。
「ねえ……」
「……」
ネコからの反応は無い。
でも十年来の付き合いだ。ごく僅かに耳を動かしたのが分かった。
これは起きていると言う証しである。
「僕ね、大学に通う関係で、一週間後にこの家を出る。
お前の面倒、見れなくなっちゃうけど……その、ごめん。
母さんとゆうに世話を頼んだから、お前は嫌かも知れないけど、我慢してくれるかな?」
「……」
返事なんかあるわけなくて、まあ、あったら怖いけど。
「夏になったらさ、戻ってくるからさ……だから、その……」
それまで生きてて欲しい、その言葉が言えなかった、どうしても言えなかった。
そしてその夜、夢を見た。
『……イチ……ヨウイチ……』
「ぅ……」
耳元で、低いしわがれた声がした。
ゆっくりと目をあけると、枕元にネコがいた。
猫の口が動く。
『……ヨウイチ』
「……」
なぜか僕は驚かなかった。
脳みそがまだ眠ってたのか、異常事態についていけなかったのか。
「……ネコ?」
『……』
ネコは僕の枕元で、行儀良く姿勢を正している。
相変わらず愛想の無い顔ではあったけど。
「えっと……夢?」
『そう思いたければそれでも良い』
猫の口が動く。やたら渋い声だった。
「……」
身体を起こしかけた状態で、声も無く僕はネコを見つめた。
「ネコ……お前喋れたんだ」
『……そんな事、どうでも良い。とりあえず座れ』
「う、うん」
中途半端な姿勢だった僕は、起き上がると布団の上に正座した。
ネコと向かい合う。
「……」
『……』
僕たちは何も言わずに見つめ合った。
『今生の別れを告げに参った』
いきなり言われた。
「え……?」
言葉の意味を理解するのに暫くかかった。
「ネコ……お前……」
『夏まで、此処には戻らぬといったな』
「うん……」
『……それまで、最早もたぬ』
覚悟はしていた。
それでも本人、いや本猫にはっきり言われるとショックだった。
『感謝する』
ネコはそう言って、頭を下げた。
『……お主のお陰で、これほどの平穏な老後を送ることができた』
「……」
何も言えなかった。
そして……
『……大の男が何を泣く』
「……ごめん、でも……」
仲良かったわけじゃない。互いに傍にいただけである。
ただ、それだけだと言うのに、涙が溢れた。
『本来なら、十年前のあの日に無くした命、それを今日まで生き長らえたのだ……。
喜びこそすれ、悲しむ奴があるか』
「うん、うん」
ダメだった、止めようと思っても涙が止まらなかった。
『……』
ネコの表情がほんの少し動いた。
微笑んだように僕には思えた。
『良い男だな、主は……これなら、任せてもよいか……』
ネコが何か言っていたが聞き取れなかった。
『お主に礼をしたい』
この言葉ははっきり聞こえた。
「え? いいよ、そんな……」
『すでに準備はしたのだ。拒否権は無い』
「……」
この家に居ついた頃からゴーイングマイウェイな猫だったが、
最後までそれは変わらないらしい。
『礼は、必ずお主の元に送る』
「……分かったよ、ありがたく頂戴いたします」
うむ、とネコは頷いた。
『では、な。さらばだ、ヨウイチ』
ネコは立ち上がると、窓際へと飛び乗った。
「ちょ、ちょっと、ネコ!?」
ネコは散歩のときいつもしてきた様に、器用に窓を開ける。
振り返ることなく、ネコは言った。
『お主のいない家に留まろうとは思わぬ。どこかで静かに、死ぬとしよう』
「……」
止めようとするのだが、身体が動かなかった。
声を出す事もできなかった。
『我はここで十分幸せであったぞ。お主も幸せになれるよう祈る』
その言葉を最後に、僕の視界は真っ黒に染まり、気を失ってしまったようだった。
次の日の朝。
目が覚めるなり跳ね起きた。
ネコの姿を探す。お気に入りの窓際にその姿は無かった。
そして、窓が少し、開いたままになっていた。
溜息をついた。
「……さよなら、ネコ」
……………………………………
一週間が経った。
かなりブルーな気分になってたものの、
引越しの準備やら大学のほうの手続きやらで多忙だったのがありがたかった。
「……」
それに、ネコはお礼を言って去っていったんだ。
いつまでも悲しんでいたら、かえってネコに失礼だろう。
「じゃあ、行ってきます!」
「いってらっしゃい。しっかり勉強すんのよ」
「あーあ、あたしも一人暮らししたいよ」
「あと二年後まで我慢することね」
母さんとゆうに見送られて家を出た。
ちなみに、例の夢の件を話したら、妹は全然信じなかった。
母さんは「まあ、そういうのもあるかもね」という反応だった。
それはともかく、列車に揺られる事二時間弱。
そこが、僕の下宿先になる。
念願の一人暮らしということで、気分は高揚してしまう。
荷物は昨日までに全部送ったから、着いたらまずダンボールを開けて、整理して……
「着いたっと」
荷物搬入のさい、これから暮らすアパートを確認したのだが、
そのアパートは結構綺麗で、部屋も思ったより広い。
大家さんに挨拶し、早速部屋に向かう。
「お邪魔しまーす」
微妙におかしい挨拶な気もするけど、まあ最初だし。
で、ドアを開けたら、玄関に
「お帰りなさいませ」
……………………
「……………………」
パタンとドアを閉めた。
無言で部屋番号を確認する。
うん、間違いなく、ここは僕が借りた部屋だ。
幻覚でも見たんだろう、ともう一度ゆっくりドアを開ける。
「お帰りなさいませ、陽一さま」
ご丁寧に三つ指までついてくださってました。
ちゃんと僕の名前まで呼んで。
これは何かのドッキリですか?
「あの……えっと……ここ、僕の部屋……?」
「はい、ここは陽一さまがお暮らしになるお部屋ですよ」
目の前には和服姿の女性がいて
その女性はとても綺麗な人で
そんな人に艶やかに微笑まれて、僕はパニックになっていた
「あの……えっと……君、は……?」
腰まである長い髪をした和服の女性は、たおやかに微笑んで、言った。
「お祖父さまの遺言によりこちらに参りました。
本日より、陽一さまに、生涯、お仕えさせて頂きます、『鈴音』と申します」