「サッカーの母国でプレーするんだ」  
 綻んだ笑顔で彼は私にそう告げた。  
 
 幼い頃からご近所同士さんで、彼とはよく遊んだ。彼は七つ上の私をいつも「姉ちゃん、  
姉ちゃん」と呼んで付き慕ってくれた。小さい頃は病弱で外で遊ぶことを好まなかった  
彼もサッカーと出会ってから大きく変わった。天性の才能を開花させ、今や各年代の  
ユース代表には欠かせない存在とさえ言われている。そうやって、羽ばたいていく彼の姿を  
私はまるで本当の弟であるかのように見守ってきた。  
 中学二年の頃から国内外を問わずプロチームのスカウト達が彼のプレーに注目するように  
なった。青田買いが当たり前の海外のスカウト達は特に熱心だった。  
 輝くような人生を送る彼とは対照的に、私は地元の高校を卒業後、地元の大学に進学し、  
教員免許を取ると、出身高校の教師に収まるという至って普通の地味な人生を送ってきた。  
 しかし、私が副担任となったクラスで彼と再開することで人生の歯車が少しずつ狂い  
始めた。  
 小麦色に日焼けし、彼の身体も一回り大きくガッシリとしたものになっていた。伸び盛りの  
身長は180センチを優に超え、あどけなかった顔立ちも凛々しく精悍に成長していた。  
そんな彼を女生徒が放っておく筈がなく、熱烈なアプローチをかけられているという噂が  
絶えたことはなかった。しかし、彼が誰かと付き合っているという話は終ぞ聞かなかった。  
   
 彼は、海外行きを私に告げた時に併せて「実は…姉ちゃんのことがズッと昔から好きだった。  
お願いだから俺と一緒に英国に来て欲しいんだ」と頬を真っ赤に染めて私への想いを告白した。  
 本当は飛び上がるぐらい嬉しかった…だけど、私は教師で彼とは七歳も離れている。  
それに彼は若くて魅了があるのだ。私など飽きてすぐに捨てられてしまうのではないか、  
それが怖くて断った。しかし、それでも必死で食い下がる彼に、大人の女の余裕を気取って  
一度だけ身体を重ねた。  
 
 それが”誤り”だった。  
 
 春休みの閑散とした校内の職員室で、私と彼は向き合っていた。  
 後数日で、英国へと旅立つ彼が私に詰め寄る。   
「離しなさい!人を呼ぶわよ!」  
 彼は肩をフルフルと震わせて押し黙る。  
「…………呼びたければ、呼びなよ!」  
 少し大きな掌で肩を掴まれ、私は逃げられなくなる。  
 そのまま、スチールデスクの上に押し倒され強引にブラウスの胸元を荒々しく引き千切られる。  
はぜたプラスチックのボタンがリノリウムの床に落ち乾いた音を立てながら跳ねる。  
 
「や、やめなさい!やめて!もう、お願いだから!」  
 何とか抵抗しようと脚をバタつかせるが、幼い頃とはまるで違う鍛え上げられた体躯の  
彼の前には私の抵抗など無意味に等しい。  
 彼は乱暴にブラジャーごと肌着をたくし上げると、私の乳房に触れた。  
 途端に心臓の鼓動が早鐘を打ち鳴らすように、一気に上がる。  
「ダメよ!ダメ!こ、こんなの人に見つかったら、君の将来が…」  
「将来なんてどうでも良いんだ!姉ちゃんがいない未来に何の価値があるんだよ!」  
 吐き捨てるように言い切ると彼は私の胸のまだ柔らかな蕾に唇を落としました。  
「姉ちゃんは誰にも渡さない!……あの時、あの時、俺のこと好きだって言ってくれた  
じゃないか」  
──気の迷い……ではない。一度だけ身体を許した時、昂ぶった感情の中とは言え、  
思わず本音を口走ってしまった。  
「違うのよ…お願い、私は教師なのよ!こんなのはいけないのよ…」  
 必死で逃れようとするが、圧し掛かる彼を振りほどくことができない。  
 やわやわと胸の膨らみを弄る彼の手がもたらす甘い刺激で徐々に身体の力が抜けていく。  
ダメだと分かっていても、心のどこかで彼と身体を重ねることにワクワクしている自分がいる、  
悦んでいる自分がいる。  
 彼は生徒で私は教師、彼はスーパースターの卵で私はただの凡人、彼は年下の幼馴染で  
私は年上の大人を気取った弱虫。思考がグルグル渦巻いて、やがて何も考えられなくなる。  
 そんな私の意識が醒めたのは、彼の手がタイトスカートの内側に入ってきた時だった。  
「そ、そこは!」  
 太腿を合わせて堅く脚を閉じたが、彼は意に介することなくスカートの裾を捲り上げ、  
股の間に強引に手を差し入れる。  
「いやぁ!いや、いや!」  
 必死に首を振って、彼に懇願する。  
──これを許したら、恐らく私の理性は自分の感情に逆らえなくなる。  
 しかし、無慈悲にも私の脚を強引にこじ開けると、彼は肌色のストッキングに手をかけ  
一気に引き裂いた。その音が誰もいない部屋中に無情に響く。  
 そして、それが引き金になって私は最後の抵抗を試みた。  
 激しく身体を捩って、何とか上半身を起こそうとスチールデスクに手をついた瞬間、  
机に乗り上げた彼に片膝で鳩尾を宛がわれ、そのまま圧し掛かられると、為す術なく私は  
冷たい天板の上に再び抑えつけられてしまう。  
「うっ…くぅぅぅ」  
「痛いことはしたくない。だから、抵抗……しないでよ」  
「やめて、い、嫌がっているんだから…」  
 最後の強がりだ。諦めて欲しい、でも、それを期待しない自分もいる。  
 ゆっくりと彼が被りを振った。  
 
「……悪い…と思う。でも、誰にも渡したくないんだ」  
 強引に手が薄布越しに私の秘所を撫ぜる。  
 身体中に電流にも似た刺激が駆け巡り、私は完全に抵抗する力と気力を失う。  
 これが本当に何とも思わない人間に強引に犯されているならば、最後の最後まで死力を  
尽くして戦う。そんな行為に快楽など覚えるはずもない。  
 強引に押さえ込まれながらも私が昂ぶっているという事実、それ自体が私が彼を求めて  
いることに他ならない。かき乱されるような思いの中で、私はそっと目を閉じた。これ以上、  
彼の顔を見ていると本当に愛していると言ってしまいそうで怖かったのだ。   
「本当にダメなの?」  
 暗闇の中で彼の声だけが聞こえる。  
 無抵抗な間にショーツは脱がされ、彼の指が直に私の陰部に弄っていた。  
 必死に戦慄きそうになる自分を抑え、唇を堅く噛んで、喘ぎを殺している私は震えながら  
頷いた。  
「…だって、こんなに濡れているじゃないか!?」  
──そうよ。だって、君が私を求めているんだもの。濡れない筈がないわ。でも、それを  
認めるのは二人のためにならないの。  
 淫靡な水音を立てながら、彼は私の泥濘を捏ねくり回す。その度に私は甘く痺れ、愉悦に  
溺れていく。  
 
 やがて、彼の熱くそそり立ったものが、肉を掻き分けて私の中に入ってくる。  
 嬉しかった。そして、あまりの嬉しさに思わず涙がこぼれていた。  
 その涙を彼は指の側面で優しく拭った。  
「ゴメン……ゴメン。泣かせるつもりなんて無かったんだ。でも、忘れられない。忘れたくない、  
離したくないんだ!」  
──何で君が謝るの?悪いのは私。私がつまらない見栄で誘惑して君を苦しめたの。でも、  
それでも私を求めて、また私の中に君が帰ってきてくれたことが嬉しい。  
 だけど、私は想いを口にできずただ鷹揚と彼の前で首を振るだけだった。  
 力なくうな垂れた彼は私の胸に顔埋め、声を押し殺して泣いている。時々、漏れ聞こえる  
嗚咽は小さい頃の彼のものと何ら変わりはなかった。  
 一しきり泣くと、黙ったまま彼はゆっくりと腰を動かし始めた。  
 部屋に響いたのは、二人の重なった部分から起きる結合の音、彼の吐息と私の噛み殺した  
喘ぎ。  
 突き入れられ、かき回される度に私の理性は引き裂かれ、心と身体が彼を求めていった。  
──ダメ、ダメ、違う、違う!こんなの…い……け……な…い…のに………  
──違うよ。あなたは”お姉さん”や”教師”である前に、”女”なんだよ。だから、好きな人に  
愛されて感じることの何が悪いの?  
──だからって、彼は…未来ある若者……な…のよ……  
──あなた……いえ、私のこの気持ちはどうなるの?  
──それは私の自分勝手な…ただの我侭…よ…  
 
──そうじゃないわ。だって、彼も私を求めているのよ。あなたはそんな彼の気持ちを  
どうするの?   
 彼の動きに合わせて沸き起こる快楽の波の中で断続的に続く終わりのない自問自答が  
私を苛み続ける。快感に身を任せてしまえることができればどんなに楽なことだろう。  
 永遠と思える葛藤と至福の時間に終わりを告げたのは、内側に温かなものを注ぎ  
込まれた時だった。  
 
***  
 
 行為の後、力が抜けて呆けた私の周りを彼が忙しなく走り回った。少し湿らせたタオルで  
股の間を丁寧に拭い、破れたストッキングを脱がせ、床に落ちていたショーツを穿かせ、  
前がだらしなく開いたブラウスの代わりに、彼は自分の予備の洗い立ての白い  
ワイシャツを私に羽織らせた。  
 心配そうな彼を他所に、私はただ行為の気だるい余韻とどうしようもなく掻き乱された  
心の中で自分を見失っていた。結局、彼を先に帰し、私は夜遅くまで職員室の自分の  
デスクでボンヤリとしていた。  
 
『ごめん。俺、姉ちゃんを諦めたくなかったんだ』  
 次の日、自宅のベッドで目を覚ますと彼からのメールが一通届いていた。  
──”なかった”…か。  
 過去形になっていた彼の文面に私は落胆している自分がいることに気づいた。  
 彼が英国に発ったのはその日の午後だった。  
 予定よりも二日早く私にはその旅立ちは知らされていなかった。だから、見送りにも  
いけず、さよならも言えず、私の気持ちは打ち明けられないまま、心に深く重いものだけが  
残った。  
   
 あれからもう一年が過ぎた。私は今、オープンカフェのテラスでカフェオレを飲みなが  
らタブロイド版の新聞を読んでいる。燦々と降り注ぐ暖かな陽光を浴びながら、このカフェで  
日曜日を過ごすのは私の好きな時間の一つだ。  
 スポーツ欄を見ると彼の記事が載っていた。”ライジング・サン”と湛える大見出しが  
掲載され、昨晩の1ゴール、2アシストの活躍が大々的に報じられていた。シュートを  
放った後の躍動した彼の写真はとても力強く、記事はそのプレーに対する賞賛の嵐で  
吹き荒れていた。  
 毎年、残留争いに四苦八苦しているクラブがヨーロッパのカップ戦を狙える位置に  
つけているのは、彼の活躍があってこそだ。聞くところによると、ビッグクラブからの  
オファーもちらほらと彼の代理人のところに来ているらしい。そんな動きを知ってか  
知らずか、”クラブの宝”という最大級の賛辞で記事は締めくくられている。  
 その新聞を折り畳んで、白磁のカップに口をつけたところで丁度、待ち人がやってきた。  
「待った?」  
「そうね、三十分ぐらいだけど」  
 柔らかそうなリンネルのドレスシャツに、細身のスラックス姿がとてもよく似合っている。  
「それは随分待たせたね」  
「でも、待つのは嫌いじゃないし、たまには日の光を浴びないと身体に良くないわ。珍しく  
春らしい良い天気」  
 私が空を見上げると、同じように中天で輝く太陽を仰ぎ見て彼が言った。  
 
「きっと日本も、もう春だろうね」  
 
(了)  
 

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