「ビンビン」 
 雄人から下ネタを取ったら、何が残るだろう。おどけられない雄人、喋れない雄人。悲 
しすぎる。「そのままの君でいてください」というと調子に乗るのでこう言った。 
「バカッ!」 
 
 夜風が頬刺す午後八時。そろそろ帰らなくてはいけない。 
 私は雄人の身体を両手で抱きしめている。戯言は出尽くして、唇は開かない。耳を相手 
の頬に擦りつけ、目を閉じて心音を感じとる。がっしりとした体格の雄人の掌は私の腰に 
ある。とても温かい。 
 目を開いて雄人を見上げる。口は開かない。睫毛が揺れて、それでも雄人を見つめよう 
とする。 
「雄人」 
「ん」 
 雄人は瞼を静かに開く。 
「私今指輪持ってるから、予行練習しとく?」 
「予行練習?」 
「明日くれる時、指間違えたらカッコ悪いでしょ?」 
「ま、間違えねーよ」 
「本当に?」 
「勿論」 
 私は笑って財布から金の指輪を取り出した。王冠を被ったハートを持つ両手がリングに 
なってるという例の指輪だ。「分かりました。じゃあ雄人さん。指輪の嵌め方講座です」 
「おう」 
「右手の薬指に指輪をするのはどういう意味?」 
 実際に右手に嵌めながら問う。 
「恋人がいねえっつうこと」 
「いるってことです。じゃあ左手の薬指は?」 
「婚約者とか結婚した人が嵌めんだろ」 
「正解。ま、どの指に嵌めてもいいんだけど、この指輪は少し違うの。  
 
 右手の指にハートを外に向けて嵌めると、その人の心はまだ誰のものでもないって意味。 
右手にハートを自分に向けて嵌めると、その人をしっかり捉えた人の存在を示すしるしなの」 
「じゃ、左手は?」 
「何だと思う?」 
「両想いのしるし……違う?」 
「左手は、パートナーに永遠の愛と信頼を誓うしるし」 
 途端に雄人の顔がほころぶ。「おお!」 
「雄人、はめて」 
 私は指輪を差し出して、雄人に希う。 
 雄人は右手で指輪を受け取り、右手の指で摘んだ。 
「さ、最初だから緊張するな」 
「うん」 
「痛かったらちゃんと言うんだぞ」 
「大丈夫だよ。いつもはめてるから」 
「何ぃ、いつもハメハメしてるのか?」 
「ん?」 
「淫乱」 
 今まで何度ため息をついたことだろう。雄人に逢ってから頻度が増えた気がする。笑っ 
てはいけない。だが笑ってしまう。雄人も目を細めて突っ込まれるのを待っている。 
「馬鹿っ!」 
 雄人は破顔した。 
 結局、私の左手の薬指に雄人が指輪を嵌めてくれた。雄人の手の感触をしっかと心に思 
い描きつつキスして、二人して無駄に手を振ってバイバイした。 
 別れた後の帰り道、両手を絡め、擦り合わせて摩擦させ、唇に押しあてて吐息で温める。 
ふと歩みを止めて振り返ると、まだ少年はそこにいた。 
「こら君〜。早く帰りなさ〜〜い!」 
 十メートル以上先の少年に警告した。 
「本官はここを警備しているのであります。婦女子の安全のために見送るのが本官の責務 
です」 
「風邪引くぞ〜」  
 
「バカは風邪引かないのであります」 
「君はバカじゃない!」 
「夢見るバカでございます」 
「少年、その口を止めろ。君が喋ると知性が逃げる」 
「少女、早く帰れ。君が帰るまで僕は帰らないから」 
「少年、駄弁を愛す若き男よ」 
「少女、走れ!」雄人が怒鳴った。 
 私は左手を上げて敬礼し、寮に向かって走り出した。木々と竹薮とアンドロメダと冷気 
の間を縫うように軽快に走り続けた。冷気が頬を冷やす。胸が発熱する。カモシカのよう 
な足はいつもより俊敏に動く。手提げバッグは振り回されて上下に揺れる。胸が苦しくな 
い。天空を見つめると星屑が七秒、白い軌跡を描いて消えた。長い流星だった。七秒続く 
なんてめったにない。願い事を言い忘れた。 
 
 
 昼休みを含めた野鳥観察の授業があって、私たちのクラスは裏山までノート片手に探索 
に来ていた。一通りの講義の後、自由時間となった時に私はそっとその場を抜け出して雄 
人とおちあった。 
 途中から駆け足になっていた。雄人との約束はもう少し後にすればよかったのだ。目的 
地には雄人がいた。学生服で、そうとう走ったようで足を開いて膝に手をついて息を乱していた。 
「お疲れ」 
「お疲れ」 
 全速力で何キロも走れば常人は倒れる。雄人も息を乱していたが、右のポケットから緋 
色の巾着袋を取り出し、渡してくれた。 
「ありがと」 
 嬉しいのだが、走りすぎて足がふらついてしまう。地面に足を絡めてバランスを崩し、 
雄人に倒れこんでしまう。 
「ああっ」 
「おおッ!」 
 雄人は突然私が倒れこんできたので対処できず、両手を広げて私を抱きとめつつ、バタ  
リとお尻から地面に倒れた。 
 二人は土の上に歪な格好でいた。私は痛くなかった。雄人が身体で支えてくれたから。 
だけど雄人はお尻とか痛かったのかもしれない。はぁはぁと喘ぎ続ける二人は、相手を気 
遣う事もできず見つめあった。 
「指輪を渡す時はだなぁ」と昨日雄人が講釈を垂れていたのを思い出す。「夕日の見える 
ビーチで手はこの角度で『お嬢さん、落し物ですよ』って言うんだよ」 
 明らかにありえない渡し方を説明されて私は笑い転げ、雄人は勝ったとガッツポーズし 
た。「どの渡し方がいい?」と三つ挙げられて、どれも選びたくない選択肢だった。雄人 
は雄人なりに考えていたらしい。もっとも本当にロマンチックな渡し方を知っていたとも 
思えないが。だが、どうして二人して倒れなくてはいけないのだろう。ドタバタは会話だ 
けで十分だ。いや、私たちは最初から冗談のように始まった。雄人は相変わらず生意気で、 
憎たらしくて、私はずっと走ってた。 
 雄人が爆笑するのにつられて、私も笑った。指輪を嵌める大切な日だから一生懸命走っ 
てきたのに、何でこんなにダサい体勢なんだろう。ねえ雄人。もっと遅めに会えばよかっ 
たね。今更だけど。 
 いずれにせよ私たちは出会い頭で倒れ、抱きしめられて微笑んだ。 
「離してないよ。ほら」巾着を雄人の目の前にぶら下げた。 
「うん。ごめんムードも何もないな」 
「いつもないじゃん」 
「そうだっけ?」 
 雄人は「お待たせいたしました。地上でございマス」といい、強靭な腹筋の力で上半身 
を起こしてきた。その上に乗っている私の身体も起き上がる。私がちゃんと立ち上がって 
から雄人も立ち上がった。 
 早速雄人からのプレゼントを取り出すことにした。 
 巾着袋のヒモを解く。中には銀の指輪があった。右手の人差し指と親指で指輪を取り出 
し、太陽に翳してまじまじと眺める。 
 指輪は何の飾りもないシンプルなものだった。裏を見ると、「Y TO S」と彫られていた。 
「雄人と紗里奈?」 
「ん〜! いや『雄人から紗里奈へ』って意味だけど、そっちでもいいよ」 
「雄人。嵌めて」 
「エロい。積極的だにゃー」  
 
「もういいからそういうのは」 
「ん」 
 雄人は私から指輪を受け取り、私の左手を左手に持って、薬指に指輪を嵌めていった。 
 第一関節を過ぎた辺りで雄人の指の動きが止まった。まだ指輪は入っていけるのに、雄 
人は溜息をついてこうコメントした。 
「紗里奈。実はこの指輪には魔法がかかってるらしいんだ」 
 何やら胡散臭い話が始まった。 
「どんなの? 聞きたいなぁ」 
「実はこの指輪、心の綺麗な人しか嵌められないっていうんだ。紗里奈なら大丈夫だと思 
うけど、一応な」 
 またバカな事を。 
「大丈夫。私純粋だから」 
「だよな。紗里奈が嵌らないで誰が嵌るっていうんだよな。ありがとう、安心した。じゃ、いくぜ」 
 雄人は私の薬指の第二関節に指輪を入れていこうとした。だが雄人は腕をぷるぷる震わ 
せて、低い唸り声を上げて、指輪を一ミリしか先に進めようとしない。私が左手を前に押 
し出すと雄人の薬指と小指がその手を邪魔しはじめた。魔法とか関係なく雄人が指輪を嵌 
めたくないようだ。 
「紗里奈って、心汚かったんだ……」 
「アンタでしょ!」 
 雄人は腕に力を入れて精一杯指輪を通そうとするが、何ミリも進まない。私も全力で左 
手を押し込もうとするが、雄人の人差し指などがつっかえ棒となって邪魔をする。 
「誤解するなよ。俺は高い指輪を惜しんでるわけじゃない」 
 私は右手で雄人の脇腹をくすぐった。途端に「あひゃひゃ」と身体をくねらせて笑い出 
す。そのすきに指輪を嵌める。容易に第二関節を抜けて奥まで収まった。 
「ああっ!」 
「Yes!」 
「誕生日おめでとう。一日遅れだけど」 
 雄人は急に冗談を止めた。凛々しさにどぎまぎしてしまう。 
「うん。あの……昨日もプレゼント貰っちゃったし、ありがとう。雄人、昨日もしかして 
セーター買う予定じゃなかったとか?」 
 指輪を貰えると知っていたら、昨日あれほどねだりはしなかった。ねだったのが冗談半 
分だったとしても。 
「あんな高いのは予想外だった」 
 何だか申し訳なくなる。「ごめん」 
「気にするなって。年に一度だけだから」 
「じゃあ、クリスマスもお年玉も期待しないから」 
「待て待て。お前もうすぐ大学生だろが。お年玉は下手すると与える方だぜ」 
「ウチまだ未成年っすから」 
「俺も未成年ですが」 
「ウチ女の子です」 
「男女差別反対!」 
「区別よ。可愛い子はスペシャルなの」 
「スペシャルって何?」 
「貴方には一生縁のない言葉よ」 
「ムカツクわこいつ」 
 雄人は頬を綻ばせて微笑むから、私もつい口を緩めて笑ってしまう。  
 

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