海の花女学園。ここに在籍していると言うだけで、皆一様な反応をする。  
「頭いーんだねー」「勉強大変でしょ」「金持ちだね〜」などなど。このお嬢  
様学校では、膝下何センチとか髪の毛は黒といった生徒を縛る拘束はさほどな  
い。「ごきげんよう」と言いながらプリーツスカートを乱さないように会釈し  
なくてはいけないわけでも毛頭ない。絶対に守らなくてはいけないのは成績向  
上に努める、ただそれだけだった。  
 田所紗里奈、十七歳。海の花女学園三年生の彼女は今年から受験に突入し、  
今まで以上に机にかじりつくようになった。特に英語が苦手な彼女は毎日朝か  
ら深夜まで勉学に取り組んだ。  
 そんなある日、学園からの帰り道で、どういうわけか林に迷い込んでしまっ  
た。あまり辺りを散策してこなかった紗里奈は、しばし立ち止まって現在の居  
場所を思い描こうとした。が、木々の配置や道のくねり具合など見てもさっぱ  
りだったので仕方なく歩く事にした。学園を出てから数十分しか経っていない。  
遠くには来てないだろう。  
 久しぶりに歩いている気がする。普段は家と学園間の往復ばかりだから辺り  
の景色を眺めることもなくなっていた。電柱よりも高い木が群生し、竹薮が道  
の左右に生い茂る。空は快晴、心地よい風が吹いている。虫の羽音と鳥の鳴き  
声が聞こえてくる。草のいい匂いがする。  
 ゆっくりとした歩調で、辺りを見渡す。  
 何て名前の木だろう。うわ、蛇だ。  
 体長四十センチほどの黄緑の斑点がついた蛇が道の中央を這っていた。  
 途端に足が竦み、蛇に触れないようにジャンプして飛び越えた。  
 気がついたら小走りしていた。  
 林の坂道に根を下ろす古木。割れた表皮、枯れ葉が土壌を覆いつくし、下り  
坂のあちこちに父さんの腕よりも太い根が横たわっている。私はそれらを踏ん  
で飛び越えて、走り続けた。一定の速度で走ろうとするが駄目だった。気づい  
たら陸上部の頃のようにペースアップし、両手を振り絞ってもっと早く走ろう  
としていた。右手の鞄がちょっと重い。でも風が制服の間に入って気持ち良い。  
 胸が熱くなってきた。以前は当たり前のように走ってた。朝五時起きで朝錬、  
放課後走ってくたくたになって塾で勉強。それがある日を境に勉強だけになっ  
た。走りたくてしかたなかったはずなのに、今まで走るのを忘れてた。  
 何で走ってないんだろ。いつのまにか涙が溢れた。そんな時だ、彼に出会っ  
たのは。  
 
 
 広島雄人、十五歳。彼は林を抜けたその先の、小さな洞穴の入り口で何やら  
地面の土を掘り返していた。スコップを持って、直径三十センチほどの穴を作  
っていた。全速力で走り続けた私は肩で息を吐きながら、彼の元に歩いていった。  
 学ランに身を包んだ彼の顔は浅黒く、身体は小柄だったが頑強そうに見えた。  
事実、細身だが筋肉はついていた。真剣な眼差しで、右手に持った緑色のスコ  
ップでがつがつ土を掘り返していた。私はその横顔に惹かれた。  
「何してるの?」  
 自然と声が出た。彼は顔をあげてこちらを見た。今まで気づかなかったらし  
い。端正な顔だ。  
「俺の事? 見れば分かるだろ? 掘ってんだよ」  
「何でよ」  
「猫が死んだから、埋めようと思ってね」  
「ふうん。貴方の猫?」  
「違う。捨て猫、子猫さ」  
「そっか」  
 以前都心部に住んでいた頃に、友達が飼ってくれないかと家までダンボール  
を持って駆け込んできたのを思い出した。ダンボールの中に、掌に乗るほどの  
小さな猫がいた。タオルにくるまれた猫が、円らな瞳が閉じて、開いて私を誘  
惑した。可愛い声で鳴く子猫をどうしても飼いたくて親に隠れて自室に入れて、  
一時間後に見つかって説教を受けた。この子猫は何日生きたのだろう。  
「飼えなかったの? 死んじゃったの?」  
「違う」  
 彼はスコップを持つ手を再び動かしはじめた。「道で血まみれになって死ん  
でたんだ。首輪もなかったから、多分捨て猫だよ」  
「ふうん」  
 
 彼の左側に、スーパーのビニール袋が置いてあった。この中に子猫の死体が  
入っているのだろう。彼は袋からタオルを取り出して、穴に埋めた。上から土  
を被せていって、最後にスコップで軽く叩いた。  
 両手を合わせて黙祷する彼。私もつられて鞄を置いて、両手を合わせて目を  
閉じた。  
 その時、勉強の事を思い出した。寮に戻らなくちゃいけない。目を開けて立  
ち上がる。彼は薄目を開けて眩しそうに私を見た。  
「どうかしたのか?」  
「私、帰る……だから、道教えて」  
「……はぁ?」  
 彼が素っ頓狂な声を出した。  
「道に迷ったの。ここら辺よく分からなくて、あの、海の花女学園ってどっち  
にあるか知ってる?」  
 寮は学園のすぐ傍にある。学園に行ければ寮に到着する。  
「海の花女学園って、お前ハナジョの生徒なのか?」  
「う、うん。どうしたの?」  
「いや。ま、制服はそうだけど、へー」  
「な、何よ。変な事言った?」  
「案外普通なんだな、花女って。もっと偉そうなんだと思ってた」  
「偉そうって、そんなことないわよ」  
「お前ここに来たばかりなのか?」  
 高校二年の頃、進学校としても名高い海の花女学園に転校した。私立高校の  
中でも断トツにお金の掛かるそこは、転入試験といえども難度は高い。私はそ  
こで20位に入ると宣言し、試験でほぼ満点を取って初めて親に入学を許され  
た。ちなみに学内20位に入れば一定額お金が返ってくる。  
「一年くらい前に来たんだけど、何よその目は」  
「お嬢様なんだな。一年も生活してて迷うなよ」  
 心底呆れ顔で言われて内心ムカッと来た。「うるさいわね。迷ったっていい  
じゃない」  
「まあいいや。お前、聞いて驚けよ」  
 
 彼はにやりと笑った。学校はこっから数分歩いたところにあるぜ」  
 私はぶったまげた。  
「な、な、何でぇ?」  
 学園から爆走してきたのだ。逆方向と言われた方が納得が行く。  
「何でって、ここ花女の裏山だし」  
「嘘ぉ」  
「情けない声出すなよ。近くて良かったじゃねーか」  
「じゃあ、どう行けばいいのよ」  
「この山を降りると民家がある。この道をまっすぐ行けば花女だよ」  
 見晴らしの良い所まで私たちは駆けていって、彼は右手で順路を示してくれ  
た。彼の指す所には確かに大きな敷地といくつもの校舎があった。見覚えのあ  
る校舎、花女だった。私は右側にいる彼に振り向いた。  
「教えてくれてありがとう。じゃ、私行くね」  
「ああ」  
 私はその道を目指して駆け出した。実は私には欠点があった。迷子になるの  
が上手なのだ。  
 
 私は道路をダッシュして走り続け、見事寮にたどり着いた。その時になって、  
妙に右手が軽い事に気づいた。鞄がない。  
「……嘘ぉ」  
 今まで走ってきた道を思い浮かべた。全然見ていなかったので思い出せなか  
った。こっちの方角だろうと勘を働かせて、来た道を逆走した。  
 先ほどの洞穴に到着するまでに二十分掛かった。直線距離は五分とかからな  
かったはずなのに、迷いに迷った。  
 彼はまだそこにいた。明朗な口調で呼びかけてくれた。  
「よっ、紗里奈ちゃん。お疲れ」  
 彼の手元には私の鞄があった。彼は爽やかな笑顔を私に向けた。  
「ど、どうして私の名前を、あ、開けて見たのね!」  
「鞄に書いてあったし」  
「うぅ〜。ご、ごめん」  
 
 私は俯き、そして目線を彼に向けた。「鞄返して」  
「いいぜ」  
 彼は私の鞄を掴み、両手で投げてよこした。不意をつかれ、私は鞄を両手で  
掴むと同時に膝を崩して、その場に倒れこんでしまった。  
 背中に当たる草の感触。日差しに照らされて温かい。視界に広がる雲の殆ど  
ない澄み切った青空。頬を撫でる風が心地よい。  
「太股見えてるぜ」  
「馬鹿者ッ、見るな!」  
 咄嗟にプリーツスカートの裾を両手で掴んで膝まで伸ばす。外野がいるのを  
忘れていた。今日は走った。走りまくり。体力が衰えていた。息が荒い。  
「そんなに喘ぐなよ、いやらしい」  
 隣でセクハラまがいのコメントをする外野がうるさい。帰る。  
 鞄を引っつかんで立ち上がる。その時、スカートのポケットがこんもりして  
いないことに気づいた。財布が入っているはずなのに。  
 右手で一心不乱にポケットに手を入れて探った。ない。財布がない。  
 恨めしそうに彼を見つめる私を誰が非難できようか。  
「貴方、私の財布取ったでしょ〜」  
「な、何〜!?」  
 
 

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