ご出立されて七日後に、予定よりも一日早く若様はお屋敷へとお戻りになられました。  
 本来であれば、すぐにお屋敷で新郎側の婚礼の儀が執り行われ、続けざまに贅の限りを  
尽くした盛大な結婚式が催されるはずでした。  
 にもかかわらず、今のお屋敷には、葬送の時のように重苦しく静まり返った雰囲気が  
充満しており、旦那様、奥様、そして使用人皆が一様に暗く沈んでおりました。  
 
 それは──若様が婚約者様を連れて帰ってはいらっしゃらなかったからです。  
   
 婚約者様は婚礼の儀を控えた前夜に忽然とお姿をくらまされてしまったのです。  
朝、かの家の召使が起こしに参りましたところ、室内には誰もおらず、窓は開け放たれ、  
ベッドの上には数的の血痕が残されていたとのことです。  
 先方様も四方八方、手を尽くされたのですがどこにもお姿はなく、予定されていた  
婚礼の儀も取りやめとなってしまいました。つまり、それはこの婚約自体が破談になった  
ことを意味しております。  
 お屋敷にお帰りになられた若様は三日三晩、人払いの上、自室にお籠もりになられて  
しまいました。きっと、深くお傷つきになられたのでしょう。無理もありません、御自分の  
婚約者様が婚礼の儀前日に失踪したとあっては心をお痛めになって当然です。  
 そして、そんな若様の姿を尻目に安堵の溜息を洩らしたわたくしは──最低の女でした。  
 自己嫌悪に心が苛まれながらも、背徳的な歓喜の震えを抑えきれないのです。  
 あまりに邪なその感情は、紛れも無くわたくしの若様に対する慕情が揺り動かすもの  
でした。禁じられた想い故、それが生み出すものはあまりに巨大で、自分自身を容赦なく  
傷つけていきました。そうやって理性が弱っていくことを良い事に浅ましい欲望は膨れ  
上がり、若様の温もりに触れたいという想いが四六時中、頭の中を駆け巡ります。  
 わたくしは、自分自身が狂ってしまうのではないかと思うほど、心の中に渦巻く相反する  
感情の激しい流れに翻弄されておりました。  
 しかし、そんな苦悩が続くある日に、わたくしは気づいてしまったのです。  
   
 狂ってしまえば良い、と。  
 
 その甘言は、瞬く間に理性を溶かし、薔薇色に塗りつぶされた幻想を次々と広げ、わたくしを  
誘惑するのです。心を焦がす恋慕の情に流され、何もかも白日の下に曝け出してしまえば  
良いのではないか──そして、後は全てを若様のお心に委ねるのです。  
──子を産め、と言われれば産んでみせましょう。  
──愛妾になれ、と命じられれば身も心も捧げてみせましょう。  
──離れるな、と仰られるならば人生もこの命も省みずお側に控えましょう。  
 それが若様のお言葉でありさえすれば──。  
 
 ◇ ◆ ◇ ◆   
 
 若様がわたくしをお呼びになられたのは、日暮れから振り出した大粒の雨が激しい勢いで  
叩きつける夜のことでした。  
 
 それまでの間にわたくしは自分の紡いだ甘い考えに完全に魅了され、想いの丈を若様に  
伝えようと心を決めておりました。ですから、その時を今か今かと心待ちにしておりました。  
 密かに心躍らせながらお部屋に参上いたしますと、若様が憔悴しきったお姿で椅子に  
座っておいででした。入ってきたわたくしを見つめる目の下には隈がくっきりと浮かび上がって  
います。お優しい御方ですから失踪された婚約者様に、今も心を痛められているのでしょう。  
「若様、お呼びでございましょうか」  
 取り澄ましたつもりでも、心ならず声が上ずってしまうのが自分でもわかります。決心が  
揺らがないうちに早く告げてしまわねば、と気だけが急いてしまいます。  
「ああ。夜半にすまない」  
 しかし、そんなわたくしの心など露ほどもお知りにならない若様は渋い表情をしていらっしゃい  
ました。  
 暫しの沈黙の間、ガラス窓を叩く雨音とランプの炎の揺らぎだけが部屋の中で、わたくしに  
時間が流れていることを教えてくれました。  
「御用は何でしょうか」  
「お前も知ってのとおり、あの話は破談になった」  
 何度も言葉を飲み込んで、顔を強張らせた若様は呻くように呟かれました。  
「その節は、お悔やみ申し上げます」  
 心にもないことを口にできる自分自身に嫌悪感が湧いてきます。  
「だが、父さんも母さんも僕の結婚を諦めるつもりはないらしい。すぐさま代わりの相手を探し  
ている」  
 それについてはメイド達の間でも、噂になっておりました。「次はどちらのお嬢様だろうか」と  
皆が興じるおしゃべりを聞いていることが堪え難くて、そそくさとその場を後にしたことは一度や  
二度ではありません。  
 しかし、どれだけ耳を塞いでみたところで、若様の次なるお相手が探されていると言うのは、  
紛れも無い事実でした。由緒正しき血統の格式ある貴族で、しかも婚期を迎えたこの御方を  
周囲は放っておくことなど考えられません。実際、引く手数多でいらっしゃいました。ですから、  
お相手を探すといっても、実際は他家から送られてくる申し出の中から相応しいお嬢様を  
選ぶだけでしかありません。早晩、若様と釣り合いの取れる御方が現れてしまうことでしょう。  
 もう、若様がご結婚されることは不可避の事実です──だから、せめてわたくしの気持ち  
だけは伝えたい。  
「わか……」  
「やはり、いつまでも逃げることはできないと思う。つまり、僕自身も真剣に結婚のことを  
考えざるをえない」  
 わたくしの言葉を遮った若様が顔を挙げ、短い溜息を吐かれました。何故だか、その仕草が  
わたくしの心に暗い影を落とします。  
 重苦しい雰囲気が漂い始めた頃、窓を激しい雨が叩く音が一層大きさを増します。  
 まるで礫がぶつかるようなその音に、あの若様の一言が掻き消されてしまえば──。  
 
「……そこで、お前には出て行ってもらおうと思う」  
 
 刹那、ランプの灯りに若様のお顔が翳り、表情を伺い知ることはできませんでした。  
 
 僅かな時間の間に何度も何度も若様の声が反芻されました。  
 信じられない──いえ、信じたくありませんでした。  
 ですが、それが若様のお言葉で──御意思ならば──。  
「そう……ですか」  
 やっと、搾り出した声は我ながら憎らしいほどに鮮明でした。この場で泣き崩れて  
しまえば、楽になれるのに──でも、そんな資格、卑しいわたくしにはありません。  
 ひととき、分不相応の夢を見た自分が浅はかで、愚かしく、あまりに情けないので、  
この世から消えて無くなってしまいたい、心の底からそう願いました。  
 自暴自棄になりかけたわたくしを現実に引き戻したのは、苦悩の色がありありと浮かぶ  
若様の瞳でした。それは、この御方がほんの僅かでもわたくしのことを気にかけ、心を  
痛めていただけたことを如実に物語っておりました。  
 それが心を落ち着け、この後のことを考える余裕をくれました。しかし、すぐにわたくしは  
事態の余りの恐ろしさに、身震いが止まらなくなります。  
   
 お屋敷を辞めなければならないということは、再び”市場”に戻らなければならないのです。  
   
 今のわたくしには、再びメイドとして買って頂けるだけの価値はありません。今度こそ、  
娼婦として生きる日々を送ることになるでしょう。  
 見知らぬ男性をお客様として、お金を頂戴して一夜限りの相手として身体を許す自分の  
姿を想像するだけで、早くも眩暈がいたします。しかし、それだけがわたくしを買うために  
若様が支払われたお金の四分の一をお戻しするための唯一の方法。  
 堕ちていくだけの未来の惨憺たる有様に絶望する一方、これまでの人生が幸せ過ぎた  
ことに改めて気がつきました。メイドとして生きることは、貧しい女達の憧れであり、最高の  
至福でございます。まして、一度お払い箱になった身で再び若様のような凛々しく高貴な  
御方に買って頂き、あまつさえ僅かな時間とは言え、心寄せる方の温もりに溺れることが  
できたこと──これ以上の幸せがどこにありましょうか。  
 これからはこの思い出を大切に心にしまって、時々思い返せばきっとどんな過酷な運命が  
待っていても生きていけることでしょう。  
「短い……短い間でしたが、お世話になりました。僭越ながら、若様のこれからのご多幸を  
お祈り申し上げております」  
 この場の空気にこれ以上、堪えられなくなったわたくしがお辞儀をして、その場を離れよう  
とした瞬間、若様に引き止められました。  
「お前には色々と迷惑を掛けた。これはせめてもお詫びだ」  
 手渡されたのは、金貨が溢れんばかりに入ったズシリと重い布袋でした。  
「こ、これは!?」  
「これまでの給金代わりだと思って受け取ってくれ。それから、お前の債権を放棄する旨の  
証書も入っている。だから、買い上げた金の返戻はしなくて構わない」  
 お金の返礼をしなくても良いということは、娼婦として身体を売る必要もなくなったという  
ことでしょうか。あまりのことに脳裏には、深く立ちこめていた雨雲が、陽光によって切り裂かれ、  
やがて青空が広がる光景が浮かびました。  
 しかし、すぐさま黒雲が盛り返してきて、全ての光を遮ってしまいました。”自由”と言われても  
──世間知らずのわたくしがどうやって、この後生きていけば良いのか、と途方に暮れてしまいます。  
 
「……ありがとうございます」  
「働くあてはあるのか?」  
「いえ。これから探します。ご心配なさらないでください。探せば、きっとわたくしにも  
できる仕事の一つや二つぐらい……」  
「探さなくて良い。実は、ある屋敷で人が足りなくてな。勝手だとは思ったが、お前を  
紹介しておいた」  
 突然の申し出にわたくしは言葉を失ってしまいました。  
「アストラッド家というが……もう話はつけてある。お前さえ構わなければ、すぐにでも  
向かって欲しい」  
 アストラッド──という御家名は残念ながら存じ上げておりませんが、若様のご好意を  
無為にしないため、どこであろうと粉骨砕身、働こうと即座に決断いたしました。  
「変わらずメイドとして、でしょうか?」  
「メイドとは少し違うが、悪いようにはしない。信じておくれ」  
 若様のお言葉を信じるも信じないもございません。世間を知らぬわたくしが職探しなど  
してみたところで、酒盛り場の給仕がやっとでございましょう。お屋敷仕えとそれを  
比べれば、雲泥の差がございます。  
 わたくしはメイドの作法とはまるで違うお辞儀を何度も繰り返しました。  
「ありがとうございます。一生、この御恩は忘れません」  
 
 ◇ ◆ ◇ ◆  
   
 わたくしは二日ほどお暇を頂き、その間に荷物を纏め、一緒に働いたメイド達に  
お別れを告げました。誰もが口々に「何故、解雇されたのか」と問うてきましたが、  
わたくしはただ曖昧に笑い、その理由については決して口にはしませんでした。  
 そして、その日がやってきました。  
 その朝、わたくしは両親から譲り受けた形見のトランクケースを片手に、清掃を終えた  
私室を見渡しました。  
 私物は全て革製のトランクに詰めておりますから、部屋はガランとしております。その光景が  
初めてここに来た時のことを思い起こしました。  
 見慣れた小さな両開きの窓から、朝日が皺一つなく整えたシーツの上に差し込んで  
おります。壁には二度と着ることの叶わない、このお屋敷のメイド服が掛けられております。  
 初めて若様に求められた日、メイド服のボタンを引き千切られ大変な思いをしました。  
あの時は自室に戻るなり、余韻で火照る身体を鞭打ち、泣きそうになりながら必死に  
ボタン付けをしたものです。今では思い出す度に自然に頬が弛んでしまう良い思い出です。  
 名残惜しさはありつつも、わたくしは部屋を出て静かにドアを閉めました。  
「……さようなら」  
 
 毎日を過ごしたこのお屋敷との別れを惜しむ気持ちは膨らむ一方でしたが、それにも  
増して若様への身の程知らずな慕情が身を焦がすほどに込み上げてきました。  
 居た堪れなくなって、わたくしは逃げるように建物を出ました。  
 結局、あの日以来、若様とお話することも、お会いすることも叶いませんでした。しかし、  
元々、主人とメイド──それに今のわたくしは解雇された身。ですから、お目になど  
かかれるはずございません。  
 お屋敷の門を一歩でると、その前に立派な二頭立ての馬車が止まっておりました。  
栗毛色の毛並みの良い馬は、黒く大きな瞳でわたくしを見つめます。  
 暫しその馬の姿に見蕩れていたところ突如、後方から声を掛けられました。  
「失礼ですが、あなたはこれからアストラッド家にお向かいになられる御方でしょうか?」  
「えっ……ええ。はい」  
 返事をすると、御者の格好をした男性は品の良い笑顔を浮かべながら、帽子を取り  
お辞儀をしました。  
「そうですか、あなた様がですか。私はこちらのお屋敷の方に、あなた様をアストラッド家まで  
ご案内するよう申し付けられたものでございます」  
「どなたにでしょうか?」  
「さあ、お名前はお伺いしなかったので、存じ上げません。ささ、お乗りください。お待たせ  
してはあちら様に失礼ですから、さっそく出発致します」  
 促されるままに慌しく馬車に乗り込むと、すぐに御者は馬に鞭を入れました。  
 窓の外を流れていく景色をぼんやりと眺めていると、自然と視界が霞んできました。  
何度目を拭っても、すぐに光景が滲んでしまいます。短い溜息をつき、二度と会うことの  
できない愛しい御方のお顔を思い起こしてみました。  
 
 揺れる車中、わたくしは顔を覆い──嗚咽が御者に聞こえぬように泣き続けました。  
   
(了)  
 

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