臙脂色の絨毯敷きの廊下を、ばたばたと騒がしい音を引き連れて小さな嵐が駆けていく。  
「ぬい!! ぬいはどこだ!!」  
 部屋という部屋のドアをノックも無しに無遠慮に開け、まるで押入りでも来たかのような騒ぎの中心は、  
この家の末息子、7歳となる信次郎であった。  
 腕が花瓶に当たり、がしゃんと耳障りな音を立てる。突然開いた扉の向こうで、着替え中のメイドが悲鳴を上げる。  
擦れ違った使用人が向こう脛を蹴り飛ばされて悶絶する。トレイに茶器を乗せたコックが体当たりされてひっくり返る。  
 けれど信次郎は一切後ろを振り返ることなく、屋敷中を駆け回る。  
 丁寧に磨き上げられた階段の手すりにまたがると、見る人が見ればその場で卒倒しそうな勢いで滑り降りる。  
その勢いのまま、やっと見つけた一人のメイドに信次郎は文字通り飛びついた。  
「ぎゃあ!!」  
「ぬい! 探したぞ!!」  
 
 外から帰ってきたばかりなのか、まだコートを羽織ったまま尻餅をついたメイドに、ぎゅっと抱きつく。  
「ししししんじろ坊っちゃま……!」  
「ぬい!! 俺を置いてけぼりにするなんてよく出来たものだな!!」  
「耳元でそんなに大声で叫ばないでくださいよ、ただでさえ坊っちゃまは元気が有り余っておいでなんですから」  
「うるさいうるさいうるさい!!」  
「うるさいのはですから、坊っちゃまの方で……」  
 ぬい、と呼ばれた歳若いメイドは、腰でも打ったのかややぎこちない動きで立ち上がった。ぶすくれた表情で  
両腕を伸ばす信次郎を、よいしょと一声ののちに抱き上げる。  
「その様子ですと、今日も須藤先生は失敗なさったみたいですね」  
「あやつは頭が良いのを鼻にかけておって好かん!!」  
 先日見に行った歌舞伎の影響でか、7歳児らしからぬ物言いをして、信次郎はぬいに抱きついた小さな手で  
文句を数え始めた。  
 曰く、鉛筆の芯を折り過ぎである。紅茶に砂糖を入れ過ぎである。口調が下品である。『俺』は田舎者の一人称  
だから『僕』か『私』に改めなさい。  
「今さらボクなんて言えるもんか、かっこわるい。俺は俺なんだから」  
 本音を言えば、どれもぬいにとっても直して欲しい信次郎の欠点だったが、それを指摘されるのが気に入らぬらしい。  
 
「ぬい、眠い!!」  
 脈絡の無い大声に、ぬいは思わず脱力して信次郎を落としかける。すんでのところで持ち直し、一度立ち止まって抱き直す。  
「危ないじゃないか!!」  
「眠いのにどうしてそんな大声なんです」  
「眠気に負けたくないんだ!!」  
 はあ、と気の無い返事をして、ぬいはドアノブを回した。信次郎の部屋だ。  
「お昼寝しましょうね」  
「ぬい」  
「はい、しんじろ坊っちゃま」  
「添い寝して」  
 自分の部屋に入って気が抜けたのか、途端に声の大きさが下がる。  
 ぬいは困ったように首を傾げ、信次郎をベッドに寝かせた。  
「坊っちゃまももう大きいんですから」  
「やだ! ぬいと一緒に寝る!!」  
 末っ子として甘やかされて育ってきた信次郎は、こうなると意地になってぬいの手には負えなくなる。  
駄々をこねれば叶うと思っているのだ。  
「ぬい、メイド長やお父様に怒られるのが怖いのか?」  
「いいえ、そういうわけでは無いんですよ」  
「もし怒られたら俺が悪いって言えばいいから……」  
 早々と眠そうに目を擦りながらも、信次郎はなおもぬいに縋る。強がることもあってもまだまだ頼りなげな  
子供の手を、やすやすと無碍に出来るほどぬいは非情ではない。  
 これが結局信次郎を甘やかしていることになると分かっていても、信次郎の作戦であると知っていても、断れないのだ。  
 コートを脱いで椅子の背もたれに畳んでかけると、掛け布団の中に潜る。信次郎はすぐにぬいに抱きつき、  
紺色のワンピースの生地に柔らかな頬を寄せた。  
 
「ひんにゅう」  
「……どこで教わったんですかその言葉」  
「お兄が……戻ってきたとき」  
 ああ、とぬいは納得した。屋敷を出て行った長男に、信次郎はよく懐いていた。  
 先日約2年ぶりに屋敷に戻ってきた際の宴席で、信次郎も遅くまで起きていることを許されていた。その膝の上で  
大人たちの猥談でも聞いていたのだろう。まだ歳若いぬいだから、これから成長する余地もあるだろうと楽観して  
いたのだが、他人に指摘されるとさすがに気になってくる。  
 ぬいがわずかに口をへの字に曲げたことに気付いてか気付かずにか、信次郎がその胸にそっと触れた。  
「でも、やわこいから好きだ、ぬいのおっぱい」  
 お気に入りのぬいぐるみを慈しむように、その胸に顔をうずめる。ぬいはかあっと耳まで赤くし、  
7歳の男の子を前にどんな顔をして良いか分からなくなった。  
「いやですね、お世辞の言い方もお兄様に教わったんですか」  
「……ん……」  
「しんじろ坊っちゃま……?」  
 どうやら寝てしまったらしい。こういうところは子供なのだな、とぬいは少年を愛しく思った。  
「……うぅ」  
 だから、抜け出せない。  
 胸にささやかな力で触れたままの手や、ぴったりひっついた頬が時折動くのがどんなにくすぐったくても、  
妙に背筋がぞくりとする瞬間があっても、また屋敷に嵐が起こると思うと、恐ろしくて抜け出せない。  
「はあ……」  
 ぬいは赤い顔のまま、密かに溜息をついた。  
 胸のうちで疼く奇妙な焦燥感を、どうしたものかと悩みながら。  
 
 
------------おしまい--------------  
 

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