ここ数日、体調が悪かった。  
 熱は無かったが、身体が重く気持ちが悪い。  
 頭も、腹も痛いし、吐いても吐いても、吐き気が治まらない。  
 更には初夏で蒸し暑いはずなのに、寒気がする。  
(怖い、なんで、私、どうしちゃったの?)  
 雑草のように育ったから、そう揶揄されるくらい、身体が丈夫な事が取り柄だった。  
 風邪だって滅多に引かず、去年の冬に初めて寝込んだくらいだ。  
 その自分が学校を二日も休んだのに、不調は一向に治らない。  
 寝ているだけでは、ダメなのだろうか。何か、悪い病気に罹ったのだろうか。  
どうすればいいのか、全くわからなかった。  
 志木の機嫌を損ねる真似をした罰か、それとも、身勝手で浅はかな思考しかできない戒めか。  
そう考えると合点がいく。  
 最低な自分に対する、当然の報いだ。  
(死んじゃうのかな……私)  
 朦朧とした頭にちらりと過ぎったのは、死への恐怖だった。  
 死ぬ。  
 死んでしまう。  
 小さな疑念が大きな炎となって恐怖を煽った。  
「死……ぬ? い、やあ……あぁぁぁぁ」  
 歯の根が合わず、自分の身体を抱きしめる。  
 死んだらどうなる?  
 志木は喜ぶだろうか、いや、後見人としての面子が潰れてしまったと落胆させて  
しまうかもしれない。どうすれば、志木を怒らせないでいられるのだろう。志木の望みが  
なんなのか、わからない。  
 自分の身体なんて、問題外だ。  
 料理を頑張っても、褒めてくれる事もない。  
 勉強を頑張ったら、余計不機嫌にさせてしまった。  
(どうしよう、どうすればいいの……死ぬの、やだよ……志木さん、助けて……)  
 死ぬかも知れないなら、その前に、志木に会いたかった。  
 迷惑だろう、とか、病院に行かなきゃ、とか、いつもならそう思っただろう。  
だが、恐怖が押し寄せ、纏まらないチカの脳裏にあったのは志木への想いだった。  
 命を繋いでくれたのは、寂しさを包んでくれたのは、こんな自分に手を  
差し伸べてくれたのは志木だけだった。  
 名前を呼んで欲しい。  
 笑いかけて欲しい。  
 抱きしめて欲しい。  
 傍にいて欲しい。  
 それが、同情でも嘘でも、もう構わない。  
 重い身体を叱咤して、チカは志木の部屋へと向かった。  
 
 
 二日前、チカは十八になった。もう、成人だ。  
 全ての手続きを終え、後はチカに渡すだけだ。  
 彼女の未来を思うと喜ばしい事だが、これからの自分を思うと惨めで、昼から降り始めた  
雨音が自分の心を代弁しているようだった。重い足取りは灰色のコンクリートに自分の  
足跡を滲ませる。  
 ふと先を見やるとエレベーターの入り口から合流した濡れた足跡が自分の部屋に続いていた。  
足跡、というよりも、引きずった跡、と言う方が正しいだろう。扉の向こうに誰がいるかなんて  
愚問だった。合い鍵を持っているのは、マンションの管理人を除いてただ一人だ。  
 本来なら明後日の休日に来る筈だ。そもそもまだ学校の時間の筈だった。何故、今日  
来たのだろうか、大学推薦の書類を処分しに来たのだろうか、それとも、心の中を  
見透かされたのだろうか、一瞬躊躇うが、思い切ってドアを開けると、玄関にはずぶ濡れの  
チカが倒れていた。制服は身体に張り付き、靴は片方だけ脱げている。嗅ぎ慣れた匂いが、  
血の匂いがチカからする。  
「チカ?!」  
 濡れたカバンと傘を投げ捨て、慌てて駆け寄る。  
 抱き上げたチカの身体は冷え切っていた。足下に目を向けると、雨で濡れて薄まっているが、  
太腿から、いや、その上から間違いなく血が流れていた。  
「し、き……さん?」  
「チカ……」  
「しき……さ、たす……けて…………この前、終わったはずなのに、……痛いよ……さむいよ」  
 掠れた声が耳に痛い。  
 真っ青な顔で縋り付く少女の怯えぶりに、志木は驚愕を禁じ得なかった。  
「こわい、よぉ……私、死んじゃうの?」  
 経血も痛みも、緊急避妊薬の副作用だ。チカはそんな事など知らず、未知の症状に、  
死の恐怖に怯えているのだ。  
 恐らく、ここ数日吐き気も酷かったのだろう。たった四日間で痩せ細り、  
目の下に隈が出来ていた。  
「ごめ……なさい…ごめんなさい……でも、私……わたしっっ」  
 見る見るうちに彼女の瞳から涙が零れ落ちる。その涙を拭うと、チカの冷たい手が  
弱々しく重ねられた。  
「チカ?」  
「どうすればいいか、わからなくて……死んじゃうなら、その前に……会いたくて……」  
「チカ、お前は死なない。俺が死なせない」  
 
 死の恐怖だけは思い出さないよう気をつけていた筈だった。   
 だが、自分の浅慮と行動が彼女をここまで追い詰めてしまった。  
この状態に追いやったのは自分なのに、なのに、チカは自分に助けを求めている。  
 彼女には頼れる者が他に誰一人いない。自分しか、いないのだ。  
 育った施設はない。  
 寮に入ったチカは、自分に気を遣ってか施設の友人の行方や様子を聞いては来なかった。  
 生まれた村もない。  
 彼女の故郷は地図から消えた。戦争で村ごと焼かれ、国境線が変わった今では隣国の  
一部となっている。  
 感情に走り逃げ出そうとしたが、公立大学の推薦を貰える位、頭のいい娘だ。戦後の混乱とは  
無縁の学校で過ごし、頼る者も、行く宛も、働く術も持たない少女が一人生活できるはずもない。  
一番にそれを理解していたのはチカ自身だろう。  
 その事実で彼女を縛り付け、凌辱を繰り返す度に、彼女の心は少しずつ軋みを上げる。  
 チカの笑顔を失い、優しい時間も失った。そして、彼女自身さえも失おうとしている。  
 傍に置いてはいけない事は、わかりきっていた。ただ実行に移す度胸がなくて、  
身体だけでもいという身勝手さで、ずるずると関係を続けてしまった。これが最後だと、  
彼女を嬲り尽くした。  
 その結果が、この様だ。  
「……し、きさん、しきさん、」  
 幽かな声が耳に突き刺さる。  
 副作用で死ぬ事は少ないだろうが、心身共に消耗し、呼吸も弱い。夏とはいえこのままだと  
肺炎を起こす可能性もあるだろう。病院に連れて行く為、まずは身体を拭くために手を放すと、  
チカは温もりを求めるようにその手に縋り付いてくる。  
「やだっっ……行かないで……」  
「……すぐ戻る。だからチカ、大丈夫だ」  
「……」  
 涙に濡れた瞳、捨てられた子犬のような表情が、ひとりにしないでと、無言で訴えている。  
「俺が付いている。ゆっくり休めばすぐによくなるから、安心して寝ていろ」  
 二回りは小さい身体を抱きしめ、あやすように背中を叩く。  
 何が俺が付いている、だ。その自分が少女をこんな目に遭わせたのだ。白々しい言葉に  
吐き気がする。それでも、チカは「うん」と小さく頷き、大人しく目を閉じた。  
 志木は冷え切った少女を毛布でくるみ、病院へと急いだ。  
 
 
 気がつくと真っ白な部屋にいた。ベッドに一人寝かされ、傍らには男が座っていた。  
「大丈夫か?」  
「え?……あ、あの……ここは……私一体……」  
 起き上がろうとすると、目の前の男が手を添えてくれた。  
「ここは病院だ。お前は昨日、俺の部屋で倒れて、ここに運ばれたんだ。……喉が渇いたろう。  
ついでだから、薬も飲んでおけ」  
「あ……りがとう、ございます」  
 喉がからからだったので、大人しく差し出された錠剤と白湯をゆっくりと飲み干す。  
「まだ飲むか」  
「…………」  
 無言で首を横に振る。頭がぼうっとしたままだったが、聞き慣れた声は優しくて、  
支えられた手は大きくて、何よりも温かい。  
「大分、顔色もよくなったな」  
 男の顔を見上げる。まだ視界が霞んでいる。それでも、頭をくしゃりと撫でられ、  
その懐かしい感触にようやく思考が追いついた。  
 胸を刺す痛みと共に、その名前を反芻する。  
「志、木、さん?」  
「……チカ」  
 低く優しい声が、何度も撫でてくれる温かな手が、じんわりと恐怖を溶かしていく。  
 これは夢なのだろうか。  
 それとも、あの冷たい日々が夢だったのだろうか。  
「私……私……志木さん、志木さん、わたし……しきさん」  
 身体は重く、頭もうすぼんやりとしたままだったが、志木の暖かさが懐かしくて、  
嬉しくて、ぽろぽろと涙が流れた。そのまま倒れ込むように志木の逞しい身体に縋り付くと、  
志木の手は今度は背中に添えられる。  
「すまん、辛い思いをさせた。だが、もう大丈夫だ、もう来なくていいから、  
だから……安心してくれ」  
「え?」  
 何を言われているのか、よく理解できなかった。  
 顔を上げると、涙を拭われた。そして志木はそのまま優しく頬を撫でる。  
「身体の不調も薬の副作用で一時的なものだし、何よりももう、俺の部屋に来る必要はない」  
 だとしたら、あの日々は夢では無かったのだ。  
 徐々に思考は醒めて行くが、今度は混乱して何を言っているのか理解できなかった。  
 体調を崩し、無我夢中で志木の部屋まで行ったが、その後の事を覚えていない。  
 一体、何があったのだろうか、一体、何をしてしまったのだろうか。  
 志木は撫でる手を止め、懐から白い封筒を取り出すと、チカの手に握らせた。  
 少し厚めの封筒は存外重く、チカは訝しげに見上げると、志木はそのまま眼を細める。  
「お前はもう、18になった。成人祝いだ、受け取れ」  
「!」  
 覚えていてくれた事は嬉しかったが、事態を未だに飲み込めない。  
 訳もわからず目を白黒させる自分に対し、志木は勝手に話を進めていく。  
「公立大学に行くのなら、今の寮を出なくちゃならんだろう。必要な荷物は全部届けさせたし、  
書類も全部提出しておいた。金の心配はしなくていいからな」  
「なに、を…………? あ……れ」  
 段々と身体に力が入らなくなってくる。先ほどははっきりとした意識も、再び朦朧と  
し始めた。握らされた封筒も、ベッドの上に落としてしまう。  
「俺の事など忘れてゆっくり休め……元気で、チカ。俺が言えた義理じゃないが、  
お前の幸せを祈っている」  
「し、き……さ」  
 睡魔がチカを襲い、呂律も回らなくなる。それでも、力を振り絞って手を伸ばした。  
 少しでも長く触れていたかった。  
 今なら、きっと以前のように笑いあえる。暖かくて優しい時間が戻ってきた。  
 同情でも、偽りでもいい。  
 この温もりが、ずっとずっと欲しかった。  
 だが、志木に向かって伸ばした腕は、空をかいてベッドの上に落ち、意識も途切れた。  
 
 飲ませた薬が効いてきたのだろう。力なく落ちたチカの手を自分の頬に擦り寄せる。  
 顔にかかった髪を梳くように撫で、涙を唇で掬ってからそっと唇を重ねた。  
カサカサだったチカの唇は、先ほど飲ませた白湯で少しだけ湿っている。  
 温もりを確かめるようにそのまま抱きしめた。華奢で、だが、柔らかい。  
「チカ……すまん、これで本当に、最後だ……」  
 抱擁を解き、ベッドに静かに横たえる。  
 もう、この街に戻る事も、彼女に会う事も無いだろう。  
 元々、本部に戻って事務処理に回っていたのも、チカと一緒に過ごす時間を  
増やしたかったからだ。彼女が大学を卒業して、いつか結婚して自分の元を去るまで、  
少しでも多く一緒に思い出を作るつもりだった。  
 だが、その穏やかになる筈だった時間を、自分の手で壊し、辛苦に染めてしまった。  
 ようやく、気がついた事がある。  
 チカは、あんな目に遭ってもまだ、自分を慕ってくれていた。  
 夢のために渋々来ていたわけでも、脅されて来ていたわけでも無かった。  
 チカはたった五歳で両親と死に別れ、十三歳で自分が引き取るまで施設で過ごした。  
孤児院のスタッフは親切だったと言っていたが、孤児が溢れ、食料探しに国境近くまで  
行かねばならない位困窮していて、孤児全員に親のような愛情を注げる余裕なんて無かっただろう。  
 ずっと、寂しかったに違いない。学校だって、両親がいる家庭が殆どだ。  
誰にも相談出来ず、小さな身体に恐怖と孤独を抱え込み、親の愛情を求めていたのだ。  
 ――他でもない、この自分に――  
 いかに成人前だったとはいえ、凌辱の日々を打算で割り切れる程、彼女は大人ではなかった。  
 チカは拒絶した事を悔い、あの暖かく、優しい時間を必死で取り戻そうと藻掻いていたのだ。  
 最初に自分が差し伸べた手を、彼女はずっと心の支えにしてくれていたのに、自分に応え、  
握り返してくれた手を振り払い、踏み躙った。  
 だが、それに気がついたところで、最早、チカを女としてしか見られない自分には、  
彼女の望みを叶えてやれない。一緒にいれば、また同じ事を繰り返すだろう。そうなれば、  
チカは壊れるまで受け入れてしまう。  
 今更、親子のような生活には戻れないのだ。  
 国境沿いが焦臭くなってきたのは、現場に戻る、そしてこの爛れた関係を終わらせる  
ある意味いいきっかけだ。  
 チカは自分の贔屓目を差し引いたって、気立てもよく、可愛らしい娘だ。よく気がつくし、  
料理だって上手い。共学の大学に行けば男達が放っておかないだろう。それはそれで業腹だが、  
それでも、優しい笑顔を取り戻せるのであれば祝福したい。  
 こんな醜い男の事など忘れて、誰よりも、幸せになって欲しい。  
 もう、自分の手では叶えられない望みだ。  
「愛している、チカ」  
 柔らかな髪を一房掬い口付けると、志木は病室からそっと出て行った。  
 
「志木さん?」  
 退院してしばらくは補習と追試で来られなかった。一ヶ月ぶりに部屋を訪れたが、何の反応もない。  
 恐る恐る鍵を開けると、少し埃っぽくなった室内は生活の気配が消えていた。  
 何もない、空っぽの部屋だった。  
 慌てて管理人室に駆け込むと、ただ転勤で引っ越した、行き先は知らない、  
と肩をすくめるだけだった。  
 勤めていた筈の会社は、「答えられない」の一点張りで、働いているかも、辞めたのかも、  
それすらもわからなかった。  
 携帯電話も通じなかった。元々、都市部でしか復旧していない代物だ。国境沿いに行ってしまえば  
電波は届かないし、そもそもが会社の支給品だったので辞めていたら通じないだろう。  
 最後の手がかりだった封筒に入っていたのは、推薦を貰った公立大学から程よく近い  
マンションの地図と鍵だった。中に入っても、人の気配は一切無かったが、家具だけは  
揃っていた。配置は違うが見慣れた物だ。泊まるようになってから志木が揃えてくれた  
ベッドとサイドボードに机、台所用品も置いてある。  
 机の上には自分名義の通帳と手紙が置いてあった。手紙には生活費を振り込んでおく、  
大学は行くように、と、それだけ書いてある。  
 ただ一つ、写真が見つからなかった。引き取られる時に、孤児院の先生が記念に、と  
撮ってくれた、唯一志木と一緒に写したものだったのに、写真立てには何も入っていなかった。  
恐らくは志木が処分したのだろう。  
 志木の手がかりになるような物は一切残っていなかった。志木の残した痕すら消えてしまった。  
志木と自分を繋ぐ物はこの通帳と部屋、そして大学に行くという約束だけだ。  
 考えてみると、志木が一体どこで、どんな仕事をしているのか、チカは殆ど知らなかった。  
戦時中は軍にいて、戦後は民間軍事会社に入り、敵国の残党や国内の反乱分子を追っていた。  
それが七年前だ。どこで、何をしているか、「機密事項だ」と言われてしまえばそれまでで、  
迷惑をかけたくも困らせたくもなかったし、何よりも戦争を思い出すのが怖くて、  
深く聞くこともなかった。だが、今更ながら少しでも聞いておけばよかった。  
そうしていたら、志木を探す手がかりになったかもしれない。  
 何もない。  
 空っぽだ。  
 あの部屋も、自分も、結局は志木に捨てられた。  
 志木の部屋に行った日、一体自分は志木に捨てられる何かをしてしまったのだろうか。  
 ならばなんで、最後の日、抱きしめてくれたのだろう。優しく笑ってくれたのだろう。  
 愚かな自分を許してくれた訳では無かったのか、それとも哀れんでくれただけなのか。  
 いっそ憎めたら、少しは楽だったのかもしれない。  
 だけど本当は、とても優しい人だ。その事を誰よりも知っている。  
 それを自分の浅慮と言動で苦しめてしまった。  
 志木を慕う資格は無い事もわかっている。  
 捨てられても仕方ない事も理解している。  
 それでも、会いたかった。どんな関係でもいいから傍にいたかった。  
「志木さん…………私、私は……」  
 空っぽの写真立てを抱きしめ、チカは涙が枯れるまで泣いた。  
 
 

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