「先生、また月が動いてます」  
 風が吹く夜、校舎の屋上に設置された二台の望遠鏡の一つから女子生徒の声  
が聞こえてくる。望遠鏡の横にはパイプ椅子、机、ノートが広げられている。  
生徒の名は安達裕香。ゆうかが本名だが皆ユカと呼ぶ。身長150未満と小さ  
いが、笑うとえくぼが出来る可愛い生徒だ。  
「ユカ、記録して」  
「はい」  
 小熊のプリントがされたシャーペンを右手に持ったユカが、私を見てにこり  
と微笑む。純朴な笑顔につられてつい笑ってしまう。「ん。寝癖でもついてる?」  
「いえ。あの……な、何でもないです」  
 ユカが大きな瞳を更に広げてどもる。「そう」私は小さく笑って空を見上げ  
た。そこには月が三つ浮かんでいた。  
 一昨日は月がそれぞれ等距離に位置していて、正三角形を描いていた。それ  
が昨日から徐々にそれぞれの軌道を描き出した。頂点に浮かぶ月は北北東へ進  
み、右下にある月は北西へ、左下にあるのは南東へ進んでいた。  
 三つの月を初めて見た時、殆どの生徒は異世界に来たという事実をまざまざ  
と見せつけられて茫然としたが、幾名かの生徒はそのあまりの美しさに言葉を  
失ったという。  
 ちなみに翔子はわくわくした。専門が化学で天文部の顧問をしていた翔子は  
真っ先に部員をかき集め、生徒の目を見つめた。誰も死んだ目をしていなかった。  
「今から天文部は活動を始めます。食料、水の確保、校舎の管理、保安部、様  
々な仕事はあるでしょうが、夜は早めに引き上げてもらって屋上に集まること。  
何故か分かるわね?」  
「はい」「勿論ですわ」「へへっ」  
 誰も呆けた顔をしていない。翔子は微笑んだ。「いい顔ね。空を見上げなさ  
い。月が三つなんて、馬鹿みたい。こんな空あってはなりません。徹底的に調  
べ上げるの。いいわね?」  
「はい!」  
 こうして、翔子率いる天文部は連日夕方になると屋上に集まり、望遠鏡を使  
って月や星の記録に努めた。二日目にして、今まで知っていた星が一つも存在  
しないと判明した。星座早見表は部室の額縁に納まった後、ユカを残して天文  
部員2名が退部届けを提出した。理由は心身の疲れと活動内容への懐疑。毎日  
仕事して疲れているのに夜、意味もない月や星の記録などやってられるか、と  
言われて反論はできなかった。おろおろするユカを押さえて、翔子は二つ返事  
で了承した。  
 学問など有事には役立つか立たないかで語られるものだ。生徒に無理強いさ  
せる気はなかった。だが、「いつでも帰ってきていいわよ」とだけ言っておいた。  
 そんなわけで現在、部員はユカただ一人だった。  
「翔子先生ッ! あの」  
 ユカが思いつめたようにして言ってきた。只ならぬ様子に私はユカを見つめた。  
「何?」  
「あの、私……その。先生が……先生が」  
 ユカは顔を紅潮させていた。  
「私が?」  
 ユカの口が動いたその時、強風が吹いた。  
「キャッ」  
 ユカも私も咄嗟にスカートに手を当てて、はためく裾を押さえつけた。ユカ  
が手放したペンを右手でキャッチした。百円で買えるプラスチック製のペンが  
右手に収まった。  
「ナイスキャッチ」  
 私がペンを握り締めてガッツポーズすると、ユカを見つめる。  
「で、私がどうしたの?」  
「好きです」  
 再度風が吹いた。だがそれはユカの言葉を覆い隠す役目を果たすことなく流  
れていった。  
「ありがとう」  
 今まで何度か生徒から告白された事はあったが全て断ってきた。その度に生  
徒の顔はひどく歪み、嗚咽の声を漏らし、走り去るのが常だった。ユカも去っ  
ていくだろうか。  
「先生、ズルイです」  
 ユカは目に涙を浮かべ、笑った。  
「な、何で?」  
「格好良すぎです。眩しいくらい。先生が男の人だったらいいのに」  
「……つまり私は女として見られてなかったと、そう言いたいわけか」  
「違います! 先生は格好よくて皆の憧れの的で、でも大人の女の人で格好い  
ーんです!」  
 立ち上がって力説するユカ。立っても背は望遠鏡に届かない。  
「あ、そ」  
「先生〜〜、好き〜〜!」  
 ユカが駆けてきて両手を広げて私の身体にしがみつく。ユカの胸が私の腹部  
に広がる。柔らかい茶色のソバージュヘアーが風に揺れて私の鼻に靡いてくる。  
ちょっとくすぐったい。シャンプーの良い香りがする。何よりユカの体温が全  
身を包みこんでくる。不意をつかれて身動きが取れなくなる。  
「抱きつくなっつの」  
 シャーペンの先をユカの頭部に軽く突き刺す。  
「痛ッ! 酷いです先生〜!」  
 それでも離さないユカ。その時、屋上のドアが音を立てて開いた。  
「いいかげん幼児退行は見苦しいですわよ、ユカさん」  
「あたしに一言言ってから抱きついてよね、ユカ」  
 それはかつて天文部員だった高見沢麗子と唐沢美樹だった。  
二人はすたすたと翔子とユカの元まで歩いてきた。  
「ごきげんよう。相変わらずキュンキュン言ってるのね。お元気そうで何よりだわ」  
 麗子が澄ました微笑を浮かべてユカに礼をする。  
 ユカは反論したいようだが、口をぱくぱくさせるだけだった。  
「ははっ。麗子も相変わらずだね。先生、ごめんなさい。やっぱ私、星が好き  
なんだ。仕事手伝ってもいいかな? ほら、麗子」  
「わ、私は別に、手伝いにきたわけではありませんのよ」  
「またまた〜」  
 どもる麗子の背中を左手で張り倒す美樹。あまりに力が強すぎて麗子が倒れ  
そうになる。  
 
「キャーーー! ちょ、ちょっと美樹さん!」  
「別に星見るの嫌になったわけじゃないんだろ? 一発謝ればいいんだよ一発」  
「い、一発ってそんな……破廉恥な」  
 麗子が口ごもる。爆笑する美樹。口をぽかんと開けるユカ。  
「こほん。あの……先生」  
 麗子が改めて翔子に対峙する。  
「はい」  
「私、先生のお仕事、とても素晴らしいと思っておりますの。だから先生に一  
旦やめると言ったのは、気の迷いで」  
「ぐじぐじしてるユカの背中押してやったとも言う」  
 麗子は、横から口出しする美樹の頬をハンカチではたく。  
「こんな事言うのは失礼かもしれませんけど、もう一度先生のお傍に、じゃな  
くてお手伝いさせていただけますか?」  
 目の前にいる彼女達が、天文学の重要性を十分に理解しているわけではない  
だろう。一旦離れはしたが、彼女達はそれぞれの理由で集まった。ならばそれでいい。  
 翔子はいった。「麗子、美樹」  
「はい」  
「やる事は沢山あるんだ。もう逃がさないよ」  
「勿論ですわ!」「望むところよ!」  
「ユカ」  
 しがみついたままのユカに言った。ユカは元気に返事した。  
「はい!」  
「離れて」  
「あう」  
 優しい言葉をかけてもらえるとばかり思っていたユカは、がっかりした。  
 
 理解できない世界に放り出されて、明日の心配をしなくてはいけない時にな  
ぜ探究心が頭をもたげるのだろう。月がいくつあろうと、星の光り方が一様で  
はなくてもいいではないか。この三日で月の軌道が見えてきた。ならば明日は  
どれだけ進む、どこへ進む。また他の星は? この何万もの星を全て、毎日記  
述する意義はあるのか。  
 ある。  
「疑問が世界を作るのだ。まず疑え」  
 大学の恩師の言葉がつい口に出た。その恩師ともう会えないかと思うと不意  
に切なくなる。  
 
 翔子は昨日、とある生徒から笑われた。三時間以上も自転車をこいで発電し  
た自転車部の部員は悲鳴をあげて倒れこんだので、仕方なく翔子は自らペダル  
をこぎながら本を読み続けた。  
 その知識欲に対して、とある女子生徒が「本当に勉強が好きなんですね」と  
言ったのだ。翔子は微笑んだ。  
「分からない事があると、嫌でしょ? それにドキドキするの。楽しいわ」  
 天文部の部員は現在3名。天体観測に協力してくれているのは今の所彼女た  
ちだけだ。彼女たちは弱音も吐かず、翔子についてきてくれている。ありがたい。  
 もしこの天体観測が実を結べば、元の日本に帰れるかもと夢想してみた。  
 たとえば、再び三つの月が正三角形の形を成す時、何かが起こるとか──。  
 そう思いついて、翔子は笑った。  
 
 

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