「そう、良かったわね」  
 まるで自分のことのように、姉ちゃんは笑ってくれた。  
 しかし、俺の心境は複雑だった。  
──姉ちゃん、俺、遠い所に行っちゃうんだぜ。  
 
 俺が姉ちゃんと知り合ったのは、まだ幼い頃だ。その頃の俺は病気がちで、ほとんど外へは  
遊びに行けず、友達はいないに等しかった。  
唯一、近所に住んでいた姉ちゃんだけが俺の遊び相手だった。あの頃は今思えば相当  
気恥ずかしい女の子の遊びをしていたが、それでも姉ちゃんと一緒にいられる時間は俺に  
とって至福以外の何物でもなかった。  
 病弱な俺を両親は心配して、小学校に上がる同時に地元のサッカークラブへ本人の意志を  
無視して入会させた。俺は姉ちゃんと遊べる時間が削られることが嫌だったことと、当時の  
ひ弱な自分では到底人並みに運動などできるはずもなく、恥をかくのが目に見えていたから、  
サッカークラブに入会することを必死に拒んだ。  
──だから、本当だったら、プロサッカー選手などになっていなかったはずだ。  
 しかし、小学生の俺がサッカーをすることに喜びを感じたのは、姉ちゃんが練習でも  
試合でも必ず見学に来てくれたことだった。両親などより遥かに熱心で、本当の姉かと  
しばしば、間違われたほどだ。  
 嬉しかった……だから、もっと良い格好をしようと必死に上級生に食らいつき、一所懸命に  
練習をした。姉ちゃんと会えない時間は只管、サッカーボールを蹴り、夜遅くまで海外リーグの  
ビデオを見て、うまい選手の研究をした。それもこれも男の普遍の真理とでも  
言うべき、「好きな女の前では格好良く見せたい」に端を発していた。  
 熱心に練習する息子の姿に両親は感涙を流して、「感謝しなさい。お父さんとお母さんが  
あそこで入会書を書いたから」といつも言うが、それは大きな勘違いだ。  
 俺はただ、姉ちゃんの前で常に格好良くありたい、そう思っていただけだ。はっきり  
言ってしまえば、姉ちゃんが見に来てくれるなら、サッカーだろうが、野球だろうが、テニス  
だろうが何でも良かったのだ。  
 動機は不純だが必死の練習の成果で、俺は地区でも名が知れたプレイヤーになり、  
地区選抜、県選抜やトレセンに呼ばれるようになっていった。さすがに県選抜の遠征やトレセン  
には姉ちゃんも付いてこなかったが、そのレベルでプレーして初めて俺はサッカーで悔しいと感じ、  
もっとサッカーがうまくなりたいと純粋に思った。  
 中学はJリーグのユースチームに入った。部活でも良かったが、野球部や陸上部とグランドの  
取り合いをしながら練習するよりは、充実した施設の揃ったクラブチームの方が良かった。  
 高校二年の時に日本代表ユースでの活躍が評価され、海外のクラブから三つもオファーが  
舞い込んだ。  
 一つはスペインのビッグクラブ……だが、ここはユース契約だった。トップチームには  
現代のサッカー界を代表する面々が揃っており、東洋の若者がチャンスを掴むにはあまりにも  
天から下りてきた糸は細すぎた。  
 
 次はイタリアの中堅クラブ……二軍契約を提示されたが、スペインのビッグクラブに  
比べればトップチームでプレーするチャンスは多いように思われた。だが、イタリアは  
プレスが厳しいことが有名で、特にフォワードに対する削りは半端ではないため、若くて  
才能ある選手が怪我に泣くことが多い。  
 最後はイングランドの下位クラブ……一応、トップリーグに属していたが毎年降格争い  
に終始している、俗に言うエレベータークラブだ。どちらかと言うと若手中心の編成で、  
クラブ首脳陣もサッカーの成績よりもクラブの財務状況を熱心に見つめるチームだったが、  
ここだけが一軍契約だった。  
 俺はイングランド行きを熟考の末、決めた。  
   
 そして──高校の教師として再開した──姉ちゃんに真っ先にそのことを告げた。  
 衝撃の宣告を聞いても大人の余裕か、姉ちゃんはまるで悲しむ素振りなど見せなかった。  
俺の描いていた淡いシナリオの第一ステップは瓦解したものの、それで引き下がる訳には  
いかなかった。  
「実は…姉ちゃんのことがズッと昔から好きだった。お願いだから俺と一緒に英国に来て  
欲しいんだ」  
 心臓の音がバクバクと身体の外まで聞こえているのではないかという程に、俺は緊張  
しきっていた。  
「私は教師、君は生徒。だから、英国行きは応援するけど、そういう関係はダメ」  
 耳に掛かった艶やかな黒髪を払いながら、姉ちゃんは落ち着いた口調でさらりと答えた。  
──ひどくショックだった。他に好きな人でもいるのだろうか?それとも、俺に男として  
の魅力がまったくないのだろうか?  
 そこからはよく覚えていない。必死に食い下がる情けない男に、呆れ果てた姉ちゃんが  
最後に救いの手を差し伸べてくれた。  
「一回だけ。それで忘れなさい」  
 
──それで忘れられるほど、俺の想いは軽くなかった。   
   
 春休みの閑散とした校内の職員室で、俺は姉ちゃんと向き合っていた。  
 長くカールした睫毛に縁取られた円らな瞳が、こちらを見つめて不安げに揺れている。  
「離しなさい!人を呼ぶわよ!」  
 俺は、踵を返そうとした姉ちゃんのほっそりとした右手を握っていた。もう一度、”あの時の  
あれ”を確かめたくて。  
「…………呼びたければ、呼びなよ!」   
 清潔そうな純白のブラウスに醜い皺が幾重もできるぐらい強く姉ちゃんの肩を掴んでいた。  
もう後戻りはできない。  
 強引に姉ちゃんの華奢な身体をスチールデスクの上に押し倒す。その瞬間の目を見開いた  
姉ちゃんの顔からは、信じていた人間に裏切られる驚愕がありありと伺えた。  
 ボタンをいちいち外す余裕もなく、ブラウスの胸元に手を掛け力一杯左右に引き裂いて  
しまう。  
 
「や、やめなさい!やめて!もう、お願いだから!」  
 細くしなやかな脚を姉ちゃんはバタつかせて抵抗を試みているが、それは無駄な  
足掻きだ。両の手に体重をかけて押さえつけると、気丈な姉ちゃんに怯えが走り、  
彼女は抵抗を止めた。  
 暗い決意を胸に姉ちゃんの肌着とブラジャーを強引にたくし上げ、初雪のように白く、  
きめの細かい肌に覆われた胸の膨らみに触れた。  
「ダメよ!ダメ!こ、こんなの人に見つかったら、君の将来が…」  
 必死に姉ちゃんが首を振り、身体を捩り、俺の手を拒絶しようとする。  
──将来?サッカー選手としての?そんなものどうだって良いじゃないか!俺は姉ちゃんに  
見てもらえるから、そして見て欲しいからサッカーをやっていただけなんだ!!  
「将来なんてどうでも良いんだ!姉ちゃんがいない未来に何の価値があるんだよ!」  
 口から溢れた言葉は、極度の興奮で想いの丈の半分も言えていない。  
 そっと姉ちゃんの桜色の蕾に口付ける。”あの時”のように快感による興奮ではなく、  
襲われることへの緊張でそれは固く屹立している。それを舌で転がしながら、姉ちゃんの  
首元から薫る微かな香水の匂いが鼻をくすぐる。  
 その香りが俺に火をつけた。  
「姉ちゃんは誰にも渡さない!……あの時、あの時、俺のこと好きだって言ってくれた  
じゃないか」  
 一気に捲くし立てるように言い放つ。そうでもしないと途中で言葉に詰まってしまい  
そうだ。  
 ただ、俺の言葉は正しくない。  
 ”あの時”姉ちゃんは「俺のことを好き」だとは言っていない。荒い喘ぎの中で「好き」  
とだけ呟いたのだ。俺が「好き」なのか、エッチが「好き」なのか、はたまた、  
ただのうわ言だったのか──それは姉ちゃんにしか分からない。そして、それを俺は  
確かめたかった。確かめたくて出発の二日前に学校を訪れ、姉ちゃんに迫ったのだ。  
「違うのよ…お願い、私は教師なのよ!こんなのはいけないのよ…」  
──ちがう?チガウ?違う?  
 つまり、「あなたを好きと言ったのではない」と彼女は言っていた。  
 絶望とやり切れない想いの責め苦に耐え切れず擦り切れた理性は、狂気にも似た荒ぶる  
本能にその座を追い落とされる。  
 柔肌を揉みしだく指先に力を込めたためか、一瞬、姉ちゃんの身体がビクリと震え、許しを  
乞う視線でこちらを伺っている。  
──見て欲しくなどなかった。きっと、俺は浅ましい顔で姉ちゃんの身体を貪っているのだ。  
 わざと視線を落とし、タイトスカートの中に空いた手を滑り込ませる。  
「そ、そこは!」  
 姉ちゃんの柔らかな太腿がギュッと閉じ、秘奥に閂をかける。だが、既に暴徒と化した  
俺の前で形だけの抵抗など無いにも等しかった。スカートを捲り上げ、指先から白い太腿を  
割るように圧し進め、股の間のストッキングを指先で摘み上げ、乱暴に引き千切る。  
「いやぁ!いや、いや!」  
 
 今までになく激しく身体を揺すって姉ちゃんは、俺から逃げようとする。  
──それはそうだ、ここが開いてしまえば、後は獣と化した俺に犯されるだけなのだから。  
 だが、逃がしてあげられる程、俺の傷ついた心は慈悲深くない。もう一人の”俺”が  
俺に囁くのだ。  
──傷つけられた分、傷をつけろ!精神を!肉体を!愛しいものに痕(しるし)を付けろ!  
彼女が自分もののであると悟るまで激しく貪れ!  
 乱暴に机の上に乗り上がると、右膝を彼女の形の良い乳房の下にある窪みを押し付けた。  
ここを抑えられると、人間は身動きがとれなくなる──俗に言う水月だ。  
「うっ…くぅぅぅ」  
「痛いことはしたくない。だから、抵抗……しないでよ」  
──本気だ。できれば、姉ちゃんにも一緒に悦んで欲しい。姉ちゃんを悦ばすことが  
できれば、どれほどこの心の痛みも晴れるだろうか。  
「やめて、い、嫌がっているんだから…」  
 口を真一文字に結んで、姉ちゃんは苦しげに首を振った。  
 酷いことをしている…その背徳感と嗜虐感に理性が飲み込まれていく。だが、最後の  
最後に理性が力を振り絞って、俺が一番伝えたかったことを口走らせてくれた。  
「……悪い…と思う。でも、誰にも渡したくないんだ」  
 一瞬、姉ちゃんの顔に、負の感情以外の何かが浮かんだ……気がした。でもそれは微細  
過ぎて俺には読み取れない。  
「本当にダメなの?」  
 姉ちゃんの僅かな動揺に縋りつく。  
──希望とは麻薬だ。縋りつきたくなる。だが、大抵の希望はただの甘い幻想で、それは  
重い副作用をもたらすだけなのだ。  
 普段は慈愛に満ちた瞳が恐怖に見開かれ、彼女は首をフルフルと振って、ハッキリと  
拒絶を示す。  
 もう一人の自分が嘲笑い、俺を罵る。  
──分かり切ったことじゃないか?何故そんなことを確認する?  
 もう後は、欲望の奔流に全てを委ね、ただの一匹の獣になり下がった。  
 抵抗が無駄だと知った姉ちゃんからショーツを剥ぎ取り、指先を桜色の秘所に走らせると、  
思ってもみない音が立った。  
 クチュリ……水音だ。誰もいない教室に淫靡な音が微かに響く。問わずにはいられなか  
った。  
「…だって、こんなに濡れているじゃないか!?」  
 長い睫を折り重ねるように瞳を閉じ、唇を噛み締めた姉ちゃんは貝になってしまった。  
 
 どれだけ、陰唇を擦り、陰核を弄り、膣を捏ね繰り回しても微かに口の端から洩れる苦  
悶の呻きだけだった。  
──彼女は完全に……本当に……俺を拒んでいるのだ。  
 笑い出さずにはいられない絶望感と大事なものを汚している背徳感に溺れることは容易  
かった。  
 
 発つ前に一通だけ、姉ちゃん宛にメールを送った。  
『ごめん。俺、姉ちゃんを諦めたくなかったんだ』  
 情けないほどに言い訳がましい文面だったが、送らずにはいられなかった。俺は  
姉ちゃんの身体ではなく、彼女の心が欲しかったのだ……そのことだけは知っておいて  
欲しかった。  
   
***  
 
 イングランドに来てから、六ヶ月。  
 俺のサッカー人生は順風満帆とは行かなかった。  
 チームのフォワードに怪我人が続出し出番を確保したまでは良かったが、パフォーマンスは  
低調で、公式戦六試合に出場して僅かに一得点。点取り屋として期待されているだけに  
何ともお粗末な成績だった。最近ではサポーターから”東洋から来たお荷物”とまで揶揄  
される始末だ。  
 クラブが支給してくれた一戸建ての一階にあるベッドの上で、天井の染みを眺めながら  
ボンヤリと時間を過ごす。ベッドの横にはチームドクターが貸してくれた木製の松葉杖が  
立て掛けてある。  
 昨日の試合、俺はペナルティーエリアの手前でゴールを背にボールを受け、反転して  
切り込もうとした矢先、背後からの強烈なタックルで身体ごと宙に舞い上がり背中から  
ピッチに叩きつけられた。一瞬、呼吸が止まる感触は何ど同じ目に遭っても慣れることはない。  
 全治一週間……それがドクターの診断だった。幸い、怪我は浅いが昨日の今日では足首が  
ラグビーボールのように腫れ上がり、出歩くことはできない。  
「っ……何やっているんだろう、俺」  
 異国の地で頼りになるのは、自分の力だけだというのに、まったく結果を出せない俺は  
焦りに駆られはじめていた。今では日本にいた頃に容易くできていたことですら、間々ならない  
ぐらいにまで不調のどん底に陥っていた。  
──日本に帰ろうかな。  
 思わずそう思ってしまう程、弱気な自分を力なく笑うしかなかった。  
 その時、ドアをノックする音がガランとした部屋に響く。  
「お客様ですよ」  
 クラブが手配してくれている働き者のお手伝いさんの声だ。お手伝いさんと言っても、  
もう六十を超えたお婆さんだから、まるで俺のことを孫のように扱う。  
「客?」  
「ええ、お名前は聞き取れませんでしたが、ジャパニーズと仰っていますよ」  
 お手伝いさんは耳が遠い。大抵の用事は二度、しかも大きな声で言わないと分かって  
くれない。  
──日本人?アポなしの取材か?  
 
 日本での実績の薄い俺に専属で記者を貼り付ける新聞社や雑誌社はない。イングランド  
に来た当初は取材の依頼が時々舞い込んでいたが、どれもこれも記事になることは  
なかった。きっと、俺が活躍すればそれは紙面を飾っていたはずだ。結果が全て、それは  
どこでも同じことだ。  
 そして、俺はいつしか、アポなしでも取材を受ける選手と見なされていた。取材して  
もらえるだけ有難いと思え、というヤツだ。  
 しかし、久々に日本語を話せるのは掛け値なしに嬉しかった。最後に日本人と話した  
のはもう二ヶ月も前だ。慣れない英語に四苦八苦しながら、コミュニケーションを取るのも  
面白いが、やはり思うがまま日本語で喋れるというのは格別だ。  
「今行きますから」  
 俺はベッドの横の松葉杖に目をやったが、屋内であれば無しでも大丈夫だろう。軽く髪に  
手櫛を入れ、シャツの襟元を正し、安物のジーパンにベルトを通して、人前に出ても  
恥ずかしくない格好に整える。  
 足首を気遣いながら慎重に一階に下り、玄関に向かうと、帽子を目深く被った上に  
小ぶりなサングラスで目元を隠し、小さなショルダーバッグを担いだスラリとした細身の若い  
女性が立っていた。  
──女性の記者?珍しい。  
「取材ですか?本当はクラブに話を通してもらわないと……」  
 俺が頭を掻きながらわざと困った口調で喋り出すと、彼女はそっとサングラスを外し、  
帽子を取って、長い黒髪をうねらせた。  
 
「……来ちゃった」  
   
「…えっ……!?」  
「君が教えてくれないから、小母さんに聞いたのよ、ここの住所。」  
「…な…何で!?」  
 彼女は少し拗ねたように口元を”へ”の字に曲げる。  
「迷惑……だった?」  
 俺は慌てて首を振り、目頭が熱くなるのを必死に堪える。  
「何か、もっとイギリスって霧のイメージがあったけど、晴れてばかりでつまらないわ」  
 
──二度と会えない、だけど忘れることなどできない、それでいて求める想いは強くなる  
一方だった人が今、目の前に以前と変わらず柔和な微笑みを浮かべて立っている。  
「……ね、姉ちゃん!」  
 飛びつこうと踏み出した瞬間、足首から激しい痛みが走り、俺はその場に崩れ落ちる。  
「ぐっ!」  
「だ、大丈夫?」  
 慌てて駆け寄ってきた姉ちゃんの繊手が俺の頬を優しく撫ぜる。  
「昨日の怪我?」  
「み、見てたんだ!?」  
「うん。スタンドから観戦してた。日本に居た時も、ペイパーヴューに入って君の試合は  
全部見たわ。ビデオだって残してるのよ」  
 
──や、やっぱりこれは夢じゃないのか?こんなのって……嘘に決まっている………  
けど、嘘でも夢でも何でもいいから続いて欲しい。  
「な、何で?だ、だって、俺……その、姉ちゃんに酷いことしたから……嫌われたと…  
二度と会えないと…」  
 情けないが言葉に詰まる。  
 姉ちゃんの円らな瞳には、責める気配も、咎める気配も、苛む気配もなかった。ただ、  
優しげにこちらを見つめているだけだった。  
「酷いこと?……そうね……でも、本当に酷いことをしたのは私なのよ」  
 怪訝な表情を浮かべ、俺は姉ちゃんの端正な顔を見つめる。  
「だって、君が勇気を振り絞って私を求めてくれたのに………私はただ…何だかんだ理由  
を付けて、あなたの気持ちと………何より自分の気持ちから逃げ回っていたんだから」  
──分からない、姉ちゃんが何を言っているか、分からなかった。だって、俺は彼女を強  
引に犯して日本を逃げ出したのだ……一発殴られてそのまま警察に突き出されてもおかし  
くないはずだ。それなのに……  
 姉ちゃんが口元を綻ばせながら、そっと頬を撫でながら茫然自失の俺にも分かるように  
一言こと一言はっきりと告げた。  
 
「…好き。君のことが好き。だから…君の側に居させて」  
 
***  
 
「ねぇ、サインしてよ!サイン!」  
 路地裏から飛び出してきたクセ毛の少年にサインをせがまれる。  
 彼女との待ち合わせには、もう随分と遅れている。今更、もう少し遅れたところで  
どうにかなるものでもないだろう。  
 必死に書くものを探す少年の愛らしい姿を見つめながら、ポケットからサイン用の  
マーカーを取り出す。彼が自分の着ている白いシャツの裾を持って、グイと突き出すので  
そこにサラサラとサインを走り書いた。  
 こっちに来た当初は、サインを求められることは無いに等しかった。それが今やどこへ  
行くにもマーカーを持っていないと困るぐらいのサイン攻めに遭っている。  
「昨日は凄かったね」  
 昨晩の試合のことだ。俺は前半の2アシストと同点のまま迎えた試合終了間際のロス  
タイムに決勝ゴールを上げ、サポーター達に歓喜と美味しいビールをプレゼントした。  
「今度はもっと、凄いのを見せるよ」  
 おしゃべりしながらもサインを書き上げ、ペンにキャップを嵌めると、少年が嬉しそうに  
サインを確かめた後、満面の笑みでこちらを見上げる。  
「ありがとう!一生の宝にするよ!」  
「どういたしまして」  
 俺が答えるや否や少年は「ヤッター、ヤッター」と叫びながら路地裏へと狂喜しながら  
駆けていった。その背中を見送って、俺は約束のカフェへ歩き出した。  
 
 日本を発ってから、もう一年。  
 最初の六ヶ月……それは地獄のような時間だった。  
 フォワード陣に故障が続発し出場のチャンスにありついたまでは良かったが、精彩を  
欠いたプレーを連発し、ついには解雇の噂が飛び交うほどに俺の状態は最悪だった。  
 そして、イングランドに来て、初めての怪我。全治一週間とは言え、怪我で出遅れていた  
他のフォワードの選手達が復帰するのではないかと、実しやかに囁かれていたから気が  
気でなかった。  
 そして、それからの六ヶ月……それは奇跡のような時間だった。  
 怪我が癒えた俺はゴールを量産し、安定したプレーでチームメイト、監督、サポーター、  
みんなの心を掴んだ。パスを受けるとディフェンダーを最小限の動きでかわし、小さな  
モーションから強烈なシュートを放ち得点を重ねる俺に、サポーター達は敬意を込めて  
”ライジング・サン”という渾名をプレゼントしてくれた。  
 チームは俺の活躍とともに、定位置の残留争いから一気にジャンプアップし、ヨーロッパの  
カップ戦を狙える好位置に付けている。おかげでクラブ首脳もサポーターも狂乱のバカ騒ぎだ。  
そして、俺の周りにはまだ数は少ないが専属の日本人記者たちがチラホラと現れ始めた。  
   
 最初の六ヶ月と次の六ヶ月──俺が何か変わった訳ではない。  
 最初の六ヶ月は俺一人、次の六ヶ月は一人の女性が俺の側に居てくれただけだ。  
 そして、それが全てだ。  
 
 カフェに入り、待っているはずのその彼女を探すとオープンテラスのいつもの席で  
タブロイド版を読み終わって畳んでいるところだった。少し狭い店内に置かれた年代物の椅子  
の間をすり抜け、オープンテラスに出ると彼女が柔らかな笑みで俺を迎えてくれた。  
「待った?」  
「そうね、三十分ぐらいだけど」  
 薄手の桜色のガウンに白いワンピース、膝丈のホットパンツを穿いた彼女は普段と  
一風違うが、それもまた素敵だ。  
「それは随分待たせたね」  
 途中でサインをしていた時間を差し引いたとしても、二十分以上の遅刻だ。  
「でも、待つのは嫌いじゃないし、たまには日の光を浴びないと身体に良くないわ。珍しく  
春らしい良い天気」  
 彼女が眩しそうにテラスの上に輝く太陽を見上げる。彼女が見ているものと同じものが  
見たくて俺も空を見上げる。  
「きっと日本も、もう春だろうね」  
 俺の言葉に同意するように幸運の女神は微笑みながら頷いた。  
   
 その女神をもう二度と放してしまうことのないよう、俺はポケットに指輪の入った小箱  
を忍ばせている。  
 
(了)  
 

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