「ただいま〜」
弟、航(わたる)がその日の高校生活を終えて帰宅したとき。
貧相ながらも一戸建ての自宅、その内部の空気がなにやらおかしいことを、その肌が感じ取った。
うなじから背中、肩胛骨あたりの肌が怖気に縮こまり、つぷつぷと毛穴が閉じていく感触。
額からにじみ出た汗が、眉間を通って右に流れ、鼻の横を伝い落ちていく。
きん、と鼓膜が震え、空気が張り詰めていることを耳鳴りが教えてくれる。
「こ、これは・・・」
航は、玄関の三和土に突っ立ったまま、自分をさいなむその空気の発生源を探った。
居間だ。
その空気は、居間から流れてきている。
そのときになってようやく、今更ながらも航は気づいてしまった。
(お帰り、の返事がない・・・)
この時間、いつも家にいて自分を出迎える姉の声が、ない。
ごくり、と喉が鳴った。だが、ほとんど枯れかけていた口の中は唾液も少なく、痛みすら伴う。
しかし、そんな不快さなど気にする暇もない。
(この『空気』は、姉さんだ・・・)
また一筋、汗が額から流れ落ちた。
(姉さんが、怒っている・・・)
ぎし、ぎい、と安普請の床が鳴る。
航が、恐る恐る足を運び、廊下を歩く。
航は、二階にある自分の部屋に向かおうとしていた。
しかし、そのためには階段を上る必要があるし、その階段の麓までたどり着こうとするならば、どうしてもこの居間の前を通らなければ行けない。
居間のふすまは開け放たれており、未だそこを通り過ぎていない航はそのことを呪った。
間違いなくその居間の中にいるであろう姉が、帰ってきた弟の航に「おかえり」の声もかけずにいる。
眠っている、のではない。
夕日もそろそろ沈もうかというこの時間、航よりも早く大学を終えて帰ってくる姉は共働きの両親に代わって夕食の準備をする頃合いである。
しかし、今日に限っては、リズミカルにまな板をたたく包丁の小気味よい音も、ふうわりと鼻孔をくすぐる夕食の香りも、お帰り、と出迎える姉の笑顔もない。
断じて言う。
眠っているのではない。
姉は、怒っているのだ。
「航(こう)ちゃん」
ぎゅうう、と心臓が握りしめられたかのような衝撃。
姉が自分の名前を呼んだ、ただそれだけのことで。
普段の姉の声は、しっとりと落ち着いた、聞くものに柔らかな気持ちを与える声だ。
その声が、、いつもの弟を呼ぶ声が、いくらかトーンを落として発せられた、それだけで恐ろしいプレッシャーを発している。
「お、おう・・・」
航は、呼ばれてからすぐに返事をしたつもりだったが、実際にその通り発せられたのか自信がない。
足はわずか、居間のふすまの前に忍びだしていたところだが、その動きを姉はつかんでいたのだろうか。
声に招かれるように、航は居間に入った。
そこには小さな卓袱台があり、その傍らに彼の姉、静佳(しずか)が座っていた。
正座で。
「姉ちゃん、・・・どうしたの?」
そこに座っていた姉は、入ってきた弟に視線を向けることもせず、ただ暗い、思い詰めたような表情をしていた。
航は、必死で記憶を探っていた。
果たして自分は、この姉を怒らせるようなことをしたのだろうか。
この、普段は温厚で、限りなく優しい姉を、こうも沈ませるような不手際を、自分はしてしまったのだろうか、と。
「航ちゃん」
再び姉が、弟の名を呼んだ。必死に記憶のシナプスをつなぎ合わせていた航だったが、そうやって呼ばれたことであっさりその行為を中断した。
姉の静佳は、弟の航のことを、「ワタル」ではなく「コウ」と呼ぶ。しかも、「ちゃん」付けで。
それは、いつまでも弟のことを子供として庇護している証であるように思えて、航はおもしろく思っていなかった。
しかし、いつも自分を呼ぶその声には、あふれるほどの愛情が込められていることを感じていた。
故に彼は、その自分の呼び方をくすぐったくも受け入れていたのだが。
居間の声には、悲しみのような、怒りのような、なんとも名状しがたい感情が込められているように感じられた。
「ここに、座って」
静佳が、正座のままやや身をかがめ、自分の膝より少し前の場所を手のひらで指した。
航は、彼女に促されるまま、その場所に座った。やはり居心地悪く、姉に倣って正座である。
先ほど中断させた思考が再開する。
いったい、何があったのだろうか。
すると、姉の静佳は、自分のそばに置いてあったコンビニ袋をずい、と航の前に差し出した。
「これ、航ちゃんが買ったの?」
誇張でも戯けでもなく、真剣に航は仰天し、背後に跳ね退いた。
ぎゃっ、という悲鳴を上げそうになったのを何とか喉の奥で殺せたのは、彼にとって僅かな救いであった。
袋の中からのぞいたもの、それはどうやら、雑誌のようだった。
コンビニで売られているような、卑猥な写真をふんだんに掲載した雑誌である。
「航ちゃんが買ったの?」
静佳がもう一度、言った。
「航ちゃんが買ったの?」
静佳がもう一度、言った。
弟、航が、ごくりと唾を飲み込み、・・・ようやく、こくりと頷いた。
とたん、いままで交わらなかった二人の視線が、姉に、静佳によって強引に結ばれた。
「航ちゃんの、ばかっ!!」
静佳は、小さな声ながらも語気強く、言った。反射的に航は、ごめん、と謝った。
「この本、いったいいくらか、わかってて買ったの?!」
そう言って静佳は、取り出した雑誌の片隅、定価の表示を指さす。そこにならんだ数字は、9,8,0,つまり定価980円。
この手の雑誌にしてはややお高い値段だが、その理由はおそらく、付属のDVD2枚組のせいだろう。
「ねえ、航ちゃんは、お姉ちゃんと約束したよね?」
じわり、と涙腺がゆるみ、瞳に涙があふれたのは姉の静佳のほう。
「もう二度と、こんな本は買わないって!」
航は何も言えず、姉から目をそらした。
彼がその雑誌を買ったのにはワケがある。
オナニーをするためだ。
・・・いや、確かにそれが理由であることには変わりないのだが、そういう風に言ってしまえば身も蓋もなくなる。
彼がその雑誌を手に取ったのは言うなれば、逃避だ。
しかし、姉が弟を叱っているのにもまた、理由がある。
「いま、私たち、無駄遣いできないって、わかってるのよね?
お父さんお母さんが入院しちゃって、家の中は二人だけ。
貯めていたお金ももう少なくなって、生活が苦しくなってきてるって!!」
彼女が言うことはすべて事実だ。
姉弟を育てていた父母はともに交通事故に遭い、入院中だ。幸い快方に向かっているのだが、入院のために多額の費用がかかってしまった。
本来なら姉も働き、弟もアルバイトなどで家計を助けるなど、やりようもあったはずなのだが、それは父母により禁じられてしまった。
せっかく通っている学校なのだ、アルバイトなどを入れて学業がおろそかになるならば本末転倒だ。父母はそれを厳しく禁じ、残された預金をやりくりして生活するように言いつけた。
(バイトのどこがいけないってんだよ。別に学校行きながらでも問題ないだろ!)
航はそう考える。きょうび、働きながら学業につく人間などいくらでもいる。自分とてそれくらいこなせる自信はある。
しかし。
「航ちゃんも、絶対バイトなんてしちゃダメよ!」
姉がそれを、断固反対する。
姉としてはやはり、弟の航が学業に専念してくれることを期待しているのだ。
そのようなわけで、姉と弟は、で節約して生活することになった。
故に、小遣いも限られている。
そして、その少ない小遣いの話だが。
少し前、航がその中からエロ本を買った。年頃の若者であるから、その青い性欲を誰も責められはしない。
しかし、彼の姉、静佳は違った。
「航ちゃんも、そういう歳だし、エッチなことに興味を持つのは仕方がないわ。
でもね、いまは、こういう物にお金を使うべきじゃないと思うの」
そういって姉は、弟に言った。
「航ちゃんの溜まってるもの、お姉ちゃんでスッキリしなさい!」
航の脳裏によぎった言葉。
近親相姦、お姉ちゃんが教えてあげる、航ちゃんの好きにしていいのよ?
彼の頭の中で、それらの言葉、台詞がビジョンを持って再生。
美しい姉が衣服を脱ぎ去り、柔らかく寄り添い肌を重ねてくる。
(イヤ、だめだダメだ、俺たちは姉弟なんだ、そんなことは絶対許されない!!)
そのような妄想に頭が熱くなっている航に、静佳が手をさしのべた。
弟を誘う彼女は、恥ずかしそうな柄も優しい笑みを浮かべた、なんとも愛らしい表情。
「お部屋に行きましょ、航ちゃん」
手を引かれ、階段を上がり二階へ昇る。航は、自分の目の高さに姉の柔らかそうな汁があることに気を取られながら、従って部屋に向かう。
心の中は葛藤し、誘惑と理性がめまぐるしい攻防を繰り広げていた。
そして二階の、二つ並んだ兄、弟の部屋に到着。
「航ちゃんはここで待っててね」
静佳は弟を彼の部屋に促し、彼一人をおいて部屋を去った。
待っててね、というからには、ここで行われるのだろう、兄と弟の禁断の行為が。
と、そのとき、湧き出す妄想に悶々と待ち焦がれる航は、なにやらかすかな物音を聞いた。
こりこり、かりかり・・・
なんだろうか、とその音の出所に辺りを見回してみると。
航はようやく、それに気がついた。
隣の姉の部屋を仕切る薄いモルタルの壁から、一本の錐先がつきだしていた。
それが引っ込むと、そこには小指程度の小さな穴が開いている。
航がその穴に顔を寄せ、穴の向こう側にある姉の部屋をのぞいてみると。
「航ちゃん、ちゃんと見える?」
穴の向こうには、姉の笑顔があった。
「航ちゃん、好きなだけ、お姉ちゃんの部屋をのぞいていいからね?」
そのとき、航はすべてを悟った。
彼が買ってきたエロ本、それは『のぞき特集』。
姉は、近親相姦をしようとしていたわけではなかったらしい。
しかも、男の性欲というものを決定的に誤解していた。
「航ちゃんにのぞいてもらうんだから、もっとお部屋をきれいにしないといけないわね♪」
それ以降、姉は自分の部屋を弟にのぞかせるものの、少なくとも航はそれをオナニーのおかずにするようなこともなかった。
そう、姉はこれと言った、肌を見せるようなサービスをいっさいしなかったのだ。
と、そんないきさつがあって弟は、エロ本を再び購入した。