明日は若様が婚約者様をお迎えに上がる日でございます。
この国の慣習では、新郎が新婦の自宅まで迎えに上がります。若様のお相手はある
地方をお治めになっている領主のお嬢様のため、都から片道三日ほどかけてお迎えに
向かわなくてはなりません。
また、盛大な結婚式とは別に、伝統に則った婚礼の儀をそれぞれの家で取り行うため、
若様は都合一週間ほどお屋敷を空けられます。
ちょっとした小旅行となるため、この日が近づくにつれお屋敷の人々は慌しく準備に
追われました。しかし、出発前日の今はそれも落ち着き、ただ明日を待つだけとなりました。
その最後の夜に、わたくしは若様のお部屋で紅茶を給仕しております。
離れで若様に襲われて以来、わたくしはお側仕えを避けることを諦めました。結局、
お屋敷にいる限り若様が襲おうと思えば、いつでもそれは可能なのですから。
若様は定期的にわたくしの身体を求められました。あの日、お打ち明けいただいたと
おり単なる快楽のためではなく、わたくしに子を孕ませようというお考えからでしょう。
しかし、わたくしもない知恵を巡らせ、あえて安全な日を選んで若様のお側仕えをする
ことにしたのです。定期的に交わっていれば、若様が衝動的に襲ってこられることもなく、
最悪の事態を避けられるのでは、と考えたからです。
いつも若様が、「身体に何か変化はないか?」とお尋ねになられる度にわたくしの心は
この御方を騙しているかのような罪悪感からチクリと痛みましたが、二人のため──
いえ、若様のためです。
結果、今日までの間幾度と無く若様の精を頂いてきましたが、わたくしは未だに妊娠しては
おりません。そして、今日も同じことを訊ねる若様に首を振って答えると、あの御方の表情は
沈痛なものへと変わりました。
「明日、僕は妻となる女性を迎えに行かねばならない」
若様が眉を顰めて、苦渋に満ちた声で呟かれます。わたくしを縋るように見つめるその
視線に思わず顔を背けてしまいました。
「……おめでとうございます」
やっと搾り出した声はとても自分のものとは思えませんでした。
「僕は……お前にだけはそう言って欲しくない。僕はお前を傷つけ、苦しめ、散々思うがままに
弄んできた。今更、許してもらえるとは思わない……だから、お前は僕のことを疎ましく思うか?
それとも、憎んでいるか?」
「いえ、滅相もございません」
わたくしは小さく首を振って、若様の言葉を否定しました。
「わたくしにとって、若様は大事な御方ですわ」
精一杯微笑かけてみても、憂いを帯びたご様子の若様が硬い表情を崩すことはありません
でした。
「お前はそう言うが、今まで僕のことを好きだとも……まして、愛しているとも言ってくれた
こともないではないか!」
半ば強引とは言え、幾度と無く若様と肌を重ねてまいりましたが、わたくしは一度もそう
言った類の言葉は口にいたしませんでした。口にしてしまえば、もう後には戻れない──そう
思ったからです。
「若様。あなた様は明日、婚約者様をお迎えに上がる身です」
「だからだ!だからこそ、ハッキリさせたい!」
メイド服の裾を掴み、若様はわたくしを引き寄せられました。
「答えろ、これは主命だぞ!」
語気を荒げても、若様のお顔には不安げな色がありありと浮かんでおりました。
「……若様。わたくしがどのようにあなた様のことを想っても、身分の差は如何とも
しがたいものでございます。それに若様も婚約者様を御覧になれば、わたくしの
ことなど頭から消え去ってしまいましょう。何せ、それはそれはお美しいとメイド達の
間でも評判にございますから」
若様は弱々しく首をお振りになって、悲しげな目でわたくしをお見つめになります。
「例え、婚約者がどれほど美しかろうと、そんなことは問題ではない。僕はお前だから、
愛しているのだ」
その言葉に思わず息を呑んでしまいました。例え叶わぬと分かっていても、愛しい
御方から強く求められて喜ばない女はいないでしょう。
「初めて”市場”で見た時からだ。お前は知らないだろうが、僕が通る以前にも何人かの
貴族がお前に目を付けていたらしい。しかし、”ブローカー”の話に誰もが訳ありだと感じて、
手を引いたと聞く。だが、僕はそれでもお前が欲しかった」
わたくしを見据える若様の真摯な瞳の輝きに、心が激しく揺すぶられます。
「側に仕えさせてからも、自分を抑制するのに必死だった。嫌われてしまっては元も子も
ないからな。しかし、婚約者が勝手に決められてからはそうもいかなくなった。一刻も早く
お前を手に入れる必要があった。だから、あんな無茶なことをした」
不意に若様がわたくしの手を強く引いたせいでバランスを崩し、まんまと逞しいお身体に
縋りつくかのような格好で身を預けることとなってしまいました。衣服越しでも伝わる温もりに
知らず知らずのうちに惹き込まれていってしまいます。
「僕はお前を誰にも渡したくない。だから……」
「ご安心ください。わたくしはどこにも参りません。一生、若様のお側にお仕えいたしますわ」
「……僕は仕えてなんか欲しくない。お前に愛されたい。ただ、それだけなんだ」
「無理を仰らないでください。さあ、明日はご出立ですから」
わたくしが失礼にならないよう、手を外しゆっくりと若様から離れようとすると、慌てた
御様子でしがみついていらっしゃいます。
「行く前に、もう一度だけ……もう一度だけで良い。お前を抱きたい」
本当は火照って疼く身体を沈めて欲しかったのですが──もう夢から覚めていただか
なければなりません。
「いけません!若様、御自分のお立場を弁えください」
わたくしの叱責に若様は唖然とした表情で見上げておいででした。このように強く拒絶した
ことは一度もございません──普段は、嫌がる素振りを見せながらも若様にされるがままに
なっておりましたから。でも、今日は違います。
わたくしは結婚など望むべくもない程身分の低い者ですが、それでも女です。他の女性同様、
どなたかの妻となり慎ましくも幸せな家庭を築きたいという願望は心の何処かにひっそりと
息づいております。ですから、お会いしてはおりませんが、若様の婚約者様のお気持も
僭越ながら分る気が致します。
──もし、自分の夫となる方が、自分を迎えに来る直前に他の女性を抱いていたら……。
──もし、自分の夫が妻である自分を顧みることなく、他の女性に心移りしていたら……。
──もし、自分の夫の愛が自分に向かってないことを知ったら……。
それはそれは、恐ろしいことでしょう。ですから、今更ながらとは言え若様との関係を
断たねばならぬのです。
「……だが」
「それ以上、仰らないでください」
決心が揺らぎそうだから。
「分った……すまなかった」
若様は魂が抜けたかのように、ガックリと肩を落とし項垂れ虚ろな目で床を見つめて
おいででした。そのお姿のあまりの痛ましさに、衝動的に若様を抱き締めてしまいました。
腕の中の若様は小刻みに震えておいでです。しかし、柔らかな髪を優しく撫でますと、
次第に若様の震えも治まっていきました。
「僕はお前のことが好きだ。誰よりも、他の誰よりも、だ」
「存じております」
「……なのに、お前は僕のことを愛してはくれないのか?」
わたくしは何も言えず、押し黙りました。
「どうして……どうしてだ……僕は……」
「若様…………わたくし、若様にお買い上げいただいた御恩一生忘れません。だからこそ、
若様に幸せになっていただきたいのです。若様が本当に幸せになるためには、わたくしなど
ではなく……婚約者様とお幸せな未来をお築きください」
頬を熱い涙が伝いました。わたくしとて、辛い──身が裂かれるほどの痛みを感じている
のです。
「お幸せになってください」
わたくしの精一杯の声が虚しく響き渡りました。
◇ ◆ ◇ ◆
若様が出立された日から、お屋敷はガランと静まり返りました。
いえ、若様がいらっしゃらないだけであって、他の方々は普段と変わらずお過ごしです。
しかし、わたくしには若様がいないということだけで、途端にお屋敷が色褪せてしまった
かのように見えてしまいます。
若様をお見かけしない生活は砂を噛むように味気なく、わたくしはお勤めにも身が
入りませんでした。そのせいか今日もお皿を割ってしまい、メイド長から厳しいお叱りを
受けました。このお屋敷にあるお皿はわたくしの値段などよりも遥かに高いものばかりです。
メイド長がお怒りになるのも当然のお話です。
お皿よりも価値のないわたくしが、若様に懸想するなど自分でも笑ってしまいます。
その日、わたくしは普段よりも遥かに疲れ、重くなった身体をベッドに横たえ、泥のように
深い眠りへと落ちていきました。
一糸纏わぬわたくしは、若様の腕の中に収まっていました。
しっかりと抱きとめられて、僅かな身動きも許されないほどに密着しております。
「若様……あれほど申し上げたのに婚約者様のことをお忘れですか!?」
「婚約者?……ああ、妻のことか。お前が気にする必要はないんだ」
若様のお言葉がわたくしの心を深く沈みこませます。想像はしていました──けれども、
実際にこの御方の口から”妻”という言葉を聞くと、目の前が暗くなっていくのに抗し
きれません。
それに気取られている間に、若様の性器がわたくしの内側に滑り込みました。
そして、若様の手にわたくしの乳房は鷲掴みにされ、荒々しい動きで揉みしだかれます。
「ふっ、ぅ……んぁぁ、はっ、このような不貞……い、いけません」
「不貞?何が不貞だ。お前は僕の”もの”だ。忘れたのか?」
若様の冷めた声が心に響きます。
「気持ち良いのだろ?」
「んくっ……ち、違います!」
口から零れるのは、本心とは別の偽りの言葉。
本当は若様に抱いてもらえることが、嬉しくて仕方が無いのにわたくしは大嘘つきです。
「嘘をつくな」
「違っ……ぁぁん……い、いや、嫌です」
「そうか」
妙に醒めた若様の口調にわたくしは違和感を感じました。何だか普段と違うその口調が
気になって顔を見上げたのですが、若様のお顔からはまるで表情というものが読めません
でした。
「若様?」
心を過ぎった不安が思わず口から出ていました。
「嫌なものは仕方ないな」
次の瞬間、ズルリと若様が私の内側から抜け出てしまいます。
「えっ!?」
若様の性器が離れると同時に、そのお姿が消えてしまいました。慌てて身体を起し、辺りを
見渡すとわたくしが横たわる寝台の横に、見たこともない天蓋付きのベッドがあり、その上で
若様は白く輝く見事な裸体の女性を組み敷いていらっしゃいました。
「わ、若様!」
脇のベッドまでほんの少ししか離れていない──そう思っておりました。しかし、どれだけ
身を乗り出し手を伸ばしても、隣に届きはしませんでした。
「お前は嫌なのだろう?僕に抱かれるのが嫌なのだろう?……僕には妻もいる。別にお前で
なくても、もう構わないんだ。あれだけ情けをかけてやったのに、僕を拒むとはお前はどうしようも
ない愚か者だ」
次の瞬間、若様が冷たく乾いた声で、嘲笑われました。
それを合図に若様と女性が、同時にわたくしの方に顔を向けられました。
お二人のお顔を正視できずに、わたくしは──。
「イヤぁぁ!」
衣擦れの音とともに、上半身を起すとそこはわたくしに与えられたお屋敷の一室でした。
「はっ……はっ……はぁぁ」
暗がりの中、小窓から差し込んだ月の光を見て、わたくしは自分が夢を見ていたのだ、
ということに気づきました。まだ、若様は未来の奥様をお連れになる旅の途上で、お屋敷を
空けていらっしゃいます。
「ゆめ……夢ね」
わたくしは心に渦巻く複雑な思い沈めるため、枕に頬を寄せて再び眠りに落ちようとしました。
しかし、その瞬間、白い枕カバーがじっとりと濡れていることに気がつきました。何気なく頬を
触れると、まだ止め処なく温かい涙が溢れ出てきていました。
「……ダメよ。もうあの御方は……」
自分に言い聞かせるように、繰り返し呟きました。
それでも涙はわたくしの意思に関係なく、ボロボロと零れ落ちてきます。
二度と睦み合うことの叶わないあの御方のことを思うと、どうしようもなく心が締めつけられ、
堪え難い痛みが寄せては返す波のように、絶え間なく襲ってくるのです。
(了)