「ねえシノブ」  
「なんでございましょう坊ちゃま」  
 僕のすぐ後ろから声がする。  
 僕は振り返る。そこにはいつもどおりのメイドがいる。  
 糸みたいに細い眼。  
 月のない夜みたいな色の髪。  
 僕よりも年上な、そんなメイドが僕に付き従っている。  
「今日も鉄砲を持っているの?」  
「はい」  
 シノブは口数が少ない。  
 屋敷の他のメイドみたいに日がな一日おしゃべりをしている姿なんて想像もつかない。  
「…思うんだけど、シノブみたいな女の子があんまりそういうのを持つのってよくないと思う」  
「わたくしの任務は坊ちゃまをお守りすることです」  
「…坊ちゃまはやめてよ。来月でもう僕は15になるんだし」  
「わたくしにとって坊ちゃまは坊ちゃまです」  
 
 
「ねえシノブ」  
「はい」  
「街中なんだから、こう毎日僕の登校の送り迎えをしてくれなくてもいいと思わない?」  
「いいえ。坊ちゃまの身をお守りするのがシノブの務めです」  
 そう言ってシノブは糸みたいな目で周囲を警戒するように見渡すと、僕のすぐ後ろに控えている。  
 
 
 
「ねえシノブ」  
「はい」  
「シノブって、幾つになるの?」  
「気になりますか?」  
「うん。だって、シノブは僕が子供の頃から仕えてくれてるじゃない?  
 でも、今でも全然姉さまたちより若く見える」  
「女性に歳を聞かないのが紳士の慎みというものです」  
 そう言って沈黙に戻るシノブ。  
 シノブって名前もヘンだ。どっか他の国の響きがある。シノブはそのことについて一言も  
教えてはくれないんだけど。  
 金色や栗毛とも違った真っ黒い髪の毛。  
 はるか東方にはそういう髪の色をした人たちが住んでる、って話をきいたことはある。  
 シノブも東方の出なのかな?  
 そんなことを考えながら歩いていると、どこからともなく声が聞こえてくる。  
 男たちの怒声。そして、小さい子供が泣いているような声。  
 
「シノブッ!」  
「はい」  
「あそこ! 急がないと!」  
 僕は走った。  
 人が、殴られてる。  
 小さい子が、大勢の大人に取り囲まれて、蹴られてる!  
 
「待てッ!」  
 僕の声が路地裏に響く。  
 ギロリとこちらを向く顔。  
 ケダモノみたいな、濁った瞳。  
「そ、そんなこと、しちゃダメだ!」  
 途端に急に、身体に震えが走った。  
 そいつらは、とても臭かった。ヘンなアクセントで、ヘンな言葉を叩きつけてきた。  
「アァン? テメエ、舐めたクチキイテンジャネエ!!」  
 よくわからないけど、敵意がバッチリ篭ってるということだけはわかる。  
「そ、そ、その子が何したっていうんだ! お、お、おとなが、そんなコをいじめちゃダメだ!」  
「なんだテメエ、バカか?」  
 酔った様な濁った瞳で、僕に向かってくる。  
 でも、僕は、こう叫ぶしかない。  
「こ、こ、こんなに、こ、怖がってるじゃないか! お、大人は、ち、小さい子を、守らなきゃダメ、なんだッ!」  
 なんだろう。  
 怖い。  
 ものすごく怖い。  
 おしっこが漏れそうなくらい怖い。  
 でも、逃げちゃダメだ。  
 こんな小さい子が、大きな大人たちに殴られたり蹴られたりするようなのは間違ってる。  
 たとえ痛い目にあったとしても、紳士はこういう時にこうするものだ。  
 父さまはいつもそう言っている。  
 
 
 酒臭い息のソイツは、僕の襟を掴むと、軽々と僕を持ち上げた。  
「キゾクさまは黙ってろってんだ!」  
 丸太みたいな太い腕。巨大な握りこぶし。  
 それが、僕の顔に叩きつけられる…と思った瞬間。  
 
 
 キン!  
 
 なにかとても硬い音が響いた。  
 
 恐々とうっすら目を開ける。  
 そこにあったのは、鉄砲を周囲に向けながら、僕を掴んだ男の喉笛に奇妙な形のナイフを突きつけている  
シノブの姿だった。  
 
 
「動くんじゃない。この下郎どもめが」  
 僕はシノブの見開いた瞳を始めて見た。  
 真っ黒い瞳。  
 怒りに燃える、という言葉がどういう意味なのか、僕は生まれて初めて知ったんだ。  
 
「坊ちゃま」  
「なに?」  
「坊ちゃまは世の中の危険についてもっと知るべきだと思います」  
「…」  
「世の中の全ての弱いものを守ることはできません。神様にだってそんなことはできません」  
「…ゴメン」  
「判ればいいのです」  
「いや、その、そうじゃなくて…」  
「…」  
「僕は、僕の目の前で、そんな、酷いことが起こるのはイヤなんだ」  
「……」  
「世の中の全ての弱い者を守ることはできないかもしれない。でも、だから、せめて、僕は目の前で起きてる  
酷いことを見過ごせないんだ」  
「………」  
「で、でも、それも、シノブの護衛がなきゃ何もできないし……僕は勝手にシノブに迷惑をかけてるだけなんだけど…」  
「…………」  
 
 
 
「若」  
「…え?」  
今までシノブが、僕をそんな風に呼んでくれたことなんかなかった。  
「若」  
「…僕のこと?」  
「若様はシノブのご主人でございます」  
「え?」  
「わたくしは今日まで、お館様にお仕えしておりました。若をお守りするのもその一環でございました」  
「…え?」  
「今日只今、この時からは、若がわたくしのご主人様でございます」  
「…?」  
「若のためならこの不詳シノブ、命すら投げ出す覚悟でございます。  
必要とあらばいつでもこの身を捧げるのに何の躊躇もございません」  
「え? シノブ?」  
 
 
「シノブは若に感服つかまつりました。シノブは今後、若の下僕でございます。いかな犬馬の労すら厭わぬ覚悟で今後一生、  
若に仕えることをここに誓うものでございます」  
 
…どうしよう?  
 
 
 
 
 
若い主人が当惑したまま終わる  
 

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