その時、雲が月を隠した。ふいに空を見上げた雄人は「マズイな」と言った。  
「何がよ」  
 怒りが収まらない私は、きつめの口調で問う。  
「雨降るよ。帰ろうぜ」  
 彼は私の手を取って、学園に向かって足早に歩き出した。彼の熱くて大きな  
手が、私の手をしっかり握って離さない。  
「ちょ、貴方も家こっちなの?」  
「途中までな。でも学園まで送ってやるよ。夜変なのが出るしな」  
「変なの?」  
「痴漢。最近あったんだぜ、ニュースには載らなかったけど」  
 こんなのどかな田舎で痴漢があるとは、信じられなかった。  
「そうなんだ。結構危険なの? この辺り」  
「安全とは言えないな。夜、駅前で草売られてるみたいだし」  
「草?」  
「大麻だよ。ヤクな」  
 薬物の話自体は聞いていたが、身近に出回っているとは知らなかった。学園  
に来てからあまり外出できなくなったのは、悪い面ばかりではなかったのかもしれない。  
「……そうなんだ」  
「俺はさ」  
 彼が不意に止まり、私を見た。彼の体温が手から伝わってくる。軽く握り合  
う距離で、彼は沈黙した。あともう少し近づけば、息が届く。  
「うん。何」  
「警官になりたいんだ。だから勉強してる」  
 私は相好を崩す。「へぇ、そうなんだぁ」  
「お前と」  
 彼の顔が赤くなっている。目が揺れて、声も震えている。  
「お前と一緒に勉強したい」  
 彼は私の目を見据えた。真剣な眼差しにあてられて、返答に窮する。  
「……」  
「お前、毎日勉強してんだろ。気分転換に公民館に来るでもいいよ。俺、そこにいるから」  
 
 私がなおも戸惑っているのを見るや、微笑んだ。  
「お前勉強できんだろ? 色々教えて欲しいんだ」  
 胸がどくんと動く。  
「日本史とか世界史とか古文とか、駄目駄目でさ。一人でやっても埒明かねーんだ」  
 荒い息が収まるにつれて、胸が熱くなる。  
「頼むよ。お詫びにチョコやるからさ」  
 私が喋る前に彼が話し始める。沈黙が怖いのか、彼は話し続ける。一生懸命  
説得しようと、言葉を重ねる。  
 胸が高鳴り、苦しくなる。答えなくちゃいけないのに、口が動かない。  
 月明かりに照らされた彼の笑顔が眩しい。  
 やっと分かった。  
 彼が好きなんだ、私。  
「……駄目か」  
 彼は軽くため息をついた。「だよな。三年だもんな……」  
 途端に彼の目が輝き出す。「お前さ、なんか苦手科目ない? 俺、数学とか  
英語は得意だぜ。それなら教え……られる……かも……しれない」  
 彼のテンションが段々と下がっていく。受験生を前にして、教えられること  
など何もないのだ。  
「いいよ。私、英語苦手だし」  
 そう言うと彼は飛び上がらんばかりに喜んだ。  
「マジで? よっしゃーッ!!」  
 両手を握ってガッツポーズする。その無邪気さに思わず微笑んでいた。  
「週三日しか会えないけど、それでもいい?」  
 彼は両手を握り締め、親指だけを立てて私につき出した。  
「いいぇぇ〜〜す!」  
 その発音に激しく不安になりながらも、彼のおどけた苦笑に頬を綻ばせた。  
 
 
 
 

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