あれから二ヶ月が経った。 
 部活のあと家に帰ってから、紗里奈に電話するようになった。三日に一回くらいの頻度で、宿題について、また他愛のない事を話すのが常だった。自宅の廊下に置かれてある電話機の横に座りこんで、紗里奈の部屋に電話した。 
「あ、紗里奈。俺」 
「うん。どうしたの?」 
「あのさ。たまには映画見に行かねえ? 夜なら千円だし」 
 途端に紗里奈の「むむっ」という声が聞こえた。「それはつまり、デートだね?」 
「まぁそうだ」内心、そんな事を普通に言いあえる仲になったことを嬉しく思いつつ答える。 
「デートということは、男性が女性をエスコートするのが基本だよ?」 
「まぁそうだな」 
「ということは、デート費用は君持ちということでファイナルアンサー?」 
「ふぁ、ふぁ〜〜〜!?」 
 謀られた。俺は立ち上がって、天井すれすれまでジャンプしてみる。浮遊感の後、ジャラリと小さな金属音が鳴り響く。(カナに五百円貸しててサマサマから五十円返してもらって……手持ち千円だから千七百。足りねえ) 
「なぁ紗里奈くん」 
 一生懸命口調を変えてみる。「な、何よ」 
「俺達は清い交際をすべきだと、そう思わないか?」 
「『清い交際』って何よ?」 
「不純異性交遊と言われない交際だ。まっとうな、お茶の間に出しても恥ずかしくない、でれでれと無縁の、つまり金のかからない交際!」 
「世の中お金よ、少年?」 
「知ってますそんなこと」 
「バイトも出来ない生活って、つらいわぁ」 
 それはお前が三年だからだろ、とは言わないのがお約束。 
「紗里奈。金ないんだな」 
「……うん」 
 しみじみと、紗里奈が声を漏らす。柔らかい声だった。 
「五百円カンパしてやるよ」 
「ありがとう」 
「じゃ、今度の土曜でいいか? お前の誕生日だろ」 
「うん。あのさ、雄人」 
「ん?」 
「覚えててくれたんだね」 
「あったり前だろぉ」  
 
 急にこっちまで恥ずかしくなる。聞いた瞬間何度も頭にインプットしたさ。一ヶ月以上バイトして金溜めたんだ。忘れるはずがない。 
「雄人」 
「な、何だよ」 
「彼氏なんだね〜、一丁前に。どうですか雄人さん。彼女持ちの気分は?」 
 紗里奈が俺をからかう。 
「最高です!」 
「今の気分は?」 
「いま空飛んでます」 
 紗里奈の笑い声が聞こえてくる。はぁ、こいつ可愛い。 
  
 紗里奈と話していると三十分など一瞬だ。親父とお袋と姉貴と妹がニタニタ笑いながら俺を観察してると知って、わざとらしく咳払いした。 
「ぐぉ、ゴホンッ!」 
 当然受話器は口元から離して、居間にいるファミリーに手であっちいけの仕草をする。親父たちは勿論、妹までまったく意に介さなかった。姉貴は「ウォッホン!」とざーとらしく咳払いを返してきた。やまびこかお前。 
 畜生。切らねば。 
「というわけで紗里奈。切るわ」 
 家族が俺の電話に聞き耳を立てるようになったことは何度も説明してある。俺が咳払いをするのはそういうことだと、紗里奈も分かるようになった。紗里奈は受話器の向こうで笑い続けた。 
「うん。じゃ、ご家族によろしくお伝えくださいませ」 
「ゼッタイ言わねえ」 
「うん。じゃね、土曜日、いつものところで」 
「うん。じゃあ」 
 俺は電話を切った。途端に居間から地響きのような笑い声が聞こえるが、シカトする。我が家では紗里奈への電話に限り、一時間の長電話が許可されている。なぜなら、紗里奈への俺の受け答えを聞くのが「癒される」(母、姉の証言)かららしい。「下手なお笑い番組よりエキサイティング」(父談)で「いつ別れるかハラハラドキドキ」(妹談)だそうだ。 
 絶対、携帯買ってやる。 
 
 
 中学の時、塾の先生が好きだった。高一の頃は陸部の先輩が好きだった。どちらも笑うと最高に格好よかった。雄人は悪戯好きで生意気だけど、一緒にいると安心できた。 
 彼との勉強会によって、今まで勉強に当てていた時間の一時間ほどが彼に費やされるようになった。面倒くさがり屋の雄人に広辞苑ほどの問題集の束を二週間で解けと要求したり、三十ページに及ぶ教科書の英文全てを一週間で暗誦するように言った。「怠け者のバカにはできないか」というと、彼はむきになって食い下がってきた。 
「お前にはできるんだな?」 
 浅黒い眉間に皺を寄せて、整えられた眉毛を逆立てて挑戦的な眼差しを向けてくる。 
「できるわよ」 
 できなければ落第だ。私はそういう学園に在籍している。 
「じゃあ、やる」  
 
 雄人は学校、部活、バイトの合間をぬって課題を着々とこなしてきた。彼氏彼女の関係といっても、本当に遊べるのは週に一回、ほんの数時間だ。 
 図書室で勉強する時、窓際の席に雄人と隣り合わせで座る事が多い。しばしば眠りこけてしまう雄人をシャーペンの先で刺すためだ。 
 そんなある日の事。窓の外は夕闇がおりて四角い光が何十個も燈る夜六時。制服姿で仲良く勉強しているのは私たちくらいで、他の人は静かに本を読み、立ち歩き、去って行く。けだるい疲れをふりほどくように、だべり始めた。 
「もうお前にはバーガー一個の生活はさせねえ」 
 雄人は右手のペンをくるくる回転させるのをやめて、私に宣告した。私が食費を切り詰めるために「前日一個のハンバーガーを買って、朝は上のパン。昼は中身。夕方はピクルス。夜食は下のパンを食べるの」と説明したからだった。それを聞いた雄人は座っていた椅子から床にぶっ倒れた。 
「お前はマッチ売りの少女かッ」 
「仕方ないじゃない。色々掛かるし」 
 海の花女学園の学費と寮に居住するための費用、その他雑費を仕送りで工面していた。家は裕福ではなかったから、親にお金をもう少し欲しいと言えずにいた。 
「じゃあさ、たまに弁当作ってきてやるよ。まあ味は保証しないけど、食えるモン作ってやるよ」 
「雄人」 
「何だよ」 
「嬉しいけど、でもいいよ」 
「なんで?」 
 雄人が怪訝な顔をする。「雄人だって忙しいじゃない。悪いよ」 
 雄人はしばし黙り、両手を私の前に翳して、私の両目を覆いつくした。よける暇もなかった。がさついた手の平が瞼にゆっくりとくっついてきて、視界を真っ暗にした。温もりが指から伝わってくる。とてもあたたかい。 
「紗里奈」 
「な、何よ」 
「食うモンには金掛けろよ。ちゃんと勉強できないじゃんか」 
「今月だけだもん。こんなに酷いの」 
「金ないなら言えよ」 
「言ったじゃない」 
「じゃー弁当ぐらい作らせろ」 
「雄人に、もごぉ」 
 今度は私の口が彼の手で塞がれてしまった。両目が光に晒されて、目を細めてしまう。 
「毎日作ってるのが二個に増えるだけだ。大した事ねえよ」 
 雄人が頬を綻ばせて笑っていた。 
「……ありがと」 
「おう」 
 彼は時折頼もしくなった。デコピンされつつ「気にするな」と言われると、つい甘えてしまう。 
 雄人と付き合ってから手を繋ぐ暇もないほど日々に追われ、それでもあいた数十分を楽しんでいた。雄人を見上げると彼は私を見て笑った。その笑顔に胸がしめつけられた。 
 たった一度しか言った記憶がない私の誕生日が空いてるかと聞いてきた雄人に、平静を保って「うん。大丈夫だよ」と答えたのは一週間前だ。  
 
 クラスメートの冷やかしに耐えた一週間だった。いつのまにか頬を綻ばせてにこにこしてしまう私を見て、「おほほほっ、紗里奈さんがまた彼氏の事を思っていましてよ」「ヤダァ、紗里奈さんに限ってそんなラブラブ話あるわけないじゃな〜い」「さ、さ、紗里奈に彼氏ができた!? 誰だ、どこの誰だ?」「あ、な、た!」「あたし〜〜!? ぷしゅー」「いいなぁ。らぶらぶできてぇ。で、どこまで行ったの? B? C? ま、まさかアナルほぎゃー」「汚らわしいわ。まったく汚らわしい事よ! 勉学に励むべき海の花女学園の生徒ともあろうものが」「委員長は黙ってろ」「か、か、彼の名は?」「YU」「ゆう〜〜!?」「ね、年齢は?」「二個下らしいわよ」「に、二個下〜! ぷしゅー」「犯罪だわ。犯罪よ!」 
 普段勉強で気が狂っている生徒に恋バナは甘露だった。クラス中が飛びつき、尾ひれ葉ひれをつけて学園中に流れまわった。「田所さんの彼ってウワサによると相撲部らしいわよ?」「やだ〜」「でもかっこいいんだって!」「うらまやし〜! でもいつか太るのよ。そうよ、太るんだわ!」「毎日逢引してるんだって」「アイビキってナンですか?」「愛のビキニよ」「ぎゃっはっは〜、愛のビキニって何だよッ!」「愛のピストンだよ」「あ、愛のピストンって……ぴ、ピストンしちゃってるって事ですか?」「みたいよ」「あ、あたし整形しなきゃ」「待ちなさい。あんたは宿題やってからでしょ」「宿題は明日でも出来る! 恋のチャンスは二度と来ない!」「もっともらしい事言って逃げない。浪人したいの?」「もーいや〜」「何が恋だ。何が遠距離恋愛だ。ふざっけんな!」「はいはい、勉強勉強」「ぷしゅー」 
 学生にお酒はいらないとはよく言ったものだ。彼女達は溢れんばかりの鬱屈としたエネルギーをここぞとばかりに駄弁に弄して現実逃避し、勉強を始めた。からかわれた当の紗里奈も、学校で、図書室で勉強をし続けた。雄人と約束を取り付けてからの一週間、雄人は図書室に来られないと言った。理由は会った時に話すと言われて、期待が膨らんだ。  
 
「きり〜つ、礼ッ」 
 夕陽差し込む教室に、日直の声が高らかに響く。これで本日の授業が全て終わる。生徒 
数は三十九名。 
「ありがとうございました〜!」 
 生徒は脊髄反射して立ち上がり、深遠なマリンブルーのブレザーとチェックのスカート 
がふわりと教室に並ぶ。元気良く微笑んで礼する生徒たち。その中に一人、誰よりも良い 
笑顔をするハッピーガールがいた。紗里奈だ。ただでさえ美系なのに、今日は何かにつけ 
て笑い転げた。テンションが違った。誰が紗里奈をつついても紗里奈はえくぼを浮かべて 
対処した。頬を突くものには「W! O! R! M! Fu! Fu! Fu!」と叫 
びながら顔面チョップしたり、両手を握ってくる美少女大好きっ子には愛の吐息をして悶 
絶させたり、誰も今日の紗里奈に勝てなかった。 
「サリー、What's happening? あなた、今日とても素敵よ!? 世界には紛争も天災も 
ないって顔してるわ」 
 英語のオリビア先生が教卓に両手をついて、目を大きく広げて紗里奈を見つめる。紗里 
奈は笑顔を隠す事が出来ない。 
「まさか! 妊娠したのね〜」 
 どうしようもない下ネタを不意に放ち教室をわっしゃわっしゃ言わせるオリビアが、今 
日も一部の生徒の神経を逆なでする発言をし始めた。だが紗里奈は受けて立つ。 
 紗里奈が微笑んで「Yes, teacher」と答えると、オリビアは爆笑した。クラス中に笑い 
が伝播する。 
「オリビア、紗里奈は今日誕生日なんです!」横の生徒がオリビアに報告する。 
「Really?」 
 オリビアは目を輝かせて朗らかな声で聞いてくる。 
「Yes」 
「How old are you?」 
「18teen」 
「おめでとう、サリー。でもBe careful〜」オリビアがにやりと笑う。「十八歳は人生最 
高の年よ。二度と経験できないから大切になさい。おぉ〜! 今日彼氏とデートね?」 
「やぇす」 
 周囲からくすくすと笑い声が漏れてくる。紗里奈が照れまくっているのが初々しく、愛 
らしいのだ。頬が火照って正確に発音できないところが憎い。  
 
「先生、We must SING now!」 
 教室中から「Yeah〜!」という声が広がる。 
「電気消して〜」という声の元、廊下側の生徒が教室の灯りを消してゆく。照明を消すと、 
夕焼けが鮮明に窓に差し込んできた。窓側になるにつれ生徒の顔が赤く染まってゆく。空 
は動く。生徒の表情も、夕陽の移り変わりによって陰影がつく。 
「きれい」と窓を振り向く生徒が出始める。一人が窓を開けると、穏やかな風が吹き込ん 
できた。生徒の髪が揺れ、教室の熱気は裏山に逃げてゆく。 
「歌おう、先生。夕陽が落ちる前に」 
 声がかすれるほど優麗なサンセットに、オリビアは反応し忘れた。 
 何十名もの生徒が夕日に見とれていた。誰かが歌った。「ハッピーバースデー……」 
 だが恥ずかしかったのか、声がしぼんで途切れた。顔を下にうずめて歪ませた生徒の頭 
を隣の女子が軽く撫でる。 
「Singing」 
 うつむいた生徒が横の女子を見る。隣の女子は満面の笑みを浮かべている。 
「Singing」 
 女子は顔を歪ませて、再び声を上げて歌った。「ハッピーバースデー、さりな」 
 その声は美声ではなかったが、教室中に届いた。 
「ミホ、GOOD JOB!」 
「さんきゅぅ」 
 眉をねじれさせて唄い、笑った女子を後ろの女子が両手を広げて抱き締める。沸き起こ 
る歓声、黄色い野次。 
 刹那、指揮者のように両手を掲げる英語教師。「Here we go, everybody. Let's sing! 
 いくわよあんたたち、せーの、Happy Birthday to you, happy birthday to you, happy 
birthday dear Sarry〜, happy birthday Sarry〜」 
 歌を知らず、歌えない女子はいない。力強く、華やかなソプラノボイスが教室をふるわ 
せた。 
 紅い日が沈み、街の天井が制服より深い色になる。誰かがため息をもらす。がたがた震 
える生徒もいるが、なぜか窓を閉めろとは言わない。授業が終わったのに、教室は静寂に 
包まれていた。  
 

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