僕にとって、妻と閨を共にすることは純粋な愉しみであり、悦びだ。  
 多くの貴族達は、夫婦の性交は跡継ぎを作るためと言って憚らないが、妻との交わりを  
そのように思ったことは一度もなかった。  
 妻の華奢な身体は、僕が突き上げる度に陸に上がった若魚の如く跳ね回り、大人しく  
腕の中に収ってくれない。  
「あっ!……は、んっぅ……やっ」  
 眉を潜め必死に声を洩らすまいと唇を噛み締めるその姿がいじらしく、どうしようもなく  
愛おしい。  
 弓なりの背に回した腕を解き、替わりに”彼女”の乳房を掌で弄ぶ。  
「ふっ、んっ……ダメ、ダメです……ぁああ」  
「今日は、一段と可愛らしい声で啼いてくれるんだね」  
「いや……あんっ……そ、そんな意地の悪いこと……仰らないでください」  
 首を振ると見事な黒髪がうねり、幾条かが汗の浮く白い首筋に張り付く。  
「いや、意地悪をしているつもりはないよ。褒めているつもり」  
 それでも”彼女”は長い睫毛を震わせながら、閉じた目を開けようとしない。  
「イヤらしい女では……あなた様の妻に相応しくありません」  
 別にそんなことを気にしたことはない。淫らだろうが、何だろうが、”彼女”でありさえ  
すれば僕には充分だ。  
「そんなことは気にしてないから、安心して。僕の妻はお前しかいない……その代わり、  
嫌だと言っても手放してはやれないけど」  
 途端に妻は頬を真っ赤に染めて、やっと目を開く。  
「……もったいないお言葉」  
 恥ずかしげに口籠もる”彼女”を眺める僕の脳裏に、ふと昔のことが過ぎった。  
 
 ◇ ◆ ◇ ◆  
 
 昔と言っても、たかが一年前のことだ。  
 当時の僕は屋敷のメイドに懸想していた。彼女を初めて見たのは、貴族の友人に  
連れられて行った”市場”だった。我が家ではあまり市中に出かけることを良しとしないため、  
人身売買を行う”市場”と呼ばれる場所があることは知っていたが、実際に出向くのは  
それが初めてだった。  
 そこで、僕は彼女を見つけた。  
 中年の”ブローカー”は、「コイツは女としては問題ないんですが、歳を食っているし、  
何よりどこぞのお屋敷を首になって”市場”に出戻ってきたんで、買い手なんて見つかりっこ  
ありませんよ。どうせ売れ残るのは間違いないから娼婦として売りに出そうと考えていたところ  
でして、旦那が買ってくれると言うなら、その辺りのメイド志願の女より格安でお売りします」と  
言った。  
 別に格安でなくても、僕は彼女を買ったに違いない。  
 彼女に買った旨を告げると、僕の前で大粒の涙を流しながら何度も礼を述べ、繰り返し  
頭を下げてきた。  
 
 別に彼女が礼を言う必要などなかった、僕が他の誰にも渡したくなかっただけだから。  
 屋敷に連れて帰ると、父と母から猛反発を受けた。屋敷のメイドは皆、目の確かな  
メイド長が選んでいる。給金で働くメイドも買い上げてくるメイドのいずれも、である。  
 だから、僕が勝手に”市場”で買ってきたどこの馬の骨とも知れない女を側仕えさせる  
ことには露骨に嫌そうな顔をした。  
 だが、僕は断固として主張を曲げず、ついに彼女をメイドとして働かせることを  
認めさせた。それからというもの、退屈だった毎日が一変した。彼女のことを思えば心が  
躍り、彼女の顔を見れば天にも昇る無情の喜びに浸る日々が続いた。  
 しかし、そんな幸福な時間はあっという間に終わりを告げた。  
 彼女を迎え入れてから半年もしないうちに、僕に縁談の話が持ち上がったのだ。  
 破談にしようと努力してみたものの、ひとたび家同士で決められたことを個人の我侭で  
覆せるほど貴族の社会は甘くない。最終的には逃げ道を全て塞がれ、見知らぬ女性と  
結婚することを渋々承諾せざるをえなくなってしまった。  
 だから、せめて想いの丈だけでも伝えようと彼女を呼び寄せた。しかし、彼女が開口一番  
告げたのは、「ご婚約おめでとうございます」という最も聞きたくない言葉だった。  
 それが引き金となって、行き場を失った慕情が狂ったように暴走を始めた。  
 衝動に駆り立てられれるまま、彼女に襲い掛かり、抵抗する彼女を組み敷き、必死に  
赦しを乞う彼女を犯した。  
 いくら主従と言えども許される行為ではなかった。だから、あの夜の出来事があって以来、  
彼女が僕を避けるようになったとしても止むをえないことだった。そうだと頭で分かっていても、  
恋慕の情は募り心を激しく掻き毟った。いつの間にか、彼女をどうすれば、我がものにできるか  
ばかり考えるようになっていった。  
 悩んだ末に、僕は彼女に子供を産ませることを思いつく。  
 彼女に子供を産ませ、そのまま暇を出す。無論、住む家や生活に困らない費用を出しながら  
密かに通い、然るべき時に公にして彼女と子供を迎えに行く──今となってみれば、問題を  
先送りにするだけの浅はかな猿知恵だったと感じるが、当時は夢見心地になったものだ。とは言え、  
大前提である子を宿すことすらできなかったため、計画はいとも容易く頓挫した。  
 そうこうするうちに、婚約者を迎えに上がる前夜になってしまう。  
 その夜、彼女は僕をハッキリと拒絶した。今まで、「嫌だ嫌だ」とは言われたが、最後は  
僕の我侭に付き合って身体を許してくれていた彼女が何もかもを拒んだ。  
 希望の扉が閉ざされ、目の前が暗くなっていった。残ったのは、絶望と言う名の暗闇。  
 
 結局、彼女の目には、僕が主人の地位を嵩に使用人を弄ぶ我侭な子供に映ったのだろう。  
 歳は三歳ぐらいしか離れていないが、彼女は僕とは比べ物にならないほど苦労を重ねて  
きたことぐらい──無数に赤切れた指を見ただけで分かる。  
 できれば、炊事も洗濯も──メイドの仕事すべてをやらせたくなかった。ただ、僕の側で  
一緒に食事をして、お茶を飲みながら談笑して、同じ寝具に入り、そしてまどろんでいて  
欲しかっただけなのに──それは夜空の星と同じぐらい遠く思えた。  
 
 ◇ ◆ ◇ ◆  
   
 婚約者が失踪したことは──相手方には誠に申し訳ないが僥倖だった。  
 許される感情ではないことぐらい重々承知している。それでも──許して欲しかった。僕が  
愛したのは見知らぬ婚約者ではなく、メイドの彼女なのだから。  
 せめて、失踪した婚約者もどこかで彼女の愛する人物と幸せに暮らしてくれれば良いのに、  
と思ったがそんなことはありえないだろう。ベッドに残った血痕からも明らかな通り、きっと  
何らかの事件に巻き込まれたと考える方が妥当だ。  
 相手方に一通りお悔やみの言葉を述べ、僕は早々に自分の屋敷に戻ることにした。ここに  
いても何もできないし、もし仮に婚約者が帰ってきても、この話は彼女が婚礼の儀の朝に  
いなくなった時点で無いものになったのだ。元の鞘には戻らない。  
 妻帯者になることを免れたとは言え、僕は出発前のあの夜のことを思い出すと気分が  
憂鬱になった。  
 僕に凌辱された後も、彼女が自分を主人として慕ってくれていることは知っている。だが、  
それも所詮、僕が彼女を”市場”から買い上げた貴族だったからに過ぎないのではないか。  
もし、他の誰かが買っていれば、彼女はその他の誰かを慕ったのではないか。  
 そう思うと、一気に不安が襲ってきた。  
 彼女に”男”として愛されていなければ──感謝が形を変えただけの慕情しか抱かれて  
いないとすれば、僕に彼女を伴侶として迎える資格などない。だが、例えそうだとしても、  
彼女の本心を知らなければ僕の気持ちに決着はつけられないだろう。  
 そして、その答えは彼女に求婚することでしか得られない。  
 そうしなければ、彼女は僕の求愛を単なる我侭な貴族の戯事ぐらいにしか考えてくれない  
だろう。僕が本気だということを理解してもらうにはそれしかない。それに、前の二の舞は  
御免だった。次の相手こそは、自分が見初めた女性にしたい。  
 だが、現実的に求婚することを考えると、彼女がずっと口にしていた身分の差が重く僕の  
心に圧し掛かる。貴族が求婚することは軽い話ではない。まして、我が家のように格式を  
重んじる家系の息子が買い上げのメイドに求婚したなどと世間に知れれば、醜聞好きの  
連中から格好の餌食にされるに違いない。  
 僕だけならば、何と言われても構わない──しかし、両親、兄さんや妹達のことを考えると  
気が滅入る。一人の愚かな人間の犯した不始末で没落していった貴族は、歴史上腐るほど  
いる。  
 僕はそんな連中を鼻で笑っていた──そして今度は、僕が嘲笑される番だった。  
 彼女を本気で愛していないから、僕は今更になって求婚を躊躇い、家のことばかり考えるの  
だろうか。いや、違う。僕は愛している──誰よりも彼女を愛している。そうでなければ、ここまで  
悩むことなどないのだ。  
 八方塞の現実に僕は溜息をつくことしかできない。  
「ダメだ……」  
 絶叫は、畦道を走る車輪の音に紛れたが、頬を伝う熱いものは堪えきれなかった。  
 結局、どうあっても彼女に求婚することなど──まして、伴侶として迎えることなどできないのだ。  
 
 深い絶望に覆われ、考える力をなくした僕は放心したまま窓の外を流れる似たり寄ったりの  
長閑な田園風景をただ眺めていた。そのうちに、何かが脳裏で蠢く。それは漠然としていながら  
明確な自己主張を秘め、小さな囁き声でありながら聞き逃すことを許さない響きを帯びていた。  
 急いで、しかし、それが壊れてしまうことのないように丁寧に、思考の泥濘の中から”それ”を  
掬い上げる。  
 
 作れば良いのだ──高貴な家柄かつ彼女と同じ美貌を併せ持つ”彼女”を、僕が作って  
しまえば良いのだ。そうすれば、誰にも何の気兼ねもなく求婚できるではないか!  
 
 何故、こんな簡単なことに気がつかなかったのだろう。瞬間、僕は狂ったように湧き起こる  
笑いを抑えきれず、馬車の中を転げまわった。  
 幸い資金は潤沢にある。金に糸目をつけず、湯水のように注ぎ込めば不可能な話ではない。  
僕は屋敷に戻る前に、友人の邸宅へこっそりと寄ることにした。勿論、僕のこの素晴らしい  
アイディアを相談するためだ。  
 僕が一通り説明を終えると、友人は怪訝な表情を作る。  
「……気でも触れたか?」  
「いや、至って正気だよ。僕は」  
「だとしたら、元々、おかしくなっていたとしか考えられないな」  
 友人は僕の考えを聞くなり、肩を竦め、呆れ顔を作った。  
「協力しろよ、な?」  
「もう一度訊くが、本気か?」  
 覗きこむ彼の視線は未だ僕が冗談を言っているのではないかと、半信半疑だ。無理もない。  
 こんな途方もなく、馬鹿げたことを言い出す人間などそうはいないだろう。   
「大体、お前の考えには貴族社会で尊ぶべきモラルが欠片も感じられない」  
「欲しいものを手に入れるために、金を使う……どこが、おかしい?」  
「方法が問題なんだよ!」  
 珍しく冷静な友人が怒鳴るので、さすがに僕も居住まいを正す。一度、息を吸い込み、  
肺が充たされたのを確認するとゆっくりと吐き出し、気持ちを落ち着ける。  
「……協力しろ。お前以外に頼める人間がいない」  
 低く押し殺した声は僕が本気の証拠だ。  
 友人を暫く僕の目を探るように見つめ、溜息を零す。  
「……ちっ。分かったよ。だけど、俺はどうなっても知らんぞ!」  
 渋々と言った態だが同意してくれたことで、胸を撫で下ろす。僕の計画に不可欠だった  
協力者を得たからには、理想の”彼女”を作ることへの障害はなくなった。  
 
 そして──彼女を屋敷に置いておく理由もなくなった。  
 
「そう……ですか」  
 彼女は眉一つ動かさず、バラバラという雨音の中でもハッキリと聞こえる澄んだ鮮明な  
声を紡ぎ出す。  
 
 せめて、泣き崩れてくれれば──きっと気が変わっただろうに。しかし、彼女はまるで  
申しつけを聞くかのように、淡々と事実を受け止め小さく頷くだけだ。  
 金貨と証書が入った袋を渡す。本当は証書をアストラッド側に譲り渡すと告げるつもり  
だったが直前で止めた。証書などなくとも彼女が僕の申し出を断る可能性がないことが  
分かりきっていたからだ。  
 案の定、何も知らない彼女は長い睫毛を震わせ、僕に感謝の言葉を何度も繰り返す。  
 彼女を下がらせると、全身に冷たい汗をかいていたことに気づく。分かっていても、  
愛する人間を手元から失うことは、この上なく辛いことだった。  
 しかし、それもこれも僕の伴侶たりえる”彼女”を作り出すため止むをえないことなのだ。  
 
 ◇ ◆ ◇ ◆  
   
「どうか、なされましたか?」  
 ”彼女”の一声で、僕は現実に引き戻された。  
「いや。ちょっと、昔のことを思い出していた」  
「昔の……女性のことをですか?」  
「お前を手に入れるまでの顛末を、さ」  
 ”彼女”は僕にとって完璧な女性だ。  
 流れるような黒髪、深みを持つ瞳、緩やかな曲線の鼻、薄いけれど瑞々しい唇、ほっそりと  
していながら女性的な柔らかと膨らみを失わない肢体──どれをとっても”彼女”は僕の  
思い描く理想そのものだ。  
 羽毛のように柔らかな髪を一房、手に取り何度も指を通してその感触を愉しむ。行為の  
途中だが、時にはこんなのも良いかと思う。  
「後悔なされたのですか?」  
「まさか」  
「わたくしは……偽者ですから」  
「誰も気づかなければ、本物さ。僕とお前と協力者以外、誰も知らない」  
 そっと口を寄せ、不安げな”彼女”の唇を奪う。  
「怖いのです。いずれ、本当のわたくしを知るあなた様がお見限りになられる日が来るの  
では、と」  
「奇遇だね。僕も怖いよ。お前が僕を捨てる日が来るんじゃないかって、ね」  
 僕の答えに、腕の中の”彼女”は納得のいかない表情をしている。  
「……業が深いだろ、僕は」  
   
 ◇ ◆ ◇ ◆  
 
「この期に及んでだが、もう一度聞かせてくれ。本気なのか?」  
「ああ」  
 ある舞踏会場の二階に客間を一つ用意してもらい、僕と友人はそこである女性を待っていた。  
 
「問題になる……では、すまないぞ」  
「バレたら、の話だろ」  
「俺がバラすかもしれない。口が軽いのだけが取り得だからな」  
 僕が笑うと、友人は何だよと唇を尖らせる。  
「大丈夫だよ、お前ならば」  
 もし、友人が本当に暴露するつもりなら、わざわざ僕の気が狂った計画に協力するなど  
という危ない橋を渡る真似はしなかっただろう。それに何より彼は信頼に足る人物だ。  
 そうこうするうちに、ドアをノックする音が室内に響く。  
「どうぞ」  
 開いたドアの向こうには、見目麗しい貴婦人が困惑の表情を浮かべながら立っていた。  
 僕が作り上げた”彼女”だった。  
 そして目が合った途端、”彼女”の長い睫毛が震え、漆黒の瞳が大きく見開かれる。  
 ゆっくりと立ち上がって一二歩、”彼女”に歩み寄り、深々とお辞儀をする。  
「ご機嫌麗しゅう」  
「……あ、ああ。こ、これは……悪い冗談なのですね。そうです、そうに決まっていますわ!」  
 ”彼女”は唖然とした表情ながら、僕に疑義の視線を投げ掛ける。  
「何を仰っているのでしょうか?」  
 わざと惚けてみせる。すると、”彼女”が白い手袋嵌めた指先でスカートをキュッと握り  
締める。  
「何故ですか?何故、わたくしに他人の真似事などさせるのですか?」  
「……あなたが欲しかったから。そのためにあなたの人生を捻じ曲げ、歪め、そしてあなたの  
全てを作り変えた。他人の人生を弄ぶなど、唾棄に値する行為であることは分かっています」  
 ”彼女”も友人も押し黙って、ただ僕を見つめる。  
「自分の罪の深さは認識しています。ただ……あなたへのこの想いだけは嘘偽りないもの  
です。だから、今日この場で、僕が求婚することをお許し頂きたい」  
「きゅ、求婚!?」  
 驚きの余り、大きく開けた口を”彼女”は慌てて掌で覆い隠すが、目はあちこちを泳いでいる。  
僕はそんな”彼女”の前に跪き、そっと左手の白いレースの手袋を脱がせる。ほっそりとした  
指先に触れるとゾクリと歓喜が背筋を走る。  
「わたくしめの願い出に、お答えを頂きたい」  
 古くからの定まった求婚の口上を述べた僕、片膝立ちの姿勢のままは目を閉じる。  
 後は、”彼女”からの答えをただ待つだけだ──求婚を受け入れるならば、女性はその旨を  
口にし、もしそうでないならば、無言のまま手を引く。  
 自然と”彼女”の手を握る指が震える。女性が決断するまでの間、求愛した男は女性の顔を  
見てはいけない。これは男が女性を脅したり、威圧したりして決断を誤らせることのないように  
定められた求婚の礼節である。破られた場合には、女性は求婚の申し出をなかったものに  
することができる。  
 僕は瞼を閉じて重苦しい空気の中、”彼女”の言葉を待った。  
 
 ”彼女”が声を掛けてくれることを心の底から祈った。  
 微かに”彼女”の指先が震える。  
 無意識のうちに”彼女”の手を握る指に力が籠もってしまう。手を引かないで欲しい、  
縋るような想いでただ、答えを待つ。  
 そして、それは唐突に降り注いできた。   
「……これは、夢ではないのでしょうか?」  
 ゆっくりと見上げると、”彼女”がその澄んだ瞳で僕を見ながら問い掛ける。  
「悪い……夢なら覚めて欲しい、とでも?」  
 ”彼女”が首を横に振り長く伸びた黒髪がしなやかに踊る。  
「いえ。その逆です。夢なら覚めないで欲しいと」  
 ドクン!  
「こんなわたくしで宜しいのですか?わたくしは……」  
「お前でないとダメなんだ。お前が僕の側に居て、僕を愛してくれれば……それ以上、何も  
望まない!」  
 求婚の作法は完全にすっ飛んでいた。細い手を握り締めたまま、僕は慈悲を乞うが如く  
叫んだ。”彼女”は駄々を捏ねる子供をあやす母親のように目尻を下げて苦笑いを浮かべていた。  
 
「では……わたくしを幸せにしてくださいませ」  
   
 そう答えた”彼女”が微笑んだ姿は息が詰まるほど美しく、僕は愚かにも誓いの口付けを  
忘れて暫くの間、見惚れていた。  
 
 ◇ ◆ ◇ ◆  
 
 そして今、”彼女”と上質な絹のシーツの上、互いに生まれたままの姿で一つになっていた。  
「はぁ、っ……ふっ、んん……も、もう、おかしく……な、なってしまそうで、ぁん」  
 額に珠のような汗を浮かべながら、目尻を下げ今にも泣き出しそうな顔で喘ぐ”彼女”は  
どんなものよりも僕の心を悦ばせ、そして充たしてくれる。  
「もう少し、くっ……我慢して」  
「は、っん、はい……ひっ、ぁくぅ」  
 僕の言葉に素直に従う”彼女”は、どれだけ責めても慎ましさだけは決して失わない。黒い髪を  
振り乱し、僕の与える快感に悶えながら”彼女”は昇っていく。  
 それに呼応して、”彼女”の内側は締め上げる力を強くし、僕の下腹部に痺れにも似た快感が  
広がる。こうなると、僕が達するのも時間の問題だった。  
「……っ!」  
 声を噛み殺して、”彼女”の内側に精を放った。  
 迸った子種は一度や二度では留まらず、脈動を繰り返しながら自分でも信じられないぐらいに  
出てくる。吐精が終わると、僕は”彼女”の隣に身を横たえ、鼻先が触れ合う距離で見つめ合う。  
”彼女”の双眸にはまだ僅かに官能の炎を燻ぶっており、それを見ただけで性懲りもなく再び欲情が  
込みあがってくる。  
 
「子供……できると良いね」  
 劣情を隠すように、何気ない素振りで僕は呟いた。  
「……どちらが宜しいですか?」  
「お前に似た女の子、が良い。男だと、僕みたいに罪深くなりそうだから」  
 冗談のつもり──僕は笑ったはずだった。  
 でも、違った。  
 僕は泣いていたのだ。  
「自分をお責めになるのは……もう止めてください」  
 ”彼女”の手が伸びてきて、曲げた指で僕の目尻を拭う。  
「わたくしは感謝申し上げているのですから」  
「……」  
「お屋敷の玄関を開けた途端に、一列に並ばれた使用人の方々が『お帰りなさいませ、  
お嬢様』と仰った時は、さすがに頭がおかしくなりそうでしたが……」  
 その話を聞くのは何度目だろうか。  
「でも、わたくしが夢にも見たことがないぐらい素晴らしい生活を送れるのは、あなた様の  
おかげなのですよ」  
 頬を桜色に染めながら、”彼女”がニコリと微笑む。  
「僕は感謝されるようなことは何一つした覚えはない。ただ、僕の我侭でお前を振り回した  
だけだよ」  
「フフフ。では、我侭のお相手に選ばれたことを感謝いたしますわ」  
 ”彼女”には敵わない。  
「でも、わたくしのためにあなた様には、計り知れぬご苦労をお掛けしました……そのことを  
後悔なさったことはないのですか?」  
 頬にかかった黒髪をそっと払ってあげると、”彼女”は擽ったそうに目を細める。  
「いや。アストラッドの名籍を買うのは手間こそかかったけれど、実質ただ同然だったし、  
この屋敷だって……まあ、安くはなかったけれど別に無理をした覚えは無い」  
 幸福な現在から振り返ってみれば、アストラッドの名籍や屋敷を買うために費やした金など  
どれほどのものだったと言うのだろうか。婚礼先から屋敷に戻り、三日三晩を費やして名籍を  
買収するため各方面へ手紙を書きまくり、極度の寝不足に陥ったことも今となれば良い思い出だ。  
「でも、わたくしのためにして頂いたことは、貴族の方々の道徳観とは相容れないことだと  
仰いましたよね。やはりご迷惑をお掛けして……」  
 ”彼女”の言うとおり、僕の取った行動は貴族制度そのものに対する冒涜行為だった。  
自分の愛した女性のために、血筋の途絶えた貴族の名籍を買い取り、そこへ彼女を送り込み、  
まんまと跡継ぎにしてしまう──つまり、貴族の地位を金で買ったのだ。企てが露見した日には  
唯では済まないことぐらい覚悟している。  
 しかし、秘密が保持されさえすれば、”彼女”への求婚も所詮、貴族同士のありふれたもの  
に過ぎないのだ。たとえ、相手の素性が、卑しい身分の出身だったとしても、だ。  
 こうして、僕は求婚できない彼女を、伴侶たりえる”彼女”へと作り変えたのだ。  
「良いんだ。別に構わないんだ。僕からして見れば、貴族の考え方が間違っているんだよ」  
 
 そっと手を伸ばし、指先で”彼女”の頬を撫でる。形を確かめるように、何度も何度も  
なぞっていると、ジワジワと幸福感が込み上げて来る。  
「今まで僕の我侭に散々振り回したお詫びに、お前の望みを叶えたいんだ。思いつく  
ものを何か言ってくれないか?」  
 問い掛けに、”彼女”は少し小首を傾げ「では……」と婉然としながら唇を動かす。  
 
「若様……約束を忘れないでくださいませ」  
 
「……それだけか?」  
「はい。お忘れにならないで頂けるなら、それ以上何も望みはございません」  
「欲が無さ過ぎるのも考えものだぞ。いらない勘繰りを受ける」  
 貴族社会は権謀術数が渦巻き、欲深い亡者どもが跋扈している。自分自身達が様々な  
欲を抱くからこそ、他人も同じだと踏む連中は”彼女”のような無欲な人間を最も危険視する。  
「あら。これでも充分欲深いつもりですが。卑しい身分のわたくしが、若様に約束を……」  
「若様は止めてくれ。もう、夫婦なのだから」  
 僕が浮かべた笑いは、苦笑いと照れ笑いの中間だった。今でも時々、”彼女”はメイド  
だった頃みたいに僕のことを「若様」と呼ぶ。昔は何も思わなかったけれど、今は何だか  
むず痒いからおかしなものだ。  
「はい、そうですね。やっと笑っていただけましたから、もう止めますわ」  
 その時初めて、僕は自分の涙が止まったことに気がついた。  
 やっぱり、”彼女”には敵わない。   
「そう言えば、まだわたくしの望みに対するお答えをお聞きしていなかった気がします」  
 唇の舌に人指し指を当てて、”彼女”が僕をジッと見つめる。  
「忘れないさ……お前を幸せにすることこそが、僕の望みで、僕の幸せそのものなのだから」  
 想いの丈を伝えると、僕は”彼女”の可憐な唇を塞ぎ、柔らかな裸身を胸に引き寄せた。  
 この腕の中の温もりがもうどこにも行かないように、ただ──ただ強く抱き締める。  
 
 (完)  
 

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